私が出産祈願の瓢箪子供について初めて聞いたのは、1986年から1987年の1年間の家族連れでのフィールド・ワーク1を終え、帰国した後だった。1983年のトヨタ財団の助成による調査のとき以来、今日に至るまでの友人で、当時は私の唯一の調査協力者だったカタナ君からの一通の手紙が届いた。それは彼が「瓢箪子供 mwana wa ndonga」について手に入れた知識を伝えるものだった。
(DB 444)手紙原文(英語)
私はある一人の女性に話を聞いた. 彼女のために数週間前にカヤンバが開かれた.それで私は,彼女の病気がどのように始まったのか,なぜカヤンバが彼女のために開かれたのか知りたく思った. 彼女によると,結婚式直後から彼女は腹痛に悩まされ始めた.この病気がもとで彼女には子供ができなかった.そこで彼女は占い(mburuga2)の呪医(muganga3)を訪ずれ,呪医から「瓢箪の子供(mwana wa ndonga)」が必要であり,それを与えられれば子供ができるだろうと告げられた. そこで彼女は憑依霊の女性呪医から瓢箪の子供を与えられた.瓢箪の子供を与えられるときには,それを与えられる女性に対してカヤンバ(kayamba5)が開かれねばならない. 瓢箪の子供を与えられた後,彼女は第一子をもうけた.それは男の子であった.続いて二人目の子供,三人目の子供をもうけた.その後,瓢箪の子供は壊れたが,カヤンバを開いて代わりの瓢箪の子供に取りかえようとはしなかった.つまり彼女は瓢箪の子供を蔑ろにしたのである.彼女には全く子供ができなくなってしまった.事態が彼女にとって悪くなってきたので,彼女は再び占いの呪医を訪れた.そして瓢箪の子供が必要であると告げられた.再び彼女に瓢箪の子供を与えるためのカヤンバが開かれた.そして今,彼女は子供が生れるだろうと心待ちにしている. 瓢箪の子供について興味深い規則がある.それを与えられた女性は,瓢箪の子供をつねに彼女のベッドのところに置いておかねばならない.もし彼女が何時間も瓢箪の子供に触れないでいると,瓢箪の子供は実際の赤ん坊のように泣き出す.しかしそれは声を立てる訳ではない.ただ涙を流すだけである.涙といっても実際の涙ではなく,瓢箪の中の呪薬(muhaso7)がひとりでに溢れ出すのである. 人は、もしその前に性交渉をもったなら、誰も瓢箪の子供に触れてはならない.もしお前が性交渉をもち、たまたま瓢箪の子供に触れてしまうと、それはひとりでに壊れる(undavunzika mwenye).お前がそれを手にした途端に,それは手のなかで壊れてしまう. 女性に憑依して,瓢箪の子供を彼女が持つようにさせる憑依霊にはプンガヘワ(pungahewa8)やムルング(mulungu9)がある.今度君が調査に来たときには,自分の赤ん坊と同時に瓢箪の子供を抱いている女性を目にするかもしれない.普通、女性は実際の赤ん坊と瓢箪の子供を連れている.もし君が注意して見れば.
なんだか面白そうではないか。瓢箪の子供って、そもそもどんなだ?次の調査の焦点はどうやら憑依霊関係になりそうな予感がした。
別項でも述べているように、内陸部の霊(nyama a bara20)の筆頭で、池の霊(nyama a ziya)すべての母であるとも言われるムルング(mulungu あるいはムルング子神 mwanamulungu910)は、しばしば女性の妊娠・出産・子育てを封じてしまう(ku-funga「閉じる」「縛る」)とされる。それは、不妊、連続する流産や死産、次の子供がなかなかできない、生まれた子供が幼く死んで生き残らないなどを含む、ドゥルマ語で「彼女は子供をきちんと置かない kaika ana」と呼ばれる事態である。ムルングがなぜそんなことをするのか、というと、施術師によっては説明はさまざまなのだが、ムルング自身が自分の「子供」を欲しがっているからだ、という点で一致する。内陸系のとくに池系の他の憑依霊すべての「母」だといいながら、子供が欲しいというのも不思議だが、施術師のなかにはムルングは人間の多産な女性に嫉妬(人間の女性の多産性に嫉妬)して、そういった女性に惚れて(ku-tsunuka)、彼女を「縛って(ku-funga)」しまうのだと語る者もいる。
憑依霊のその他の要求物についてもそうなのだが、実体的な身体をもたない霊たちは、自分がとり憑いている人間を通じて、さまざまな衣装を楽しんだり、鍋を楽しんだり、踊りを楽しんだりするわけで、同様に多産な女性を通して、実体的な「子供」をもちたいという欲望をもっているのだと、解釈することもできそうである。憑依霊ムルングの究極の要求は「仕事」つまり癒しの仕事なのだが、これだって自分が憑いている人間を施術師として「外に出す」ことでしか、ムルングは仕事を獲得することはできないのだ。いわば施術師の身体を通してムルングは仕事を楽しわけである。実に一貫している。
この、仕事の要求に次ぐムルングの要求が、「子供」をもつことである。すでに別のところで述べたように、私はさまざまな信念体系(あるいは単に信念の集合体)を、人々に対して特定の言説空間が提供している利用可能な「物語」として理解しようとしている。自らを、ムルングに憑依されている者として、その病気を通してムルングがその「子供」の要求を伝えてきた者として眺めるときに、その物語は、その人の住む世界の見え方をどのようなものにするだろうか。彼女は、結婚したにも関わらず子供に恵まれていない。女性に多産が期待されるドゥルマにおいて、彼女はその期待に応えることができないでいる女性だ。しかし実際には、ムルングに嫉妬されるほどの多産性を彼女がもっていたがゆえに、ムルングが自身の要求をかなえるために、彼女を縛っていたせいだったのだ。大きすぎる多産性のゆえの不妊という逆説を中心にすえた物語。それによって彼女の世界との関係性はがらりとその姿を変える。同時にそのムルング憑依の物語は、そうした世界の中でどう振る舞うべきなのかを提案するプログラムでもある。
カタナ君の手紙にもあるように、すべては病気から始まる。不妊が主な問題だが、連続する流産や死産、生まれた子供の死亡もしばしば挙げられている。これらは、別の原因によっても引き起こされうる。例えば、妖術もそうだし、憑依霊の中にもペポムルメ(p'ep'o mulume21)、ツォビャ(tsovya)、カドゥメ(kadume22)、スディアニ導師(sudiani)(これらはしばしば同じ霊の別名ともされるが)は、不妊や生まれてくる子どもの立て続けの死を引き起こしうる。また「上の霊(nyama a dzulu)」あるいは「キツツキ(nyuni23)」と呼ばれる霊のグループ(多くは鳥である)は、子供にヒキツケを起こさせる霊たちで、それには専門の施術師がいる。なかには母親に憑いて、生まれてくる子供を殺してしまうものもおり、それらは除霊(kukokomola)の対象になる。
というわけで上記の諸問題が何のせいであるのかは、占い(mburuga)によって明らかになる。占いでこれらの問題が、ムルングが「子供」を要求しているとされた場合に、瓢箪子供を出すまでの一連の施術が始まる。 以下の紹介は主として施術師チャリとムリナ夫婦24による解説をもとにしている。これは私が初めて出産祈願の「手付の子供」をムルングに提示する「鍋」治療に同行したのちに、2人に話を聞いた際の記録だが、ムリナ氏が主として、きわめて体系的な説明をしてくれていて、これだけでほぼ全てわかってしまうくらいだ。
最初に行うのが、ムルング子神に対して「鍋(nyungu30)」と内と外の2つのキザ(chiza11)を据え、まだ口を開いていない瓢箪(chirenje)を、「手付の子供(mwana wa mufunga)」としてムルングに示すことである。その詳細なやり方はこの占いの事例が示しているように、詳しくない患者には占い師が丁寧に説明する。
乾燥した、しかし口が開けられていない瓢箪(chirenje)が用意される。 瓢箪の首(くびれた部分)には白と黒(ムルングの色、紺に近い)のビーズを通した紐が一本だけ巻かれている(単にムルングの色の細い布片(リボン状)が巻いてあるだけの場合もある) この瓢箪は「手付の子供 mwana wa mufunga」「祈願のもの chivoyero44」と呼ばれる
ムルングの「鍋(nyungu30」と、戸外と屋内に2つのキザ(chiza11)が用意される。それぞれ「外のキザ(chiza cha konze)」、「屋内のキザ(chiza cha nyumbani)」と呼ばれる。
鍋を前にして、ムルングに対して瓢箪を示し「これがあなたの子供です。この女性をとき解いてください」と祈願する。このときに、正式にはカヤンバを演奏して患者のなかにムルングを呼び下ろすことが望ましい。しかし予算が少ない場合は、カヤンバなしに唱えごとのみでも済ませることができる。瓢箪は「屋内のキザ」の横にムルングの布を巻いて台にして置いておく。
患者はこの後、7日間「鍋」を煮てその湯気を浴び、その後「屋内のキザ」の薬液を浴び、その薬液で瓢箪を洗う。その後、外にでて「外のキザ」を浴びる。7日が過ぎると、施術師が再び来て、鍋の中身を処分する(患者が勝手に捨ててはならない)。 この「鍋」施術については別項に、その実例とともに詳しく紹介しているので、そちらを参照されたい。
瓢箪は、その後、患者夫婦が眠る寝台の下に、ムルングの布を巻いて台にしたものの上に置いておかれる。けっして寝台の上に上げてはならない。ときどきその様子を見てあげる。この状態で、女性が妊娠し、出産するのを待つ。
もし患者に他の憑依霊も憑いており、それが厄介な霊(例えば憑依霊ドゥルマ人や、イスラム系の霊たち)である場合は、ムルングの鍋が終わった後に、それらの霊のための「鍋」、「大皿」などで彼らをもてなし、瓢箪子供による出産祈願を妨害しないよう説得する。
施術師によると、この祈願により「通常は」翌年には子供が生まれる。そうすると、その女性を「縛って(塞いで)」いたのは、やはりムルングだったのだということになる。不妊と腹部の不調が相変わらず続いた場合、再び占いで何がそれをもたらしているのかを探り直さねばならない。
幸いにして子供が生まれたら、さっそく大変な仕事が待っている。生後数日たつと(水を落とす kugbwa madzi あるいは鍋が閉じる kufinika dzungu=大泉門が塞がる)と、徹夜のカヤンバを開催せねばならない。その席で、瓢箪子供は正式にムルングに差し出される。
カヤンバの開始前に、瓢箪は本物の瓢箪子供に作られる。(開始後に作る施術師もいる)
瓢箪の上部を切り、口を開く。瓢箪の中身(種、ドゥルマ語では「心臓」を意味する言葉モヨ(moyo, pl. mioyo)という言葉で呼ばれる)をかき出す。
「心臓を入れる(ku-tiya roho)」患者夫婦によって、ムルングの草木を削って作ったパンデの木片(pande, pl. mapande14)を、1片ずつ入れる。使われるのは ムェレケラ(mwerekera, 未同定)、ムヴンザコンド(muvunzakondo45)、ムジョンゴロ(mujongolo46)。これらのパンデは瓢箪子供の「心臓 roho, moyo」49と呼ばれる。施術師による違い
カヤンバ開始 施術師は引き続き瓢箪子供の制作にあたるので、カヤンバはその間、弟子たちによって差配される。
カヤンバが進行するなかで、小屋の中の施術師は瓢箪子供のなかに自分が所持する薬(muhaso7)と香料(mavumba18)を加える。薬はムルングの草木(複数)を土器片の上で煎り、黒い粉末状にしたもの。香料は同じくムルングの草木(複数)を臼で搗き砕き、市販の香料をくわえたもの。これらは瓢箪子供の内臓(腸 uhumbo)と呼ばれる。続いて施術師は、瓢箪にヒマの油(mafuha ga nyono19)を注ぎ入れる。これは瓢箪子供の「血 milatso」と呼ばれる。できた瓢箪子供はムルングの布で包まれる。
明け方(雄鶏が時を告げる頃、午前4時すぎ)、再びムウェレに対してムルングの歌が演奏され、ムウェレがムルングに憑依されると、ムルングに対し「子供」を示し、背中の子供(夫婦の生まれたばかりの子供)を養うようにと唱えられる。 ムルング=ムウェレに瓢箪子供が渡され、ムウェレはそれをもって踊る。
その日の夜、夫婦は儀礼的性交マトゥミア(matumia50)を行い、瓢箪子供を「産む」。この日は施術師も、この日のカヤンバに参加した施術師の弟子たち(anamadzi)たちも性交渉を慎む。次の日の夜に施術師夫婦が、その次の夜に弟子たちが性交渉を再開する。
これは非常に大切な手続きで、これが失敗なく実行できるよう、瓢箪子供の作成は、ンゴマの当日に開始して翌日の明け方までに完成させて、夫婦に授けるというあわただしい制約がある。施術師によっては、そのあたりをいい加減に(ンゴマの当日までに瓢箪子供を完成させておく、とかンゴマが終わった後ゆっくり完成させてから届けるとか)する者もいるが、なぜそれが危険なのかは、ムリナ氏が先述の説明のなかで、わかりやすく説明してくれている。
私が[浜本,2001『秩序の方法:ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り』 弘文堂]で詳しく紹介したように、ドゥルマでは自分たちの屋敷になにか新しいものを導入する際には、それが妻であれ、生まれてくる子供であれ、家畜であれ、給料であれ、夫と妻が無言の性行為を通じて(厳格には地面で、手を使わない、無言の、一回きりのそれを行うことによって)「産む」必要がある。さもないと、それは屋敷の下位成員によって、あるいは部外者によって「追い越され」てしまう恐れがある。そうなるとその新たな獲得物は、長らえることができない。瓢箪子供も、言わば施術上の子供であるので(さらに子供の姿をとった憑依霊そのものでもあるので)同じ運命をたどることになる。憑依霊であれば、まさにそれによって自分たち自身に大きな災をもたらされることも覚悟しておかねばならない。
というわけで、この「産む」手続きはここでも、きわめて重要で、けっして失敗してはならないものなのである。
無事ンゴマを終えた日以降、瓢箪子供は背中の子供を負ぶう布(mukamba51)の一方の端に結びつけられて、一日じゅう母に抱かれている。背中には生まれた子供、胸のところには瓢箪子供。夜間はベッドの上で一緒に寝る。瓢箪子供=ムルングはこうして背中の子供を「養う」のだという。瓢箪子供はさらに、そののちも夫婦の妊娠出産をもたらすとされる。
瓢箪子供のなかの薬と香料、ヒマの油は切れないように注意し、ときおり注ぎ足してやらねばならない。中身のどれかが切れると瓢箪子供は「死んで」しまうかもしれない。夫婦のいずれかが浮気(婚外の性交渉)をもつと、瓢箪子供は泣き(その口からその内容物が自然に溢れ出る!)、場合によっては割れ壊れてしまう。瓢箪子供も、通常の人の子供と同様、所有者の浮気でキルワ(chirwa52)にとらえられる。
というわけで、瓢箪子供を授けられた夫婦は、その後、一切の婚外性交を禁止されてしまうことになる。
同じ制約は、瓢箪子供をさずけられる全ての施術師にも当てはまる。施術師になるためにはそれぞれの憑依霊の瓢箪子供を授けられる「外に出す」ンゴマを受ける必要があり、それによって瓢箪子供の持ち主が服する同じ制約を受けることになるのである。
これ以外の原因でも万一、瓢箪子供が壊れると、再びカヤンバを開いて新しい子供を手に入れなければならない。さもないとせっかく生まれた子供も死んでしまうだろうと考えられている。
瓢箪子供を受け取ったことだけでも、こうした制約が課せられる。チャリの上記の説明にもあるように、ちょっと外出して帰りが遅くなるときなどは、いちいち瓢箪子供に告げて行かねばならない。さもないと瓢箪子供は、自分が嫌われ見捨てられたと思って「泣く」。最悪、壊れてしまうかもしれない。その他、夫が新しい妻を迎えるなどの際も、瓢箪子供に関係の変化を理解してもらうために、よく言い聞かせる必要がある。憑依霊との関係を持っていくということは、厄介で怒りっぽく、面倒な憑依霊との関係の中で、さまざまな制約を被りつつ、一定の利益を手に入れていくという生活を受け入れるということでもある。
患者が閉経したのちも、瓢箪子供は患者の成長した子供たちを守り続ける。患者が死亡すると、彼女の服喪の場で施術師によって、瓢箪子供は首に巻いていたビーズ紐を切られ、その中身を全て取り出されて、その生涯を終える。
珍しく例外的なハプニング抜きで、きれいに行われた徹夜のカヤンバ。全て規則どおりに首尾よく瓢箪子供を差し出すことができた。トゥシェ初のンゴマ主宰(チャリの助手としてカヤンバの主宰をまかされた)。
不妊がムルングによってだけでなく、憑依霊ドゥルマによっても引き起こされているとされたことから、通常のムルングの瓢箪子供だけでなく憑依霊ドゥルマ人の瓢箪子供も同時に出された、という点でやや特殊。途中、ちょっと険悪な雰囲気になった。
メムロンゴに対する瓢箪子供の授与(「重荷下ろし」のカヤンバと組み合わせて)
ムニャジが主宰するンゴマ。チャリとムリナもお手伝い。しかし瓢箪子供の作り方もずいぶんやり方が違っている。