民族名をもった憑依霊が多数存在している。しかしなかでもヨーロッパ人が憑依霊として登場するのは、我々にとっては(たぶん)ちょっと意外で面白い。土地の人々にとっては、ヨーロッパ人が、他の異なる民族集団と比してとりわけ異なっているわけではないのだが。
憑依霊として登場するヨーロッパ人は、知る限りでは4人いる。ヨーロッパ人(これにはアメリカ人や日本人まで含まれていたのだが)は、一般にムズング(muzungu1)と呼ばれている。ヨーロッパ以外の人も含まれているのでここでは「白人」と呼ぶことにしたい( ドゥルマ語では「白人」の皮膚の色は「赤い」と表現されるが)。一説ではムズングの語源はスワヒリ語の動詞ク・ズングカ(ku-zunguka)に由来し、「無目的に歩き回る人」の意味だとされる。
ケニア海岸部の憑依の文脈では、分類上は「イスラム系(chidzomba)」の霊とされ、それに対する施術も他のイスラム系の憑依霊に対する施術に準じている。憑依霊は「海辺系の霊(nyama a pwani)」と「内陸部系の霊(nyama a bara)」に二分されており、前者は「イスラム系(nyama a chidzomba)」ということになっているので、ヨーロッパ人をアフリカ大陸内陸部と同一視するわけにいかない以上、それは海辺系、イスラム系にならざるを得ないということなのだろう。
ムズングとされる憑依霊には、私の調査期間中に知られていたものとしては、次の4人がいる。
ケヤの「白人」(muzungu wa keya)
英国のアフリカ植民地軍(King's African Rifles)の略称"KAR"--ドゥルマ語ではケヤ(keya)と発音される--に由来する。イギリス人将校とその部下の兵士たち。
ムミアニの「白人」(muzungu wa mumiani)
現地人を捕らえてその血を抜き取り、それでムミアニmumianiと呼ばれる薬を作っているとされる白人とその手下たち。
ドイツ人導師(mwalimu jerumani)
1990年前後にサンブル(Samburu2)近辺のドゥルマ人のあいだで人気があったらしいが、それを持ち霊としている人と個人的に面識はない。
イタリア人導師(mwalimu italiano)
ドゥルマ地域では見られず、ギリアマ地方にはいっぱいいると噂されていた憑依霊。噂以上のことは知らない。
このページでは、具体的情報がほとんどない後者の2人ではなく、最初の2人についてのみ紹介する。
(from diary Sept.14, 1991,Sat, Jumma4の日記より)
8:00 Murinaのところへ。10時過ぎキナンゴに向かうGari ya Gandiniが通るのを見て出発。Murinaはchibanda cha k'oma5 に出発を告げ、戸口に水を少しずつ撒く。MurinaとChariと私、Murinaの妹Mwana...(Dza...)とその夫Mw...、Mekp...(Chariのmwanamadzi112)大量の荷物とヤギ1匹。結局、歩いてキジヤモンゾの分岐点まで行き、バスを待つ。Mwache120で降りる。ここからは歩いて2時間くらいかかるという。バスを降りてすぐChariの調子が悪くなる。しばらく休んでMurinaがChariのnyama122に対しkukokotera127、それでも調子が悪そう。水筒の水を飲ませる。Murinaの提案で私が背負っているリュックサックをChariに背負わす。Chariについているmuzungu wa keya が欲しがっているものなので undakala yuna raha日本語訳1 なのだという。Chariも背負いたがる。試しに背負わせると、チャリはとたんに機嫌がよくなり、足取りも軽く歩き出す。うそでしょ。
日本語訳1: 「(「白人が」)嬉しくなるだろう」
日記ではさらりと書いているが、私には驚くべき経緯だった。 この年はチャリにとっては困難の年だった。詳しくは別ページに書くことになるが、1989年のライカ・シェラ・デナを「外に出す」ンゴマが、チャリたちの目に失敗とされ、その後の癒しの術の展開も支障が多く、わけてもチャリの病状が悪化したことで、チャリは私の帰国後の1990年3月に、再度別の施術師の主宰でシェラ等を「外に出す」ンゴマをやり直した。しかし、そこでも主宰の施術師は間違いを犯し(チャリたちの見解では)、チャリの病状は悪化した。5月に入ってそれはますます悪化し、チャリは死を覚悟したという。そんななか夢のなかで、チャリは自分の病気が彼女の癒しの術を妬む妖術使いの攻撃のせいだと教えられ、その正体も知った。妖術使いは彼女に魔物(jine mwanga)を打ち込み、それが彼女の血を吸っていたのだ。この魔物が取り除かれない限り彼女は血を吸われ続ける。 そのためには、打ち込まれた魔物ジネを取り除く、つまり除霊(kukokomola)せねばならない。しかしそれにはいくつかの障害を取り除いておく必要があった。チャリたちは、彼女らの祖霊(k'oma)の何人かに負債があった。占いによって、これらの祖霊たちもチャリの治療を妨げていることがわかっていた。その筆頭である、チャリの癒しの術のクラン内での祖であった母方の祖父デレの祖霊については、1989年にSamburuの奥地でサダカ(sadaka9)を開いて解消していた(それには私も出席)。そしてこの日記の翌日、ムリナ氏の親族のいる「採石場そば」村で彼の母の祖霊へのサダカを実施することになっていた。その道すがらでの出来事である。
おんぼろバスで砂埃にまみれながらようやくMwacheで降りると、日陰ひとつない炎天下。すぐ近くだと言うが、結局2時間近い歩きになる。普段から体調のすぐれないチャリは案の定、すっかりバテて座り込んでしまう。木陰でしばらく休んだが、回復しそうにない。ムリナ、いきなりヤギを指さしつつチャリに向かって唱えごとを始める。それによると、どうやら、またまたお騒がせの憑依霊ドゥルマ人カシディ(kasidi131)が、自分のために取り置かれていたヤギが供犠されることに怒ってゴネている(すでに出発前に十分説得していたのに)と判断したらしい。
唱えごとを終え、私は水筒の水をチャリに飲ませた。でも彼女の症状はいっこうに治らない。皆、途方に暮れていると、ムリナが信じられない提案をしてきた。もしよかったら、お前のバックパックをチャリに背負わせてやってくれないか。ただのデイパックに見えるが、なかにはモンベルの一人用シェルターMoonlight One一式(墓場で寝ることを想定して)、カメラ(やたらと重い1970年製のペンタックス・スポットマチック(古すぎ))、カセットコーダー、筆記用具、懐中電灯、予備食料(チョコとか)、予備電池などがぎっしり詰まっている。私でもそれを背負ってこれから2時間近く歩くなんてゴメンな代物。重いので負担になりますよと言うのだが、チャリにはケヤの白人がいるから、背中のカバンを手に入れたら喜んでくれるかもというのだ。どういう理屈だ?重すぎるカメラだけ取り出して、バックパックをチャリに手渡すと、なんとそれを背負うや否や、勢い良く跳ねるように立ち上がり、そのまま大股で歩き出す。うそやろ~。でも、チャリはそのまま機嫌良く目的地まで歩き通したのだ(私はずいぶん楽をさせてもらったが)。
かなり重いバックパックを背負って炎天下を行く「ケヤの白人」チャリ御一行。この後ろに私と、ヤギを連れたムリナ氏の妹が続く。
これがカヤンバならぬ、まったく日常的場面に突然登場した、ケヤの白人との出会いだった。まあ、別に英語めいた変な言葉を話すでもなく、ただの急に元気になったおばさんという感じではあったが。気分が悪くて歩けなくなった状態が、実は仮病だったのでは、と思わせるくらいの急変だった。ありえないだろう。
それぞれの「白人」が一人なのか複数の存在なのかは、他の憑依霊についてもそうであるが、曖昧である。とりあえず、一人として扱うことにする。
すでに述べたようにケヤとはイギリスのアフリカ植民地軍KAR(King's African Rifles)のこと。ケヤの「白人」(muzungu wa keya)そのものは白人であるが、部下の兵隊たちはさまざまな民族集団の者だという。カンバ人(mukamba)だという人もいる。
ある老婦人の言うことには二人の「白人」のうち、ケヤの「白人」は昔からいた憑依霊だとのこと。ムミアニの「白人」は最近になってやって来た霊だという。
Benyiro老人による説明は、ケヤの白人に捕らえられると宿主の食性が変わってしまう(主食のトウモロコシ練粥が食べられなくなり、卵ばかり食べるようになる)と述べている点が面白い。この地方では鶏の卵は鶏を増やすためのもので、食べることは稀である。
夢の中に現れ、部下の兵隊たちとともに犠牲者を追いかけ、銃を打ってくるなどさまざまな恐ろしい振る舞いをする。
イスラム系の霊であり、その治療法は、ローズウォーターを加えた水で全身を洗ってもらう、白い鶏、あるいは白いヤギを屠りその血を飲む、などからなる。
宿主に対してさまざまな品物を要求する。白いランニングシャツ、白い短パン、靴、ソックス、つば広帽子、コート(ジャケット)。とりわけ重要なものが背中に背負うリュックサック。木を削って作った銃(模型)。カヤンバの席で、彼の歌が演奏されると、この扮装で銃を担いで(銃がない場合は、その辺にある棒や杵をかついで)行進するように踊る。
ケヤの「白人」が、歴史的に実在した白人を元にしているのに対して、ムミアニの「白人」は実在しない荒唐無稽な白人像であるように見えるかもしれない。それは「薬」を作るために現地人を捕まえて殺害しその血を抜き取るとされる。そんな奴、いないよ、と言いたくなるが、現地ではその恐怖はリアルであったようだ。
1939年にOxfordから出版されたF. Johnson 編纂のStandard Swahili English Dictionaryにはmumianiの項目があり、ムミアニがアラブ人、インド人、スワヒリ人によってこむら返りやマラリアの瘧、骨折などに外用されたり、牛脂に溶いて内服されたりする、おそらくはペルシャ由来の薬であるという説明がなされている。しかしそれに加えて、「多くの現地人は、それが、殺害された犠牲者からとられた乾燥させたあるいは凝固させた人間の血液であると固く信じており」、ムミアニのための人狩りが起こっているという噂が出ると、「町の住民は恐怖に捕らえられ日没後は家からほとんど外に出ようとしない。」
また植民地時代のクワレ・ディストリクトのディストリクト・コミッショナーN.F. Kennaway年次報告(1945)にも、「7年ほどの時を隔てて、『ムミアニの人々(watu wa mumiani)』についての古くからの奇妙な信仰が再燃した。その恐慌は消え去るまで数ヶ月間も続いた。」と記録されている。
私が調査を行っていた1986年~1987年にも、同じムミアニ・パニックが再燃していたと思われる。私が調査地入りしようと、マリアカーニとキナンゴを結ぶダートロードを中古の白いジムニーで走っていると、普段なら道端で乗せてくれと頼む人がいるものなのだが、私が重い荷物を頭に乗せて運んでいるおばあさんを見て、車を止めたところ、彼女は慌ててブッシュの中に逃げ込んでしまった。その時は変だなと思っただけだったのだが、その後、ムミアニの白人(憑依霊じゃなく実在だとされる)の噂を散々聞かされることになって、合点がいった。
たとえば実話として拡散していたこんな話。(1986/12/20のフィールドノートより) カタナ君の母(当時ムァルバンバに住んでいた)から聞いた話。
人を集めて血をとって殺すムズング(ムミアニの白人)の手先をしている息子に売られそうになったムァルバンバの女性の話。 息子はウクンダの近くでムミアニの手先をしていた。ノルマが有り、決った数の黒人を捕まえてムミアニに提供しなければ自分の血がとられることになる。ノルマがこなせず、せっぱ詰まった息子はムァルバンバの母親のところに行き、新しい服を買ってやるから一緒にモンバサへ行こうと騙した。母親は息子に一軒のビルの中の一室に案内された。待たされている間にふととなりの部屋を除くと、死体が鈎に引っ掛けられてたくさん吊るされていた。母親はとりみだして泣き出す。そこに白人登場。泣いている母親に訳を聞く。自分の母親を殺そうとするとはとんでもないやつだ。白人は母親にお金や服を与えて帰し、母親を売ろうとした息子を逆に殺してその血をとることにした。 いや、いや、いや...白人、変に良い人すぎるし。
ムミアニの「白人」もイスラム系の憑依霊であり、その治療は、イスラム系の憑依霊に対する治療に準じる。それに捕らえられた者の症状は、貧血、嘔吐、下痢など。その他、出血、人を見ると逃げるなどの行為。発狂など、激しいものを含む。 治療は、ローズウォーターを加えた水で洗い清められること。鍋治療56。飲む薬(muhaso wa kunwa)は、薬(muhaso28)を玉葱といっしょに炒め、ソーダ、ローズウォーターなどで煮て飲むというもの(ちょっとまずそう)。人によっては、カレー粉を加えて煮るという人も(ちょっと美味しそう)。 ヤギ(白、赤(褐色)、斑点模様(madamada)の三種類)を屠ってその血を飲む。この3種類のヤギは、ムミアニの「白人」が要求する品物でもあるのだが、ムミアニの「白人」を「外に出す(kulavya konze[^kulava_nze])する際に屠られる。
ムミアニの「白人」が宿主に要求する品々は、衣服に関してはケヤの「白人」と同じ物を挙げる人もいる。靴とソックス、短パン、シャツ。しかし、ムミアニの「白人」は女性だとする施術師もおり、その場合は白いワンピース(というか長衣)で前に縦に青と赤の二本の布がラインに縫い付けられたもの。靴とソックスは共通である。 それ以外に、眼鏡、石油缶(捕まえた犠牲者の血を入れておくための)、ナイフ、懐中電灯、腕時計、石鹸など。人によって要求されるものはさまざま。 嗜好品としては紙巻きタバコが必須。あと、オレンジ、卵、ソーダ(ファンタなど)、ハッカ菓子(peremende141)。 <img src="../pictures/pingumumiani.jpg" width 40%> ムミアニの白人のための護符
お金が大好きという特徴があり、ンゴマの際には、椅子として用いられる木箱(sanduku142)の上に200シリングを置いてやらないと座ろうとしないとも言われる。また、眼の前でお金を数えてやると喜ぶ。
他の施術師たちに比べて、「白人」がイスラム系の憑依霊であることがより強調されているように見える。特に「白人」の手下まで jine tsimbaとかgojama導師となっている点。 一方、草木に関しては、ムロンゴさんのように市販のものではなく、海岸部の(イスラム系の霊の)草木が挙げられている
(from fieldnote of Sept. 07, 1991) 【憑依霊 muzungu】by Chari Marau muzungu wa mumiani...Islamic
nyumba ya chidzomba和訳2 を要求 aoshewe chishetani, aohe nyungu和訳3 karamu, mbuzi ya kundu, mweruphe, madamada和訳4 askari wa muzungu mumiani= gojama64, jine tsimba[^jine_tsimba]
muzungu wa keya...Islamic
ngoma mbuzi kutsinzwa, anwe karamu(milatso)和訳5 aonyeswe mihi和訳6
和訳2: イスラム風(スワヒリ風)の家 和訳3: (患者を)イスラム系憑依霊の仕方で洗い清め、鍋の蒸気を浴びる 和訳4: ごちそうは、赤いヤギ、白いヤギ、斑模様のヤギ 和訳5: ヤギ(白)を屠り、ごちそう(その血)を飲む 和訳6: 草木を教えられる
Sept. 04, 1991 【jine tsimba, muzungu mumiani の mihi】 muhina143 mudazi mbuu145 mukoko146 muts'i147 mukungamvula148
ここでは内輪の「霊を見るカヤンバ」に出現した「白人」と屋敷の長老、施術師との「息詰まる?」やりとりに注目したい。
詳しくは、リンク先で論じるが、全体として指摘しておきたいことは、憑依霊としての「白人」において顕著なのは、その想像力の2つの源泉、(1)流通している型にはまったステレオタイプと(2)施術師たちにとって憑依霊が可視化するのは、常に「夢」のなかであるため、個人的なバリエーションの拡大が見られる、の2つの間の興味深い緊張関係である。「白人」自身がめちゃくちゃ類型的であるのに対し、例えば、その手下たちについては「カンバ人」であるとか、マサイやドゥルマ人その他の民族の人々が含まれるとか、ジネ・ツィンバやゴジャマのような妖怪系(イスラム系)--ただしこれに関しては夢が源泉というよりは「イスラム系」の霊だという事実に基づいた理論的な思考の産物であるかもしれない--といった具体に、施術師ごとにずいぶん違っている。それと、各施術師の体験談やカヤンバでの語りに見られるように観察可能な実「白人」の経験と霊「白人」像との間にシームレスなつながりが見て取れる。

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tsovyaの別名とされる「内陸部のスディアニ」の絵 ↩
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