外に出すンゴマ((ngoma ya kulavya nze/konze)| カヤンバ(kayamba ra kulavya nze/konze))

「外に出す」とは何か

さまざまなンゴマ(カヤンバ)のうちでも、最も重要で大規模なものが「外に出す」ンゴマ(カヤンバ)であり、人はこのンゴマを打ってもらって、首尾よく終わることによって、施術師(癒やし手)になる。いわばその合否のかかった試験であり、就任儀礼でもある。

「外に出す(kulavya nze(konze))」という表現は、ドゥルマではやや両義的な比喩である。内と外という、観点に応じて相対的である二つの秩序の境界面における移動であり、例えば新生児とその母の、生後数日間、小屋の中での(寝台を使用しない地面の上での)隔離の後に、小屋の外に連れ出される手続きは「子供を外に出す」と呼ばれるし、同じように新婦が新郎の両親によって「産んでもらった」後に、新郎の小屋内部での隔離の後に、婚礼の日に屋敷や近隣の人々の前に連れ出される手続きも、「外に出す」手続きである。一方、購入した家畜などを屋敷の家畜の群れに加える前に、夫婦によってそれを「産み」、その後に夫婦のいずれかの浮気によって家畜の健康に被害が及ぶおそれを除去する目的で、「薬」によって家畜を守りつつ、それを「外に出す」手続きや、生まれた新生児が、夫婦のいずれかの婚外性交で危険にさらされた場合、今後そうしたことが起こらないよう新生児を(同様に「薬」の保護のもとで)「外に出し」てしまう手続きも、同じく「外に出す」という言葉で語られる[浜本 2001]。

ところでンゴマの「外に出す」だが、何をどこに出すというのだろう。何が「内」で何が「外」なんだろう。こんなところで、理屈っぽくなっても仕方ないのかもしれないが、気になる。「外に出す(ku-lavya nze)」の目的語には、人も憑依霊も来る。 「マリアカーニ(町の名前)(の施術師)。実際その人が私を外に出してくれた人なのよ。Mariakani. Hata ndiye yenilavya konze」(DB 963)、「私には医療上の私の子供がいるんだけど、彼女を外に出したんだよ。彼女に憑依霊ドゥルマ人とムルングを出したんだよ。Ta mimi nina mwanangu wa chiganga namlavya nze. Namulavya muduruma na mulungu.」(DB 5983)、「そこで私(患者の夫)は、彼女(患者)を外に出すンゴマを開いたのさ。(施術師は)ムルング一人だけを外に出した。Ndo nichipiga ngoma kumulavya nze. Achilavya mulungu hicheye.」、といった具合である。目的語は癒しの術かもしれない。「まずムルングを、その癒しの術を出すことから始めたわけさ。Nanza kulavya mulungu ugangawe.」(DB 3369)。憑依霊たちは主語になったりもする「どうして?皆さま方(憑依霊)は何を(間違ったことを)されたとおっしゃるのですか?皆さま方は今もって、この者を外にお出しになったわけではないのに。Kpwadze? Mwakoswani? Na yuno kamudzangbwe wakukala mwamulavya nze.」(DB 1004)もちろん、患者が主語の受動態でも。「私は生き続け、ついに憑依霊ドゥルマを出してもらいました。Nami nidzenderera hata nidzilaviwa nze muduruma. 」(DB 4460)あまりこだわるところではないのかもしれない。

ムウェレ muwele について

すでにンゴマの概要のなかで述べたように、占いではじめて憑依霊の病と診断される病は、通常は身体的な疾患で、それは憑依霊がなんらかの要求を患者に対してもっているために引き起こしたものだとされる。その要求に応えることが、その疾患への対処ということになる。きわめて乱暴に簡略化して言えば、それがいきなり「ンゴマを開け」という要求であることは、まったくないわけではないにせよ、まずない。普通は、煎じ薬1や護符5、鍋8や大皿(イスラム系の霊の場合10)くらいから始まる。憑依霊の数やその要求は、憑依霊の病につきあっているうちに次第にエスカレートしていくかもしれない。そしてついには徹夜のンゴマの要求に行き着くことになるかもしれない。そして、さらに稀なケースであるが、憑依霊の要求のエスカレートが、「仕事がほしい」という要求になることがある。憑依霊にとっての仕事とは「癒しの仕事 uganga」である。そしてそれは、その病人自身が「癒やし手(治療者、施術師)muganga」になることである。

憑依霊とはそもそも病気を引き起こす張本人である。その憑依霊が、その病気を治す仕事をしたいというのは、マッチポンブのようでなんだか理解に苦しむが、それが憑依霊たちの究極的な要求の形なのだ。「外に出す」ンゴマによって、病人は「外に出され」施術師になる。それは同時に、その病人にとり憑いていた憑依霊自身が「外に出される」ことでもある。実は憑依霊たちは、そうした形で自分たちが外に出ることを可能にする、そうした人間に「惚れ(kutsunuka)」とり憑いているのでは、という気すらする(最後は、私の個人的感想(解釈)です)。

どんな人が「外に出す」ンゴマを受けることになるのだろうか。実際には(私が聞き集めた範囲内では)、上で述べたような緩慢なエスカレートの結果「外に出す」ンゴマを受けることになったと語る施術師は少なかった。あるいはこうした面白みのない緩慢なプロセスについては忘れてしまっているのかもしれないが、重病だったというところから話が始まることが多い。重篤化が契機で「外に出す」ンゴマへと急加速するケースは、実際にはおそらくあるはずである。

身体的疾患からンゴマ開催へ、そこで初めて患者は解離を経験する。その解離の質・内容は人それぞれだ。ただ忘我状態で踊るだけや、失神・昏倒、さらに泣きじゃくったり、怒り狂ったりといった感情過多に始まり、何度もンゴマにおける解離(ムウェレ11としての、および他人のンゴマでの観客の一人としての)を経験した後の、あたかも別人格であるかのような憑依霊そのものの出現に至るまで。瓢箪から駒ではないが、単なる身体的症状から憑依霊の世界につながったとしても、この最後のケースのところまでエスカレートしたなら、出現してきた霊が執拗に「仕事」を要求するという形で「外に出す」ンゴマ開催へ至るという可能性もあるだろう。

私が話を聞いた施術師たちのすべてが、自分が「外に出す」ンゴマを受けるに至った経緯について、3つの理由(のどれか、あるいは二つ、あるいはすべて)を挙げている。第一は発狂(kpwayuka13、母に背負われていた赤ん坊の時にすでに発狂していた、みたいな)、第二は親族内の継承(死んだ祖先14が高名な施術師であった、みたいな)、第三はあらゆる治療を拒む病(誰もがこの人は死ぬだろうと思っていた、みたいな)である。実際には、これらの理由が後づけで、上記のようなエスカレートの結果であったという可能性もあるが、少なくとも、自分が施術師であることの必然、あるいは正当性が、この三つの理由に求められているとは言えるだろう。

多くの人が憑依霊による病気に苦しめられ、ンゴマまで受けることになるが、施術師になるのは限られた者だけで、有象無象は施術師にはなれないという点だけ、確認しておこう。 そんなわけで、占いで仮に「おまえは外に出されねばならない」と告げられたとしても、当人が「そんなばかな」とその占いを却下するようなことも起こるのだ。

私の近所にいるお婆さんで、近隣の噂話の宝庫であったムチェムンダさんは、憑依霊についても熱心(?)で、身体になにか不調があるとすぐに占いを打ちに行き、すすんで憑依霊の治療を受ける(妖術の治療の場合もあるが)、そんな人だった。あるとき私の小屋にたちよって妖術(ドゥアduaの妖術)の治療のために赤い雄鶏を用意しなくては、などとひとしきり話して帰った。なんでもこの妖術のせいで脚が痛いし、目もよく見えないんだとか。でもその妖術の治療が終わったら、再度、憑依霊の方に戻らなくっちゃと言う。もう一度よく見てもらわないとと。よく聞いてみると、なんでも占いで「外に出される」必要があると言われたというのだ。そんなのありえないと彼女は言う。だって「私は夢を見せられていないもの」。今まで一度も、施術的に意味のある情報を与える夢を見たことがないというのだ。「こんなふうに私は発狂したことがないのよ。」憑依霊によって「頭を揺すぶられ」、意味深い夢を見る、これは「発狂」の重要な一部である(Oct.14, 1992のフィールドノート、および日記より)。

この3つの理由について、詳しくは施術師の経歴について紹介する際に検討することにしたい。

実際に「外に出す」ンゴマで行われること

「外に出す」ンゴマを受けることによって、人は特定の憑依霊をもつ施術師となる。だが、たとえ自分にとり憑いて永い霊であっても、ただちにその憑依霊の施術師になれるわけではない。憑依霊の筆頭はムルング(ムルング子神 mwanamulungu)であるので、彼女(ムルングは女性である)が最初に出てこなければならない。施術師は、その最初の経歴を憑依霊ムルング子神の施術師となることから始める。ここではこの最初に「外に出す」ンゴマである、憑依霊ムルング子神の場合で、このンゴマの概要を説明したい。

ざっくり言うなら、「外に出す」ンゴマ(カヤンバ)も、徹夜でさまざまな憑依霊の歌を演奏し、ムウェレmuweleを踊らせる(憑依状態にする)という基本にはあまり違いはない。違いは、このンゴマには男と女の2名の施術師が必要であること(それぞれがムゥエレにとっての施術上の父と母ということになる)、このンゴマでムウェレに対してムルング子神の瓢箪子供(mwana wa ndonga)を授与すること、そしてムウェレに課せられる試練(試験 mutihaniという言葉もよく使われる)である。

瓢箪子供

  1. 瓢箪子供とは 瓢箪子供とは何か、については私が1992年に書いた論文『「子供」としての憑依霊 :ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼』に詳しい。ドゥルマ語に対する訳語にいくつか問題があるが(「呪医」は「施術師」に、「呪木(笑)」は「草木」に、「壺」は「鍋」に、など他にも読み替えるべきものがある)、分析そのものは現在でも妥当なものだと考えている。 簡単に言うと、それは瓢箪で作った子供である。乾燥した瓢箪の口を開き、中の種(「心、心臓 moyo pl. myoyo」)を取り出し、首(瓢箪のくびれたところ)にビーズ飾りを巻き、中に心臓(roho, moyo ムルングの場合、ムルングの草木の根で作った3種のパンデ4、施術師によっては鶏の心臓を入れる者もいる)、腸(uhumbo ムルングの草木を細かく砕いた香料3)、そして血(milatso ムルングの場合はヒマの油15)を入れる。 出来上がった瓢箪子供は、ムルングの子供であると同時に、ムウェレの子供として、「外に出す」ンゴマの終わり近くにムウェレに授けられる。ムルングに憑依されたムウェレ=ムルングであるので、ムルングの子供であり同時にムウェレの子供である事態がそこでは現実化している。

  2. 瓢箪子供の作成 瓢箪子供はンゴマに先立って作っておくことはできない。ンゴマが開かれる日の午後、ムウェレ夫婦によって口を開かれた瓢箪は、女性施術師とアテジ(ateji16)たちによって、首にビーズが巻かれる。この作業は歌を歌いながら行う。あまり丁寧にのんびりやっておられるので、ンゴマの開始が遅れるのではないかとハラハラするが、実際ンゴマの開始は大幅に遅れる。(施術師によっては、ここまではンゴマに先立って自分でやってしまう人もいる。それじゃあ駄目、という施術師も多いのだが。) [ムルングの瓢箪子供。ムルングが「外に出される」際に、憑依霊サンバラ人(musambala17)も一緒に出されることになっている。ビーズ飾りの赤と白のラインが憑依霊サンバラ人を表している。憑依霊サンバラ人は占いを担当する霊でつねにムルングと瓢箪を共有する。] 瓢箪の中に入れる「心臓」と「腸」になる草木は、ムウェレの母系親族(通常ムウェレの母の兄弟)とムウェレの父(あるいはその他の父系親族)によって、前もってそれぞれ用意されている。前者は「母系クランの草木 mihi ya kuche」、後者は「父系クランの草木 mihi ya kulume」と呼ばれる。草木はムルングの草木で、ムヴモ(muvumo18)、ムヴンザコンド(muvunzakondo21)、ムジョンゴロ(mujongolo, 別名 mutserere22)などである。ムウェレの母の兄弟も、父も、それぞれ主宰する施術師から指示されたとおりに、クハツァ(kuhatsa23)の唱えごとの後、所定の草木を折り、根を掘り出すなどして、施術師に渡す。そして施術師から、4シリングを受け取る。草木はそれぞれ一種類ずつでよく、また、同じ日に一緒に採取する必要もない。父系クランの草木と母系クランの草木の一部は、ンゴマに先立つ4日間の「鍋 nyungu」にも加えられる24 父系クランの草木と母系クランの草木の根はそれぞれパンデ4に整形され、残りの部分は細く削り取られて粗い粉末にされている。 ンゴマが始まる前に、瓢箪子供の「心臓(母系クランの草木、父系クランの草木それぞれのパンデ)」は施術師の指示に従って、ムウェレ夫婦によって瓢箪のなかに入れられる。(これも施術師によっては、自分でやってしまう人もいる。それじゃあ駄目、という施術師も多いのだが) ンゴマが始まると、しばらくして主宰する男女2名の施術師はンゴマの管理を、アナマジ、アテジたちに任せ、小屋に引っ込む。瓢箪子供を完成させるためである。二人は、母系クランの草木と父系クランの草木の粉末に加え、自分たちがもってきたムルングの他の草木で作った香料(mavumba3)を瓢箪子供の「腸」として入れ、ヒマの油(ムルングの瓢箪子供の場合)を瓢箪子供の「血」として加え、完成した瓢箪子供を乳香で燻しつつ唱えごと、その後、瓢箪の口にムルングの「黒い(実際には紺色の)」布切れを栓がわりに詰める。

  3. 瓢箪子供を隠す 瓢箪子供が完成すると、二人の施術師はンゴマの場に戻って、ンゴマを主宰する。明け方近くになって、施術師の一人はこっそりンゴマを抜け出し、誰にも見られないように瓢箪をもって近くのブッシュに隠しに行く。隠し場所は彼(あるいは彼女)以外、誰も知らない。 こうしてムウェレに対する最初のテストの準備完了である。 夜が明けると、ムウェレを囲んで再びムルングの歌が演奏され、憑依霊に充たされたムウェレは瓢箪子供を探しに行くよう言われ、キザ(chiza)の薬液(vuo)を頭から浴びて踊りながら、カヤンバ演奏者を引き連れて出発する。瓢箪子供を隠した施術師は同行せず屋敷に残る。もう一人の施術師はムウェレの少し後ろを行きながら、早く見つけろと急き立てつつ、首尾を見届ける。 瓢箪子供の在処は、憑依霊ムルングがちゃんと教えてくれるはずだという。瓢箪子供のなかの香料の香りが鼻のあたりにたちこめてくるのでわかるそうだ。
    [隠された瓢箪子供を見つけ出し、嬉しそうに抱いて帰るムウェレ] みごとに見つけて出して帰ってくると、ムウェレは瓢箪子供をキザの薬液で洗ってやり、ムルングの黒い布(負ぶい布)に包んで抱いて踊る。最初のテストに合格したわけである。

このテストは、ムルングを出す最初のンゴマでのみ行われる。それ以降の、他の憑依霊を出すンゴマでは行われない。

またこのテストに落ちても施術師にはなれるという施術師もいるが、異論もある。

第二のテスト

見つけ出した瓢箪子供を抱えてひとしきり踊った後に、ムウェレは今度はブッシュへ行って草木を採ってくるように言われる。ムウェレが出発すると、カヤンバ隊が続き、少し遅れて2人の施術師が、ヤシ酒とそれを注ぐ瓢箪を持ち、黒い鶏、白い鶏、黒いヤギ(ムルングの場合)を連れて続く。 ここでもムウェレは独力で草木を見つけ出さねばならない。ムウェレが重要な草木を見つけてそれを折り採ると、2人の施術師は地面にヤシ酒をたらし鶏の羽をむしりつつ、この草木をムウェレに与える旨唱えごとする。白い鶏は憑依霊サンバラ人の草木のための鶏で、黒い鶏は憑依霊ムルングの草木のための鶏である。黒いヤギは憑依霊ムルングの最も重要な草木に対するものである。鶏2羽は殺さずに持ち帰り、ムウェレの屋敷で飼い育てられる。憑依霊に捧げられた鶏なので、殺して食べたりはできない。ただ繁殖させる。 ムウェレが最も重要なムルングの草木(「最後の草木 muhi wa mwisho」と呼ばれる)をみごとに見つけると、2人の施術師は再び唱えごとをし、黒いヤギを供犠し、その血を瓢箪子供にかける。この黒ヤギは屋敷に戻るとすぐに、皮膚の痙攣している部分(choyo)を少し切り取って、瓢箪子供の中に入れる(それをしない施術師もいる)。

第三のテスト

首尾よく二つのテストに合格したムウェレは最後に占い(mburuga)の力を証明せねばならない。 ムウェレを再び座らせ、ムルングの歌を打つ。ムウェレの前に2人の人が進み出て、小銭をムウェレの前の編み袋(ムコバ mukoba25)の中に入れる。ムウェレは一切のヒントを与えられないまま、誰が病人で、どのような病気に苦しんでいるのかを言い当てねばならないとされている。

以上が、「外に出す」ンゴマにおいて何が行われるかについて、施術師たちが与えてくれる説明の概要である。 これだけ聞くと、施術師になるのはめちゃめちゃ大変そうである。

ンゴマ終了後

さて、ンゴマ本体はこれで終了となるのだが、その後でするべきことがいくつかある。

瓢箪子供を「産む」

まず第一に、授けられた瓢箪子供は、ムウェレの子供としてきちんと「産」んでやらねばならない。これは出産祈願の瓢箪子供についても同様である。

しかし「外に出す」ンゴマによって施術師になる者にとっては、この「産む」手続きにおいて間違いが起こると、それ以降の活動においても致命的になる。

「外に出す」ンゴマで瓢箪子供を与えられた者は、その日の宵に夫婦で(もし独身の場合は、ムニャジがそうしたように、金で雇った誰かを相手に)マトゥミア(matumia[^matumia])と呼ばれる無言の(厳密には寝台は使わず地面の上で、手も使わず、一回切り行う)性交を行なって、自分の瓢箪子供を「産」まなければならない。それが終わるまでは、ンゴマを主宰した施術者も、彼(または彼女)のアナマジ(anamadzi16)たちも性交渉を行なってはならない。瓢箪子供の持ち主のマトゥミアが済んだと告げられた後に、施術師が、そして次いでそのアナマジたちの性行為が解禁されていく。

万一、持ち主より先に施術師やアナマジが性行為を行なってしまうと、瓢箪子供は「追い越され」てしまい、もはや持ち主の子供ではないと言われる。それは文字通り壊れてしまう(割れてしまう)かもしれないし、そうでなくとも、その持ち主が癒やしの術を行えなくしてしまう(癒やしの術が「封じられた(wafungbwa)」とか「殺された(waolagbwa)」といった言い方で語られる)。

瓢箪子供の作成が長引いてしまうと、その危険が増すというので、瓢箪子供の作成は(それを入れるムコバ袋25の作成なども含めて)ンゴマの当日から、翌朝の瓢箪子供を受け取る時間までに全てなされねばならないとされている。とりわけ瓢箪の口が穿たれたときから瓢箪子供が追い越される危険が始めるとされ、それ以降の作成すべてがその日のうちになされねばならない。「外に出す」ンゴマがたくさんの作業で慌ただしいのはそのため。この慌ただしさを軽減するためか、ンゴマの前に瓢箪子供を完成させておくとか、ンゴマが終わったあとで施術師が持ち帰って、ゆっくり完成させるとかの手段に訴える施術師もいるが、それを「追い越し」の危険が増すとの理由で、強く拒絶する意見もある。

施術師の実地研修

ンゴマ終了後、新たに施術師の道を歩み始めた者は、ンゴマを主宰した施術師による実地教育を受ける。といっても一日だけの研修。

ンゴマを主宰した施術師は、ンゴマを受けた弟子をともないブッシュに行き、そこで「外に出された」憑依霊の草木を、ひとつひとつ示し、その使用法、加工法などを教える。これは憑依状態でではなく、言わば素面の状態でなされる。

  1. トゥシェに草木を示す

また弟子は、施術上の父や母の施術を手伝い、ときにはンゴマの差配を任されたりして、実地に癒やしの術の訓練を受ける。施術上の父や母の治療を依頼されることもある。完全に独り立ちの施術師として活動する以前に、こうした見習いの期間が続く。

  1. トゥシェ、施術上の母のために世界導師の「鍋」を据える

瓢箪子供と生きる

施術師として生きることは、彼(または彼女)が所有する数々の瓢箪子供たちと生きていくということである。これらは単なる瓢箪ではない。今やその施術師の「子供」となった憑依霊たちでもある。

瓢箪子供のなかの薬と香料、ヒマの油は切れないように注意し、ときおり注ぎ足してやらねばならない。中身のどれかが切れると瓢箪子供は「死んで」しまうかもしれない。夫婦のいずれかが浮気(婚外の性交渉)をもつと、瓢箪子供は泣き(その口からその内容物が自然に溢れ出る!)、場合によっては割れ壊れてしまう。瓢箪子供も、通常の人の子供と同様、所有者の浮気でキルワ(chirwa26)にとらえられる。

というわけで、瓢箪子供を授けられた夫婦は、その後、一切の婚外性交を禁止されてしまうことになる。

これ以外の原因でも万一、瓢箪子供が壊れると、再び「外に出す」ンゴマを開いて、その憑依霊についてすべてをやり直さねばならない。さもないとその施術師の癒やしの術(uganga)がすべて封じられてしまい、彼(または彼女)はただの病人に逆戻りしてしまう。

瓢箪子供との付き合いは、さまざまな制約の他に、物わかりの悪い、でもすごくパワフルで獰猛な子供たちと付き合うことでもある。チャリの説明にもあるように、ちょっと外出して帰りが遅くなるときなどは、いちいち瓢箪子供に告げて行かねばならない。さもないと瓢箪子供は、自分が嫌われ見捨てられたと思って「泣く」。最悪、壊れてしまうかもしれない。その他、夫が新しい妻を迎えるなどの際も、瓢箪子供に関係の変化を理解してもらうために、よく言い聞かせる必要がある。施術によって得た報酬はムコバ(mukoba25)のなかに収めて、みだりに使用してはならない。どうしても生計の足しになど、施術外の目的で使わねばならない際には、憑依霊にちゃんと説明し許しを乞うてから持ち出さねばならない。身内に死なれて悲しんでいるときにも、憑依霊にお前が嫌いになって悲しんでいるのではないとわからせるために、特別のンゴマを開いてやらねばならない。モンバサのような大都会に出るときには、憑依霊が自動車や町の光にびっくりして施術師を病気にしないように、よく言い聞かせねばならない。憑依霊との関係を続けることは、厄介で怒りっぽく、面倒な憑依霊との関係の中で、こうしたさまざまな制約を被りつつ、施術という仕事を続けていく生活を受け入れるということでもある。

「外に出す」ンゴマの事例

  1. ムニャジを「外に出す」ンゴマ

私が初めて見たムルングを外に出すンゴマ(太鼓中心+カヤンバ併用)

  1. メムァカを「外に出す」ンゴマ

私が二度目に見た、同じ施術師による、ムルングを外に出すンゴマ(カヤンバによる)

  1. トゥシェ(ウマジ)を「外に出す」ンゴマ

ンゴマに先立つ鍋治療から、ンゴマ開催後の「施術師教育」、施術師としての実践までカバーできた事例(太鼓中心、途中からカヤンバに移行) トゥシェを施術師にするまで」も参照のこと

注釈


1 ムヒ(muhi、複数形は mihi)。治療に用いる草木。憑依霊の治療においては霊ごとに異なる草木の組み合わせがあるが、大きく分けてイスラム系の憑依霊に対する「海岸部の草木」(mihi ya pwani(pl.)/ muhi wa pwani(sing.))、内陸部の憑依霊に対する「内陸部の草木」(mihi ya bara(pl.)/muhi wa bara(sing.))に大別される。冷やしの施術や、妖術の施術2においても固有の草木が用いられる。muhiはさまざまな形で用いられる。搗き砕いて香料(mavumba3)の成分に、根や木部は切り彫ってパンデ(pande4)に、根や枝は煎じて飲み薬(muhi wa kunwa, muhi wa kujita)に、葉は水の中で揉んで薬液(vuo)に、また鍋の中で煮て蒸気を浴びる鍋(nyungu8)治療に、土器片の上で炒ってすりつぶし黒い粉状の薬(muhaso, mureya)に、など。
2 癒やしの術、治療術、施術などという訳語を当てている。病気やその他の災に対処する技術。さまざまな種類の術があるが、大別すると3つに分けられる。(1)冷やしの施術(uganga wa kuphoza): 安心安全に生を営んでいくうえで従わねばならないさまざまなやり方・きまり(人々はドゥルマのやり方chidurumaと呼ぶ)を犯した結果生じる秩序の乱れや災厄、あるいは外的な事故がもたらす秩序の乱れを「冷やし」修正する術。(2)薬の施術(uganga wa muhaso): 妖術使い(さまざまな薬を使役して他人に不幸や危害をもたらす者)によって引き起こされた病気や災厄に対処する、妖術使い同様に薬の使役に通暁した専門家たちが提供する術。(3)憑依霊の施術(uganga wa nyama): 憑依霊によって引き起こされるさまざまな病気に対処し、憑依霊と交渉し患者と憑依霊の関係を取り持ち、再構築し、安定させる癒やしの術。
3 香料。憑依霊の種類ごとに異なる。乾燥した草木や樹皮、根を搗き砕いて細かくした、あるいは粉状にしたもの。イスラム系の霊に用いられるものは、スパイスショップでピラウ・ミックスとして購入可能な香辛料ミックス。
4 複数mapande、草木の幹、枝、根などを削って作る護符5。穴を開けてそこに紐を通し、それで手首、腰、足首など付ける箇所に結びつける。
5 「護符」。憑依霊の施術師が、憑依霊によってトラブルに見舞われている人に、処方するもので、患者がそれを身につけていることで、苦しみから解放されるもの。あるいはそれを予防することができるもの。ンガタ(ngata6)、パンデ(pande4)、ピング(pingu7)など、さまざまな種類がある。憑依霊ごとに(あるいは憑依霊のグループごとに)固有のものがある。勘違いしやすいのは、それを例えば憑依霊除けのお守りのようなものと考えてしまうことである。施術師たちは、これらを憑依霊に対して差し出される椅子(chihi)だと呼ぶ。憑依霊は、自分たちが気に入った者のところにやって来るのだが、椅子がないと、その者の身体の各部にそのまま腰を下ろしてしまう。すると患者は身体的苦痛その他に苦しむことになる。そこで椅子を用意しておいてやれば、やってきた憑依霊はその椅子に座るので、患者が苦しむことはなくなる、という理屈なのである。「護符」という訳語は、それゆえあまり適切ではないのだが、それに代わる適当な言葉がないので、とりあえず使い続けることにするが、霊を寄せ付けないためのお守りのようなものと勘違いしないように。
6 護符5の一種。布製の長方形の袋状で、中に薬(muhaso),香料(mavumba),小さな紙に描いた憑依霊の絵などが入れてあり、紐で腕などに巻くもの、あるいは帯状の布のなかに薬などを入れてひねって包み、そのまま腕などに巻くものなど、さまざまなものがある。
7 薬(muhaso:さまざまな草木由来の粉)を布で包み、それを糸でぐるぐる巻きに球状に縫い固めた護符5の一種。
8 nyunguとは土器製の壺のような形をした鍋で、かつては煮炊きに用いられていた。このnyunguに草木(mihi)その他を詰め、火にかけて沸騰させ、この鍋を脚の間において座り、すっぽり大きな布で頭から覆い、鍋の蒸気を浴びる(kudzifukiza; kochwa)。それが終わると、キザchiza9、あるいはziya(池)のなかの薬液(vuo)を浴びる(koga)。憑依霊治療の一環の一種のサウナ的蒸気浴び治療であるが、患者に対してなされる治療というよりも、患者に憑いている霊に対して提供されるサービスだという側面が強い。概略はhttps://www.mihamamoto.com/research/mijikenda/durumatxt/pot-treatment.htmlを参照のこと
9 憑依霊のための草木(muhi主に葉)を細かくちぎり、水の中で揉みしだいたもの(vuo=薬液)を容器に入れたもの。患者はそれをすすったり浴びたりする。憑依霊による病気の治療の一環。室内に置くものは小屋のキザ(chiza cha nyumbani)、屋外に置くものは外のキザ(chiza cha konze)と呼ばれる。容器としては取っ手のないアルミの鍋(sfuria)が用いられることも多いが、外のキザには搗き臼(chinu)が用いられることが普通である。屋外に置かれたものは「池」(ziya)とも呼ばれる。しばしば鍋治療(nyungu)とセットで設置される。
10 コンベ(kombe)は「大皿」を意味するスワヒリ語。kombe はドゥルマではイスラム系の憑依霊の治療のひとつである。陶器、磁器の大皿にサフランをローズウォーターで溶いたもので字や絵を描く。描かれるのは「コーランの章句」だとされるアラビア文字風のなにか、モスクや月や星の絵などである。描き終わると、それはローズウォーターで洗われ、瓶に詰められる。一つは甘いバラシロップ(Sharbat Roseという商品名で売られているもの)を加えて、少しずつ水で薄めて飲む。これが「飲む大皿 kombe ra kunwa」である。もうひとつはバケツの水に加えて、それで沐浴する。これが「浴びる大皿 kombe ra koga」である。文字や図像を飲み、浴びることに病気治療の効果があると考えられているようだ。
11 その特定のンゴマがその人のために開催される「患者」、その日のンゴマの言わば「主人公」のこと。彼/彼女を演奏者の輪の中心に座らせて、徹夜で演奏が繰り広げられる。主宰する癒し手(治療師、施術師 muganga)は、彼/彼女の治療上の父や母(baba/mayo wa chiganga)12であることが普通であるが、癒し手自身がムエレ(muwele)である場合、彼/彼女の治療上の子供(mwana wa chiganga)である癒し手が主宰する形をとることもある。
12 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji)とも呼ばれる。彼らは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。
13 「発狂する」と訳するが、憑依霊によって kpwayuka するのと、例えば服喪の規範を破る(ku-chira hanga 「服喪を追い越す」)ことによって kpwayuka するのとは、その内容に違いが認められている(後者は大声をあげまくる以外に、身体じゅうが痒くなってかきむしり続けるなどの振る舞いを特徴とする)。精神障害者を「きちがい」と不適切に呼ぶ日本語の用法があるが、その意味での「きちがい」に近い概念としてドゥルマ語では kukala na vitswa(文字通りには「複数の頭をもつ」)という言い方があるが、これとも区別されている。霊に憑依されている人を mutu wa vitswa(「きがちがった人」)とは決して言わない。憑依霊によってkpwayukaしている状態を、「満ちている kukala tele 」という言い方も普通にみられるが、これは酒で酩酊状態になっているという表現でもある(素面の状態を mtso mafu 「固い目」というが、これも憑依霊と酒酔いのいずれでも用いる表現である)。もちろん憑依霊で満ちている状態と、単なる酒酔い状態とは区別されている。霊でkpwayukaした人の経験を聞くと、身体じゅうがヘビに這い回られているように感じる、頭の中が言葉でいっぱいになって叫びだしたくなる、じっとしていられなくなる、突然走り出してブッシュに駆け込み、時には数日帰ってこない。これら自体は、通常の vitswaにも見られるが、例えば憑依霊でkpwayukaした場合は、ブッシュに駆け込んで行方不明になっても憑依霊の草木を折り採って戻って来るといった違いがある。実際にはある人が示しているこうした行動をはっきりと憑依霊のせいかどうか区別するのは難しいが、憑依霊でkpwayukaした人であれば、やがては施術師の問いかけに憑依霊として応答するようになることで判別できる。「憑依霊を見る(kulola nyama)」のカヤンバなどで判断されることになる。
14 コマ(k'oma)。「祖霊」。祖霊は夢に現れてさまざまなメッセージを子孫に伝える。子供を残した者のみが死後、祖霊になる。k'omaという言葉は「夢」ndoso の同義語でもある。
15 ヒマ(mbono, mubono)の実、そこからヒマの油(mafuha ga nyono)を抽出する。さまざまな施術に使われるが、ヒマの油は閉経期を過ぎた女性によって抽出されねばならない。
16 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji)とも呼ばれる。彼らは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。
17 憑依霊の一種、サンバラ人、タンザニアの民族集団の一つ、ムルングと同時に「外に出され」、ムルングと同じ瓢箪子供を共有。瓢箪の首のビーズ、赤はムサンバラのもの。占いを担当。赤い(茶色)犬。
18 ムヴモ(muvumo)。ハマクサギ属の木。Premna chrysoclada(Pakia&Cooke2003:394)。その名称は動詞 ku-vuma 「(吹きすさぶ風の音、ハチの羽音や動物の唸り声、機械の連続音のように継続的に)唸り轟く」より。ムルングの鍋にもちいる草木。ムルングの草木。ニューニ19と呼ばれる霊(上の霊)のグループの霊が引き起こす、子どもの引きつけや病気の治療、妖術によって引き起こされる妊娠中の女性の病気ニョンゴー(nyongoo20の治療にも用いられる。
19 キツツキ。道を進んでいるとき、この鳥が前後左右のどちらで鳴くかによって、その旅の吉凶を占う。ここから吉凶全般をnyuniという言葉で表現する。(行く手で鳴く場合;nyuni wa kumakpwa 驚きあきれることがある、右手で鳴く場合;nyuni wa nguvu 食事には困らない、左手で鳴く場合;nyuni wa kureja 交渉が成功し幸運を手に入れる、後で鳴く場合;nyuni wa kusagala 遅延や引き止められる、nyuni が屋敷内で鳴けば来客がある徴)。またnyuniは「上の霊 nyama wa dzulu」と総称される鳥の憑依霊、およびそれが引き起こす子供の引きつけを含む様々な病気の総称(ukongo wa nyuni)としても用いられる。(nyuniの病気には多くの種類がある。施術師によってその分類は異なるが、例えば nyuni wa joka:子供は泣いてばかり、wa nyagu(別名 mwasaga, wa chiraphai):手脚を痙攣させる、その他wa zuni、wa chilui、wa nyaa、wa kudusa、wa chidundumo、wa mwaha、wa kpwambalu、wa chifuro、wa kamasi、wa chip'ala、wa kajura、wa kabarale、wa kakpwang'aなど。nyuniの種類と治療法だけで論文が一本書けてしまうだろうが、おそらくそんな時間はない。)
20 妊娠中の女性がかかる、浮腫み、貧血、出血などを主症状とする病気。妖術によってかかるとされる。さまざまな種類がある。nyongoo ya mulala: mulala(椰子の一種)のようにまっすぐ硬直することから。nyongoo ya mugomba: mugomba(バナナ)実をつけるときに膨れ上がることから。nyongoo ya nundu: nundu(こうもり)のようにkuzyondoha(尻で後退りする)し不安で夜どおし眠れない。nyongoo ya dundiza: 腹部膨満。nyongoo ya mwamberya(ツバメ): 気が狂ったようになる。nyongoo chizuka: 土のような膚になる、chizuka(土人形)を治療に用いる。nyongoo ya nyani: nyani(ヒヒ)のような声で泣きわめき、ヒヒのように振る舞う。nyongoo ya diya(イヌ): できものが体内から陰部にまででき、陰部が悪臭をもつ、腸が腐って切れ切れになる。nyongoo ya mbulu: オオトカゲのようにざらざらの膚になる。nyongoo ya gude(ドバト): 意識を失って死んだようになる。nyongoo ya nyoka(蛇): 陰部が蛇(コブラ)の頭のように膨満する。nyongoo ya chitema: 関節部が激しく痛む、背骨が痛む、動詞ku-tema「切る」より。nyongooの種類とその治療で論文一本書けるほどだが、そんな時間はない。
21 ムクロジ属(soapberry)の木、Allophylus rubifolius、ムルングの鍋の成分、その名称は ku-vunza kondo 「争いごとを壊す=争いをなくす」より。
22 ムツェレレ(mutserere)、別名ムジョンゴロ(mujongolo)。Hoslundia opposita(Pakia&Cooke2003:391)、ムルングの草木、冷やしの施術(uganga wa kuphoza)においても、ニョンゴー(nyongoo20)という妊娠中の女性の病気(妖術によってかかるとされている)の治療、子供の引きつけ(nyuni19と総称されるnyama wa dzulu「上の憑依霊」によって引き起こされる)の治療など、様々な治療に用いられる。
23 クハツァ(ku-hatsa)。文脈に応じて「命名する kuhatsa dzina」、娘を未来の花婿に「与える kuhatsa mwana」、「祖霊の祝福を祈願する kuhatsa k'oma」、自分が無意識にかけたかもしれない「呪詛を解除する」、「カヤンバなどの開始を宣言する kuhatsa ngoma」などさまざまな意味をもつ。なんらかのより良い変化を作り出す言語行為を指す言葉と考えられる。
24 瓢箪子供の心臓その他についての手続きの詳細は、施術師ごとにさまざまである。大きく鶏の心臓を用いる派と、草木を用いる派に分かれているようだ。草木を用いる派でも手続きの詳細はけっこう異なる。ここではChari wa Malauのやり方を示している。草木派のチャリとムリナは、鶏の心臓を用いることに独特の理由から猛反対している。
25 ムコバ(mukoba)。持ち手、あるいは肩から掛ける紐のついた編み袋。サイザル麻などで編まれたものが多い。憑依霊の癒しの術(uganga)では、mugangaがその瓢箪や草木を入れて運んだり、瓢箪を保管したりするのに用いられるが、癒しの仕事を集約する象徴的な意味をもっている。自分の祖先のugangaを受け継ぐことをmukobaを受け継ぐという言い方で語る。
26 キルワ(chirwa)。動詞ク・キラ(ku-chira)「追い越す、凌駕する」より。典型的には、妻が妊娠中あるいは出産後に、夫あるいは妻が、妻や夫以外の相手と性関係をもつ(これは「外で寝る(ku-lala konze)」と表現される)ことによって、生まれてきた子供が陥る状態のこと。購入した家畜についても、夫や妻の浮気によってキルワになるとされている。詳しくは〔浜本満,2001,『秩序の方法: ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り』弘文堂、第9章,第10章〕参照のこと。憑依の文脈では、施術師のもつ瓢箪子供(mwana wa ndonga27)が、施術師本人やその配偶者の浮気によって陥る状態が、とりわけ問題になる。
27 瓢箪(chirenje)で作った子供。瓢箪子供には2種類あり、ひとつは施術師が特定の憑依霊(とその仲間)の癒やしの術(uganga)をとりおこなえる施術師に就任する際に、施術上の父と母から授けられるもので、それは彼(彼女)の施術の力の源泉となる大切な存在(彼/彼女の占いや治療行為を助ける憑依霊はこの瓢箪の姿をとった彼/彼女にとっての「子供」とされる)である。一方、こうした施術師の所持する瓢箪子供とは別に、不妊に悩む女性に授けられるチェレコchereko(ku-ereka 「赤ん坊を背負う」より)とも呼ばれる瓢箪子供28がある。
28 不妊の女性に与えられる瓢箪子供27。子供がなかなかできない(あるいは第二子以降がなかなか生まれないなども含む)原因は、しばしば自分の子供がほしいムルング子神29がその女性の出産力に嫉妬して、その女性の妊娠を阻んでいるためとされる。ムルング子神の瓢箪子供を夫婦に授けることで、妻は再び妊娠すると考えられている。まだ一切の加工がされていない瓢箪(chirenje)を「鍋」とともにムルングに示し、妊娠・出産を祈願する。授けられた瓢箪は夫婦の寝台の下に置かれる。やがて妻に子供が生まれると、徹夜のカヤンバを開催し施術師はその瓢箪の口を開け、くびれた部分にビーズ ushangaの紐を結び、中身を取り出す。夫婦は二人でその瓢箪に心臓(ムルングの草木を削って作った木片mapande4)、内蔵(ムルングの草木を砕いて作った香料3)、血(ヒマ油15)を入れて「瓢箪子供」にする。徹夜のカヤンバが夜明け前にクライマックスになると、瓢箪子供をムルング子神(に憑依された妻)に与える。以後、瓢箪子供は夜は夫婦の寝台の上に置かれ、昼は生まれた赤ん坊の背負い布の端に結び付けられて、生まれてきた赤ん坊の成長を守る。瓢箪子どもの血と内臓は、切らさないようにその都度、補っていかねばならない。夫婦の一方が万一浮気をすると瓢箪子供は泣き、壊れてしまうかもしれない。チェレコを授ける儀礼手続きの詳細は、浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22を参照されたい。
29 憑依霊の名前の前につける"mwana"には敬称的な意味があると私は考えている。しかし至高神ムルング(mulungu)と憑依霊のムルング(mwanamulungu)の関係については、施術師によって意見が分かれることがある。多くの人は両者を同一とみなしているが、天にいるムルング(女性)が地上に落とした彼女の子供(女性)だとして、区別する者もいる。いずれにしても憑依霊ムルングが、すべての憑依霊の筆頭であるという点では意見が一致している。憑依霊ムルングも他の憑依霊と同様に、自分の要求を伝えるために、自分が惚れた(あるいは目をつけた kutsunuka)人を病気にする。その症状は身体全体にわたるが、人々が発狂(kpwayuka)と呼ぶある種の精神状態が代表である。また女性の妊娠を妨げるのも憑依霊ムルングの特徴の一つである。その要求は、単に布(nguo ya mulungu と呼ばれる黒い布 nguo nyiru (実際には紺色))であったり、ムルングの草木を水の中で揉みしだいた薬液を浴びることであったり(chiza9)、ムルングの草木を鍋に詰め少量の水を加えて沸騰させ、その湯気を浴びること(「鍋nyungu」)であったりする。さらにムルングは自分自身の子供を要求することもある。それは瓢箪で作られ、瓢箪子供と呼ばれる27。女性の不妊はしばしばムルングのこの要求のせいであるとされ、瓢箪子供をムルングに差し出すことで妊娠が可能になると考えられている28。この瓢箪子供は女性の子供と一緒に背負い布に結ばれ、背中の赤ん坊の健康を守り、さらなる妊娠を可能にしてくれる。しかしムルングの究極の要求は、患者自身が施術師になることである。ここでも瓢箪子供としてムルングは施術師の「子供」となり、彼あるいは彼女の癒やしの術を助ける。もちろん、さまざまな憑依霊が、癒やしの仕事(kazi ya uganga)を欲して=憑かれた者がその霊の癒しの術の施術師(muganga 癒し手、治療師)となってその霊の癒やしの術の仕事をしてくれるようになることを求めて、人に憑く。最終的にはこの願いがかなうまでは霊たちはそれを催促するために、人を様々な病気で苦しめ続ける。憑依霊たちの筆頭は神=ムルングなので、すべての施術師のキャリアは、まず子神ムルングを外に出す(徹夜のカヤンバ儀礼を経て、その瓢箪子供を授けられ、さまざまなテストをパスして正式な施術師として認められる手続き)ことから始まる。