ンゴマ(ngoma)とは何か

目次

  1. ンゴマ(カヤンバ)と楽器

  2. ンゴマ(カヤンバ)の種類

  3. ンゴマ(カヤンバ)の構成

    1. 参加者

    2. セッティング

    3. 進行

    1. 歌の順序

    2. 歌と憑依

    3. ムウェレ以外の人の憑依状態

    4. 終盤のなぞの盛り上がり

  4. ンゴマとは何か

    1. 憑依を取り巻く暗黙の理解の落とし穴

    2. 病気と憑依霊

    3. 誰のためのンゴマか?

  5. 注釈

ンゴマ(カヤンバ)と楽器

憑依霊に対する「治療」のもっとも中心で盛大な機会がンゴマ(ngoma)あるはカヤンバ(makayamba)と呼ばれる歌と踊りからなるイベントである。

どちらの名称もそこで用いられる楽器にちなんでいる。ンゴマ(ngoma)は木の筒にウシの革を張って作られた太鼓であり、首からかけて両手で打つ小型のチャプオ(chap'uo)、大型のムキリマ(muchirima)、片面のみに革を張り地面に置いて用いるブンブンブ(bumbumbu)などがある。ンゴマでは異なる音程で鳴る大小のムキリマやブンブンブを寝台の上などに並べて打ち分け、旋律を出す。熟練の技が必要とされる。カヤンバ(kayamba, pl.makayamba)とはエレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'uri1)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器で10人前後の奏者によって演奏される。リズム楽器である。子供や私ですらそれなりに演奏できる。

これらの演奏に合わせて、多くの憑依霊の歌が歌われることにちなんで、ンゴマの催しに対して、ンゴマ、カヤンバと同じ意味で「歌 mawira(sing. wira)」という表現が用いられることもある。


マイ・カヤンバ。演奏の際は、両端を両手で持って左右に振りながら、同時に真ん中の細い板を親指で思いっきり打つ。

実際に用いられる楽器がカヤンバであっても、そのイベントをンゴマと呼ぶことも普通である。実際にンゴマが用いられる際には、わざわざ「本当の太鼓 ngoma zenye」と言って区別する。


外に設置した寝台の上に並んだブンブンブ
太鼓とカヤンバがともに使用されたケース

私が調査を開始したのは1980年代初めであるが、施術師aganga2たちは、カヤンバkayamba楽器が、ディゴ地域から比較的近年に入ってきたものだという認識を示していた。古くは憑依霊に対するンゴマは、文字通り太鼓をもちいるのが普通であったという。施術師のなかには今なお(2010年代)部分的にであれ、太鼓の使用にこだわる者も多いし、患者が老齢で「古い憑依霊」をたくさん持っている場合は、そうした昔の憑依霊たちは太鼓を要求することが多い。というわけで「本当の太鼓」で演奏される機会は相変わらずあるのだが、大勢はカヤンバ楽器によるものである。

ンゴマ(カヤンバ)の種類

ンゴマ(カヤンバ)にはさまざまな種類がある。以下に列挙するが、そのいくつかについては別項を立てて、詳しく紹介したい。

ンゴマ(カヤンバ)の構成

参加者

1. ムウェレ muwele(pl. awele)

「病人」というと語弊があるが、その人を対象にカヤンバが打たれる人物。ただ muweleという言葉の代わりに mukongo(まさに「病人」)という言葉を使う人もいるので、間違いというわけではない。ンゴマ(カヤンバ)という催し物の主人公。ンゴマは、ムウェレ muwele がもっている憑依霊たちのために開催される。

2. ムガンガ muganga(pl. aganga)

私は昔は考えなしに「呪医」なんて訳を当てていたが、その後、反省して「施術師」、最近では「癒やし手」などという言葉に変えている。ンゴマを主宰する。カヤンバを演奏して憑依霊を呼ぶだけなら、もしかしたら誰にでもできるかもしれないが、施術師がいないと、霊がやって来ても、「俺はお前のことなんか知らないぞ」ということになって、肝心の交渉が成り立たなくなってしまう(DB 5092-l10)。霊たちと顔なじみで、彼らとの交渉能力がある施術師の存在は、ンゴマには不可欠である。 多くのンゴマ(カヤンバ)においては、施術師は一人いればよいが、施術師就任のンゴマ(ngoma ya kulavya konze)や、「重荷下ろし(kayamba ra kuphula mizigo)」などには男性、女性それぞれ1名の施術師が必要とされる。

3. アナマジ anamadzi(sing. mwanamadzi)

憑依霊の癒し手(施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手からヤギ(mbuzi)とカザマ(kadzama85)を与えられて、その治療上の子供(mwana wa chiganga)になることができる86。その患者は施術師の「ムコバ(mukoba)『編み袋』77」の中に入った(kuphenya mukobani)あるいは入れられた(kutiywa mukobani)と語られる。患者は、男性の場合はその施術師のムァナマジ(mwanamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji)とも呼ばれる。患者にとってその施術師は、治療上の親(女性施術師の場合は「治療上の母 mayo wa chiganga」、男性施術師の場合には「治療上の父 baba wa chiganga」)ということになる。 彼ら弟子の役割は、その癒やし手の仕事を助けることである。もし癒し手が新しい患者を得ると、彼らも治療に参加する。薬液(vuo35)や鍋(nyungu32)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。そうした癒しの業(とりわけンゴマ開催など)によって施術師が得る報酬の一部は、弟子たちにもわずかずつ分け与えられる。 「月のカヤンバ(kayamba ra mwezi)」「お悔やみのカヤンバ(kayamba ra pore)」など、その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。 もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。弟子のなかには、やがて「外に出る」ンゴマを経て、自ら施術師になるものもいる。彼らが主宰するンゴマには、彼らの施術上の父母もしばしば参加し、また施術上の父母のンゴマに彼らも参加し続ける。 こんな風に、全ての施術師は、自分のまわりに癒しあい、癒やされあう小さなゆるやかな共同体をもっている。ゆるやかなと述べたのは、それが各人の自主的な意志にもとづく集団にすぎないからである。入るのも弟子の意志のみに基づいているし、簡単に「ムコバ」から出る(kulaa mukobani)こともできる。といっても単に辞めてしまうというのはできない。病気になる。弟子がヤギとカザマを返却しその意志を示せば、施術師は弟子に4シリングを返却し、その弟子をムコバから出してやる。まあ、現実にはそれなりにややこしいいざこざが伴っているのであるが。

さて、ンゴマ(カヤンバ)の開催においてはこうした弟子たちが果たす役割は大きい。 ンゴマを主宰するのは施術師であるが、それを補助し、つねにムウェレの横にいてその様子を観察し、演奏される憑依霊の種類に合わせて、ふさわしい装束(かぶる布の種類は憑依霊ごとに異なる)を用意し、憑依したムウェレに適宜、薬液(vuo)を浴びせたり、ムウェレが昏倒してしまわないように支えたりといったことは、施術師が最も信頼しているムテジの役割である。 男性のアナマジたちはンゴマにおける演奏と歌を担当する。カヤンバの場合、奏者は10人ほどは必要なのだが、そのうちの3~5人は施術師と一緒にやって来るアナマジである。後の奏者はムウェレの屋敷の人々や、近隣から集まってきた客人らが務めるが、特定の憑依霊ごとにどの曲を演奏するかは、歌と演奏をリードする筆頭ムァナマジの役割である。彼は「ングイ(ngui)」と呼ばれるが、施術師が最も信頼をおいている男性ムァナマジである。私の印象では、憑依霊ごとにどの歌をどの順番で演奏・歌うか、一つの憑依霊の歌が一段落した後に、次にどの憑依霊の歌を演奏・歌うかの選択は、彼の判断に大きく負っており、ンゴマが成功するかどうかも、彼の判断と腕前にかかっているところがある。後の者たちはングイの独唱に唱和する(ku-vumikiza)アヴミキジ(avumikizi)で、その場にいる誰が参加してもよいのだが、女性のアテジたちの合唱はンゴマを盛り上げるうえで重要である。 徹夜で行われるンゴマは、夜中の3時くらいにマコロウツィク(makoloutsiku)と呼ばれる休憩時間を挟む。疲労が溜まってきている時間で、参加者全員に簡単な食事が振る舞われる。多くは砂糖がたっぷりはいった甘い紅茶と、小麦粉で作った一種のドーナツ(マハムリ mahamuri あるいはマンダジmandaziと呼ばれる)である。それを用意するのはンゴマが開催されるムウェレの屋敷の女性たちであるが、アテジたちも協力する。カヤンバ(ンゴマ)奏者たちが酒好き揃いの場合、マコロウツィクにはヤシ酒が所望されることも多く、(私にとっては残念なのだが)紅茶とドーナツは省略される。それらはカヤンバ終了後の朝食として振る舞われるかもしれない。

  1. 観客

ンゴマ(カヤンバ)開催に先立ち、施術師は開催地域の地域長(mzee wa miji87)あるいはサブチーフからパーミットを取得し、主催者(ムウェレの所属する屋敷の人々)は、近隣の屋敷をまわって、しかじかの日時にンゴマが開催されると告知する。これを「ンゴマを告げる(kusema ngoma)」という。ンゴマは近隣の人々にとっては、一種の娯楽の機会であり、若い男女もその年齢なりの期待をもって集まってくる。彼らはマイ・カヤンバを持ってきて、演奏に参加することもあれば、歌に加わったり、単に演奏の輪の外で踊りながら周回したり、つったってぼんやり見物していたり、庭の片隅でンゴマそっちのけで知り合いと話を弾ませたり、さまざまな形でンゴマを楽しむ。観客が多いとカヤンバの演奏者も、いやでも演奏に力が入る。そのまま朝まで盛り上がることもあれば、演奏がいまいちであったり、ムウェレがあまり憑依状態に入らなかったり(踊らなかったり)すれば、観客は一人減り、二人減りで3時ころまでには屋敷の人々と、親族、施術師一行だけで細々と続けることになる。

セッティング

徹夜のンゴマは、普通は屋敷の長の小屋の前庭(muhala)で開かれる。最初からそこで始まる場合もあれば、最初の数曲を屋内で、ムウェレ、施術師、数名のアナマジのみで演奏し、その後、前庭に移動して続けられる場合もある。この場合ムウェレはしばしば、婚礼(harusi)の際に花嫁が小屋の中での数日の隔離ののちに、お披露目のために小屋から連れ出されるときのように、布をかぶった行列の形で連れ出されるのが見られる。
これは昼間の小規模の「嗅ぎ出しのカヤンバ」における連れ出し

上のカヤンバのケースで説明すると、前庭にはエダウチヤシの葉で編まれたマットが敷かれてあり、その一方の端にムウェレが腰掛ける箱(または椅子)が用意されている。ムウェレはほぼ北の方角(vuri)に向かって腰を下ろす。その隣にはムテジの一人が世話役として腰を下ろす。
マットのもう一方の端には、その日のンゴマに呼ばれるムルングをはじめとする様々な霊の草木を成分に含んだ薬液(vuo)が用意されている。この写真では調理用のアルミの容器(sufuria)に入っているが、徹夜のンゴマでは搗き臼(chinu)の中に用意されている。 その前にはムウェレと向かい合うように施術師と助手の女性が腰を下ろしている。

上とは別の機会に開かれたカヤンバであるが、下の写真に見られるように、ンゴマ(カヤンバ)の奏者・歌い手は上述の空間を取り巻くように腰をおろし、この状態で演奏を行う。
これは2006年12月24日の朝。通常の徹夜のカヤンバ終了間近。皆さん(私含む)お疲れのご様子。でも、この後ヤケクソのような盛り上がりと大騒ぎがあったのだが、それはまた別の話。

進行

ンゴマ(カヤンバ)が開始すると、ムウェレがもっている可能性がある憑依霊の歌と演奏がひたすら続いていく。一つひとつの憑依霊(あるいはそのグループ)は、それぞれ数多くのもち歌をもっており、ングイの先導で歌が選ばれ演奏されていく。

1. 歌の順序

歌の順序に決まったプログラムがあるわけではないが、いくつかの決まりがある。ドゥルマの地域では、ンゴマの最初はムルング(単にムルング mulunguと呼ばれることもあるが、ムルング子神 mwanamulungu、その他のさまざまな別名をもつ、雨を支配する至高神)8882の一連の曲からはじめなければならない。それに憑依霊アラブ人89の一連の歌が続く。(イスラム化したディゴ人のあいだでは、ンゴマの最初は憑依霊アラブ人の歌から始まり、その後にムルングが続くという違いがある。)通常はムルングとアラブ人の後にキツィンバカジ10が続く。その後は、特に決まった順序はなく、ムウェレの持ち霊が何であるかに応じて、一連の霊の歌が演奏されていく。私の経験によると、中盤辺りで、ムウェレにとって最も厄介であったり、重要であったりする霊の歌が演奏される傾向があるように思われる。

それぞれの霊は複数の持ち歌をもっており、それらがどの順番に演奏されるかには一定の型がある。特定の霊の一連の持ち歌の演奏は、最初はゆっくりとした二拍子のリズムの歌から始まる。このリズムはクスカ(ku-suka)と呼ばれるが、ku-sukaは「バターを抽出するために瓢箪に入れた牛乳を振る」、「ヤシの葉などでマットを編む」といった単調でリズミカルな動作を指す動詞である。その霊を呼びだす(ku-iha nyama)ための歌のリズムである。このリズムの歌が2~3曲演奏された後に続くのが、クツァンガーニャ(ku-tsanganya「混ぜる」を意味する動詞)と呼ばれる、少し速く、シンコペーションなどを含む複雑なリズムの曲が続く。もしムウェレが当該の霊をもっている場合、このあたりでその身体が小刻みに震えはじめ、憑依の兆候を示す。そうすると同じ霊の歌のなかでも、クビタ(ku-bit'a「叩きつける、倒す」などの意味をもつ動詞)と呼ばれる極めて速く激しいリズムの歌に代わり、ムウェレの憑依状態を促す。

憑依霊ドゥルマ人を例にとって、この3種類のリズムを紹介しておこう。 憑依霊ドゥルマ人の歌

2. 歌と憑依

憑依状態になる(ドゥルマ語でゴロモクヮ ku-golomokpwa という動詞で語られる)とは、トランスあるいは解離(dissociation)が生じているということであるが、その質も程度も人それぞれである。

施術師やムテジ、カヤンバ奏者たち(私もね)が注視しているのは、布に頭からすっぽり覆われているムウェレが示す解離の兆候である。カヤンバのリズムに合わせて、身体が小刻みに揺れ始める。そんなの普通に音楽聞いてても起こるよ。そのとおりである。

その動きが次第に大きくなってくると、カヤンバ奏者たちは躍起になって演奏に力を入れる。そしてムウェレがたまらず立ち上がると、ここぞと歌とリズムをクビタ(ku-bit'a「叩きつける、倒す」)の無限リフレインに変えて、これでもかこれでもかと打ちまくる。

そこで起こることはいろいろ。ムウェレはただ機嫌よくリズムに合わせて「踊る」。これも人々は「憑依状態になった yugolomokpwa」と判定する。ンゴマの文脈で「踊る ku-vina」は「憑依状態になる ku-golomokpwa」の同義語である。見物人たちの中にも、こんな風に「踊る」人が出てくる。そして一晩中、特定の憑依霊の歌のときに機嫌よく「踊る」だけのムウェレもいる。

そんな風に機嫌よく踊っているなと見ていると、突然両手を上げたりして後ろにひっくり返りそうになると、周囲の人々やムテジがあわててムウェレを支える。あるいは突然、嘔吐始めたり、泣きじゃくり始めたりする。いずれの場合も、ムウェレは座っていた場所に連れ戻され、施術師からの唱えごとを受け、もし何か言いたいことがあれば述べるよう促される。泣いてばかりいると、なだめられながらも、あれこれ問を投げかけられる。それに応えずにそのまま沈静化する場合もある。

ンゴマ経験の豊富なムウェレになると、そんな風にひっくり返ったり泣きじゃくったりする代わりに、自分からあれこれ要求を始めたり、自分がまだ云々のものをもらっていないと怒り狂ったりしたり、その憑依霊に固有の品物(蝿追いハタキとか、鉄砲(ただの棒切れ)その他)を与えられて、それをもって得意そうに踊りまくったり、まわりの人々とコントみたいなやり取りを始めたりする。

3. ムウェレ以外の人の憑依状態

ムウェレが問題の霊で憑依状態に入る(kugolomokpwa90)のが期待されているのは当然として、ムウェレ以外の人々、時にはたんなる近所の見物人のなかからも、何人かが憑依状態になるのも通例で、それによってンゴマはますます盛り上がりを見せる。なかには意識を失って昏倒しかかる(してしまう)人もいる。そんな人はそのまま屋内に運ばれ、そこで介抱される。それ以外の場合は、施術師やムテジは介抱しつつ、その霊の要求を聞きながら、これはあなたのためのンゴマではない、あなたは要求しているものをきっと手に入れるだろう、でも今は、ただ心ゆくまで踊って、満足してお立ち去りくださいなどと気長に説得する。同時に憑依状態になった人々(霊たち)が、意気投合してコントめいた掛け合いをしたり、暴れまわるのを見るのも楽しい。まだ年若い少女の場合には、この者が配偶者を手に入れるのをお待ち下さい(配偶者がンゴマ開催の馬鹿にできない費用を負担することになるので)、などと霊に語って、小屋の中や、裏に連れていき沈静化させたりする。それでその娘が結婚するまで待ってくれる霊ならありがたい話。その後も頻繁のその娘が憑依霊に病気によって苦しめられたりすることがあると、占いの指示で、結婚前にンゴマが開かれるしかないかもしれない。

4. 終盤のなぞの盛り上がり

ンゴマ(カヤンバ)の出だしの歌がムルングの一連の歌で、続いて憑依霊アラブ人(ディゴ地域では逆)という決まり、それと特定の霊に関する一連の歌のリズムが、憑依霊を呼ぶクスカ、続いてかき回すクツァンガーニャ、最後に叩きつけるクビタの順で演奏されねばならないという慣例、歌の順についての決まりらしいものはこれだけだが、これらとは別に、徹夜のンゴマ(カヤンバ)の最後には、夜明けのヤケクソの盛り上がりが必ずといってよいほど伴うという特徴も挙げておきたい。 近隣の見物客たちもとっくに帰宅し、ほぼムウェレの屋敷の人々と施術師御一行だけが、疲労困憊して残っている状況で、最後の1、2の憑依霊の歌が演奏される。これがおそろしく盛り上がるのだ。印象としては、水場系の霊、ライカ9、シェラ66、ディゴ人75あたりが多い気がする。 当然、この最後の盛り上がりの中で憑依状態にはいる人もいる。

すでにこの頃には疲労困憊の私としては、もう終了だけが待ち遠しい状態なので、やめてちょうだい的なのだが、そんな私の気持ちとはうらはらに、みんな盛り上がっていくのだ。

朝になり、大盛りあがりのうちにンゴマ終了かと思いきや、そこでいきなり憑依状態になった若い婦人。施術師が泣きじゃくる彼女をカヤンバの輪のなかに座らせなだめている。まわりの親族女性たちが心配そうに見守る。

施術師とのコミカルなやり取りに爆笑するおばさんたち。彼女の祖母はまだ少し心配そう。

ンゴマとは何か

結局、ンゴマとは何だろうか。最も単純な答えは、憑依霊によって引き起こされた病気に対する治療儀礼だ、というものだろう。ンゴマは一人のムウェレのために開かれるのであり、ムウェレは「病人 mukongo」とも呼ばれる。つまり病人のために開かれているというわけだ。実に明確。

しかしちょっと考えてみて欲しい。治療というのもよいが、病人を夜通し踊らせてどうしようというのだろう。体力は消耗するし、病気なら逆にひどくなってしまいそうな気がしないだろうか。どこが治療なんだ?

そこで、こんな風に考える人もいるかもしれない。たしかに身体の病気の治療とは言えないかもしれない。でも心の病だとしたらどうだろう。しかし、それは大きな落とし穴に続く発想だ。

憑依を取り巻く暗黙の理解の落とし穴

実際、精霊憑依をめぐる人類学研究史をざっと見ただけで、精霊憑依を最初から精神疾患や心の問題と関係していると決めつけているかのような研究者に溢れている。憑依を巡る当該社会でのさまざまな実践を事細かく調査分析したうえで、そう結論付けているのであればともかく、最初からまるでそれが当然の前提であるかのように決めつけているのを見ると、あきれてしまうしかない。精霊憑依に関する治療を特徴づけるトランス、一種の心的解離現象は、西洋の一般の人々の目にはなにか異様で常軌を逸した振る舞いに映るので、そうした先入観があったとしても無理はないとも言えるが、それを研究の出発点にしてしまうのは、あまりにも自文化中心主義というしかないだろう。

精神疾患とは言わないまでも、なんらかの心的なストレスや「抑圧された」なにかを、精霊憑依の現象の核心に据えたくなるのもわからなくもない。70年代はこれがけっこう支配的な理論的立ち場になっていた。例えば精霊憑依信仰とその実践を、男性中心社会で抑圧されている女性に、その(同じく抑圧された意識下のかもしれない)不満のはけ口を提供すると同時に、男性に対する束の間の支配力の行使を許す、女性にとっての社会に対する一種の「間接的な抵抗手段」なのだ、みたいな。さらに議論を社会的弱者一般に拡大して、植民地システムや独立後の政治・経済システムへの抵抗みたいな感じで、その「政治性」を指摘するのもある時期、結構はやっていた。こういうのも結局は上記の自文化中心的な思い込みが出発点にあるような気がする。

まあ、あまり人のことを言えたことじゃない。私もはじめてこの現象に出会ったときにはびっくらこいてしまったのだから。でも、だからといって同じ理解回路に入ってしまったのでは、ちょっと情けない。

病気と憑依霊

しかし、ドゥルマ社会ではラッキーなことに、精霊憑依についてちょっと調べはじめると、精神疾患や社会的抑圧からくる心的ストレス等々と憑依との結びつきを前提とすることのおかしさに、すぐに気づくことになる。順序がおかしいのだ。

人が憑依の世界に入っていくルートは、病気になることから始まる。以下、ざくっと大体の道筋を説明したい。 病気が、占いによって霊の憑依によるものだと判断され、どのような治療が必要なのかが示唆され、実施される。患者は、すでに売薬や病院にはかかっており、それで解決しなかった場合が多い。

そこでいきなり霊が、ンゴマを要求しているからンゴマを開け、ということになるかもしれないが、普通はいきなりそうはならない。護符(と訳すのは大いに問題があるのだが15)、たとえばンガタ ngata14やピング pingu17やパンデ pande16を授けられ、煎じ薬(mihaso ya kunwa2630)をもらいなさい、程度かもしれないし、霊がしかじかの布 nguo92を要求しているとか、鍋32を要求していると、いささかの出費をともなう治療が指示されるかもしれない。

変だとお思いになるか、そうだろうなとお思いになるかわからないが、この治療で症状が軽快すれば、やはりその病気は霊がとり憑いたせいだったのだということになる。だって、こちらからの施術師の呼びかけと説得に、霊が応えてくれたというわけなのだから。

軽快しなかった場合は、精霊憑依以外のシステム(例えば妖術とか)にも接続する複数のルートが分岐するが、話を簡単にするために、こちらは無視して軽快した場合だけを考えよう。

運が良ければ、つまりその後健康状態が維持され、何かあっても病院での投薬や注射で治るといった感じであれば、問題はこれで終わりで、その後二度と霊のことを考える必要はなくなるかもしれない。

しかしそううまくは行くとは限らない。その後もまた病気、とりわけ病院で軽快しない病気にかかったら、そこには霊の関与があると最初から疑われることになる。霊の要求でかつて購入した布が使い古されて破れていたなどという偶然が重なったりすると、もう疑いの余地はない。占いで、霊のせいだとわかったら、すぐに指示に従って対処せねばならない。破れた布を買い直すくらいならなんでもない。でも、ときに霊の要求はエスカレートする。さらに厄介なことに、いったんある霊の要求をかなえると、他の霊たちも自分たちの要求を叶えようと、患者のところにやってくるものだと考えられているので始末が悪い。複数の霊を相手にしなければならないことになる。

複数の霊の雑多な要求に素直に従うのはたいへんだ。 その中にンゴマの要求があったりすると、これは出費の点でも簡単にはいかない。その場合には施術師を呼んで、再度護符や鍋でも出してもらい、霊に対してンゴマの約束だけをする。ンゴマはたしかに開催しましょう。でも今は余裕がありません。これはあなたの椅子15です、あるいは鍋です。もし本当にあなたのせいでしたら、まずは病気を軽快させてください。そうすれば、確かにあなたなのだと私たちにもわかるでしょう。ンゴマは今は無理ですが、患者が軽快すれば約束通り開催いたします、云々。これで実際に、病気が軽快すれば、霊が病気に関与していたことは、ますます確かになる。ンゴマの約束は逃れられない。霊はあらたな病気で催促してくるかもしれない。今は健康であっても、いつかは約束を果たさねば...こうしてンゴマの開催となる。

あるいは、雑多な要求に直面して、本当に霊の仕業なのか、どの霊の仕業なのかに疑いがある場合がある。その場合は、本当に霊が憑いているのか、憑いているとすればどの霊なのかを早急に確認する必要がある。これが「霊を見る」ンゴマ(カヤンバ)である。これは近隣に通知しなくても身内だけで、施術師を呼んで数時間で済むかもしれない...でも、こうして短時間ではあるがンゴマの開催になる。 他にもいろいろな選択肢の分岐があるが、注意したいのは、ここまでのところ患者は霊憑依にともなう心的解離をまだ経験していないということである。

もちろん、霊の関与が占いで示唆されることになる病気の中には、ある種の心的解離経験も含まれる。とりわけ施術師となった人は、まだ結婚前から「気が変になった(kpwayuka97)」と語る人が多い。施術師となることは自分の運命だったのだ、と。また、ンゴマの観客のあいだでの憑依でも触れたように、ンゴマを見に行っていきなり憑依状態になり、結婚するまで待てと説得されて、みたいなケースの場合、心的解離経験を最初にもつことから出発する場合もあるかもしれない。しかし、霊の関与が指摘される病気のほとんどは、こうした解離経験とは無縁の、長期にわたる便秘だったり、下痢と嘔吐だったり、月経不順、なかなか収まらない咳、喀血、頭痛や目眩い、耳鳴り、身体の節々の痛みといった身体症状だ。

そして、先程述べたルートで、こうした身体症状のみの病気の連続のはてに、ンゴマの開催があり、まさにこのンゴマにおいて、患者にとって初めての解離経験つまり「憑依状態」の経験が生じるというのが、ほとんどのケースなのである。ンゴマ自体が憑依という解離経験を生成する装置なのだ。解離経験が最初に来るケースさえも、多くはンゴマに観客(あるいはムウェレの身内)として参加した場合であって、ンゴマによって引き起こされたものだといえる。このウェブページの簡単な解説からもうかがえるように、施術師もそれに従うアナマジの歌い手・演奏者たちもムウェレに(のみならず周囲の参加者たちにも)憑依霊を誘い込み、降ろしてくることに、つまりムウェレに解離経験をもたせることに躍起になっている。非常にわかりやすい解離経験生成装置なのである。

1983年に私が調査地に選んだ「青い芯のトウモロコシ」村で私が滞在していた屋敷の奥さんムワカさんは、5人の子持ちの30代なかばくらい(本人も自分の正確な年齢を知らない)の女性である。1989年の調査(この年から私は調査地を「ジャコウネコの池」村に変更していた)の際に、泊りがけで挨拶に行った。ムジェニ(ムワカさんの娘の一人)が、憑依霊のビーズ飾り(tungo98)を首飾りにして遊んでいたので、なんだいお前は憑依霊をもっているのかい、などとからかっていると、ムワカさんの僚妻ニャンブーラさんから、そのビーズ飾りは母親のムワカさんのものだよと教えられた。ムワカさんは憑依霊にはまったく無縁な感じの人だったので、びっくりして本人に尋ねると、下の娘ジネ(ムジェニの妹)が病気で占いに行ったところ、お前に憑依霊がいるからだと言われたのだという。ムワカさんは、自分は生まれてこのかた憑依霊などいなかったのに、一体いつやって来たのかと、すごい剣幕で腹立たしそうに言う。あれこれ治療をしたのだろうが、けっきょく「霊を見る」カヤンバをとにかく開かねばということになったらしい。彼女らの夫はンゴマを嫌がって、ろくにお金を出してくれなかった。でもンゴマ(カヤンバ)はなんとか開いた。で、どうだったの、と聞くと、しっかり憑依していたよ(wari yugolomokpwa vibaya)とニャンブーラさんが答えてくれた。ムワカ本人は仏頂面でそっぽを向いて恥ずかしそうにしていた。憑いていたのは憑依霊ディゴ人75とシェラ66だったそうだ。今や、ムワカさん本人も、憤りつつも自分にこれらの霊が憑いていることを認めていた。なんとそのうちに「重荷下ろし」のカヤンバも受けるらしい。すでに随分深入りしちゃってますやん。((DB 2293)と1990年1月30日の日記より要約)

というわけで、憑依霊をめぐる実践を問題にする際には、その端緒に患者の心的トラブルや解離経験をおいて考えては「ならない」のである。ムワカさんの場合のように、病気なのは本人じゃなく、その子供、なんてこともある。憑依の患者は、なにも解離経験に至るような心的ストレスや精神的疾患をかかえていたとは限らない。解離経験そのものはンゴマ「治療」をうけるなかで作り出される産物なのだと言った方が良い。ンゴマが患者の心的なトラブルに対する治療だと考えるのは、まるで順序が逆なのである。

「病人」を徹夜で踊らせて、このどこが治療なんだよ、という私の直感は正しかったのかもしれない。それは宿主に対する治療などではない。

誰のためのンゴマか?

たしかに憑依霊をめぐる諸々の実践の多くは、憑依霊によって引き起こされた病気を直すための実践である。しかしそれはその病気の患者そのものを「治療」する行為ではない。といっても別に逆説を弄ぶつもりはない。

人々が説明している言葉を単に字義通りに解釈すればよいだけのことである。ンゴマを開いてもらいたがっているのは憑依霊の方なのだ。そしてンゴマを主宰する施術師は、ンゴマの開始を宣言する唱えごとの中で、ンゴマの受益者が憑依霊自身であることをはっきり表明している。

施術師: 皆様おだやかに、おだやかに。おだやかにと述べなくても良かったでしょうに。私たちがやってきて、「おだやかに」と述べるとすれば、それはおだやかにということなのです。皆様おだやかに。私たちはンゴマを開始します。このンゴマは予定されていたものです。それもずいぶん昔に。ですが、まだその時になっていませんでした。でも今、今がそのときです。 さて、私たちは皆様にお祈り申し上げます。北の皆さま(a kpwa vuri)に、南(a kpwa mwaka)の皆さまに、東(mulairo wa dzuwa)の皆さまに、西(mutserero wa dzuwa)の皆さまに、ブグブグ(bugubugu99)の方々に、ニェンゼ100の小池の方々に。 私たちはまた、子神ドゥガ(mwanaduga101)、...(以下中略、招待する憑依霊の名前が列挙されている)... このンゴマは皆さま方のンゴマ、約束のンゴマです。どうか皆さま、大混乱とともにやって来ないでください。お一人、お一人やって来て、良くお踊りください。やって来るなり号泣するのは、なしです。やって来て、互いに邪魔をしあうのも、なしです。ただやって来てください。 どなたもがやってきて、満足するまでお踊りになり、飽きたら、立ち去る。仲間に場所を譲る。やって来ては、仲間に譲る。でも、一人ひとりがやって来ても、全員が一斉に来てしまっては駄目です。あなたがたはこれなるムウェレ(muwele93)を困らせることになります。どうかやって来て、互いに仲良くなさってください。 男: 女性たちがたくさん憑依する(kugolomokpwa)場にしてください。 施術師: そのとおりよ。そして男たちもね、憑依させてください。先日、誰のカヤンバでしたっけ、聞いた話では、憑依したのは男たちだけだったってさ。 (中略) リードボーカル: 互いに理解し合いながら歌いましょう。張り合いながら歌うのは、なし。理解しあって歌いましょう。人がその人がもつ憑依霊に捕らえられる、その連続。その人がもう疲れてしまって、その先に行かないと見たら、(一緒に歌っている)仲間を制止する。でも仲間が歌っているのに、仲間同士で張り合わないように。だめです。施術師のみなさん、ご注目ください! 人々: ムルングの! リードボーカル: 私たちはンゴマをクハツァ102しました。さあンゴマを始めましょう。 Bechiziの屋敷での徹夜のカヤンバより (DB2490-2491)ドゥルマ語テキスト

憑依霊たちに、自分の持ち歌に合わせて楽しく踊る機会を与える、これがンゴマの明示的な目的である。こうして約束をかなえ、その欲求を満たしてやることによって、憑依霊(たち)はムウェレに対する束縛(病という形をとってきた)を、ときほどき、健康を(少なくともしばらくは)もとどおりにしてくれるだろう。この意味ではたしかにムウェレの病気を治す行為であるとは言える。しかし、それはムウェレの心身に働きかけることで病気を直接治す行為ではなく、病気を引き起こしている憑依霊たちを懐柔することで、結果的に病気がなおるという意味において、かろうじて病人に対する治療行為だとも言えるというものである。「鍋」治療のところでも「鍋」の基本が憑依霊に対するもてなしであることを示唆したように、ンゴマもその基本は、霊たちのためのもの、彼らに対する饗応である。徹夜の主人公は、まさに霊たちだ。

ンゴマのこの基本性格を理解するとき、私たちは人間中心の世界から、憑依霊中心の世界へと分析の視点を移動させることを余儀なくされる。憑依霊が病気を引き起こしている以上、施術師同様、私たちも、憑依霊の世界の特徴と、そこで人間がどうやってうまく憑依霊たちと渡り合い、つきあっていかねばならないかを理解せねばならない。憑依霊を他のなにかについての表象としてとか、内容のない幻想としてとか、人々が演じて見せる役割であるとか、社会や制度に対する反逆の偽装であるとかではなく、現実にいるかもしれない何者か、厄介で面倒で、でもパワフルな奴らとして、大真面目に考えてみる(少なくともみようとする)必要がある。憑依霊の民族誌が必要となるのである。

注釈


1 ムトゥリトゥリ(mut'urit'uri)。和名トウアズキ。憑依霊ムルング他の草木。Abrus precatorius(Pakia&Cooke2003:390)。その実はトゥリトゥリと呼ばれ、カヤンバ楽器(kayamba)や、占いに用いる瓢箪(chititi)の中に入れられる。
2 ムガンガ(muganga pl. aganga)。癒やす者、施術師、治療師。人々を見舞うさまざまな災厄や病に対処する専門家。彼らが行使する施術・業がuganga3であり、ざっくり分けた3区分それぞれの専門の施術師がいる。(1)秩序の乱れや規則違反がもたらす災厄に対処する「冷やしの施術師(muganga wa kuphoza)」(2)薬(muhaso)を使役して他人に危害をもたらす妖術使いが引き起こした災厄や病気に、同じく薬を使役して対処する「妖術の施術師(muganga wa utsai(or matsai))」(3)憑依霊が引き起こす病気や災いに対処し、自らのもつ憑依霊の能力と知識をもとに、患者と憑依霊の関係を正常化し落ち着かせる技に通じた「憑依霊の施術師(muganga wa nyama(or shetani, or p'ep'o))」がそれである。
3 ウガンガ(uganga)。癒やしの術、治療術、施術などという訳語を当てている。病気やその他の災に対処する技術。さまざまな種類の術があるが、大別すると3つに分けられる。(1)冷やしの施術(uganga wa kuphoza): 安心安全に生を営んでいくうえで従わねばならないさまざまなやり方・きまり(人々はドゥルマのやり方chidurumaと呼ぶ)を犯した結果生じる秩序の乱れや災厄、あるいは外的な事故がもたらす秩序の乱れを「冷やし」修正する術。(2)薬の施術(uganga wa muhaso): 妖術使い(さまざまな薬を使役して他人に不幸や危害をもたらす者)によって引き起こされた病気や災厄に対処する、妖術使い同様に薬の使役に通暁した専門家たちが提供する術。(3)憑依霊の施術(uganga wa nyama): 憑依霊によって引き起こされるさまざまな病気に対処し、憑依霊と交渉し患者と憑依霊の関係を取り持ち、再構築し、安定させる癒やしの術。
4 ガフラ(gafula)。「突然,急に,すばやく」(ス)ghafula に同じ。「突然のカヤンバ(ンゴマ)kayamba ra gafula」は前もって開催を予定しておらず、急遽開かれるカヤンバ5のこと。詳しくはカヤンバの種類参照のこと。
5 カヤンバ(kayamba)。憑依霊に対する「治療」のもっとも中心で盛大な機会がンゴマ(ngoma)あるはカヤンバ(makayamba)と呼ばれる歌と踊りからなるイベントである。どちらの名称もそこで用いられる楽器にちなんでいる。ンゴマ(ngoma)は太鼓であり、カヤンバ(kayamba, pl. makayamba)とはエレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'ti1)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器で10人前後の奏者によって演奏される。実際に用いられる楽器がカヤンバであっても、そのイベントをンゴマと呼ぶことも普通である。カヤンバ治療にはさまざまな種類がある。カヤンバの種類
また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira6)」と呼ばれることもある。
6 ウィラ(wira, pl.miira, mawira)。「歌」。しばしば憑依霊を招待する、太鼓やカヤンバ5の伴奏をともなう踊りの催しである(それは憑依霊たちと人間が直接コミュニケーションをとる場でもある)ンゴマ(7)、カヤンバ(5)と同じ意味で用いられる。
7 ンゴマ(ngoma)。「太鼓」あるいは太鼓演奏を伴う儀礼。木の筒にウシの革を張って作られた太鼓。または太鼓を用いた演奏の催し。憑依霊を招待し、徹夜で踊らせる催しもンゴマngomaと総称される。太鼓には、首からかけて両手で打つ小型のチャプオ(chap'uo, やや大きいものをp'uoと呼ぶ)、大型のムキリマ(muchirima)、片面のみに革を張り地面に置いて用いるブンブンブ(bumbumbu)などがある。ンゴマでは異なる音程で鳴る大小のムキリマやブンブンブを寝台の上などに並べて打ち分け、旋律を出す。熟練の技が必要とされる。チャプオは単純なリズムを刻む。憑依霊の踊りの催しには太鼓よりもカヤンバkayambaと呼ばれる、エレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'uri1)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器の方が広く用いられ、そうした催しはカヤンバあるいはマカヤンバと呼ばれる。もっとも、使用楽器によらず、いずれもンゴマngomaと呼ばれることも多い。特に太鼓だということを強調する場合には、そうした催しは ngoma zenye 「本当のngoma」と呼ばれることもある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira6)」と呼ばれることもある。
8 ク・チェサ(ku-chesa)。「徹夜する、夜を徹しておこなう、寝ないでいる」
9 ライカ(laika)、ラライカ(lalaika)とも呼ばれる。複数形はマライカ(malaika)。きわめて多くの種類がいる。多いのは「池」の住人(atu a maziyani)。キツィンバカジ(chitsimbakazi10)は、単独で重要な憑依霊であるが、池の住人ということでライカの一種とみなされる場合もある。ある施術師によると、その振舞いで三種に分れる。(1)ムズカのライカ(laika wa muzuka11) ムズカに棲み、人のキブリ(chivuri12)を奪ってそこに隠す。奪われた人は朝晩寒気と頭痛に悩まされる。 laika tunusi18など。(2)「嗅ぎ出し」のライカ(laika wa kuzuzwa) 水辺に棲み子供のキブリを奪う。またつむじ風の中にいて触れた者のキブリを奪う。朝晩の悪寒と頭痛。laika mwendo49,laika mukusi50など。(3)身体内のライカ(laika wa mwirini) 憑依された者は白目をむいてのけぞり、カヤンバの席上で地面に水を撒いて泥を食おうとする laika tophe51, laika ra nyoka51, laika chifofo54など。(4) その他 laika dondo55, laika chiwete56=laika gudu57), laika mbawa58, laika tsulu59, laika makumba60=dena61など。三種じゃなくて4つやないか。治療: 屋外のキザ(chiza cha konze33)で薬液を浴びる、護符(ngata14)、「嗅ぎ出し」施術(uganga wa kuzuza13)によるキブリ戻し。深刻なケースでは、瓢箪子供を授与されてライカの施術師になる。
10 キツィンバカジ(chitsimbakazi)。別名カツィンバカジ(katsimbakazi)。空から落とされて地上に来た憑依霊。ムルングの子供。ライカ(laika)の一種だとも言える。mulungu mubomu(大ムルング)=mulungu wa kuvyarira(他の憑依霊を産んだmulungu)に対し、キツィンバカジはmulungu mudide(小ムルング)だと言われる。男女あり。女のキツィンバカジは、背が低く、大きな乳房。laika dondoはキツィンバカジの別名だとも。キツィンバカジに惚れられる(achikutsunuka)と、頭痛と悪寒を感じる。占いに行くとライカだと言われる。また、「お前(の頭)を破裂させ気を狂わせる anaidima kukulipusa hata ukakala undaayuka.」台所の炉石のところに行って灰まみれになり、灰を食べる。チャリによると夜中にやってきて外から挨拶する。返事をして外に出ても誰もいない。でもなにかお前に告げたいことがあってやってきている。これからしかじかのことが起こるだろうとか、朝起きてからこれこれのことをしろとか。嗅ぎ出しの施術(uganga wa kuzuza)のときにやってきてku-zuzaしてくれるのはキツィンバカジなのだという。
11 ライカ・ムズカ(laika muzuka)。ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)の別名。またライカ・ヌフシ(laika nuhusi)、ライカ・パガオ(laika pagao)、ライカ・ムズカは同一で、3つの棲み処(池、ムズカ(洞窟)、海(baharini))を往来しており、その場所場所で異なる名前で呼ばれているのだともいう。ライカ・キフォフォ(laika chifofo)もヌフシの別名とされることもある。
12 キヴリ(chivuri)。人間の構成要素。いわゆる日本語でいう霊魂的なものだが、その違いは大きい。chivurivuriは物理的な影や水面に写った姿などを意味するが、chivuriと無関係ではない。chivuriは妖術使いや(chivuriの妖術)、ある種の憑依霊によって奪われることがある。人は自分のchivuriが奪われたことに気が付かない。妖術使いが奪ったchivuriを切ると、その持ち主は死ぬ。憑依霊にchivuriを奪われた人は朝夕悪寒を感じたり、頭痛などに悩まされる。chivuriは夜間、人から抜け出す。抜け出したchivuriが経験することが夢になる。妖術使いによって奪われたchivuriを手遅れにならないうちに取り返す治療がある。chivuriの妖術については[浜本, 2014『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版,pp.53-58]を参照されたい。また憑依霊によって奪われたchivuriを探し出し患者に戻すku-zuza13と呼ばれる手続きもある。
13 クズザ(ku-zuza)は「嗅ぐ、嗅いで探す」を意味する動詞。憑依霊の文脈では、もっぱらライカ(laika)等の憑依霊によって奪われたキブリ(chivuri12)を探し出して患者に戻す治療(uganga wa kuzuza)のことを意味する。キツィンバカジ、ライカやシェラをもっている施術師によって行われる。施術師を取り囲んでカヤンバを演奏し、施術師はこれらの霊に憑依された状態で、カヤンバ演奏者たちを引き連れて屋敷を出発する。ライカやシェラが患者のchivuriを奪って隠している洞穴、池や川の深みなどに向かい、鶏などを供犠し、そこにある泥や水草などを手に入れる。出発からここまでカヤンバが切れ目なく演奏され続けている。屋敷に戻り、手に入れた泥などを用いて、取り返した患者のキブリ(chivuri)を患者に戻す。その際にもカヤンバが演奏される。キブリ戻しは、屋内に仰向けに寝ている患者の50cmほど上にムルングの布を広げ、その中に手に入れた泥や水草、睡蓮の根などを入れ、大量の水を注いで患者に振りかける。その後、患者のキブリを捕まえてきた瓢箪の口を開け、患者の目、耳、口、各関節などに近づけ、口で吹き付ける動作。これでキブリは患者に戻される。その後、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。それがすむと、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。クズザ単独で行われる場合は、この後、患者にンガタ14を与える。この施術全体をさして、単にクズザあるいは「嗅ぎ出しのカヤンバ(kayamba ra kuzuza)」と呼ぶ。やり方の細部は、施術師によってかなり異なる。
14 ンガタ(ngata)。護符15の一種。布製の長方形の袋状で、中に薬(muhaso),香料(mavumba),小さな紙に描いた憑依霊の絵などが入れてあり、紐で腕などに巻くもの、あるいは帯状の布のなかに薬などを入れてひねって包み、そのまま腕などに巻くものなど、さまざまなものがある。
15 「護符」。憑依霊の施術師が、憑依霊によってトラブルに見舞われている人に、処方するもので、患者がそれを身につけていることで、苦しみから解放されるもの。あるいはそれを予防することができるもの。ンガタ(ngata14)、パンデ(pande16)、ピング(pingu17)など、さまざまな種類がある。憑依霊ごとに(あるいは憑依霊のグループごとに)固有のものがある。勘違いしやすいのは、それを例えば憑依霊除けのお守りのようなものと考えてしまうことである。施術師たちは、これらを憑依霊に対して差し出される椅子(chihi)だと呼ぶ。憑依霊は、自分たちが気に入った者のところにやって来るのだが、椅子がないと、その者の身体の各部にそのまま腰を下ろしてしまう。すると患者は身体的苦痛その他に苦しむことになる。そこで椅子を用意しておいてやれば、やってきた憑依霊はその椅子に座るので、患者が苦しむことはなくなる、という理屈なのである。「護符」という訳語は、それゆえあまり適切ではないのだが、それに代わる適当な言葉がないので、とりあえず使い続けることにするが、霊を寄せ付けないためのお守りのようなものと勘違いしないように。
16 パンデ(pande, pl.mapande)。草木の幹、枝、根などを削って作る護符15。穴を開けてそこに紐を通し、それで手首、腰、足首など付ける箇所に結びつける。
17 ピング(pingu)。薬(muhaso:さまざまな草木由来の粉)を布などで包み、それを糸でぐるぐる巻きに球状に縫い固めた護符15の一種。
18 ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)は「怒りっぽさ」。トゥヌシ(tunusi)は人々が祈願する洞窟など(muzuka)の主と考えられている。別名ライカ・ムズカ(laika muzuka)、ライカ・ヌフシ。症状: 血を飲まれ貧血になって肌が「白く」なってしまう。口がきけなくなる。(注意!): ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)とは別に、除霊の対象となるトゥヌシ(tunusi)がおり、混同しないように注意。ニューニ(nyuni19)あるいはジネ(jine)の一種とされ、女性にとり憑いて、彼女の子供を捕らえる。子供は白目を剥き、手脚を痙攣させる。放置すれば死ぬこともあるとされている。女性自身は何も感じない。トゥヌシの除霊(ku-kokomola)は水の中で行われる(DB 2404)。
19 ニューニ(nyuni)。「キツツキ」。道を進んでいるとき、この鳥が前後左右のどちらで鳴くかによって、その旅の吉凶を占う。ここから吉凶全般をnyuniという言葉で表現する。(行く手で鳴く場合;nyuni wa kumakpwa 驚きあきれることがある、右手で鳴く場合;nyuni wa nguvu 食事には困らない、左手で鳴く場合;nyuni wa kureja 交渉が成功し幸運を手に入れる、後で鳴く場合;nyuni wa kusagala 遅延や引き止められる、nyuni が屋敷内で鳴けば来客がある徴)。またnyuniは「上の霊 nyama wa dzulu20」と総称される鳥の憑依霊、およびそれが引き起こす子供の引きつけを含む様々な病気の総称(ukongo wa nyuni)としても用いられる。(nyuniの病気には多くの種類がある。施術師によってその分類は異なるが、例えば nyuni wa joka:子供は泣いてばかり、wa nyagu(別名 mwasaga, wa chiraphai):手脚を痙攣させる、その他wa zuni、wa chilui、wa nyaa、wa kudusa、wa chidundumo、wa mwaha、wa kpwambalu、wa chifuro、wa kamasi、wa chip'ala、wa kajura、wa kabarale、wa kakpwang'aなど。nyuniの種類と治療法だけで論文が一本書けてしまうだろうが、おそらくそんな時間はない。)これらの「上の霊」のなかには母親に憑いて、生まれてくる子供を殺してしまうものもおり、それらは危険な「除霊」(kukokomola)の対象となる。
20 ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl. nyama a dzulu)。「上の動物、上の憑依霊」。ニューニ(nyuni、直訳するとキツツキ19)と総称される、主として鳥の憑依霊だが、ニューニという言葉は乳幼児や、この病気を持つ子どもの母の前で発すると、子供に発作を引き起こすとされ、忌み言葉になっている。したがってニューニという言葉の代わりに婉曲的にニャマ・ワ・ズルと言う言葉を用いるという。多くの種類がいるが、この病気は憑依霊の病気を治療する施術師とは別のカテゴリーの施術師が治療する。時間があれば別項目を立てて、詳しく紹介するかもしれない。ニャマ・ワ・ズル「上の憑依霊」のあるものは、女性に憑く場合があるが、その場合も、霊は女性をではなく彼女の子供を病気にする。病気になった子供だけでなく、その母親も治療される必要がある。しばしば女性に憑いた「上の霊」はその女性の子供を立て続けに殺してしまうことがあり、その場合は除霊(kukokomola21)の対象となる。
21 ク・ココモラ(ku-kokomola)。「除霊する」。憑依霊を2つに分けて、「身体の憑依霊 nyama wa mwirini22」と「除去の憑依霊 nyama wa kuusa2337と呼ぶ呼び方がある。ある種の憑依霊たちは、女性に憑いて彼女を不妊にしたり、生まれてくる子供をすべて殺してしまったりするものがある。こうした霊はときに除霊によって取り除く必要がある。ペポムルメ(p'ep'o mulume28)、カドゥメ(kadume40)、マウィヤ人(Mwawiya41)、ドゥングマレ(dungumale44)、ジネ・ムァンガ(jine mwanga45)、トゥヌシ(tunusi46)、ツォビャ(tsovya48)、ゴジャマ(gojama43)などが代表例。しかし除霊は必ずなされるものではない。護符pinguやmapandeで危害を防ぐことも可能である。「上の霊 nyama wa dzulu20」あるいはニューニ(nyuni「キツツキ」19)と呼ばれるグループの霊は、子供にひきつけをおこさせる危険な霊だが、これは一般の憑依霊とは別個の取り扱いを受ける。これも除霊の主たる対象となる。動詞ク・シンディカ(ku-sindika「(戸などを)閉ざす、閉める、閉め出す」)、ク・ウサ(ku-usa「除去する」)、ク・シサ(ku-sisa「(客などを)送っていく、見送る、送り出す(帰り道の途中まで同行して)、殺す」)も同じ除霊を指すのに用いられる。スワヒリ語のku-chomoa(「引き抜く」「引き出す」)から来た動詞 ku-chomowa も、ドゥルマでは「除霊する」の意味で用いられる。ku-chomowaは一つの霊について用いるのに対して、ku-kokomolaは数多くの霊に対してそれらを次々取除く治療を指すと、その違いを説明する人もいる。
22 ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini)「身体の憑依霊」。除霊(kukokomola21)の対象となるニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa)「除去の憑依霊」との対照で、その他の通常の憑依霊を「身体の憑依霊」と呼ぶ分類がある。通常の憑依霊は、自分たちの要求をかなえてもらうために人に憑いて、その人を病気にする。施術師がその霊と交渉し、要求を聞き出し、それを叶えることによって病気は治る。憑依霊の要求に応じて、宿主は憑依霊のお気に入りの布を身に着けたり、徹夜の踊りの会で踊りを開いてもらう。憑依霊は宿主の身体を借りて踊り、踊りを楽しむ。こうした関係に入ると、憑依霊を宿主から切り離すことは不可能となる。これが「身体の憑依霊」である。こうした霊を除霊することは極めて危険で困難であり、事実上不可能と考えられている。
23 ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa)。「除去の憑依霊」。憑依霊のなかのあるものは、女性に憑いてその女性を不妊にしたり、その女性が生む子供を殺してしまったりする。その場合には女性からその憑依霊を除霊する(kukokomola21)必要がある。これはかなり危険な作業だとされている。イスラム系の霊のあるものたち(とりわけジネと呼ばれる霊たち24)は、イスラム系の妖術使いによって攻撃目的で送りこまれる場合があり、イスラム系の施術師による除霊を必要とする。妖術によって送りつけられた霊は、「妖術の霊(nyama wa utsai)」あるいは「薬の霊(nyama wa muhaso)」などの言い方で呼ばれることもある。ジネ以外のイスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba27)も、ときに女性を不妊にしたり、その子供を殺したりするので、その場合には除霊の対象になる。ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl.nyama a dzulu20)「上の霊」あるいはニューニ(nyuni19)と呼ばれる多くは鳥の憑依霊たちは、幼児にヒキツケを引き起こしたりすることで知られており、憑依霊の施術師とは別に専門の施術師がいて、彼らの治療の対象であるが、ときには成人の女性に憑いて、彼女の生む子供を立て続けに殺してしまうので、除霊の対象になる。内陸系の霊のなかにも、女性に憑いて同様な危害を及ぼすものがあり、その場合には除霊の対象になる。こうした形で、除霊の対象にならない憑依霊たちは、自分たちの宿主との間に一生続く関係を構築する。要求がかなえられないと宿主を病気にするが、友好的な関係が維持できれば、宿主にさまざまな恩恵を与えてくれる場合もある。これらの大多数の霊は「除去の憑依霊」との対照でニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini22)「身体の憑依霊」と呼ばれている。
24 マジネ(majine)はジネ(jine)の複数形。イスラム系の妖術。イスラムの導師に依頼して掛けてもらうという。コーランの章句を書いた紙を空中に投げ上げるとそれが魔物jineに変化して命令通り犠牲者を襲うなどとされ、人(妖術使い)に使役される存在である。自らのイニシアティヴで人に憑依する憑依霊のジネ(jine)と、一応区別されているが、あいまい。フィンゴ(fingo25)のような屋敷や作物を妖術使いから守るために設置される埋設呪物も、供犠を怠ればジネに変化して人を襲い始めるなどと言われる。
25 フィンゴ(fingo, pl.mafingo)。私は「埋設薬」という翻訳を当てている。(1)妖術使いが、犠牲者の屋敷や畑を攻撃する目的で、地中に埋設する薬(muhaso26)。(2)妖術使いの攻撃から屋敷を守るために屋敷のどこかに埋設する薬。いずれの場合も、さまざまな物(例えば妖術の場合だと、犠牲者から奪った衣服の切れ端や毛髪など)をビンやアフリカマイマイの殻、ココヤシの実の核などに詰めて埋める。一旦埋設されたフィンゴは極めて強力で、ただ掘り出して捨てるといったことはできない。妖術使いが仕掛けたものだと、そもそもどこに埋められているかもわからない。それを探し出して引き抜く(ku-ng'ola mafingo)ことを専門にしている施術師がいる。詳しくは〔浜本満,2014,『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版会、pp.168-180〕。妖術使いが仕掛けたフィンゴだけが危険な訳では無い。屋敷を守る目的のフィンゴも同様に屋敷の人びとに危害を加えうる。フィンゴは定期的な供犠(鶏程度だが)を要求する。それを怠ると人々を襲い始めるのだという。そうでない場合も、例えば祖父の代の誰かがどこかに仕掛けたフィンゴが、忘れ去られて魔物(jine24)に姿を変えてしまうなどということもある。この場合も、占いでそれがわかるとフィンゴ抜きの施術を施さねばならない。
26 ムハソ muhaso (pl. mihaso)「薬」、とりわけ、土器片などの上で焦がし、その後すりつぶして黒い粉末にしたものを指す。妖術(utsai)に用いられるムハソは、瓢箪などの中に保管され、妖術使い(および妖術に対抗する施術師)が唱えごとで命令することによって、さまざまな目的に使役できる。治療などの目的で、身体に直接摂取させる場合もある。それには、muhaso wa kusaka 皮膚に塗ったり刷り込んだりする薬と、muhaso wa kunwa 飲み薬とがある。muhi(草木)と同義で用いられる場合もある。10cmほどの長さに切りそろえた根や幹を棒状に縦割りにしたものを束ね、煎じて飲む muhi wa(pl. mihi ya) kunwa(or kujita)も、muhaso wa(pl. mihaso ya) kunwa として言及されることもある。このように文脈に応じてさまざまであるが、妖術(utsai)のほとんどはなんらかのムハソをもちいることから、単にムハソと言うだけで妖術を意味する用法もある。
27 ニャマ・ワ・キゾンバ(nyama wa chidzomba, pl. nyama a chidzomba)。「イスラム系の憑依霊」。イスラム系の霊は「海岸の霊 nyama wa pwani」とも呼ばれる。イスラム系の霊たちに共通するのは、清潔好き、綺麗好きということで、ドゥルマの人々の「不潔な」生活を嫌っている。とりわけおしっこ(mikojo、これには「尿」と「精液」が含まれる)を嫌うので、赤ん坊を抱く母親がその衣服に排尿されるのを嫌い、母親を病気にしたり子供を病気にし、殺してしまったりもする。イスラム系の霊の一部には夜女性が寝ている間に彼女と性交をもとうとする霊がいる。男霊(p'ep'o mulume28)の別名をもつ男性のスディアニ導師(mwalimu sudiani29)がその代表例であり、女性に憑いて彼女を不妊にしたり(夫の精液を嫌って排除するので、子供が生まれない)、生まれてくる子供を全て殺してしまったり(その尿を嫌って)するので、最後の手段として危険な除霊(kukokomola)の対象とされることもある。イスラム系の霊は一般に獰猛(musiru)で怒りっぽい。内陸部の霊が好む草木(muhi)や、それを炒って黒い粉にした薬(muhaso)を嫌うので、内陸部の霊に対する治療を行う際には、患者にイスラム系の霊が憑いている場合には、このことについての許しを前もって得ていなければならない。イスラム系の霊に対する治療は、薔薇水や香水による沐浴が欠かせない。このようにきわめて厄介な霊ではあるのだが、その要求をかなえて彼らに気に入られると、彼らは自分が憑いている人に富をもたらすとも考えられている。
28 ペーポームルメ(p'ep'o mulume)。ムルメ(mulume)は「男性」を意味する名詞。男性のスディアニ Sudiani、カドゥメ Kadumeの別名とも。女性がこの霊にとり憑かれていると,彼女はしばしば美しい男と性交している夢を見る。そして実際の夫が彼女との性交を求めても,彼女は拒んでしまうようになるかもしれない。夫の方でも勃起しなくなってしまうかもしれない。女性の月経が終ったとき、もし夫がぐずぐずしていると,夫の代りにペポムルメの方が彼女と先に始めてしまうと、たとえ夫がいくら性交しようとも彼女が妊娠することはない。施術師による治療を受けてようやく、彼女は妊娠するようになる。その治療が功を奏さない場合には、最終的に除霊(ku-kokomola21)もありうる。
29 スディアニ(sudiani)。スーダン人だと説明する人もいるが、ザンジバルの憑依を研究したLarsenは、スビアーニ(subiani)と呼ばれる霊について簡単に報告している。それはアラブの霊ruhaniの一種ではあるが、他のruhaniとは若干性格を異にしているらしい(Larsen 2008:78)。もちろんスーダンとの結びつきには言及されていない。スディアニには男女がいる。厳格なイスラム教徒で綺麗好き。女性のスディアニは男性と夢の中で性関係をもち、男のスディアニは女性と夢の中で性関係をもつ。同じふるまいをする憑依霊にペポムルメ(p'ep'o mulume, mulume=男)がいるが、これは男のスディアニの別名だとされている。いずれの場合も子供が生まれなくなるため、除霊(ku-kokomola)してしまうこともある(DB 214)。スディアニの典型的な症状は、発狂(kpwayuka)して、水、とりわけ海に飛び込む。治療は「海岸の草木muhi wa pwani」30による鍋(nyungu32)と、飲む大皿と浴びる大皿(kombe36)。白いローブ(zurungi,kanzu)と白いターバン、中に指輪を入れた護符(pingu17)。
30 ムヒ(muhi、複数形は mihi)。植物一般を指す言葉だが、憑依霊の文脈では、治療に用いる草木を指す。憑依霊の治療においては霊ごとに異なる草木の組み合わせがあるが、大きく分けてイスラム系の憑依霊に対する「海岸部の草木」(mihi ya pwani(pl.)/ muhi wa pwani(sing.))、内陸部の憑依霊に対する「内陸部の草木」(mihi ya bara(pl.)/muhi wa bara(sing.))に大別される。冷やしの施術や、妖術の施術3においても固有の草木が用いられる。muhiはさまざまな形で用いられる。搗き砕いて香料(mavumba31)の成分に、根や木部は切り彫ってパンデ(pande16)に、根や枝は煎じて飲み薬(muhi wa kunwa, muhi wa kujita)に、葉は水の中で揉んで薬液(vuo)に、また鍋の中で煮て蒸気を浴びる鍋(nyungu32)治療に、土器片の上で炒ってすりつぶし黒い粉状の薬(muhaso, mureya)に、など。ミヒニ(mihini)は字義通りには「木々の場所(に、で)」だが、施術の文脈では、施術に必要な草木を集める作業を指す。
31 マヴンバ(mavumba)。「香料」。憑依霊の種類ごとに異なる。乾燥した草木や樹皮、根を搗き砕いて細かくした、あるいは粉状にしたもの。イスラム系の霊に用いられるものは、スパイスショップでピラウ・ミックスとして購入可能な香辛料ミックス。
32 ニュング(nyungu)。nyunguとは土器製の壺のような形をした鍋で、かつては煮炊きに用いられていた。このnyunguに草木(mihi)その他を詰め、火にかけて沸騰させ、この鍋を脚の間において座り、すっぽり大きな布で頭から覆い、鍋の蒸気を浴びる(kudzifukiza; kochwa)。それが終わると、キザchiza33、あるいはziya(池)のなかの薬液(vuo)を浴びる(koga)。憑依霊治療の一環の一種のサウナ的蒸気浴び治療であるが、患者に対してなされる治療というよりも、患者に憑いている霊に対して提供されるサービスだという側面が強い。概略はhttps://www.mihamamoto.com/research/mijikenda/durumatxt/pot-treatment.htmlを参照のこと
33 キザ(chiza)。憑依霊のための草木(muhi主に葉)を細かくちぎり、水の中で揉みしだいたもの(vuo=薬液)を容器に入れたもの。患者はそれをすすったり浴びたりする。憑依霊による病気の治療の一環。室内に置くものは小屋のキザ(chiza cha nyumbani)、屋外に置くものは外のキザ(chiza cha konze)と呼ばれる。容器としては取っ手のないアルミの鍋(sfuria)が用いられることも多いが、外のキザには搗き臼(chinu)が用いられることが普通である。屋外に置かれたものは「池」(ziya34)とも呼ばれる。しばしば鍋治療(nyungu32)とセットで設置される。
34 ジヤ(ziya, pl.maziya)。「池、湖」。川(muho)、洞窟(pangani)とともに、ライカ(laika)、キツィンバカジ(chitsimbakazi),シェラ(shera)などの憑依霊の棲み処とされている。またこれらの憑依霊に対する薬液(vuo35)が入った搗き臼(chinu)や料理鍋(sufuria)もジヤと呼ばれることがある(より一般的にはキザ(chiza33)と呼ばれるが)。
35 ヴオ(vuo, pl. mavuo)。「薬液」、さまざまな草木の葉を水の中で揉みしだいた液体。すすったり、phungo(葉のついた小枝の束)を浸して雫を患者にふりかけたり、それで患者を洗ったり、患者がそれをすくって浴びたり、といった形で用いる。
36 コンベ(kombe)は「大皿」を意味するスワヒリ語。kombe はドゥルマではイスラム系の憑依霊の治療のひとつである。陶器、磁器の大皿にサフランをローズウォーターで溶いたもので字や絵を描く。描かれるのは「コーランの章句」だとされるアラビア文字風のなにか、モスクや月や星の絵などである。描き終わると、それはローズウォーターで洗われ、瓶に詰められる。一つは甘いバラシロップ(Sharbat Roseという商品名で売られているもの)を加えて、少しずつ水で薄めて飲む。これが「飲む大皿 kombe ra kunwa」である。もうひとつはバケツの水に加えて、それで沐浴する。これが「浴びる大皿 kombe ra koga」である。文字や図像を飲み、浴びることに病気治療の効果があると考えられているようだ。
37 クウサ(ku-usa)。「除去する、取り除く」を意味する動詞。転じて、負っている負債や義務を「返す」、儀礼や催しを「執り行う」などの意味にも用いられる。例えば祖先に対する供犠(sadaka)をおこなうことは ku-usa sadaka、婚礼(harusi)を執り行うも ku-usa harusiなどと言う。クウサ・ムズカ(muzuka)あるいはミジム(mizimu)とは、ムズカに祈願して願いがかなったら云々の物を供犠します、などと約束していた場合、成願時にその約束を果たす(ムズカに「支払いをする(ku-ripha muzuka)」ともいう)ことであったり、妖術使いがムズカに悪しき祈願を行ったために不幸に陥った者が、それを逆転させる措置(たとえば「汚れを取り戻す」38など)を行うことなどを意味する。
38 ノンゴ(nongo)。「汚れ」を意味する名詞だが、象徴的な意味ももつ。ノンゴの妖術 utsai wa nongo というと、犠牲者の持ち物の一部や毛髪などを盗んでムズカ39などに隠す行為で、それによって犠牲者は、「この世にいるようで、この世にいないような状態(dza u mumo na dza kumo)」になり、何事もうまくいかなくなる。身体的不調のみならずさまざまな企ての失敗なども引き起こす。治療のためには「ノンゴを戻す(ku-udza nongo)」必要がある。「悪いノンゴ(nongo mbii)」をもつとは、人々から人気がなくなること、何か話しても誰にも聞いてもらえないことなどで、人気があることは「良いノンゴ(nongo mbidzo)」をもっていると言われる。悪いノンゴ、良いノンゴの代わりに「悪い臭い(kungu mbii)」「良い臭い(kungu mbidzo)」と言う言い方もある。
39 ムズカ(muzuka)。特別な木の洞や、洞窟で霊の棲み処とされる場所。また、そこに棲む霊の名前。ムズカではさまざまな祈願が行われる。地域の長老たちによって降雨祈願が行われるムルングのムズカと呼ばれる場所と、さまざまな霊(とりわけイスラム系の霊)の棲み処で個人が祈願を行うムズカがある。後者は祈願をおこないそれが実現すると必ず「支払い」をせねばならない。さもないと災が自分に降りかかる。妖術使いはしばしば犠牲者の「汚れ38」をムズカに置くことによって攻撃する(「汚れを奪う」妖術)という。「汚れを戻す」治療が必要になる。
40 カドゥメ(kadume)は、ペポムルメ(p'ep'o mulume)、ツォビャ(tsovya)などと同様の振る舞いをする憑依霊。共通するふるまいは、女性に憑依して夜夢の中にやってきて、女性を組み敷き性関係をもつ。女性は夫との性関係が不可能になったり、拒んだりするようになりうる。その結果子供ができない。こうした点で、三者はそれぞれの別名であるとされることもある。護符(ngata)が最初の対処であるが、カドゥメとツォーヴャは、取り憑いた女性の子供を突然捕らえて病気にしたり殺してしまうことがあり、ペポムルメ以上に、除霊(kukokomola)が必要となる。
41 マウィヤ(Mawiya)。民族名の憑依霊、マウィヤ人(Mawia)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつ。同じ地域にマコンデ人(makonde42)もいるが、憑依霊の世界ではしばしばマウィヤはマコンデの別名だとも主張される。ともに人肉を食う習慣があると主張されている(もちデマ)。女性が憑依されると、彼女の子供を殺してしまう(子供を産んでも「血を飲まれてしまって」育たない)。症状は別の憑依霊ゴジャマ(gojama43)と同様で、母乳を水にしてしまい、子供が飲むと嘔吐、下痢、腹部膨満を引き起こす。女性にとっては危険な霊なので、除霊(ku-kokomola)に訴えることもある。
42 マコンデ(makonde)。民族名の憑依霊、マコンデ人(makonde)。別名マウィヤ人(mawiya)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつで、マウィヤも同じグループに属する。人肉食の習慣があると噂されている(デマ)。女性に憑依して彼女の産む子供を殺してしまうので、除霊(ku-kokomola)の対象とされることもある。
43 ゴジャマ(gojama)。憑依霊の一種、ときにゴジャマ導師(mwalimu gojama)とも語られ、イスラム系とみなされることもある。狩猟採集民の憑依霊ムリャングロ(Muryangulo/pl.Aryangulo)と同一だという説もある。ひとつ目の半人半獣の怪物で尾をもつ。ブッシュの中で人の名前を呼び、うっかり応えると食べられるという。ブッシュで追いかけられたときには、葉っぱを撒き散らすと良い。ゴジャマはそれを見ると数え始めるので、その隙に逃げれば良いという。憑依されると、人を食べたくなり、カヤンバではしばしば斧をかついで踊る。憑依された人は、人の血を飲むと言われる。彼(彼女)に見つめられるとそれだけで見つめられた人の血はなくなってしまう。カヤンバでも、血を飲みたいと言って子供を追いかけ回す。また人肉を食べたがるが、カヤンバの席で前もって羊の肉があれば、それを与えると静かになる。ゴジャマをもつ者は、普段の状況でも食べ物の好みがかわり、蜂蜜を好むようになる。また尿に血や膿が混じる症状を呈することがある。さらにゴジャマをもつ女性は子供がもてなくなる(kaika ana)かもしれない。妊娠しても流産を繰り返す。その場合には、雄羊(ng'onzi t'urume)の供犠でその血を用いて除霊(kukokomola21)できる。雄羊の毛を縫い込んだ護符(pingu)を女性の胸のところにつけ、女性に雄羊の尾を食べさせる。
44 ドゥングマレ(dungumale)。母親に憑いて子供を捕らえる憑依霊。症状:発熱mwiri moho。子供泣き止まない。嘔吐、下痢。nyama wa kuusa(除霊ku-kokomola21の対象になる)37。黒いヤギmbuzi nyiru。ヤギを繋いでおくためのロープ。除霊の際には、患者はそのロープを持って走り出て、屋敷の外で倒れる。ドゥングマレの草木: mudungumale=muyama
45 ジネ・ムァンガ(jine mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネの一種。別名にソロタニ・ムァンガ(ムァンガ・サルタン(sorotani mwanga))とも。ドゥルマ語では動詞クァンガ(kpwanga, ku-anga)は、「(裸で)妖術をかける、襲いかかる」の意味。スワヒリ語にもク・アンガ(ku-anga)には「妖術をかける」の意味もあるが、かなり多義的で「空中に浮遊する」とか「計算する、数える」などの意味もある。形容詞では「明るい、ギラギラする、輝く」などの意味。昼夜問わず夢の中に現れて(kukpwangira usiku na mutsana)、組み付いて喉を絞める。症状:吐血。女性に憑依すると子どもの出産を妨げる。ngataを処方して、出産後に除霊 ku-kokomolaする。
46 トゥヌシ(tunusi)。憑依霊の一種。別名トゥヌシ・ムァンガ(tunusi mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネ(jine24)の一種という説と、ニューニ(nyuni19)の仲間だという説がある。女性がトゥヌシをもっていると、彼女に小さい子供がいれば、その子供が捕らえられる。ひきつけの症状。白目を剥き、手足を痙攣させる。女性自身が苦しむことはない。この症状(捕らえ方(magbwiri))は、同じムァンガが付いたイスラム系の憑依霊、ジネ・ムァンガ47らとはかなり異なっているので同一視はできない。除霊(kukokomola21)の対象であるが、水の中で行われるのが特徴。
47 ムァンガ(mwanga)。憑依霊の名前。「ムァンガ導師 mwalimu mwanga」「アラブ人ムァンガ mwarabu mwanga」「ジネ・ムァンガ jine mwanga」あるいは単に「ムァンガ mwanga」と呼ばれる。イスラム系の憑依霊。昼夜を問わず、夢の中に現れて人を組み敷き、喉を絞める。主症状は吐血。子供の出産を妨げるので、女性にとっては極めて危険。妊娠中は除霊できないので、護符(ngata)を処方して出産後に除霊を行う。また別に、全裸になって夜中に屋敷に忍び込み妖術をかける妖術使いもムァンガ mwangaと呼ばれる。kpwanga(=ku-anga)、「妖術をかける」(薬などの手段に訴えずに、上述のような以上な行動によって)を意味する動詞(スワヒリ語)より。これらのイスラム系の憑依霊が人を襲う仕方も同じ動詞で語られる。
48 ツォビャ(tsovya)。子供を好まず、母親に憑いて彼女の子供を殺してしまう。夜、夢の中にやってきて彼女と性関係をもつ。ニューニ19の一種に加える人もいる。除霊(kukokomola21)の対象となる「除去の霊nyama wa kuusa37」。see p'ep'o mulume28, kadume40
49 ライカ・ムェンド(laika mwendo)。動きの速いことからムェンド(mwendo)と呼ばれる。唱えごとの中では「風とともに動くもの(mwenda na upepo)」と呼びかけられる。別名ライカ・ムクシ(laika mukusi)。すばやく人のキブリを奪う。「嗅ぎ出し」にあたる施術師は、大急ぎで走っていって,また大急ぎで戻ってこなければならない.さもないと再び chivuri を奪われてしまう。症状: 激しい狂気(kpwayuka vyenye)。
50 ライカ・ムクシ(laika mukusi)。クシ(kusi)は「暴風、突風」。キククジ(chikukuzi)はクシのdim.形。風が吹き抜けるように人のキブリを奪い去る。ライカ・ムェンド(laika mwendo) の別名。
51 ライカ・トブェ(laika tophe)。トブェ(tophe)は「泥」。症状: 口がきけなくなり、泥や土を食べたがる。泥の中でのたうち回る。別名ライカ・ニョカ(laika ra nyoka)、ライカ・マフィラ(laika mwafira52)、ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka53)、ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。
52 ライカ・ムァフィラ(laika mwafira)、fira(mafira(pl.))はコブラ。laika mwanyoka、laika tophe、laika nyoka(laika ra nyoka)などの別名。
53 ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka)、nyoka はヘビ、mwanyoka は「ヘビの人」といった意味、laika chifofo、laika mwafira、laika tophe、laika nyokaなどの別名
54 ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。キフォフォ(chifofo)は「癲癇」あるいはその症状。症状: 痙攣(kufitika)、口から泡を吹いて倒れる、人糞を食べたがる(kurya mavi)、意識を失う(kufa,kuyaza fahamu)。ライカ・トブェ(laika tophe)の別名ともされる。
55 ライカ・ドンド(laika dondo)。dondo は「乳房 nondo」の aug.。乳房が片一方しかない。症状: 嘔吐を繰り返し,水ばかりを飲む(kuphaphika, kunwa madzi kpwenda )。キツィンバカジ(chitsimbakazi10)の別名ともいう。
56 ライカ・キウェテ(laika chiwete)。片手、片脚のライカ。chiweteは「不具(者)」の意味。症状: 脚が壊れに壊れる(kuvunza vunza magulu)、歩けなくなってしまう。別名ライカ・グドゥ(laika gudu)
57 ライカ・グドゥ(laika gudu)。ku-gudula「びっこをひく」より。ライカ・キウェテ(laika chiwete)の別名。
58 ライカ・ムバワ(laika mbawa)。バワ(bawa)は「ハンティングドッグ」。病気の進行が速い。もたもたしていると、血をすべて飲まれてしまう(kunewa milatso)ことから。症状: 貧血(kunewa milatso)、吐血(kuphaphika milatso)
59 ライカ・ツル(laika tsulu)。ツル(tsulu)は「土山、盛り土」。腹部が土丘(tsulu)のように膨れ上がることから。
60 マクンバ(makumba)。憑依霊デナ(dena61)の別名。
61 デナ(dena)。憑依霊の一種。ギリアマ人の長老。ヤシ酒を好む。牛乳も好む。別名マクンバ(makumbaまたはmwakumba)。突然の旋風に打たれると、デナが人に「触れ(richimukumba mutu)」、その人はその場で倒れ、身体のあちこちが「壊れる」のだという。瓢箪子供に入れる「血」はヒマの油ではなく、バター(mafuha ga ng'ombe)とハチミツで、これはマサイの瓢箪子供と同じ(ハチミツのみでバターは入れないという施術師もいる)。症状:発狂、木の葉を食べる、腹が腫れる、脚が腫れる、脚の痛みなど、ニャリ(nyari62)との共通性あり。治療はアフリカン・ブラックウッド(muphingo)ムヴモ(muvumo/Premna chrysoclada)ミドリサンゴノキ(chitudwi/Euphorbia tirucalli)の護符(pande16)と鍋。ニャリの治療もかねる。要求:鍋、赤い布、嗅ぎ出し(ku-zuza)の仕事。ニャリといっしょに出現し、ニャリたちの代弁者として振る舞う。
62 ニャリ(nyari)。憑依霊のグループ。内陸系の憑依霊(nyama a bara)だが、施術師によっては海岸系(nyama a pwani)に入れる者もいる(夢の中で白いローブ(kanzu)姿で現れることもあるとか、ニャリの香料(mavumba)はイスラム系の霊のための香料だとか、黒い布の月と星の縫い付けとか、どこかイスラム的)。カヤンバの場で憑依された人は白目を剥いてのけぞるなど他の憑依霊と同様な振る舞いを見せる。実体はヘビ。症状:発狂、四肢の痛みや奇形。要求は、赤い(茶色い)鶏、黒い布(星と月の縫い付けがある)、あるいは黒白赤の布を継ぎ合わせた布、またはその模様のシャツ。鍋(nyungu)。さらに「嗅ぎ出し(ku-zuza)13」の仕事を要求することもある。ニャリはヘビであるため喋れない。Dena61が彼らのスポークスマンでありリーダーで、デナが登場するとニャリたちを代弁して喋る。また本来は別グループに属する憑依霊ディゴゼー(digozee63)が出て、代わりに喋ることもある。ニャリnyariにはさまざまな種類がある。ニャリ・ニョカ(nyoka): nyokaはドゥルマ語で「ヘビ」、全身を蛇が這い回っているように感じる、止まらない嘔吐。よだれが出続ける。ニャリ・ムァフィラ(mwafira):firaは「コブラ」、ニャリ・ニョカの別名。ニャリ・ドゥラジ(durazi): duraziは身体のいろいろな部分が腫れ上がって痛む病気の名前、ニャリ・ドゥラジに捕らえられると膝などの関節が腫れ上がって痛む。ニャリ・キピンデ(chipinde): ku-pindaはスワヒリ語で「曲げる」、手脚が曲がらなくなる。ニャリ・キティヨの別名とも。ニャリ・ムァルカノ(mwalukano): lukanoはドゥルマ語で筋肉、筋(腱)、血管。脚がねじ曲がる。この霊の護符pande16には、通常の紐(lugbwe)ではなく野生動物の腱を用いる。ニャリ・ンゴンベ(ng'ombe): ng'ombeはウシ。牛肉が食べられなくなる。腹痛、腹がぐるぐる鳴る。鍋(nyungu)と護符(pande)で治るのがジネ・ンゴンベ(jine ng'ombe)との違い。ニャリ・ボコ(boko): bokoはカバ。全身が震える。まるでマラリアにかかったように骨が震える。ニャリ・ボコのカヤンバでの演奏は早朝6時頃で、これはカバが水から出てくる時間である。ニャリ・ンジュンジュラ(junjula):不明。ニャリ・キウェテ(chiwete): chiweteはドゥルマ語で不具、脚を壊し、人を不具にして膝でいざらせる。ニャリ・キティヨ(chitiyo): chitiyoはドゥルマ語で父息子、兄弟などの同性の近親者が異性や性に関する事物を共有することで生じるまぜこぜ(maphingani/makushekushe)がもたらす災厄を指す。ニャリ・キティヨに捕らえられると腰が折れたり(切断されたり)=ぎっくり腰、せむし(chinundu cha mongo)になる。胸が腫れる。
63 ディゴゼー(digozee)。憑依霊ドゥルマ人の一種とも。田舎者の老人(mutumia wa nyika)。極めて年寄りで、常に毛布をまとう。酒を好む。ディゴゼーは憑依霊ドゥルマ人の長、ニャリたちのボスでもある。ムビリキモ(mubilichimo64)マンダーノ(mandano65)らと仲間で、憑依霊ドゥルマ人の瓢箪を共有する。症状:日なたにいても寒気がする、腰が断ち切られる(ぎっくり腰)、声が老人のように嗄れる。要求:毛布(左肩から掛け一日中纏っている)、三本足の木製の椅子(紐をつけ、方から掛けてどこへ行くにも持っていく)、編んだ肩掛け袋(mukoba)、施術師の錫杖(muroi)、動物の角で作った嗅ぎタバコ入れ(chiko cha pembe)、酒を飲むための瓢箪製のコップとストロー(chiparya na muridza)。治療:憑依霊ドゥルマの「鍋」、煙浴び(ku-dzifukiza 燃やすのはボロ布または乳香)。
64 ムビリキモ(mbilichimo)。民族名の憑依霊、ピグミー(スワヒリ語でmbilikimo/(pl.)wabilikimo)。身長(kimo)がない(mtu bila kimo)から。憑依霊の世界では、ディゴゼー(digozee)と組んで現れる。女性の霊だという施術師もいる。症状:脚や腰を断ち切る(ような痛み)、歩行不可能になる。要求: 白と黒のビーズをつけた紺色の(ムルングの)布。ビーズを埋め込んだ木製の三本足の椅子。憑依霊ドゥルマ人の瓢箪に同居する。
65 マンダーノ(mandano)。憑依霊。mandanoはドゥルマ語で「黄色」。女性の霊。つねに憑依霊ドゥルマ人とともにやってくる。独りでは来ない。憑依霊ドゥルマ人、ディゴゼー、ムビリキモ、マンダーノは一つのグループになっている。症状: 咳、喀血、息が詰まる。貧血、全身が黄色くなる、水ばかり飲む。食べたものはみな吐いてしまう。要求: 黄色いビーズと白いビーズを互違いに通した耳飾り、青白青の三色にわけられた布(二辺に穴あき硬貨(hela)と黄色と白のビーズ飾りが縫いつけられている)、自分に捧げられたヤギ。草木: mutundukula、mudungu
66 シェラ(shera, pl. mashera)。憑依霊の一種。laikaと同じ瓢箪を共有する。同じく犠牲者のキブリを奪う。症状: 全身の痒み(掻きむしる)、ほてり(mwiri kuphya)、動悸が速い、腹部膨満感、不安、動悸と腹部膨満感は「胸をホウキで掃かれるような症状」と語られるが、シェラという名前はそれに由来する(ku-shera はディゴ語で「掃く」の意)。シェラに憑かれると、家事をいやがり、水汲みも薪拾いもせず、ただ寝ることと食うことのみを好むようになる。気が狂いブッシュに走り込んだり、川に飛び込んだり、高い木に登ったりする。要求: 薄手の黒い布(gushe)、ビーズ飾りのついた赤い布(ショールのように肩に纏う)。治療:「嗅ぎ出し(ku-zuza)13、クブゥラ・ミジゴ(kuphula mizigo 重荷を下ろす67)と呼ばれるほぼ一昼夜かかる手続きによって治療。イキリク(ichiliku69)、おしゃべり女(chibarabando70)、重荷の女(muchet'u wa mizigo71)、気狂い女(muchet'u wa k'oma72)、狂気を煮立てる者(mujita k'oma73)、ディゴ女(muchet'u wa chidigo74、長い髪女(mwadiwa76)などの多くの別名をもつ。男のシェラは編み肩掛け袋(mukoba77)を持った姿で、女のシェラは大きな乳房の女性の姿で現れるという。
67 憑依霊シェラに対する治療。シェラの施術師となるには必須の手続き。シェラは本来素早く行動的な霊なのだが、重荷(mizigo68)を背負わされているため軽快に動けない。シェラに憑かれた女性が家事をサボり、いつも疲れているのは、シェラが重荷を背負わされているため。そこで「重荷を下ろす」ことでシェラとシェラが憑いている女性を解放し、本来の勤勉で働き者の女性に戻す必要がある。長い儀礼であるが、その中核部では患者はシェラに憑依され、屋敷でさまざまな重荷(水の入った瓶や、ココヤシの実、石などの詰まった網籠を身体じゅうに掛けられる)を負わされ、施術師に鞭打たれながら水辺まで進む。水辺には木の台が据えられている。そこで重荷をすべて下ろし、台に座った施術師の女助手の膝に腰掛けさせられ、ヤギを身体じゅうにめぐらされ、ヤギが供犠されたのち、患者は水で洗われ、再び鞭打たれながら屋敷に戻る。その過程で女性がするべきさまざまな家事仕事を模擬的にさせられる(薪取り、耕作、水くみ、トウモロコシ搗き、粉挽き、料理)、ついで「夫」とベッドに座り、父(男性施術師)に紹介させられ、夫に食事をあたえ、等々。最後にカヤンバで盛大に踊る、といった感じ。まさにミメティックに、重荷を下ろし、家事を学び直し、家庭をもつという物語が実演される。
68 ムジゴ(muzigo, pl.mizigo)。「荷物」。
69 イキリクまたはキリク(ichiliku)。憑依霊シェラ(shera66)の別名。シェラには他にも重荷を背負った女(muchet'u wa mizigo)、長い髪の女(mwadiwa=mutu wa diwa, diwa=長い髪)、狂気を煮たてる者(mujita k'oma)、高速の女((mayo wa mairo) もともととても素速い女性だが、重荷を背負っているため速く動けない)、気狂い女(muchet'u wa k'oma)、口軽女(chibarabando)など、多くの別名がある。無駄口をたたく、他人と折り合いが悪い、分別がない(mutu wa kutsowa akili)といった属性が強調される。
70 キバラバンド(chibarabando)。「おしゃべりな人、おしゃべり」。shera66の別名の一つ
71 ムチェツ・ワ・ミジゴ(muchet'u wa mizigo)。「重荷の女」。憑依霊シェラ66の別名。治療には「重荷下ろし」のカヤンバ(kayamba ra kuphula mizigo)が必要。重荷下ろしのカヤンバ
72 ムチェツ・ワ・コマ(muchet'u wa k'oma)。「きちがい女」。憑依霊シェラ66の別名ともいう。
73 ムジタ・コマ(mujita k'oma)。「狂気を煮立てる者」。憑依霊シェラ(shera66)の別名の一つ。
74 ムチェツ・ワ・キディゴ(muchet'u wa chidigo)。「ディゴ女」。憑依霊シェラ66の別名。あるいは憑依霊ディゴ人(mudigo75)の女性であるともいう。
75 ムディゴ(mudigo)。民族名の憑依霊、ディゴ人(mudigo)。しばしば憑依霊シェラ(shera=ichiliku)もいっしょに現れる。別名プンガヘワ(pungahewa, スワヒリ語でku-punga=扇ぐ, hewa=空気)、ディゴの女(muchet'u wa chidigo)。ディゴ人(プンガヘワも)、シェラ、ライカ(laika)は同じ瓢箪子供を共有できる。症状: ものぐさ(怠け癖 ukaha)、疲労感、頭痛、胸が苦しい、分別がなくなる(akili kubadilika)。要求: 紺色の布(ただしジンジャjinja という、ムルングの紺の布より濃く薄手の生地)、癒やしの仕事(uganga)の要求も。ディゴ人の草木: mupholong'ondo, mup'ep'e, mutundukula, mupera, manga, mubibo, mukanju
76 ムヮディワ(mwadiwa)。「長い髪の女」。憑依霊シェラの別名のひとつともいう。ディワ(diwa)は「長い髪」の意。ムヮディワをマディワ(madiwa)と発音する人もいる(特にカヤンバの歌のなかで)。マディワは単にディワの複数形でもある。
77 ムコバ(mukoba)。持ち手、あるいは肩から掛ける紐のついた編み袋。サイザル麻などで編まれたものが多い。憑依霊の癒しの術(uganga)では、施術師あるいは癒やし手(muganga)がその瓢箪や草木を入れて運んだり、瓢箪を保管したりするのに用いられるが、癒しの仕事を集約する象徴的な意味をもっている。自分の祖先のugangaを受け継ぐことをムコバ(mukoba)を受け継ぐという言い方で語る。また病気治療がきっかけで患者が、自分を直してくれた施術師の「施術上の子供」になることを、その施術師の「ムコバに入る(kuphenya mukobani)」という言い方で語る。患者はその施術師に4シリングを払い、施術師はその4シリングを自分のムコバに入れる。そして患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者はその施術師の「ムコバ」に入り、その施術上の子供になる。施術上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。施術上の子供は施術師に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る(kulaa mukobani)」という。
78 ハンガ・イツィ(hanga itsi)。死者の埋葬後、クランごとに日数は異なるが、死者の親族は数日にわたる喪にに服する。これがハンガ・イツィ(hanga itsi, 直訳すると「生(なま)の服喪」)である。死者の屋敷の人びとはこの間、椅子、寝台の使用が禁止され、大きな動作や大声も禁止され、地面の上で起居する。この間、連日屋敷の前広場では、キフドゥ(chifudu)と呼ばれる卑猥な内容の歌と踊りが催される。この「生の服喪」の数年後(残された集団の財力に依存する)、盛大な「熟した服喪 hanga ivu」が開かれる。死者の財産や未亡人の相続は、熟した服喪の後に行われる。
79 チェレコ(chereko)。「背負う」を意味する動詞ク・エレカ(kpwereka)より。不妊の女性に与えられる瓢箪子供80。子供がなかなかできない(ドゥルマ語で「彼女は子供をきちんと置かない kaika ana」と呼ばれる事態で、連続する死産、流産、赤ん坊が幼いうちに死ぬ、第二子以降がなかなか生まれないなども含む)原因は、しばしば自分の子供がほしいムルング子神82がその女性の出産力に嫉妬して、その女性の妊娠を阻んでいるためとされる。ムルング子神の瓢箪子供を夫婦に授けることで、妻は再び妊娠すると考えられている。まだ一切の加工がされていない瓢箪(chirenje)を「鍋」とともにムルングに示し、妊娠・出産を祈願する。授けられた瓢箪は夫婦の寝台の下に置かれる。やがて妻に子供が生まれると、徹夜のカヤンバを開催し施術師はその瓢箪の口を開け、くびれた部分にビーズ ushangaの紐を結び、中身を取り出す。夫婦は二人でその瓢箪に心臓(ムルングの草木を削って作った木片mapande16)、内蔵(ムルングの草木を砕いて作った香料31)、血(ヒマ油83)を入れて「瓢箪子供」にする。徹夜のカヤンバが夜明け前にクライマックスになると、瓢箪子供をムルング子神(に憑依された妻)に与える。以後、瓢箪子供は夜は夫婦の寝台の上に置かれ、昼は生まれた赤ん坊の背負い布の端に結び付けられて、生まれてきた赤ん坊の成長を守る。瓢箪子どもの血と内臓は、切らさないようにその都度、補っていかねばならない。夫婦の一方が万一浮気をすると瓢箪子供は泣き、壊れてしまうかもしれない。チェレコを授ける儀礼手続きの詳細は、浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22を参照されたい。
80 ムァナ・ワ・ンドンガ(mwana wa ndonga)。ムァナ(mwana, pl. ana)は「子供」、ンドンガ(ndonga)は「瓢箪」。「瓢箪の子供」を意味する。「瓢箪子供」と訳すことにしている。瓢箪の実(chirenje)で作った子供。瓢箪子供には2種類あり、ひとつは施術師が特定の憑依霊(とその仲間)の癒やしの術(uganga)をとりおこなえる施術師に就任する際に、施術上の父と母から授けられるもので、それは彼(彼女)の施術の力の源泉となる大切な存在(彼/彼女の占いや治療行為を助ける憑依霊はこの瓢箪の姿をとった彼/彼女にとっての「子供」とされる)である。一方、こうした施術師の所持する瓢箪子供とは別に、不妊に悩む女性に授けられるチェレコchereko(ku-ereka 「赤ん坊を背負う」より)とも呼ばれる瓢箪子供79がある。瓢箪子供の各部の名称については、図81を参照。
81 ンドンガ(ndonga)。瓢箪chirenjeを乾燥させて作った容器。とりわけ施術師(憑依霊、妖術、冷やしを問わず)が「薬muhaso」を入れるのに用いられる。憑依霊の施術師の場合は、薬の容器とは別に、憑依霊の瓢箪子供 mwana wa ndongaをもっている。内陸部の霊たちの主だったものは自らの「子供」を欲し、それらの霊のmuganga(癒し手、施術師)は、その就任に際して、医療上の父と母によって瓢箪で作られた、それらの霊の「子供」を授かる。その瓢箪は、中に心臓(憑依霊の草木muhiの切片)、血(ヒマ油、ハチミツ、牛のギーなど、霊ごとに定まっている)、腸(mavumba=香料、細かく粉砕した草木他。その材料は霊ごとに定まっている)が入れられている。瓢箪子供は施術師の癒やしの技を手助けする。しかし施術師が過ちを犯すと、「泣き」(中の液が噴きこぼれる)、施術師の癒やしの仕事(uganga)を封印してしまったりする。一方、イスラム系の憑依霊たちはそうした瓢箪子供をもたない。例外が世界導師とペンバ人なのである(ただしペンバ人といっても呪物除去のペンバ人のみで、普通の憑依霊ペンバ人は瓢箪をもたない)。瓢箪子供については〔浜本 1992〕に詳しい(はず)。
82 ムァナムルング(mwanamulungu)。「ムルング子神」と訳しておく。憑依霊の名前の前につける"mwana"には敬称的な意味があると私は考えている。しかし至高神ムルング(mulungu)と憑依霊のムルング(mwanamulungu)の関係については、施術師によって意見が分かれることがある。多くの人は両者を同一とみなしているが、天にいるムルング(女性)が地上に落とした彼女の子供(女性)だとして、区別する者もいる。いずれにしても憑依霊ムルングが、すべての憑依霊の筆頭であるという点では意見が一致している。憑依霊ムルングも他の憑依霊と同様に、自分の要求を伝えるために、自分が惚れた(あるいは目をつけた kutsunuka)人を病気にする。その症状は身体全体にわたる。その一つに人々が発狂(kpwayuka)と呼ぶある種の精神状態がある。また女性の妊娠を妨げるのも憑依霊ムルングの特徴の一つである。ムルングがこうした症状を引き起こすことによって満たそうとする要求は、単に布(nguo ya mulungu と呼ばれる黒い布 nguo nyiru (実際には紺色))であったり、ムルングの草木を水の中で揉みしだいた薬液を浴びることであったり(chiza33)、ムルングの草木を鍋に詰め少量の水を加えて沸騰させ、その湯気を浴びること(「鍋nyungu」)であったりする。さらにムルングは自分自身の子供を要求することもある。それは瓢箪で作られ、瓢箪子供と呼ばれる80。女性の不妊はしばしばムルングのこの要求のせいであるとされ、瓢箪子供をムルングに差し出すことで妊娠が可能になると考えられている79。この瓢箪子供は女性の子供と一緒に背負い布に結ばれ、背中の赤ん坊の健康を守り、さらなる妊娠を可能にしてくれる。しかしムルングの究極の要求は、患者自身が施術師になることである。ムルングが引き起こす症状で、すでに言及した「発狂kpwayuka」は、ムルングのこの究極の要求につながっていることがしばしばである。ここでも瓢箪子供としてムルングは施術師の「子供」となり、彼あるいは彼女の癒やしの術を助ける。もちろん、さまざまな憑依霊が、癒やしの仕事(kazi ya uganga)を欲して=憑かれた者がその霊の癒しの術の施術師(muganga 癒し手、治療師)となってその霊の癒やしの術の仕事をしてくれるようになることを求めて、人に憑く。最終的にはこの願いがかなうまでは霊たちはそれを催促するために、人を様々な病気で苦しめ続ける。憑依霊たちの筆頭は神=ムルングなので、すべての施術師のキャリアは、まず子神ムルングを外に出す(徹夜のカヤンバ儀礼を経て、その瓢箪子供を授けられ、さまざまなテストをパスして正式な施術師として認められる手続き)ことから始まる。
83 ニョーノ(nyono)。ヒマ(mbono, mubono)の実、そこからヒマの油(mafuha ga nyono)を抽出する。さまざまな施術に使われるが、ヒマの油は閉経期を過ぎた女性によって抽出されねばならない。ムルングの瓢箪子供には「血」としてヒマの油が入れられる。
84 ク・ラヴャ・コンゼ(ンゼ)(ku-lavya konze, ku-lavya nze)は、字義通りには「外に出す」だが、憑依の文脈では、人を正式に癒し手(muganga、治療師、施術師)にするための一連の儀礼のことを指す。人を目的語にとって、施術師になろうとする者について誰それを「外に出す」という言い方をするが、憑依霊を目的語にとってたとえばムルングを外に出す、ムルングが「出る」といった言い方もする。同じく「癒しの術(uganga)」が「外に出る」、という言い方もある。憑依霊ごとに違いがあるが、最も多く見られるムルング子神を「外に出す」場合、最終的には、夜を徹してのンゴマ(またはカヤンバ)で憑依霊たちを招いて踊らせ、最後に施術師見習いはトランス状態(kugolomokpwa)で、隠された瓢箪子供を見つけ出し、占いの技を披露し、憑依霊に教えられてブッシュでその憑依霊にとって最も重要な草木を自ら見つけ折り取ってみせることで、一人前の癒し手(施術師)として認められることになる。
85 カザマkadzama。本来はヤシ酒を入れる大型の瓢箪製の容器を指す。しかし「ヤギとカザマ mbuzi na kadzama」は、長老からアドバイスを受けるとか、他のクランの所有する土地に一時的に小屋を立てる許しを得る、父の呪詛(mufundo)の解除を願うなど、さまざまな機会に差し出す課金を表す表現になっており、もちろん文字通り(昔ながらのやり方で)本物のヤギとヤシ酒を差し出してもよいのだが、本物を出せという明確な指示がない限り、金銭に換算して支払われるのが普通である。カヤンバ奏者たちが要求する際には、わざわざ酒のカザマ2つとお金のカザマ2つなどという形で要求する。いくらになるかは交渉次第だが、お金のカザマに関しては私の調査期間中は20シリングと相場が決まっていた。当然酒の方が高くつく。
86 弟子になるものが4シリングを施術師の袋(mukoba)に入れるのは、たしかに行われていたが、反対に施術師が弟子になる者にヤギとカザマを与える、というのは現在は、実際には行われていないように思える。カザマ20シリングのやり取りはあるかもしれない。
87 ムゼワミジ(muzee wa miji)。スワヒリ語であるが、ドゥルマ語のmutumia wa midziをスワヒリ語に逐語訳したもの。政府の正式な職員ではないが、行政村よりも下の複数の屋敷を含む近隣集団(lalo)を代表する長老で、チーフやサブチーフからの伝達事項を各屋敷に伝えたり、近隣集団内での紛争を解決する寄り合いを主宰する。
88 ムルング(mulungu)。ムルングはドゥルマにおける至高神で、雨をコントロールする。憑依霊のムァナムルング(mwanamulungu)82との関係は人によって曖昧。憑依霊につく「子供」mwanaという言葉は、内陸系の憑依霊につける敬称という意味合いも強い。一方憑依霊のムルングは至高神ムルング(女性だとされている)の子供だと主張されることもある。私はムァナムルング(mwanamulungu)については「ムルング子神」という訳語を用いる。しかし単にムルング(mulungu)で憑依霊のムァナムルングを指す言い方も普通に見られる。このあたりのことについては、ドゥルマの(特定の人による理論ではなく)慣用を尊重して、あえて曖昧にとどめておきたい。
89 ムァラブ(mwarabu)。憑依霊アラブ人、単にp'ep'oと言うこともある。ムルングに次ぐ高位の憑依霊。ムルングが池系(maziyani)の憑依霊全体の長である(ndiye mubomu wa a maziyani osi)のに対し、アラブ人はイスラム系の憑依霊全体の長(ndiye mubomu wa p'ep'o a chidzomba osi)。ディゴ地域ではカヤンバ儀礼はアラブ人の歌から始まる。ドゥルマ地域では通常はムルングの歌から始まる。縁飾り(mitse)付きの白い布(kashida)と杖(mkpwaju)、襟元に赤い布を縫い付けた白いカンズ(moyo wa tsimba)を要求。rohaniは女性のアラブ人だと言われる。症状:全身瘙痒、掻きむしってchironda(傷跡、ケロイド、瘡蓋)
90 ゴロモクヮ(ku-golomokpwa)。動詞ク・ゴロモクヮ(ku-golomokpwa)は、憑依霊が表に出てきて、人が憑依霊として行為すること、またその状態になることを意味する。受動形のみで用いるが、ku-gondomola(人を怒らせてしまうなど、人の表に出ない感情を、表にださせる行為をさす動詞)との関係も考えられる。憑依状態になるというが、その形はさまざま、体を揺らすだけとか、曲に合わせて踊るだけというものから、激しく転倒したり号泣したり、怒り出したりといった感情の激発をともなうもの、憑依霊になりきって施術師や周りの観客と会話をする者など。憑依の状態に入ること(あること)は、他にクカラ・テレ(ku-kala tele)「一杯になっている、酔っている」(その女性は満たされている(酔っている) muchetu yuyu u tele といった形で用いる)や、ク・ヴィナ(ku-vina)「踊る」(ンゴマやカヤンバのコンテクストで)や、ク・チェムカ(ku-chemuka)「煮え立っている」、ク・ディディムカ(ku-didimuka91)--これは憑依の初期の身体が小刻みに震える状態を特に指す--などの動詞でも語られる。
91 ク・ディディムカ(ku-didimuka)は、急激に起こる運動の初期動作(例えば鳥などがなにかに驚いて一斉に散らばる、木が一斉に芽吹く、憑依の初期の兆し)を意味する動詞。
92 ングオ(nguo)。「布」「衣服」の意味。さまざまな憑依霊は特有の自分の「布」を要求する。多くはカヤンバなどにおいてmuwele93として頭からかぶる一枚布であるが、憑依霊によっては特有の腰巻きや、イスラムの長衣(kanzu)のように固有の装束であったりする。
93 ムウェレ(muwele)。その特定のンゴマがその人のために開催される「患者」、その日のンゴマの言わば「主人公」のこと。彼/彼女を演奏者の輪の中心に座らせて、徹夜で演奏が繰り広げられる。主宰する癒し手(治療師、施術師 muganga)は、彼/彼女の治療上の父や母(baba/mayo wa chiganga)94であることが普通であるが、癒し手自身がムエレ(muwele)である場合、彼/彼女の治療上の子供(mwana wa chiganga)である癒し手が主宰する形をとることもある。
94 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。この4シリングはムコバ(mukoba77)に入れられ、施術師は患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者は、その癒やし手の「ムコバに入った」と言われる。こうした弟子は、男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi,pl.anamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji, pl.ateji)とも呼ばれる。これらの言葉を男女を問わず用いる人も多い。癒やし手(施術師)は、彼らの治療上の父(男性施術師の場合)95や母(女性施術師の場合)96ということになる。弟子たちは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。治療上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。治療上の子供は癒やし手に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る」という。
95 ババ(baba)は「父」。ババ・ワ・キガンガ(baba wa chiganga)は「治療上の(施術上の)父」という意味になる。所有格をともなう場合、例えば「彼の治療上の父」はabaye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」94を参照されたい。
96 マヨ(mayo)は「母」。マヨ・ワ・キガンガ(mayo wa chiganga)は「治療上の(施術上の)母」という意味になる。所有格を伴う場合、例えば「彼の治療上の母」はameye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」94を参照されたい。
97 ク・アユカ(kpwayuka)。「発狂する」と訳するが、憑依霊によって kpwayuka するのと、例えば服喪の規範を破る(ku-chira hanga 「服喪を追い越す」)ことによって kpwayuka するのとは、その内容に違いが認められている(後者は大声をあげまくる以外に、身体じゅうが痒くなってかきむしり続けるなどの振る舞いを特徴とする)。精神障害者を「きちがい」と不適切に呼ぶ日本語の用法があるが、その意味での「きちがい」に近い概念としてドゥルマ語では kukala na vitswa(文字通りには「複数の頭をもつ」)という言い方があるが、これとも区別されている。霊に憑依されている人を mutu wa vitswa(「きがちがった人」)とは決して言わない。憑依霊によってkpwayukaしている状態を、「満ちている kukala tele 」という言い方も普通にみられるが、これは酒で酩酊状態になっているという表現でもある(素面の状態を matso mafu 「固い目」というが、これも憑依霊と酒酔いのいずれでも用いる表現である)。もちろん憑依霊で満ちている状態と、単なる酒酔い状態とは区別されている。霊でkpwayukaした人の経験を聞くと、身体じゅうがヘビに這い回られているように感じる、頭の中が言葉でいっぱいになって叫びだしたくなる、じっとしていられなくなる、突然走り出してブッシュに駆け込み、時には数日帰ってこない。これら自体は、通常の vitswaにも見られるが、例えば憑依霊でkpwayukaした場合は、ブッシュに駆け込んで行方不明になっても憑依霊の草木を折り採って戻って来るといった違いがある。実際にはある人が示しているこうした行動をはっきりと憑依霊のせいかどうか区別するのは難しいが、憑依霊でkpwayukaした人であれば、やがては施術師の問いかけに憑依霊として応答するようになることで判別できる。「憑依霊を見る(kulola nyama)」のカヤンバなどで判断されることになる。
98 マレロ(marero pl.のみ)。ビーズ(ushanga)で作った装身具、特に施術師らが身につける装身具の総称。chisingu 頭部につけるもの、tungo(pl. matungo) 関節部につけるもの、mudimba 首から背中にかけてつけるもの、mudzele たすき掛けにつけるもの、など。
99 ブグブグ(bugubugu)、ブドウ科のまきヒゲのあるつる植物、シッサス。Cissus rotundifolia,Cissus sylvicola(Pakia&Cooke2003:394)
100 ムニェンゼ(munyenza)は一種の黒豆(black cowpea)の草本であるが、唱えごとのなかのkaziya kanyenze の意味とつながりがあるかどうかは不明。kanyenze(kaはdiminutive)は「小さい黒豆」kaziyaは「小さい池」ということになるのだが...
101 ムァナドゥガ(mwanaduga)。憑依霊の名前の最初につくmwanaは「子供」という意味だが、憑依霊に対する「敬称」のようなものであると思う。ムドゥガ(muduga)は、水辺に生える植物の一種。mwanaを付けて呼ばれているすべての憑依霊に対して、敬称mwanaをここでは「子神」と訳してみたが、どうもよくない。「童子」という語も考えたが、仏教臭いし。
102 クハツァ(ku-hatsa)。文脈に応じて「命名する kuhatsa dzina」、娘を未来の花婿に「与える kuhatsa mwana」、「祖霊の祝福を祈願する kuhatsa k'oma」、自分が無意識にかけたかもしれない「呪詛を解除する」、「カヤンバなどの開始を宣言する kuhatsa ngoma」などさまざまな意味をもつ。なんらかのより良い変化を作り出す言語行為を指す言葉と考えられる。憑依の文脈では、憑依霊を呼び出すンゴマ(カヤンバ)の場で、患者(ムウェレ(muwele93)がなかなか憑依状態に入らない(踊らない場合)があり、それが患者に対して心の中になにか怒り(ムフンド(mufundo103))をもっている親族(父母、夫など)がいるせいだとされることがある。その場合は、そうした怒りを感じている人に、その怒りの内容をすべて話し、唾液(あるいは口に含んだ水)を患者に対して吹きかけるという、呪詛の解除と同じ手続きがとられることがある。この行為もクハツァと呼ばれる。ンゴマやカヤンバにおいてムウェレが踊らない問題についてはリンク先を参照のこと。
103 ムフンド(mufundo)。フンド(fundo)は縄などの「結び目」であるが、心の「しこり」の意味でも用いられる。特に mufundo は人が自分の子供などの振る舞いに怒りを感じたときに心のなかに形成され、持ち主の意図とは無関係に、怒りの原因となった子供に災いをもたらす。唾液(あるいは口に含んだ水)を相手の胸(あるいは口中に)吹きかけることによって解消できる。この手続きをkuhatsa102と呼ぶ。知らず知らずのうちに形成されているmufundoを解消するためには、抱いたかもしれない怒りについて口に出し、水(唾液)を自分の胸に吹きかけて解消することもできる。本人も忘れている取るに足らないしこりが、例えばンゴマやカヤンバで患者が踊ることを妨げることがある。muweleがいつまでたっても憑依されないときには、kuhatsaの手続きがしばしば挿入される。