施術師チャリのための「月のカヤンバ(kayamba ra mwezi)」Nov. 1989

目次

  1. 概要

    1. 日誌より

    2. フィールドメモより

  2. 書き起こし日本語訳

    1. 開始の唱えごと

    2. カヤンバ演奏開始

    3. ジンジャ導師出現から夜中の休憩タイムまで

    4. ギリアマ語をしゃべる霊(正体不明)が出てきてムリナと対話

    5. 憑依霊ドゥルマ人とのやりとり

    6. 憑依された女性たちに対する唱えごと

  3. 考察

    1. 冒頭の唱えごと

    2. 霊とのやり取り: 夜中の休憩前

    3. 霊とのやり取り: 夜中の休憩後

    4. 明け方の盛り上がりと憑依した女性たちへの唱えごと

  4. 注釈

概要

1989年11月17日にカタナ君が私をムリナとチャリ1の施術師夫婦に引き合わせてくれた。これが二人との長い付き合いの始まり。いきなりその日に「ヒツジの場所」村での手付の瓢箪子供をムルングに示す昼のカヤンバ54に招待され、その翌日の18日夜には、チャリ自身をムウェレ(muwele55)にした徹夜の「月のカヤンバ(kayamba ra mwezi)」に招待された。これが私にとって初「月のカヤンバ」。

(from diary of Nov.18, 1989)

14:30 カリンボに会いに行くが、不在。すぐ帰ってくると言うので、Ndegbwaの家で...雑談。Ndegbwaの母Niniaはukongo wa kobe(亀の病気60)を治療できる施術師。日が暮れるのでカリンボたちの帰宅を待たずに辞去。月のない暗いなか7時半くらいに家を出て、Chariの屋敷に向かう。懐中電灯たよりになんとか辿り着く。21:30 Murinaの家でChariのためのKayamba ra mwezi開始。徹夜。

(from the fieldnote といっても、なぐり書きのメモを帰宅後文章化したもの。「憑依霊を喜ばせるため」だけのカヤンバだという説明から高をくくっていたのか、部外者感いっぱいで知り合いのいない集まりということで余裕がなかったのか、手抜き感、半端ない! 単なる感想文か!)

21:00 頃月がでる。カヤンバは 21:30 頃始まる。 mwana mulungu62 から開始、続いて Mwarabu67 もちろん muwele55 はチャリ自身で、ムリナが muganga68 役を務めるが、チャリ自身が自分で mavuo41 を被ったり、布を取替えたり、歌を指示したりといった形で進行を支配する。 チャリがその土地に小屋を建てさせてもらっている Mwanza老人(チャリのことを母の姉妹(chane69)と呼んでいる)の妻キジが、muteji70としてチャリの横につねに座って一緒にカヤンバの輪の中心にいてChariを補佐する役目。彼女自身はカヤンバ中、一度もgolomokpwa72しなかった。 チャリは golomokpwa の状態と、そうでないときの状態の切替が唐突で、あまりにもすんなり変るので、逆に芝居がかったように見える74 最も中心の霊はやはりmwalimu jinja75 である。羽根かざりのついた帽子を被り、杖をもって踊る。 途中ムリナもgolomokpwa し、しきりとげっぷしながらローズウォーターを飲む。 また他に女性三人が golomokpwa した。一人は Bekpwekpwe Chumba の弟の妻、もう一人はその姉妹、最後はチャリの娘タブである。反応はチャリより彼女らのほうが激しい。タブは意識を失って昏倒してしまう。 3:00-4:00 紅茶とパンで休憩(makoloutsiku76 6:00過ぎに終了。終わり方は inconclusive。全体を通じて芝居がかった感じがより濃厚で、一種のショーのような感じ。

チャリの「月のカヤンバ」 1989/11/18~19 書き起こしデータの日本語訳

段落最初の数字をクリックすると、対応するドゥルマ語テキストが表示されます。

(注: この年の調査では、これまでの調査と同様に、訪問インタビューの約半分ほどはカタナ氏と共に行い、施術師と治療に同行する際のインタビュー、さまざまな施術関係の行事への参加は私が単独で、という形で行っていた。カタナ氏には主として録音テープの書き起こしと、それを私が解読する際の解説を担当してもらっていた。12月以降は録音テープが増えたため、書き起こしにもう一人、セカンダリを終えモンバサの職業訓練専門学校への準備をしていたウマジ嬢を加えて、二人体制となった。ともに憑依霊関係の施術にはそれほど詳しくないため、カヤンバやンゴマでの歌(それでなくても聴き取りにくい)の書き起こしが困難だとのことで、知っている歌のみ書き起こし、それ以外は、主として参加者の会話部分を重点的に書き起こしてもらうという方針をとった。以下の書き起こしにおいて、途中からほとんど歌が出てきていないのはそのため。もっとも多くのカヤンバ歌は、あまり重要な内容をもっていないため、そのうちに私自身が歌を教えてもらえば良いと放置した。この書き起こしにおいても、途中からはチャリの自作曲のみが翻訳されているが、それらは私が個人的にチャリから教えてもらったものをもとにしている)

開始の唱えごと(Mwanamadzi: Mawaya)

844 (書き起こし担当のカタナ氏は、マワヤ氏の開始の唱えごと以外の、テープが拾った会話の断片も書き起こしてくれているので、以下は一連の会話を構成しているわけではない)

Mawaya(Maw):(途中から録音)...やって来て、あれこれたくさんの問題(要求や約束の履行など)を思案するのは、なしです。問題。たくさんの問題は、後ろに戻してください。そうではなく、やって来て、ムベガ77のようにしっかり煮え立って(激しく踊って)ください。心がすっかりきれいになり、「これぞ私の月のンゴマだ」とおわかりになり、そうして「さて、私は休もう」(そんな風におっしゃいますように)。 Chari(C): (頭から布をかぶって乳香の煙を浴びている)乳香が弾けたわ。火傷しちゃう。 Maw: さあさあ、四方位の方々も、来て、ただ踊ってください。見回して、「ああ、あいつは何かに食われている」(とわかったら)その者を苦しめている問題をその者に告げてやってください。もし旅の途中に腰を下ろしていこうというのなら。 Murina(Mu): (女性の助手の一人に)ムヮカさん、あなたが(憑依霊の)布をもっているなら、全部提供してくださいな。

カヤンバ演奏開始

(カヤンバと歌、演奏開始) ムルングの歌1~11、そのうち4,6,7,11は歌詞がはっきり聴き取れなかったもの

845ムルングの歌1

池にはムルング子神、ウェー 池にはお母さん お母さんに静かに落ち着いてと言われたわ、ウェー 私に池に足を踏み入れさせて、ああ 小雨季の雨がやってきて、私の身体を痛めつけた、ウェー なんと池にはムルング子神 カンエンガヤツリ草(mukangaga78)が池にはびこっている

846ムルングの歌2

行きましょう さあ ムルング子神のごとく 行きましょう あなた 急いで さあ ムルング子神のごとく お行きなさい あなた 私は大きな森と呼ばれている そう、ムルング子神のごとく 主がいる池には足を踏み入れちゃいけない そこに行けるのは、癒し手たちといっしょに 行きましょう、さあ ムルング子神のごとく 行きましょう あなた、ええ

847ムルングの歌3

目覚めなさい、長い髪79の方々、お母さん 目覚めなさい、エエ 目覚めなさい、エエ 目覚めなさい、そんなに眠らないで 癒やしの術を無視しないで、ああ 目覚めなさい、ムルング、さあ

848ムルングの歌5

私一人きり、あなた方の仲間 私はムルングに祈ります 私は祖霊を祝福します、あなた方の仲間 池、エエ、カンエンガヤツリ草の ムルング子神、ウェー、池に 睡蓮子神(mwana matoro)もここにいらっしゃる、ホウァー 池に、カンエンガヤツリ草、ムルング子神

849ムルングの歌8 (solo)

雨がやって来た エエ 雨がやって来た 畑の雨だ、ヘー この言葉、私はムルングに祈ります カンエンガヤツリ草、ムルング子神 私の布にはビーズが縫い付けてある (chorus) 私は眠ります、ヘー この争いは ムルングのごとく おだやかに、おだやかに

850ムルングの歌9

ヴンザレレ(vunzarere92)、ヴンザレレ 大きな(偉大な)ヘビがいる おたっしゃで、ウェー ヴンザレレがやってくる、ヴンザレレ 大きな(偉大な)ヘビがいる 後ろをよく見てごらん そいつはビーズの飾り物を身につけているよ

851ムルングの歌10

ア ヘー、私にに会いに行かせて、お母さん、ウェー 私に我が子たちに会いに行かせて 私は我が子たちに会います、そうムァーチェ(Mwache93)で 私に我が子たちに会いに行かせて

852 (チャリ、憑依状態。なにかに怒っている様子)

Murina(Mu): 嬉々として踊ること。このンゴマはあなたのンゴマです、それも月のンゴマです。どうぞお踊りください。 Kayamba player: お母さん、どうして怒りをもっておいでになるのですか。ご覧のように、人々は疲れてます(ディゴ語で)。「疲れている(ドゥルマ語で)」の弟分ですって。 Mu: 私が彼らを呼んだのです。彼らにあなたのためにンゴマを打ってもらおうと。 (チャリ自分からムルングの歌を歌い出す) (ムルングの歌 12~14, ただし14は書き起こし担当が聴き取れなかった)

862ムルングの歌12

ヤマアラシ(nungu95)、ウェー、エエ、ヤマアラシ、ウェー 施術師は逃げてしまった、子供は(目的もなく)うろついている ヤマアラシ、ウェー、お母さん 施術師は(目的もなく)うろついている ヤマアラシ、ウェー、エエ、ヤマアラシ、ウェー 施術師、タイレ(taire96)

863ムルングの歌13

ムルング子神が帰ってくる、池に踏み込め もしも思い出し、思い出したら。 池に踏み込め ムルング子神が帰ってくる、池に踏み込め もしも思い出し、思い出したら 池に踏み込め (chorus) ああ、我が子チャカよ、 池に踏み込め 癒しの術の(池に)

(続いて憑依霊アラブ人の歌 1~4, ただし4は一部のみ) 864アラブ人の歌1

施術師の方々、ご傾聴ください 匠の方々、ご傾聴ください、癒やしの術にご傾聴ください 私は祈ります。祖霊と、 慈愛あるムルングに ウェー、癒やしの術にご傾聴ください 私は祈ります。祖霊と、 慈愛あるムルングに ウェー、癒やしの術にご傾聴ください

865アラブ人の歌2

憑依霊アラブ人、私は神(mungu97)に祈ります 預言者の書 憑依霊アラブ人、私は神に祈ります へー、預言者の書 憑依霊アラブ人、私は神に祈ります へー、預言者の書

866アラブ人の歌3

私に鏡をくださいな 自分をみたいのよ、ヘー ヤシの木が、ヘー、揺れてるわ、お母さん あなたは私に慣れすぎて、ホワー、私を怒らせた ホーホー、私に見せてよ、お母さん ヤシの木が、なんと、揺れてるわ お母さん、あなたは私に慣れすぎて、ホワー、私を怒らせた

867アラブ人の歌4

ムイェムイェ、私には仕事がたくさんある... (以下不明98)

参考: キツィンバカジの歌(kutsanganya) ドゥルマ語テキスト(ベキジ宅での徹夜のカヤンバの際の)

(注:これ以降は、書き起こし担当の困難を考慮して、歌は書き起こさなくてもよいという方針にした。チャリが歌っている歌は、私が彼女から教えてもらったものをもとに訳出)

チャリの占いを司る憑依霊(ジンジャ導師ことガンダ人こと世界導師)登場

(チャリ、自らジンジャ導師(mwalimu jinja75)の歌を歌い始める、憑依状態らしい、カヤンバ隊演奏でフォロー。)

ムリナ氏が描いた憑依霊ドゥルマ人、ジンジャ導師、二人の周りを取り巻くヘビが世界導師だという。
868ジンジャ導師の歌1 (solo=チャリ)

さあ、いったいどうすれば良いの? 施術師、私は惨めで、困難だらけ、ウェー 私はムルングに祈ります 私は惨めよ、お母さん 私は惨めよ、お母さん、 眠っては、私はムルングに祈ります ムルングよ、いったい私はどうしたらいいの? 施術師、私は惨めで、 私は困難だらけ 私はムルングに祈ります (合唱) ムルングよ、いったい私はどうしたらいいの? 施術師、私は惨めで 困難に見舞われた 私はムルングに祈ります

869ジンジャ導師の歌2

私は食べられています、お母さん、私は食べられています 私は食べられています、お母さん 私の癒やしの術...

参考: チャリ作詞作曲の占い歌 Bekpwekpweの屋敷で

私は食べられています、お母さん、私は食べられています 私は惨めよ、お母さん、私の癒やしの術 ああ、私は癒しの術に食べられています(癒やしの術をしているせいで病気になる) 私は食べられています、お母さん、私の癒やしの術 (以上を繰り返す)

852続き (チャリ=ジンジャ導師演奏止める。大きくため息、不機嫌そうに黙っている)

Kayamba Player(KP): どうぞ解きほどいてください。仕事は踊ることではないでしょうか、そして家におられること。これはあなたの月のンゴマです。

Murina(Mu): 友よ、いったいどうされたんですか?踊ってください、友よ、(ここからムリナはギリアマ語にチェンジ)そして仲間たちに話してあげてください(何が問題なのか占ってあげてください)。それこそ良いことです。 (ムリナ氏、小屋の方に向かう)

853

Chari(C): 人が多いじゃないかい。 Kayamba player(KP): 全員は無理でしょう。でも一人、一人なら、あなたもその人にお話してあげられるでしょう? C: (ギリアマ語にスイッチ)ところで、あいつは何から逃げているんだい? (ムリナ氏、戻る) Murina(Mu): 逃げているやつって、どいつ?どのあたりにいる? C:(ムリナ氏を指してギリアマ語で)ほらやって来た。こいつのことだよ。 Mu: ちょっとこの場を離れていたんだよ。子供たち(施術上の56)が彼らの仕事をしているのを見てきた。だって、私はちょうど屋敷の長みたいなものだろう、私は。 C: (ギリアマ語まじりで)じゃあ、ここに腰を下ろすんじゃないのなら、子供たちがどんな風にやっているか見てきなさいな。 Mu: あなたも今は踊っているんでしょう、友よ。 C: どうして私が一人きりで踊らないといけないんだい?お前は踊らないのか? Mu: 私は監督なんですよ、友よ。じゃあ、一緒に踊りましょう。 C: (ギリアマ語混じりで)じゃあ、そんな風に一緒に踊ろうかい。

854

Murina(Mu): でも、ンゴマも打たれていませんよ。友よ、どうやって踊るというんですか? Kayamba Player(KP): さっさと踊りなさいな、あなたがた。 Chari(C): (ギリアマ語で)じゃあ、やめましょう。 Mu: じゃあ、やめましょう。話し続けましょう。ただ話し続けましょう。 C: (ギリアマ語まじりで)私に話せと?私に話せと?今、私が話したら、分別なしだと。 Mu: 話してください、話してください。 C: 私は話さないよ。おい、なんだか疲れちゃったよ、なあ。(ギリアマ語で)はあ、私はギリアマ語で話したいんだけど、言葉が逸れて(曲がって)ばかりになってしまうな(浜本注: ジンジャ導師はガンダ人ということになっているのでギリアマ語は得意ではない)。 Mu: お話しくださいな、あなた、ギリアマ語で。 C: (ギリアマ語で)無理だな。 Mu: もしあなたが自国の言葉(ガンダ語)で話したら、誰もあなたの言うことが一言もわからないでしょうよ。 C: もし自国の言葉で話せないのなら、お前、私しゃもうひたすら泣きたいよ。 Mu: (ギリアマ語まじりで)泣かないでください。いったい何があなたを泣かせるのですか?

855

Dzombo(Dz): ねえ、あなたはあなたの子供たちを驚かせていますよ、かれらまで。 Chari(C): なんだって?私がもし泣いたら、みんなが驚くだって? Murina(Mu): あなたの子供たちみんなも、泣きなさいと? C: われわれ皆で泣こうよ。人がたくさんで結構なことだよ。 Mu: 結構じゃないですよ。あなたが泣くのも。人々は、踊るもの、そして笑うもの。 Kayamba Player(KP): そもそも、あなたがただ泣き始めたら、私たちも泣きますよ。終いに、私たちは皆いなくなりますよ。 (チャリ=ジンジャ導師、突然誰も理解できない言葉(人々によると「ガンダ語」...)でまくしたて始める) Mu: あなたは、あなたの国の言葉そのものに、お変えになった。あなた、どうぞ話し続けて。 (チャリ、「ガンダ語」で喋り続ける) Mu: どうかお静まりください、あなた。そしてさらに私たちに、お話しください。しっかり十分にお話くださる。私たちも耳を傾ける。あなたが見出されるだろうすべての問題を、あなたはお話くださる。でも、それらの言葉は、ただただ私を驚かせます。そんな風に私をお叱りになると、この私ですらびっくりしてしまいました。私には、何をしたらよいのかそのすべもわかりません。そんなことをした奴が誰なのか、私は知りません。私に逐一話してください。私が理解するように。 (浜本注: チャリは存在しないなんちゃって「ガンダ語」で喋っている。当然、全く理解できない。なのに、驚くべきことに、ムリナ氏は、まるでチャリの語っていることを理解しているかのように応答しはじめる。)

856

Murina(Mu): はい、確かに、子供が死んでいます101。でも、私自身も、立ち尽くしています。するべきことがわかりません。何者のせいなのか、それとも全て私がしてしまったことなのか。でも私には少しも理解できません。人々はこの世に置かれたなら、言葉を交わし合うものです。どうか今、私に話してください。

(チャリ、「ガンダ語」をなおも喋り続けている) [テープ終了、交換]

Mu: あなたがあなたの国の言葉をお話になると、私はところどころしか聴き取れません。言葉の多くは、私を通り過ぎていきます。だって、私はガンダ人じゃないのです。ドゥルマ人そのものなのです。ああ、私たちは全員、乞い願う者たちです。あなた、どうか私に、そいつ、問題を引き起こしている者のことを話してください。あなたは、そいつが誰なのかだけを私に話してください。ああ、あなたはそれを望んでいる。私もそれを欲している。今、あなたはその破壊者に打ち負かされようとしています。破壊しているそいつは、いったい誰なのですか。ねえ、私に話してください。私に、そいつに対処させてください。あなたは、私同様、欲していると言ったでしょう?そうですとも。その破壊者が誰なのか、私が聞き届けたら。そいつ糞ったれ野郎102!その子供を苦しめているそいつは誰なのですか。私に話して、あなた、私に聞かせてくださいよ。そうですよ。あなたが飛び去って、あとに私を敵どもと残していかれたら、私に何ができるというのですか。 (チャリ、次第に大人しくなる)

857

Murina(Mu): だから、あなたと私は手を結んだほうが良いのではないでしょうか。こんな風に、互いを理解し合う。あれら(の悪事)をなしたのが誰か、私たちにわからせてください。私に情報を教えて下さい。情報を与え合いましょう。ああ、でも今は何一つ、私は聞いていないのです。それでいいとでも?私はまず(情報を?)得たいです、それでこそ議論することができます。でも、なぜうまく行かないのですか?私は、知りたいのです。真剣です。私はあれらをした者が誰か知りたいのです。 (ムリナ氏、チャリ=ジンジャ導師に、彼らの弟子(mwanamadzi)を紹介し始める。ンドゥレンゲ、ンデンゲ、ゼンゲは、本名ではなく施術上の名前。「ガンダ人」風の名前みたい。(浜本注: この時点では私はチャリの弟子たちの名前などは知らない。前日の昼のカヤンバの際に、何人かは紹介されたが、いちいち名前を覚えていなかった)) もし立ち去れということでしたら、彼を立ち去らせましょう。もしとどまれというのなら、私は彼を座らせ、彼に彼の道具を与えて、放置しましょう。この者は、嗅ぎ出しが仕事です。あちらの隅にいるのはンデンゲです。でもこの者ンドゥレンゲは、嗅ぎ出しをする者です。この人は仕事人です。彼にも仕事を与えるでしょう。私は、さらにもう一人、あそこにいるゼンゲの弟が、育ってほしい。でもこれら3人を冷やしてください。ンドゥレンゲはすでにここにいる、ンデンゲもすでにここにいる。私は今、ゼンゲの弟もほしいのです。 (チャリ、再び「ガンダ語」でまくしたてる)

858

Murina(Mu): もし、もし私にそんな風にされるなら、あなたは私のことを本当に本当に不真面目な奴だとご覧になるのでしょう。私は全然同意しませんよ。私は言ったでしょう。(子供を)食べているのは誰なのか言ってくださいと。食べているそいつが誰なのか言ってください。私はあなたと論争するつもりはありません。 Chari(C): (ドゥルマ語で)私はそいつらのことは知らないよ。 Mu: あなた、どうして知らないなんてことがあるでしょうか。 Dzenge(と呼ばれた男、本名不明(D)): 私は私の弟が欲しいんですよ、アーメン。 Mu: ほら、ゼンゲは弟を欲しがっている。ああ、私も彼ら二人では全然足りないよ。仕事はとても多いし。大人たちが子供たちに使われている。とても足りないよ。そんな状態を作り出しているやつのことを話してくださいよ、私に。私にそいつに対処させてよ。そいつは誰なんですか。ねえ、私自身、そんな状態を作り出しているそいつのことを話してもらいたいんだよ。 D: 私は弟が欲しいんですよ、私ゼンゲは。だって胸に、割られた木みたいに火がつくんだもの。

859 (チャリ、ジンジャ導師の歌2を歌い出す)

Chari(C): お前さん、あんたに話してあげようかい? Murina(Mu): さあ、あんた、さて私に話してください。 C: (Zuma wa Ngome氏の奥さんと子供を指して)この子供かい? (Zuma氏の子供はカヤンバで乞うた結果、生まれた子供だそうだ) Mu: そう子供だ。 C: おぶい布で運ばれる子供かい? Mu: はい、そのとおりですとも。 C: その子供、すでにその子の母親を扇い(kupunga103)だんだろうね。 Mu: いいえ、いいえ、彼女はまだ扇がれていません。 C: お前に話してやろう。つまり扇いでもらうことが必要なんだよ、まさに。 Mu: その子供と、瓢箪子供を(憑依霊ムルング子神にンゴマの場で)お披露目しないと。つまり瓢箪子供の方はおぶい布に、そしてそちらの子供は(おぶい布にくるまれて)母親の背中に。瓢箪子供をくくり付けてね。

860

Chari(C): ンゴマを打ってもらいなさい。(憑依霊ムルング子神に)彼女がお母さんだと知ってもらうように。 Murina(Mu): あなたは間違ってない。そのとおりです。 C: 彼女には、お前、あの子(生まれた赤ん坊)を養ってくれる瓢箪が必要だ。ところで彼女はいったい何人の憑依霊を除霊した(除去した110)んだい? Mu: さて、何人の憑依霊を除霊したのか私は知りません。まだだってさ。 C: ヴィトゥヌシ(vitunusi25)、それとムァンガ(mwanga26)がいる。知らないが、ヴィトゥヌシとムァンガだよ、あんた。わかるかい、あんた。私はしゃべれないよ。恥ずかしいよ。 Mu: どうか落ち着いて。でも彼にもそのように話してあげて。それらの問題を、お父さんのところで話すことにしましょう。トゥヌシ、ムァンガ、トゥヌシ、ムァンガ。そいつらは除去の霊たちですね。 C: なに?お前さん、ペンバ系の大きなズカ(zuka bomu ra chipemba111)って、聞いたことないのかい?ときには、赤ん坊が寝入ったら、彼女(赤ん坊の母)は真っ白な子供を産む夢を見たりする。 Mu: (Zuma氏の奥さんに向かって)奥さん、そうなんですか? (Zuma氏の奥さん、頷く) Mu: その通りだと言ってます。 C: ときには彼女は夢の中で、男をもつ(男性が出てきて、彼と関係をもつ)んじゃないかい? Mu: 彼女自身の(男)? (Zuma氏の奥さんに向かって)そこの奥さん、そうなんですか? (Zuma氏の奥さん、頷く)

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Chari(C): さて、そいつはあのペーポームルメ(p'ep'o mulume7)だよ、あの。 Murina(Mu): そいつらを除霊しなくては。 C: そいつらは除霊を必要としているんだよ、あんた。ときに、その赤ん坊、よく突然何かに驚いたように、ビクッ、ビクッとする癖があるだろう? Mu: そのとおりかい、奥さん。 (Zuma氏の奥さん、頷く) C: でも、彼女を扇いであげて、(ムルング子神=瓢箪子供に)そのお母さんを教えて(示して)あげないとね。 Mu: はい、聞き届けましたよ。父親(Zuma氏のこと)に伝えておきます。 C: 私は、問題を尋ねられてないよ、あんた。 Mu: あなたは問題を尋ねられていない。 C: ちがうよ、この人のこと。私はこの人に挨拶しているのさ。もしかしたら、わたしになにか尋ねようとしている。私は、あんたがなにか問題を持っていると見れば、あんたに話してあげるよ。でも私は問題を尋ねられていない。もしあんた私に問題を尋ねるなら、私にお金を払うことになるよ、あんた。

870

Murina(Mu): あなたお腹は空いていますか? Chari(C): あんたが私に(食べることを)拒んでいるんじゃないか。 Mu: そりゃ、後でたくさん召し上がることになるからですよ。 C: へえ、人間が奴ら(憑依霊たち)の食べ物を食べたら、死なないかい? Kayamba Player(KP): じゃあ、ちょっと味わってごらんなさいな、もし食べたいなら。 C: 食べたいよ。でも遠慮しているんだよ。 KP: 遠慮だって。それは食べるものじゃないよ。 C: 私ゃ疲れたよ、あんた。 KP: ああ、それは、お気の毒に。 Mu: 私は怒っているんですよ。なぜなんですか?子供はいったい何に食われているんですか?どうしたら私は救われるのかわからないんです。あなた、私は怒っているんですよ。そもそも、私は生まれ持って怒りやすい人間なんですよ。

871

Chari(C): おやなんと!じゃあ、私はもう、ここから立ち去ることにしようか? Murina(Mu): 立ち去らないでください、私に話してください。 Dzenge(D): 怒っているのは、確かです。だって、私ゼンゲはもう大人なのに、私には弟がいないのです。 C: やれやれ、私はやって来て随分たった。まだ出ていない、これから出ようとするところ。私はまだ歓談(ng'anzi115)もしてもらえてさえいない。 D: でも、じゃあみんなが話したら、あなたはそれに耳を貸しますか? C: でもみんな私に話さないじゃないか。だって、私は、別の食べ物を食べる116人間だから。 Mu: あなたは何を召し上がるんですか? C: 土だよ、あんた。あんた方は土は嫌いだろ。言葉を交わすことができる者は、まず食べ物を与えてもらわないと。私が感じている空腹感といったら、もう。私がやって来たら、私は見張り(守護者、警護者 murinzi)みたいに扱われる。それでいて、あんた。ところで嗅ぎタバコをくれないかい? D: 嗅ぎタバコを召し上がりますか。家にありますよ。

872

Murina(Mu): (嗅ぎタバコを差し出して)ほら、お食べなさい。これです。いらないのですか? Chari(C): 食べるだろうよ。でも今は断る117 Mu: 断る?守り手は食事を断らないものです。あなたは空腹で見張りをするというのですか? C: 私は、まだ隠し事を話してもらっていないんだが。違うかい? Dzenge(D:) あるいは、もし不満があるやつがいるのなら、あなたにはわかるのでは? C: いいや、いいや、まだ私はそいつらを見ていないよ。でも本人たちは見ているかも。お前さん、(ンゴマ開始の唱えごとのなかで)一人ひとり、全員おいでくださいって言ってただろう、あんた?だって、私は...(聴き取れない)... 私が言っていいのかい?私に言えと?本人たち(ジンジャ導師より前にやって来ていた霊たち)はここにいる、ずっと前からね。 Mu: そもそもね、私はこのンゴマを打って、その後で、揉め事をもった(叶えて欲しい要求をもって執拗に問題を起こしていた)霊たちを呼び出して、そいつらに仕事を与える(それらの霊についてチャリ「外に出」してやる)予定だった。 C: 要するに、私は腐った(用無し、ろくでなし)と思われてるわけだね。(解決すべき)揉め事をもっている(対応してやらねばならない)奴らがいると。

873

Murina(Mu): あいつら揉め事を起こす奴らがいて、私は休む暇もないんだよ。ああ。そもそも、あなたは客人(新参)でしょ。私はあなたのことを知りません。あなたは先日やって来た。やって来て私に話してくれましたね、あなた。また今、こうしてやって来られ始めるんですね。 Chari(C): わかったよ。もうけっこう。 Mu: さあ、私に望む物を言ってください、あなた。(さもないと)あなたは何の意味もなくここにいるだけです。私はケチじゃありませんよ。客人を拒んだりしません。善良な客人を、私は拒んだりしません。 C: 私は土が食べたいんだよ、私は。 Mu: ほら、どうでしょう。あなたは、ろくでもないことをおっしゃる、あなたは。土ですって?あなたは人を困らせる。 C: お前はどんな間違いをしたんだい。 Mu: 私にはわかりませんよ。私は誰かに対して過ちを犯してはいません。私は人と争いません。人と口論もしません。 (チャリ、歌い始める。歌詞は聴き取れない) Mu: そうですとも。人が一つところに腰を据えるということは、語り合うということです。

874

Chari(C): 別の曲をお打ちなさいな。(他の霊が)誰がやって来るにしろ、私はそいつをこばんだりしないよ。 Dzenge(D:) けっこう、けっこう。そもそもやって来るものは拒めませんから。でも私、ゼンゲは弟がほしいんですよ、私は。 (チャリ、ジンジャ導師の歌を歌いだす) ジンジャ導師の歌3 ドゥルマ語テキスト

(ムリナ氏、突然(なんちゃって)「アラビア語」を大声で唱え始める。何を言っているのかは不明。ローズウォーター(marashi118)を瓶からがぶ飲みしては、しきりとゲップを繰り返す)

Hamamoto(H): あの瓶の中の水は何ですか? Kayamba Player(KP): ローズウォーターだよ。 (ムリナ氏、しばらくたってようやく普通に理解可能な唱えごとに移行。ドゥルマ語、スワヒリ語が混在している) Murina(Mu): あなたのこの宴を召しあがれ、ただの月のンゴマではありますが。 (チャリ、自分で歌い続けている)

875

Murina(Mu): メリの父119よ、お打ちなさい。さあ、そしてしっかりお静まりください、お静まりください。静かにしてください、スディアニ様。私はあなたを、あなたを専門にする匠(mafundi122施術師)たちのところにお連れします。行って、調えてもらい、洗い清められ、それで終わります。私たちは匠たちとしっかり相談して、あなたにあなたの宴を差し上げます。しかしながら、まずはお解きほどきください、御主人様。もしあなたこそが、その身体のなかの子供(胎児)を嫌っているその人であるのなら。というのも、あなたは怒り狂われている。随分以前にお出でになったのに、施術師たちにはあなたのことが理解できないからです。治療に携わったどの施術師も、本物ではありませんでした。御主人様、今、そう、お解きほどきください。今日から始めて、私には予定があります。土曜日、日曜日、月曜日、火曜日、私はあなたを匠のところにお連れします。ですが、あなたは安らかな気持ちでいてください。私が今申し上げましたことごとをしっかりお聞き届けください。そして腹を乱すことはお止めください。ジネ・ツィンバ導師(jine tsimba123)ともども。お互いに宥めあってください。ジネ・ツィンバはあなたの護衛です。完全にお解きほどきください。火曜日になれば、あなたは匠のもとにおられるでしょう。このことを忘れないで。行って、匠といっしょになり、あなたが欲しておられる物について、お話しください。

876 (ジンジャ導師の歌3)

私は憑依霊ジンジャ導師を扇ぎます 我が子ジンジャは癒し手、ええ ジンジャ導師がいます 我が子ジンジャは癒し手 私は海岸部にもいます、内陸の荒蕪地にもいます 私はここにいます、お母さん 我が子よ、私は仕事をします 我が子ジンジャは癒し手 今日、私に蝿追いハタキをよこしなさい、私は(妖術使いを)見つけ出します

877

Murina(Mu): あなたは望んでいる物を言う、私はあなたに差し上げるでしょう。もし履物の件でしたら、もしドレス(rinda)の件でしたら、それらについても私は考えています。あなたのために手に入れようと。あなたのことを知った今、そう今は、御主人様。またひたすら、お静まりください、です。 Dzombo(Dz): 施術師の皆さん、ご傾聴ください96 Kayamba Players: ムルングの。 Dz: 通常は...(聴き取れない)... Mu: (まだチャリに語りかけている、スワヒリ語で) 重ねて、どうかお静まりください。お静まりください、御主人様。 (人々は休憩の食事 makoloutsiku76について議論している。ムリナ氏、紅茶の用意を命じる) Man1: (ムリナ氏に)彼女、寝に行っちゃたのかい、お父さん(施術上の)?あんたの娘、私に挨拶もしないで。 Mu: ああ、あいつらは行儀が悪い。見物するってさ。 Dz: 覗き見とは、けっして良い振る舞いじゃないね。 Man2: (私に)おじさん(aphu=Mother's brother)、まだタバコ吸ってるの? Hamamoto(H): まだ吸ってますよ。

マコロウツィクの休憩後

878 (チャリ、歌い出す。ギリアマ語の歌。何の歌かは不明)

慣れました、ヘー、カリサは 慣れました、ウェー、慣れました、ウェー、カリサは 難儀に慣れました (以下の会話はほぼギリアマ語のみによる) Murina(Mu): そう、彼らは疲れてしまうだろう、たしかに。だって、こいつ(この問題)は、繰り返し予定変更になってるからね。でも、今こうして、このカヤンバだ。だからなされることに(私たちがすることに)当惑しないでください、私の友よ。(これからも)同じように予定変更になることもあるでしょう。それも確実にね。 Chari(C): なあ、あんたに言いたいことがある、あんた。あんたは話してもらう必要がある。そこで、私はあんたに言いたい、あんた。そうとも。ところで、へえ。あんたは、話し合いがしたかったんだろう? Mu: 私は途方にくれて(驚いて)るんですよ、あなた。 C: ぜんぜん途方にくれるん(驚くん)じゃないよ、あんた。驚くってことではね、あんた方は自分たちで自分を驚かせているんだよ。あのムルングだって、お前さんたちに驚きなさいなんて言わないよ。自分たちで勝手に途方に暮れて(驚いて)いるだけだよ。

879 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Chari(C): ムルング本人があんたに情報をくれるよ。でも本物の情報をね、おまけに。こいつ(この問題)はね、私が見るに、ただのあれこれだけだよ。なんの意味もないね。まあ、こいつがこんなふうだとね、私自身も問題だらけに感じるよ。果ては、この癒やしの術さえ、もう二度と見えなくなっている。 Murina(Mu): 癒やしの術そのものが、もうない。それはここにあるようで、ここにない。 C: 癒し手(施術師)自身も死んじゃったのかね、それともまだいるのかい? Mu: もしいるのなら、結構なこと。私はそこにいたる道筋を話してほしい。癒やしの術とは、私が調えるものです。さらに、私は私にそれを調える余裕(金銭的な蓄え)が欲しいところです。 C: ところで、この別の癒やしの術は、それについてすでに語られているのに、どうして調えられていないんだい?ねえ、ちゃんとそうしたら、うまくいくのに。

880 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): さて、匠のもとへ行く日取りは、私たちはすでに計画しました。私たちはその癒やしの術を始めるでしょう。 Chari(C): その癒やしの術はここにある。でも行った先で、それはさらに損なわれることになるだろうよ。 Mu: じゃあ、私はどうしたらいいんでしょう。 C: 私はあんたにけっして嘘はつかないよ。私はあんたにまさしく本物の言葉を話してあげるよ、あんた、私の友よ。そしてもし私があんたに話してあげたら、その後、あんたは、ええ、結構ですと言う。 Mu: あなたが私に結構ですと言っても、ねえ、そうじゃないんですよ。私は今... C: もしそうじゃないなら、そのことごとは、ただ話題にされつづけるだけ。語られ、語られるだけ。話されるだけ、っていうのは、ちょうどこのウガリ(wari124)が小屋の中ですくってよそわれたとするよね。あなたはこのウガリはあんたが食べるんだよと言われるんだけど、(言われるだけで)実際にはそれを与えられないとしたら、あんたは満腹になるかい?どうだい?

881 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): 満腹しません、満腹しません、満腹しません。私は施術師はかつてすでに手に入れておりました。行って、彼に調えさせ、彼のところで一緒に済ましてもらおうと。その後、別の人々(施術師?)がいて、「あいつはな、お前があいつを頼って行っても、無駄に終わるだろう」と言うのです。「あいつらはお前の金を盗むけれど、お前のためには何も調えてくれないだろう」と。私は別の施術師を探しました。さて、私は今、そのもう一人の施術師のところへ、行きたいんです。 Chari(C): お前は惑わされているよ。そいつらはお前を混乱させている。癒やしの術なら、ずっと前から、ここにあるよ。そもそも施術師そのものは、なあ、彼女(チャリのこと)が(病気に)痛めつけられてこのかた、施術師が彼女に癒やしの術を与えたことがあったかい、あんた。 Mu: いや、いや。 C: あいつら施術師たちは、やって来て彼女に自分たちの瓢箪を与えるよな。でも彼女は癒やしの術を誰によって与えられたんだい?その癒やしの術を。 Mu: 施術師たちにですよ。ああ、ムルングです。まず初めにムルングが彼女に与えた、そして施術師たちは彼女に瓢箪を与えたんだ。

882 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Chari(C): さて、焼かれなきゃならない(鍋38の蒸気浴びをしなければならない125)。癒やしの術が与えられるその度に、まず焼かれなさいと言われる。癒やしの術が与えられるその都度、お前は焼かれなさいと言われる。そうしてこそ、癒やしの術が与えられる、つまり、そんなふうにして自分を「外に出す44」。もし彼女がそれ(鍋治療)を嫌っても、彼女はけっして私に失敗したりはしないよ。お前は、私があの蝿追いハタキを握って嗅ぎ出しに行くことに失敗するだろうって思うよね。もしそんな風に打ち負かされると、またまた(「外に出す」次の機会まで)長い年月を待たねばならないことになる。 Murina(Mu): 焼かれることに関しては、私もそれは好きじゃありません。私は瓢箪だけ貰えればいいのです。だから今も、彼(施術師)に会いに行くとすれば、私は彼に瓢箪がほしいと言いますよ。私は無駄に焼かれたくない。 C: 焼かれるってことでは、ねえ、彼女に自分で蝿追いハタキを握らせて、嗅ぎ出しに行かせなさい。私は、彼女が行って、そこ(憑依霊の棲み処)にとどまれるかどうか見ていよう。もし、あんたたちが、まだあれやこれやを食べてない者は、なんて言うとしたらね?私は、そこに行ってライカに捕まるような者じゃないよ。

883 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): 私もそれはわかっている。まず、私だって焼かれるやり方は好きじゃない。そもそもあの熱にはうんざりだ。でも、あいつら本人たちが、それこそが正しいって言っている。まず鍋の湯気を浴びることから始めるべきだと。その後で、さて何をするだろうか?そして... Chari(C): でも、その鍋がなにか喋るかい? Mu: それは私もわからない。鍋に特別なことはないような。それは普通、(憑依霊たちを)招くためのものだろう。 C: 鍋が食べられるようになって以来、鍋が口をきいたりしただろうか。 Mu: さてさて、私の見解では、かつて爺さんに告げに行くことになった。あなたのおっしゃる問題は、あなたがあちらの屋敷に放置なさった問題だよと。 C: ビーズ飾りを目のあたりにまで結んだりする、あんたらのやっていることと同じじゃないかい。それは癒やしの術だと言われる。でもビーズ飾りがしゃべるかい? Mu: ビーズはけっしてしゃべらないよ。ただの物だもの。耳にも結びつけられる。

884 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Chari(C): 話をしてくれるのは頭かい、それともビーズ飾りかい? Murina(Mu): 私はね、一つだけ言っておきましょう。もし湯気浴びが嫌いなのでしたら、私は瓢箪の施術師を見つけてきますよ。その人に、調えるように言いましょう。ヤギだったら、もう購入済みで、ここにいます。 C: 私もあんたに言うけど、私は争うためにここに来たんじゃないよ、でも...(聴き取れない)... 瓢箪は、私には問題ない。それにビーズ飾りを施すのも、問題ない。そもそもね、私は癒しの術を人間からもらったんじゃないんだ。 Mu: さて、よくわかりました。続けてお話しさせてください。あなたに申します。そうンゴマの約束の日はやって来ました。 C: なに?私、蝿追いハタキを握ったかい? [End of Cassette1]

885 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): 癒やしの術がお望みですか、他になにか欲しいものは?いえ、いえ、私は平気です(困りません)。私はここにいます。私はすでに入っています(着手しています)。 Chari(C): でもね、知っておいて。私は行ったら、その日のうちには戻らないよ。 Mu: なるほど、あなたは行ったら戻ってこない。私どもは戻ってもいい? C: 私は癒しの術を取りに行くんだよ。 Mu: あなたは癒やしの術を取りに行く?いったいなぜ?ちょっと待って、あいつら(施術師たち)の過ちを見守って、もし彼らが失敗したら、策を講じましょう。 C: 私はね、もし彼女が嫌だったら、もっと遠いところに癒やしの術を取りに行くよ。 Mu: そんな、あなたは病人たちも途方に暮れさせることになりますよ。 C: 私ひとりで。病人たちを放置するとでも?病人たちといっしょに行くとでも? Mu: 何日くらいあちらにいるんですか? C: 一日だけだよ。

886 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): だめですよ、あなた。いっしょに行って、あれら(施術師たち)の腕前を、私たちもあなたといっしょに見定めましょう。 Chari(C): 私は仕事はしないだろうよ、私は大きな仕事が欲しい。私がキティティ(占いに用いる瓢箪のマラカス126)をもって、一日じゅうここに座っていると考えてみなさいよ。私は癒しの術が欲しいんだよ。 Mu: (チャリを「外に出す」ンゴマの)開催日は今度の月曜じゃないですか127。いっしょに行ってその首尾を知ろうじゃありませんか。行って、私たちが望んでいる私たちのやり方を彼らに告げようではないですか。私たちが望むように彼らに調えてもらいましょう。

C: ギリアマといってもたくさんあるよ、お前。 Mu: 知りませんが、ガラナ(ギリアマの地方名)とか、どこそことか。 C: この癒やしの術は何の癒やしの術と言われているんだい、この癒やしの術は? Mu: ピーニ(pini128)の癒やしの術ですよ。このカヤ(kaya132)の癒やしの術ですよ。 C: ピーニの癒やしの術を、お前知ってるのかい?

887 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): 私は全然知りません。3つのカヤ133の癒やしの術でしょうか? Chari(C): その癒やしの術はどこに由来するものだと思う? Mu: ああ、私に知る由もないですよ。 C: そいつはこのクラン(fuko)の癒やしの術だそうだ。もし...(聴き取れない).. その癒やしの術は、一本の頭髪が私のものであるように、私のもの134、私がそこに行きさえすれば、与えられるのさ。さて、あんた、あちらマドゥンダのところには、ギリアマの癒やしの術があると聞いたよ。そちらには別のマシャンガの癒やしの術もある。マシャンガの癒やしの術もお前さんを同じように困らせるだろうよ。さてね、マシャンガの連中(憑依霊たち)はほっておきなさい。行って、あいつらを追い立て、いなくなるようにね。もし混乱を取り除いたなら、ベマドゥンダのところに行く道筋を見つけましょう。私自身ですら、ベマドゥンダのところに行きたくて仕方ないほどだよ。私の知るところでは、その癒やしの術は偉大で、私も欲しいものなんだ。本当にほしいんだよ。あんたは、蝿追いハタキが欲しいんだろう、お前さん。それとお前の木のお椀。あちらのギリアマでね。ここ(ドゥルマの地)には、もう無いからね、このあたりには。

888 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Chari(C): その人を見たら、馬鹿者に見えるよ。あんたは足を運ぶことになるよ。遠くなんだから、あんた。 Murina(Mu): え、その長老が?発狂するのかい? C: その長老はね、祖霊がその人を放牧している(行く先を導いている)のさ。死ぬまで、いつも移動ばかりしているのさ。 Mu: いつも移動ね。 C: その人が家でじっとしているところに会えるとでも? Mu: いえ、いえ。 C: じゃ、どこで? Mu: それは私にはわかりません。私が見るところ、癒やしの術がすごく繁盛しているんでしょうね。 C: ああ、彼と話をするんじゃないよ。 Mu: 私が彼に会うと、彼を怖がらせることになる? C: いや、彼と会っても、あまりおしゃべりするんじゃない。だって、あんたはとても無礼(chiphurye135)なんだから、ほんとうに。

889 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Murina(Mu): 私は彼に「お前は自動車事故にあう」と言ってやるよ。 Chari(C): 人はあんたを馬鹿者だと思うだろうね。 Mu: 私はあなたがたを仲直りさせますよ。 C: (歌う) 私は私の蝿追いハタキがほしい、ウェー 私はほしい、私は蝿追いハタキがほしい、ウェー 私は私の癒やしの術がほしい、ウェー 私に蝿追いハタキを渡して 私は私の癒やしの術がほしい、ウェー 私は私の癒やしの術がほしい、エエ Mu: あなたはもらえますよ。私はあなたに癒やしの術を差し上げますよ。 C: あんたは、私が愚かで愚かな施術師だって思っているね。 Mu: 私はあなたがまったく愚か者じゃないことを知っています。あなたは時間刻みで仕事をなさる方です。晩までただ椅子に腰掛けているような施術師じゃない。 C: ところで、私は子供たちがほしい。すっかり疲れたよ。さて、若者よ(ムリナ氏のこと)、お前は金持ちに生まれついているよ。 Mu: でも、どうすればいいんでしょう。私は富を望んでいますが、全く目にしません。どうすればいいんでしょう。富を目にしないのですが。

890 (ギリアマ語でのやり取りは続く)

Chari(C): 始終口で喋ってばかりの癒やしの術なんて、トウモロコシの練粥を食べたら、ほって置かれるよ(言ったことなど忘れてしまうよ)。 Murina(Mu): 私は絶対とめないよ。あれらの問題。私はあれらの問題に巻き付かれているんだ。あなたも見たでしょう。施術師である彼女はほとんど殺されそうになっている。私はそもそもその施術師を守れるでしょうか。彼女を回復させると?でも、どうやって?そのお金は?あちら(治療を受けに行く先)に誰といっしょに行くことになるでしょうか?私は誰といっしょに行くというのですか? C: ところで、家の中にあるあのもう一つの瓢箪子供は、何の役にたっているんだい? Mu: あれですか。彼女(チャリ)本人が、まだその日になっていないと言ってました。 C: ああ、あの瓢箪子供はまだその日になっていない。何のために作られたんだい? Mu: 癒やしの術のために作られたのでは?何がその邪魔になっているのか、私にはわかりません。 C: 彼女(チャリ)は発狂するよ、ひどくね。

891 (ギリアマ語混じりのやり取りは続く)

Murina(Mu): 私はいつでもあなた方に癒やしの術を差し上げるつもりです。でも、あなた方自身がまだお着きになっていない。では、今日、あなた方に無理やり、癒やしの術を外にお出ししましょうか?今日たしかに、あなたに申しましょうか。お座りください、私があなたのためにンゴマを打って、あなたに癒やしの術を差し上げましょうと。 Chari(C): ところで瓢箪子供に鶏が糞を掛けてるよ。ああ、本人がやって来るだろうよ、あんた。 Mu: 私は、その日を待ちます。そいつがやってきたら、私はそいつを取り除きます(そいつの要求をかなえます)。 C: そいつは私を救ってくれるかね、しかし。 Mu: そいつは男ですか? C: その日に、そいつが(要求が満たされないと知って)うんざりすれば、お前にもわかるだろうよ。 Mu: ああ、そいつがやって来れば、私は即、そいつに癒やしの術を差し上げますよ。けっして遅れません。

892 (ギリアマ語混じりのやり取りは続く)

Chari(C): ああ、それもね、あちらで遠方でだよ。決してここじゃない。そいつはとっても遠いところにいる。たとえお前たちがここで、近くで彼に癒やしの術を与えるとしても、彼は遠い所にいる。あの山々のなかにだよ。 Murina(Mu): はあ、では、ゆっくりとゆっくりとですね。 C: ところでね、へえ... [End of the Cassette]

893 (ギリアマ語混じりのやり取りは続く)

Murina(Mu): はあ、では、つつがなきことを、そして解きほどき、あの者たちに目をお配りください。彼ら調える者を。私たちがことを終えたら、ベマドゥンダに参ってまた再会し、言葉を交わし合いましょう。 Kayamba Player(KP): あなたには与えられるでしょう。あなたが回復し、回復し、この癒やしの術をご覧になりますように。 Chari(C): 癒やしの術がどこにあるって? (チャリ笑いだし、しばらく笑い続ける) KP: そのとおりです、あなたはすでに(癒やしの術を)お持ちです。でもそれは求められ、さらに増えるでしょう。まずは、私たちはあなたが蝿追いハタキを握って、人々(のキブリ52)を取り戻しに行き、ゆっくりと連れ戻してこられるよう、願います。 Mu: さて、はい、私はあなたにあなたの癒やしの術を差し上げます。ゆっくりと、そしてしっかりと。あなたは誰にも憎まれていませんよ。私の友よ、あなたはこの癒やしの術が出るのを見ることになるでしょう。ただ色々な問題もあるのです。私は揉め事に囲まれています。どこにも行く手段がないほどでした。自分が生まれてこなければよかったのにとも考えたほどです。でも腹を閉じた(子供が産まれる時期を過ぎた)母でしたが、私をちゃんと産んだのです。彼女は、私は子を産むよと語りました。私も同意しましたよ、あなた。こうして私がいるわけです、私の友よ。

####憑依霊ドゥルマ人登場 894 (チャリ、カルメンガラ(kalumeng'ala47)の歌を歌う)

ハヨー、私はカルメンガラと呼ばれている 災難に136巻き込まれてしまったよ、お母さん 私はカルメンガラと呼ばれている 内の問題も知っている 外の問題も知っている お母さん、私は尋ねられる 私はカルメンガラと呼ばれている もしお前が男なら、来るがよい137 (一連の、憑依霊ドゥルマ人の歌、続く(書き起こしなし))

(ひとしきり皆、踊った後に、チャリとムリナの掛け合いが始まるが、うっかりして録音開始が遅れる)

Murina(Mu): はー、さて、あなたは「こちらはどんな具合ですか?一緒に踊りましょう」とおっしゃった。(なのに)今、突然ここに排便したくなったなんて。 Chari(C): わしは、随分以前にやってきた者じゃ。わしは一人前の大人だぞ、あんた。もしあんたらが、わしを邪険にあつかうのなら、そんなら、わしは完全に立ち去ってしまうからな。 Mu: 言葉を交わして、仲良くなる(合意し合う)ことですよ、あなた。 C: いやいや、わしらはもうずっと前に、同意し合ったぞ。

895

Murina(Mu): さらに申しますと、私もあなたのご要求をしかと知っております。 Chari(C): はあ、いったいいつになるやら。もうわしは疲れてしまったぞ、もう。 Mu: いったい何に疲れたと、私の友よ。まだ歩んでいる途上の者は.... C: ここではトウモロコシの練粥(wari124)は食えんのか、紅茶だけか。 Mu: ねえ、我慢しましょうよ。あなたは仕事を手に入れますよ。 C: トウモロコシの練粥の話じゃぞ。わしは疲れてしまった。 Mu: あなた、疲れないでくださいよ、あなた。疲れているのは私みたいなもの、でもあなたじゃない。あなたは、あなたの仕事(が与えられるのを)お待ちくださいよ、私の友よ。 C: 仕事って何じゃ? Mu: 癒やしの仕事じゃないですか、以上です! C: どんなことじゃ?お前が一番望んでいるものを言うてみろ。 Mu: 私はまず癒やしの術がほしいです、そして耕作、そして子供です。 C: お前、子供が欲しいんかい。あいつらとってもガキなやつら(おそらく憑依霊たちのことを指している)、あいつらも子供だよな。わしが声を掛けたら、あいつらはやってくる。

896

Kayamba Player(KP): まあ、彼ら、今日はやって来るでしょう。明日になったらあなたの議論にうんざりして、立ち去ってしまうでしょう。 Chari(C): なあ、わしは遠方からやってきたんだぞ。 Murina(Mu): 私は知ってますよ。あなたが遠方から来たことを。そして私は近くにやってきました。 C: 問題は山積みだよ。もし私が連日しゃべり続けるとしたら、私はまるで腐った奴(ろくでもない人)みたいだろう。 Mu: 畑のまさに耕作割当て分ですよ、あんたが耕したら、その割当分は耕し終わります(どんな問題もいつかは終わるものだ)。青銅(shaba(スワヒリ語))(のように強固で)、棍棒(のように固い)、そのものの(強健な)子供が、手に入りますよ(生まれますよ)。 C: お前さん、まるでキングフィシュの肉みたいに、議論をつかまえるじゃないか。 Mu: その子、私はその子のために人々を捕まえておくんですよ。そして、例の施術師自身も確保済みにしておく。私はすべての問題を調えさせてほしいんです。その後でムグタさんのところに行かなければ。 C: じゃあ、あの(憑依霊が要求している)杖(mudat'a138)はどうする。じゃあ(憑依霊が要求している)ムコバ(mukoba57)はどうする。

897

Murina(Mu): まあ、例の杖は、私は他の仲間(施術師)たちといっしょに、差し上げたいと思ってます。また、まずはあちらの彼ら(施術師たち)の所に行って、彼らに話して... Chari(C): で、挙げ句、お前は願い事を言えば、「私は言うことはすべて終わりました」なんて言う。 Mu: いったい何が終わったと? C: お前、唱えごとするとき、お前は子供が欲しい、ばっかり言うじゃないか。問題はうまく行かなかったのかい、もしかして。 Mu: あなた方の要求されていることを、まだ終えていないんですよ。もしあなた方が私に要求なさるのなら、だったら、ちゃんとどんな風にそれをするのか教えていただきたいのです。もしそれがちゃんとわからないのなら、はたして私がちゃんと調えているのか、そうじゃなくて、私は調えたつもりでできていないのか、わからないでしょう。ああ、それじゃあ、相互理解も成立しないでしょうが。 C: おや、みんな、おならばかり。みんな便意を催しているんだな。 Mu: 排便したいのは、あなたじゃないんですか? C: 誰がだって? Mu: あなたです。

898

Chari(C): はて、排便するのは、普通、食べ物を与えられたからじゃないかい? Murina(Mu): ああ、でもあなたはいったい何をお食べになると?この辺りでは農耕はできないのに(旱魃のせいで)。 C: じゃあ、わしのすることは、排尿だけじゃ。 Mu: この辺では、人々は機械で製粉されたトウモロコシ粉の練粥(wari wa chumani139)を食べているんです(不作のせいで)。でもあなたは機械製粉の練粥は召し上がらない。 C: なに?お前ら、畑仕事しないのかい。 Mu: 収穫がないんですよ、この辺りでは。ヴリ(vuri 小雨季)もすでに不作です。 Kayamba Player1(KP1): この辺りでは、ミルク抜きの紅茶とパパイヤだけ。 Kayamba Player2(KP2): しかも固い(パパイヤ)。 C: (よく聞き取れないが、誰か(もしかして私?)を指して自分の子供だと言っているらしい) Mu: あなたの子供じゃありません。たしかに色白ですね。でもあの子は他人の子供です。 C: ああ、お前ら、私が彼のことを知らないと言ってるな。 Mu: あなた方がご存知のあの人です。

899

Murina(Mu): ああ、あなたはたくさんの子供をお持ちだ、あなた。 Chari(C): わしは生んだよ。 Mu: あなたはお生みになった、このように。 C: そうじゃ。そしてわしには、たくさんの子供がいるんじゃ、あんた。 Mu: いやいや、行く先々で手に入れた子供。そいつらは厄介ですよ。 C: いいや、どうしてだ?そいつらが私を埋葬してくれないとでも140。私は人の子だよ、あんた。ああ、わしはもう立ち去るよ。もう立ち止まりますまい。 Mu: 棍棒の(ように強固な)子供を、私は差し出しますよ。 C: もう立ち話もしないよ、わしは。なんと追い出されるのさ。別の奴ら(憑依霊たち)がやって来る。 Mu: 何者たちですか、また。 C: さて、例の問題も到来するに違いないね。 Mu: ああ、私は人々(憑依霊たち)が仲直りしあって、互いの言い分に耳を傾け合うことを願いますよ。 C: ああ、連中はまったくまったく仲直りさせられないよ、あんた。仲直りさせられない。

900

Murina(Mu): ろくでもない連中。でもそいつらにも、私が同じように調えて差し上げるってわかってほしい。 Chari(C): 別の連中は、あっちで喋っているよ。 Mu: あっちで喋っているその連中は、何が望みなんですか? C: 排便したいのさ。 Mu: 便意を催している? C: さてさて、わしはここを立ち去るよ。わしも排便しに行くよ。お前たち、ここでは排便しちゃいけないって言ってないかい?私はここでは排便しないことにするよ。やれやれ、イスラム教で溢れている141。逃げてった奴(憑依霊)は葉っぱ(makodza142)だよ(薬液(mavuo41)を欲しがっていた)。そいつは(要求が叶えられるのを我慢して待っていたが)すっかり疲れてしまった。昔からいる奴なのに、あんた。 Hamamoto(H): まだ疲れてませんよ。ちょっとうとうとしていただけです。(私に言われていると勘違いして、的はずれな発言をしている) C: (ムリナ氏に向かって)あちらでは疲れている。あんたに本当のことを言わせてくれよ。わかるよな、違うか? Mu: ところで(瓢箪を)持っていったのは誰ですか? C: 女が持っていったんだよ。さて、お前に言わせてくれ、おお。治療しなさいって、お前にもう言ったよな。だって、ひどい状態だよ、あんた。

901

Chari(C): (瓢箪子供の一つを指して)こいつじゃないかい、あんた。 Murina(Mu): それじゃないです。 C: これだけど、お前がすごく気に入っているお前の(瓢箪子供)だろう。それ、知っているよな、でも。 Mu: 知っています。 C: 今、お前がここを去っても、それのことを覚えているよな。 Mu: はい、覚えています。 C: さて、それ(瓢箪子供)が、そういう状態であるようにと。(妖術使いによって)お前はガンジ143の中に置かれていた。お前がそんな状態にいるようにと。お前が、まるで事態について考えられる者ではないかのようにね。というわけで、(妖術使いは)更に事態をさらに深刻にした。(そんな状態で)お前は(富を)どうやって手に入れられるというんだろう。さらに問題は憑依霊(の問題)とも混ぜられてしまった。(占いに行っても、そこで見えるのは)憑依霊ばかりだ(本当の原因である妖術は影に隠されてしまっている)。 Mu: 本当はそうじゃない(憑依霊の問題じゃなくて妖術の問題)のに。 Mu: (小屋の裏手で調理を担当している女性に向かって)子供たちはほっておいて、その子たちにもお茶を与えてやって。あなたは少しお休みください。子供たち(施術上の)よ、トウモロコシの粉は手に入れそこねました。トウモロコシの粉は手に入れそこねました。 (演奏再開、歌は書き起こされず)

憑依された女性に対する唱えごと

902 (憑依状態になった女性に対する唱えごと)

Chari(C): さて、穏やかに。あなたムルング子神(mwanamulungu144)。ペーポー(p'ep'o145)、バルーチ人(bulushi150)、クァビ人(mukpwaphi151)、キツィンバカジ(chitsimbakazi99)もご一緒に。やって来て、こんな風に唱えごとばかりされている、などとお考えにならないでください。「われわれは、毎日、唱えごとをされるだけで、自分たちに与えられる物はなにもない。ただただ唱えごとされ続けるだけだ」などとおっしゃらないでください。 そうではありません。肝心の「物」が見当たらないのです。物を手に入れるためには稼ぎが必要です。そして今、子供たちは稼ごうとしても、何も得ないのです。もしかしたら、皆さま方が子供たちの幸運(baraka152)を捕らえて(封じて)しまわれたのか、私にはわかりません。人は、稼いだら、手に入れるものです。それこそ、歌(wira107)をお与えする時なのです。今、子供たちは、ただ当惑しています。手に入るものが何もないのです。 OK! 穏やかに、あなたムルング子神、ペーポー子神(mwana p'ep'o145)、バラワ人(mubarawa153)、サンズア(sanzua129)、バルーチ人、クァビ人、天空のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha mulunguni99)、池のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha ziyani99)、地下世界のペーポーコマ(p'ep'ok'ma wa kuzimu154)、池のペーポーコマ(p'ep'ok'ma wa ziyani154)、ガラ人(mugala160)、ボニ人(muboni161)、ダハロ人(mudahalo162)、コロンゴ人(mukorongo163)。

903 (唱えごと、続く)

Chari(C): 私たちは申し上げます。人とは、仲間のために開かれたンゴマに参加する者。行って、憑依状態になり、機嫌よく踊って、そして立ち去ります。立ち去れば健康そのもの。今私は望みます。この者がここを去れば、健康そのものでここを去るようにと。行って手鍬を握り、畑を耕す。(私は望みます)子供たちのために幸運を解きほどいてくださることを。どうして今、購入されたすべて(家畜)が、死んでしまう、購入された物が永らえない。そしてこの、何かを手に入れることそのものも、大騒ぎと、ため息。 (こんな有り様では)あなた方にいったい何を調えて差し上げられるでしょうか。子供が、まずは(収入を)手に入れる。子供が手に入れれば、そこであなた方も、調えて差し上げられるようになるのです。でも、もし子供たちが何も手に入れなければ、さて、その後で、あなた方はいったい誰に調えてもらえるというのでしょう。今は、この者が健康に立ち去りますように。争いはございません、御主人様。彼女がここを去っても、あなた方が行って彼女の身体を壊し、壊しに来ることがございませんように、御主人様。 もしかしたら、彼女が私に何か過ちを犯したのでしょうか。全く何もものが手に入らない。そうでしたら、私は、さて、お静まりください。私の妻、私は(彼女の)つつがなきことを願います165 (カヤンバ奏者たち、演奏を開始する) C: まだよ!私、まだ唱えごとしてるのよ。 Kayamba Player(KP): そうなんだ!

904 (チャリ、別の女性に対する唱えごと)

Chari(C): どうか、おだやかに、おだやかに。このような時間にお話することもなかったでしょう。私がお話するとすれば、ニャンブーラ(女性名)さんのためです。ニャンブーラ、この者はンゴマにやって来ました。ンゴマにやってきたところ、この世に憑依霊をもっていない者などおりません。でももし人がンゴマの場で、あんなふうに憑依状態になると、楽しく踊ること、そしてそれが済むと、健康に(つつがなく)立ち去るものです。 サラマ、サラミーニ168の健康そのものを。さて、御主人様、あなたムルング子神、ペーポー子神、バラワ人、サンズア、バルーチ人、クァビ人、どうかおだやかに。 どうか、おだやかに、私たちは言います。穏やかにと申すためにやってまいりました。しかしながら、ここにお出でになり憑依なさったのは、この方、マサイ人です。そして今、ここを立ち去ろうとなさいません。この者(ニャンブーラ)は身体を折り壊され、壊されしてしまいます。家に帰り、家に行ったら、すっかり健康であること。もしあなた方の歌((wira107)を望んでおられるの)でしたら、あなた方にお差し出しいたします。今、私はゾンボさんを必要としています。彼がここを去り、街道に出たら、1000シリングを拾いますように。(そのお金で)あなた方のための歌を置いて差し上げられるでしょう。(そのときには)皆さま方、お出でになり、夜が明けるまでお踊りください。

905 (チャリの唱えごと、続き)

Chari(C): しかしながら、今は彼女が健康に立ち去りますように。争いはございません、私の兄弟たちよ。なぜならお金は、木の葉ではありません。木の葉であれば、人々はすぐにもしごき採って、ンゴマを開催しあうことでしょう。でも、今は、(お金は)稼がれねばなりません。そしてこの稼ぐことは、仕事を通じてです。お金は、もはや見ることができません。ちょっとした旅(モンバサに行くなど)でも、500シリングかかります。 どうか御主人様。私たちは皆さま方の足元に身を投げ出しております。争いはございません。今は、彼女が行って健康でありますように。ゾンボさんが、仕事でお金を手に入れますように。ムバヤさんが、2万シリングを拾いますように。彼こそがゾンボさんの父親にほかなりません。そして私の息子(施術上の)なのです。 Dzombo(Dz): 家では、ムバヤの妻のためのンゴマ、私の妻のためのンゴマ(の約束)があります。子供のためのンゴマ(の約束)も、また付け加わりました。私はどうやってあなた方の(施術上の)子供に対するンゴマを開催すればよいというのでしょう。 C: 私たちは拒みませんよ。さあ、ところで、何が悪いというんでしょう、お父さん。 Dz: じゃあ、わたしに500シリングください。私があなた方の子供のためのカヤンバを開きましょう。最後に彼女がンゴマを打ってもらって以来、あなた方は彼女に「お静まりください(お気の毒に、お悔やみ申します)」169をあたえようとなさらない。(さらに必要とされるンゴマについて)どんどん170お話しされるだけ。

906

Chari(C): じゃあ、お父さん、あなたが来てお話し(立案、計画)してちょうだい。だって、もしあなた方がお話しにこないなら、私の方からどうお話ししろっていうの? (カヤンバ演奏再開、以下2曲のみ書き起こされている) (シェラ(shera82)の歌) ヘー、瓢箪、ヘー、私は、驚いた、ヘー、瓢箪 ヘー、瓢箪、ヘー、私は、驚いた、癒やしの仕事 落ち着いて、ヘー、ウェー、お母さん 癒やしの術は、家には、無くなっちゃった 参考

Murina(Mu): 踊りなさい。このンゴマはあなたの「月のンゴマ」です。随分、久しぶりですから。喜びをもってお踊りください。そして解きほどいてください。

(マサイの歌)

ヘー、へー、私は苦しい ウェー、お母さん、槍と盾を握って 私の家の中で、誰が殺されたの、ムァマディ...(以下、聞き取れない)

907

Dzombo(Dz): サラマ、サラマ。仲間のために開かれたンゴマを聞いて、やって来るのは、よいことです。 Kayamba Player(KP): 施術師の方々、ご傾聴ください96 People: ムルングの。 Bekpwekpwe(B): さあ、あなたがそうおっしゃるとしたら、私のヤギは?171 Mawaya(Maw): (チャリに対して)お母さん、あなたの病気が治りますように、癒やしの術が解きほどかれますように。 KP: あなたの病気が治りますように、癒やしの術が輝きますように。だって、彼女は痩せこけていますから。以前はこうではなかった。(外に出されずに)残っている霊たちも、いつかは終わりますよ。私が最後(施術上の子供の)にいます。私はいまや一人前の大人ですので、私は弟がほしいのです。 B: その弟ができたら、その兄は何という名前になるんだい? Maw: 兄はンドゥレンゲ、彼はゼンゲさ。 [End of Cassette]

考察

演奏された歌については、ほとんど書き起こしをせず、憑依霊(チャリに憑いた)とムリナ氏を含む周囲の人々とのやり取りの書き起こしが中心であるが、はっきり言って何が展開しているのか、ほとんどわからないだろうと思う。参加していた当の私にも、ほとんどわからなかったくらいだから。

チャリとムリナの夫婦に引き合わされて、その日のうちに同行した日中のカヤンバで、見かけた覚えのある顔が、この日の「月のカヤンバ」にも何人かいたが、その名前もまだ知らず、ほとんど顔なじみのいないカヤンバに独りでやってきて、はっきり言って私は途方に暮れていた。

さらに、このカヤンバの1週間後に交わした雑談の中で明らかになったのだが、チャリのようにたくさんの憑依霊をもっている者に対するカヤンバで起こりがちとされている、霊たちの殺到という問題がある。霊たちが殺到して、互いに妨害しあい、歌である霊を呼んでも、それを邪魔する霊が先にやって来て本来の霊が出てくることを妨害し、自分の歌が演奏され要求を聞いてもらえるまで立ち去らない、などということが起こる。これも、見ている方としては、何が起こっているかわからないことになる。

以下の考察は、調査時点では知り得ず、後で知った背景知識などを踏まえたもので、当時の私の理解(無理解)とはかなりズレている。

後にわかったことだが、この「月のカヤンバ」はチャリにとってはかなり久しぶりの実施であったらしい。翌週(実際には翌月に延期されたが)開催予定だった、チャリを憑依霊ディゴ人(mudigo81)、シェラ(shera82)、ライカ(laika172)、デナ(及びニャリ(dena & nyari187188)で「外に出す」大掛かりなンゴマ開催を控えて、チャリの憑依霊たちにその実施について周知するためのものだということだ。しかし、後述するように、霊が現れて話を始める都度、チャリに子供ができない問題が繰り返し持ち出されていた。ムリナ夫婦と「施術上の子供」たちにとって憂慮すべき問題として共有されていたと思われる。

  1. 冒頭の唱えごと

カヤンバ演奏を主導する筆頭演奏者・独唱者(ngui121)による唱えごと。 録音は途中からで短いものだが、「月のカヤンバ」の趣旨をよく踏まえている。憑依霊たちに、やってきて機嫌よく踊って満足したら休み、帰って行って欲しいと言っている。それぞれの霊がもっている要求については、語らないでほしい。ただし集まっている人間たちの誰かが何か問題をかかえているのがわかったら、助言して欲しい、などと都合の良いお願いをしている。

  1. 霊とのやり取り: 夜中の休憩前

冒頭での「お願い」にもかかわらず、霊はときに不機嫌で、自分の叶えられていない要求について語ったりもする。

  1. ムルング 最初のムルングの一連の曲で、チャリは憑依状態になる(ゴロモクヮする)。不機嫌で、なぜか演奏者たちに対して怒っている様子。しかし機嫌よく踊れと説得されて、自ら歌い、踊る。歌が気に食わなかったのだろうか(知らんけど)。

  1. ジンジャ導師

一連の憑依霊たちの曲が演奏された後(全てでチャリは機嫌よく踊っていたが、ゴロモクヮしていたかどうかは見ただけではわからない)、突然手を上げて歌を停止させ、自らジンジャ導師の歌を歌いだす。この歌は一般には全く知られてはいない。ワタシ的にはチャリが自作(作詞・作曲)した歌なのだが、チャリは夢の中でジンジャ導師本人から教えてもらったのだという。チャリの「施術上の子供たち」はすでにこの歌をよく知っており、すぐにフォローに入る。 ジンジャ導師(mwalimu jinja75)の正体だが、当時は別名「憑依霊ガンダ人(muganda189」、その実体は「世界導師(mwalimu dunia3)」だとも言われていた。でも本当のところ曖昧。カリマンジャロ(kalimanjaro190)だったりもした。いずれもこの地域では、チャリ固有の霊たちなので、(当時の私にとっては)どうでも良かったのだが。一方、ムリナ氏は「世界導師」の正体が実は憑依霊ペンバ人の筆頭であるジャバレ導師(mwalimu jabale2)だと考えていたくさい。 その後、この「世界導師」のアバター(?)たちの正体は、セゲジュ人だったり、ギリアマ系のサンズアだったりと、変遷していくのだが、そもそも「正体」という概念が憑依霊にあてはまるのかどうか、いささか疑問ではある。 ここではジンジャ導師の言語はガンダ語だとされている。ガンダ語ではコミュニケーションできないということで、どうやら(なぜか)ギリアマ語(実際にはギリアマ語混じりのドゥルマ語)で会話することになっていたようだ。チャリの占いを司る霊だということで、ムリナたちは、集まっている人々の問題についてジンジャ導師に占ってもらいたいらしい。 しかし、気分を害してしまったのか、ジンジャ導師は「ガンダ語」でわめき始める。当然誰にも理解不可能なのだが、ムリナはあたかもジンジャの言葉が少しわかっているかのように、ジンジャが「子供」を害している妖術攻撃について語っていると解釈し、妖術使いが誰か教えてほしいと迫る。 当時の私には、こうしたやりとりは全く理解不能だったのだが、ムリナはいきなり、チャリの「施術上の子供たち」をジンジャに紹介し始める。それぞれが「ガンダ人」っぽい名前をもっている。後にわかったことだが、ンドゥレンゲは当時のチャリの一番弟子ともいえるマワヤ氏、ンデンゲはその弟A氏、ゼンゲは年下ではあるが父(マワヤ氏の実父の弟)B氏である。ここでの最大の問題はゼンゲ氏に「弟」ができないという問題なのだが、弟といっても施術上の弟ということになる。ずっとあとになってわかるのだが、現実に問題だったのは、ムリナとチャリの間に何年経っても子供が生まれないという事実だった。実はタブもムチェンザラも、チャリと別れた前夫との間の子供で、ムリナとチャリの間には10年以上たって子供がいないのである。当時、そんな事情を私は知る由もない。チャリの「腹」の病気の本当の問題はこれだった。憑依霊どもがずっとチャリの腹を封じてしまっており、妊娠したと思っても子供が育たない(とチャリたちは言うのだが)のも、憑依霊の仕業とされてきた。しかしムリナは妖術が関係していると強く疑っていた、ということらしい。この時点では、私にはそんな事情はわからない。 結局、ジンジャ導師はその原因となっている妖術使いについて知らないと答えを拒み、そこに居合わせた彼女の別の施術上の子供であったズマ氏の妻の生まれたばかりの赤ん坊のトラブルについての占いを始める。いつものチャリの鮮やかな占いである。 その後、ジンジャ導師と居合わせた人々との間でコミカルなやり取りがなされる。ムリナが再度もとの問題に引き戻そうとするが、ジンジャ導師は、土を食べたいなどとコミカルなやりとりでいなし、自分以外にすでにたくさんの要望を叶えられていない憑依霊がここにやって来ていると告げ、そいつらのための曲を演奏してやってくれと言う。

  1. 世界導師?

ジンジャ導師が退出しかかったとき、なぜか突然憑依状態になったムリナ氏が、「アラビア語」(当然、その場にいる誰も理解できない)を延々とわめき始め、ローズウォーターをがぶ飲みしながら、スワヒリ語中心の唱えごとに移行。内容はあきらかに相手をイスラム系の憑依霊とみなした語りである。当時の私には、当然、何がなんだかわからないが、後々の知識から判断すると、実はアイデンティティがまだまだ曖昧だったジンジャ導師の、別人格のような扱いをされていた、イスラム系の霊の頂点にいると(ムリナ、チャリの理論ではみなされていた)世界導師とその仲間のイスラム系の霊たち--この時期にはムリナはさらに世界導師の正体が実は憑依霊ペンバ人の仲間であるジャバレ導師であるという独自の解釈をしていた--に対する唱えごとである。11月24日の雑談でムリナが説明したとおり、ジャバレ導師が他の憑依霊たちを妨害していたのであった。

  1. 霊とのやり取り: 夜中の休憩後

マコロウツィク(makoloutsiku76)の後は、多くの霊の曲が次々と演奏されていき、人々もチャリも機嫌よく踊っていたが、ギリアマ語をもっぱらしゃべる霊(おそらくはピーニ(pini128)と、チャリのもっている霊のなかでももっとも剽軽で人々の笑いを誘う憑依霊ドゥルマ人(muduruma46)が、ムリナや他の施術上の子供たちと、長々とよくわからないやり取りを行った。

  1. ギリアマ語を話す霊(おそらくはピーニ)

ここでもチャリ自身が、突然歌を先導することで、霊が出現した。先のジンジャ導師の場合は「ガンダ語」が始まるまではギリアマ語混じりのドゥルマ語でやり取りがなされたが、ここでは最初からギリアマ語のみのやり取りである。ムリナがこのギリアマの霊に相談し、ギリアマの霊がいろいろ教えてやっているという構図である。もちろん、彼らがいったい何の話をしているのか、当時の私にはまるで見当がつかなかったのは、言うまでもない。 ムリナとチャリ夫婦は自分たちの施術師としての今後について、込み入った多くの計画を持っていた。チャリには多数の憑依霊がすでに現れており、その多くが叶えられていない要望をかかえていた。それをまだ伝えることすらしていない霊たちも多数いた。さらにまだ現れてすらいない霊たちも多数いるということだった。この日のカヤンバの2週間後に、二人からこうした計画の一端を聞くことができた。そこでは翌月に行われる予定の憑依霊シェラ(shera82)、ディゴ人(mudigo81)、ライカ(laika172)を「外に出す」ンゴマと、それが済んだ後に行ないたいイスラム系の憑依霊ペンバ人(mupemba45)を「外に出す」ンゴマが語られている。前者はこのギリアマ語をしゃべる霊とのやり取りの中でも言及されている。その2つはおそらく優先順位の高いものだったのだろう。しかしこのギリアマ語をしゃべる(おそらくはピーニ(pini128)であろうと思われる)霊は、自らに癒やしの仕事が早く与えられるよう、しきりと催促している。 興味深いのは、このギリアマの憑依霊は、チャリやムリナら施術師がこだわる施術のやり方の詳細にこだわらない、そうした規則はどうでもよいという見解をもっているらしい点である。ンゴマを開催する前にかならず設置せねばならない「鍋治療(nyungu38)」や、しかじかの定まったビーズ飾り、その他についてそれらが癒やしの術にとっては本質的ではない、やってもやらなくてもどうでもよいことだという、おそろしく過激な主張である。鍋やビーズ飾りが施術の知識をお前に教えてくれるわけじゃない。癒やしの術の知識を「語ってくれる」のは鍋やビーズ飾りじゃなくて、「頭」なのだ、つまり憑依霊が直に人の頭の中に告げ、教えてくれるものなのだという、一種の「原理主義」みたいな話だ。ふだんやたらと施術のやり方の詳細にこだわり、規則に厳しい(他の施術師たちを規則から外れているという理由で、しばしば辛辣に批判する)チャリの口からこうした発言が出てくるのはびっくりだ。あ、しゃべっているのはチャリじゃなくて、チャリに憑いているギリアマ語をしゃべる霊なんだけど。 これを書いている、現在の時点でも、このギリアマ語をしゃべるおそらく憑依霊ピーニだろうと思われるギリアマの長老とのやり取りの、すべてを私が理解できているわけではない。1989年の時点で、ムリナとチャリ、そして彼らの「施術上の子供たち」が共有していた文脈的知識が私に欠けていたことは、どうしようもない事実で、また現在においてそれらを獲得することは永遠に阻まれている。フィールドワークなんてのは、そんなものだ。

  1. 憑依霊ドゥルマ人

憑依霊ドゥルマ人は、憑依霊の中でももっとも厄介な霊の一つである。無礼者で自己中心的、他の憑依霊のための治療にも割り込んできて、邪魔をし、自分のための治療をまずは要求する困り者である。しかしその要求を拒むと、病人を苦しめる。補足しておくと、憑依霊自身がなぜ自分が引き起こしている病気の「治療」を求めるのかというと、ンゴマ鍋治療について解説した際に述べていたように、それらの治療は患者の身体に働きかけるものというよりは、患者の病気を引き起こしている憑依霊たちに対する歓待、饗応、ごちそうなのである。単純な場合、憑依霊はそうした饗応を要求して、それを伝える手段として患者を病気にしているわけだ。 憑依霊ドゥルマ人が厄介なのは、その要求の呵責なさである。そして他の憑依霊が施術に寄って饗応を受けていることに簡単に嫉妬し、それを妨害するばかりか、自分に対する饗応を執拗に要求するところである。 一方、カヤンバやンゴマに登場するドゥルマ人は、無礼で礼儀知らずの田舎者として登場する。洗練された今日のドゥルマの礼儀すら守れず、人前で平気で排便、排尿したがり、その都度、ンゴマに集まっている人々の顰蹙と笑いを買う。田舎者なので、売店で買えるトウモロコシ粉で作った練粥を拒み、ちゃんと臼で搗いて石臼で挽いたトウモロコシ粉で作った練粥にこだわり、野草の煮物をおかずとして要求する。容器も木をくり抜いて作ったお椀じゃないと受け入れない。 田舎者で、洗練されておらず、礼儀をわきまえず、平気で汚いことをするドゥルマ人は、ある意味で、洗練されており、清潔好きで、汚いものを嫌うイスラム系の霊たちの対極にいる。イスラム系の霊が気難しく、不機嫌で、いつも怒っており、容赦ないのに対して、ドゥルマ人は、コミカルで、場違いで、冗談好きである。憑依霊ドゥルマ人が、ドゥルマの人々の自画像だとすると、自己卑下が半端ない気がするのだが、別項でも触れたように、ドゥルマ人が登場すると、人々は自分たちを「ディゴ人」であるかのように応対するのが面白い。 チャリのンゴマに登場するドゥルマ人も、こうしたドゥルマ人の属性をしっかり見せてくれている。いきなり排便したいとか言い出したり。それまでのジンジャ導師や世界導師(?)、ギリアマ語をしゃべる霊に見られた、施術師と施術上の問題を話し合ったり、要求を突きつけ合ったりといったシリアスなやり取りは、ほとんどなく、コントのような展開。最後は、ムリナがどのようにして妖術使いに攻撃されたのかを指摘して去っていく。

  1. 明け方の盛り上がりと憑依した女性たちへの唱えごと

その後は、いつものように大盛りあがり。「牛追い人(murisa191)」、憑依霊ガラ人(mugala160)、ライカたち(laika172)、ディゴ人(mudigo81)、シェラ(shera82)、マサイ人(masai192)などなど、次々と演奏され、人々踊りまくる。ゴロモクヮして倒れてしまう人も何名か。 憑依霊と施術師らが延々とやり取りする場面がそれなりに長いそれまでとは打って変わって、ひたすら歌と踊りの時間だ。実は憑依霊と施術師のやり取りは、内容的には意味深なのだが(憑依霊ドゥルマ人ですら)、カヤンバ的にはそのやり取りに加わり、あるいは取り巻くように真剣に耳をすませているコア・グループ以外は、ちょっと盛り下がる時間なのである。それに比して、夜明け前のこの時間は、ひたすら盛り上がる。チャリもよく体力がもつとこちらが驚くほどテンション高い。私も、カヤンバを渡されて(マイ・カヤンバを作ってもらうのは後の話である)、演奏に参加するよう言われる。リズムを外してしまうんじゃないかとビクビクもの。はずすとメチャ目立つ。 調査という観点からは、情報量は少なく、むしろ仮眠をとりたいくらいの時間帯なのだが、演奏される曲のメモすらとらず、つられて盛り上がってしまう。 はげしくゴロモクヮした二人の女性のために、チャリが急遽唱えごとをして、彼女らを小屋に連れていき休ませるという場面以外は、最後まで盛り上がりは続いた。

終了後は、マハムリと紅茶の簡単な朝食が、集まった人々に振る舞われた。その後、進行を補佐したムテジ(muteji70)、カヤンバの歌い手や演奏者らに少額の謝礼(fungu195)が渡された。飢饉の年であったため、本来は「月のカヤンバ」のための食材の提供や、募金が「子供たち」には期待されていたが、集まりは悪く、多くはムリナ夫婦の持ち出しとなった。集まった人々の間でのいざこざも、謝礼の分配を巡っての論争もなく、和やかなうちに終了したカヤンバだった。

注釈


1 ムリナとチャリ(Murina & Chari)。私が調査中、最も懇意にしていた施術師夫婦のひとつ。Murinaは妖術を治療する施術師だが、イスラム系の憑依霊Jabale導師2などをもっている。ただし憑依霊の施術師としては正式な就任儀式(ku-lavya konze44を受けていない。その妻Chariは憑依霊の施術師。多くの憑依霊をもっている。1989年以来の課題はイスラム系の怒りっぽい霊ペンバ人(mupemba45)の施術師に正式に就任することだったが、1994年3月についにそれを終えた。彼女がもつ最も強力な霊は「世界導師(mwalimu dunia)3」とドゥルマ人(muduruma46)。他に彼女の占い(mburuga)をつかさどるとされるガンダ人、セゲジュ人、ピニ(サンズアの別名とも)、病人の奪われたキブリ(chivuri52)を取り戻す「嗅ぎ出し(ku-zuza53)」をつかさどるライカ、シェラなど、多くの霊をもっている。
2 ジャバレ(jabale)。憑依霊ジャバレ導師(mwalimu jabale)。憑依霊ペンバ人のトップ(異説あり)。世界導師(mwalimu dunia3)の別名だと言う人もいるが。症状: 血を吸われて死体のようになる、ジャバレの姿が空に見えるようになる。世界導師(mwalimu dunia)と同じ瓢箪子供を共有。草木も、世界導師、ジンジャ(jinja)、カリマンジャロ(kalimanjaro)とまったく同じ。同時に「外に出される」つまり世界導師を外に出すときに、一緒に出てくる。治療: mupemba の mihi(mavumba maphuphu、mihi ya pwani: mikoko mutsi, mukungamvula, mudazi mvuu, mukanda)に muduruma の mihi を加えた nyungu を kudzifukiza 8日間。(注についての注釈: スワヒリ語 jabali は「岩、岩山」の意味。ドゥルマでは入道雲を指してjabaleと言うが、スワヒリ語にはこの意味はない。一方スワヒリ語には jabari 「全能者(Allahの称号の一つ)、勇者」がある。こちらのほうが憑依霊の名前としてはふさわしそうに思えるが、施術師の解説ではこちらとのつながりは見られない。ドゥルマ側での誤解の可能性も。憑依霊ジャバレ導師は、「天空におわしますジャバレ王 mfalme jabale mukalia anga」と呼びかけられるなど、入道雲解釈もドゥルマではありうるかも。
3 ムァリム・ドゥニア(mwalimu dunia)。「世界導師4。内陸bara系5であると同時に海岸pwani系6であるという2つの属性を備えた憑依霊。別名バラ・ナ・プワニ(bara na pwani「内陸部と海岸部」43)。キナンゴ周辺ではあまり知られていなかったが、Chariがやってきて、にわかに広がり始めた。ヘビ。イスラムでもあるが、瓢箪子供をもつ点で内陸系の霊の属性ももつ。
4 イリム・ドゥニア(ilimu dunia)。ドゥニア(dunia)はスワヒリ語で「世界」の意。チャリ、ムリナ夫妻によると ilimu dunia(またはelimu dunia)は世界導師(mwalimu dunia3)の別名で、きわめて強力な憑依霊。その最も顕著な特徴は、その別名 bara na pwani(内陸部と海岸部)からもわかるように、内陸部の憑依霊と海岸部のイスラム教徒の憑依霊たちの属性をあわせもっていることである。しかしLambek 1993によると東アフリカ海岸部のイスラム教の学術の中心地とみなされているコモロ諸島においては、ilimu duniaは文字通り、世界についての知識で、実際には天体の運行がどのように人の健康や運命にかかわっているかを解き明かすことができる知識体系を指しており、mwalimu duniaはそうした知識をもって人々にさまざまなアドヴァイスを与えることができる専門家を指し、Lambekは、前者を占星術、後者を占星術師と訳すことも不適切とは言えないと述べている(Lambek 1993:12, 32, 195)。もしこの2つの言葉が東アフリカのイスラムの学術的中心の一つである地域に由来するとしても、ドゥルマにおいては、それが甚だしく変質し、独自の憑依霊的世界観の中で流用されていることは確かだといえる。
5 バラ(bara)。スワヒリ語で「大陸、内陸部、後背地」を意味する名詞。ドゥルマ語でも同様。非イスラム系の霊は一般に「内陸部の霊 nyama wa bara」と呼ばれる。反対語はプワニ(pwani)。「海岸部、浜辺」。イスラム系の霊は一般に「海岸部の霊 nyama wa pwani」と呼ばれる。
6 ニャマ・ワ・キゾンバ(nyama wa chidzomba, pl. nyama a chidzomba)。「イスラム系の憑依霊」。イスラム系の霊は「海岸の霊 nyama wa pwani」とも呼ばれる。イスラム系の霊たちに共通するのは、清潔好き、綺麗好きということで、ドゥルマの人々の「不潔な」生活を嫌っている。とりわけおしっこ(mikojo、これには「尿」と「精液」が含まれる)を嫌うので、赤ん坊を抱く母親がその衣服に排尿されるのを嫌い、母親を病気にしたり子供を病気にし、殺してしまったりもする。イスラム系の霊の一部には夜女性が寝ている間に彼女と性交をもとうとする霊がいる。男霊(p'ep'o mulume7)の別名をもつ男性のスディアニ導師(mwalimu sudiani28)がその代表例であり、女性に憑いて彼女を不妊にしたり(夫の精液を嫌って排除するので、子供が生まれない)、生まれてくる子供を全て殺してしまったり(その尿を嫌って)するので、最後の手段として危険な除霊(kukokomola)の対象とされることもある。イスラム系の霊は一般に獰猛(musiru)で怒りっぽい。内陸部の霊が好む草木(muhi)や、それを炒って黒い粉にした薬(muhaso)を嫌うので、内陸部の霊に対する治療を行う際には、患者にイスラム系の霊が憑いている場合には、このことについての許しを前もって得ていなければならない。イスラム系の霊に対する治療は、薔薇水や香水による沐浴が欠かせない。このようにきわめて厄介な霊ではあるのだが、その要求をかなえて彼らに気に入られると、彼らは自分が憑いている人に富をもたらすとも考えられている。
7 ペーポームルメ(p'ep'o mulume)。ムルメ(mulume)は「男性」を意味する名詞。男性のスディアニ Sudiani、カドゥメ Kadumeの別名とも。女性がこの霊にとり憑かれていると,彼女はしばしば美しい男と性交している夢を見る。そして実際の夫が彼女との性交を求めても,彼女は拒んでしまうようになるかもしれない。夫の方でも勃起しなくなってしまうかもしれない。女性の月経が終ったとき、もし夫がぐずぐずしていると,夫の代りにペポムルメの方が彼女と先に始めてしまうと、たとえ夫がいくら性交しようとも彼女が妊娠することはない。施術師による治療を受けてようやく、彼女は妊娠するようになる。その治療が功を奏さない場合には、最終的に除霊(ku-kokomola8)もありうる。
8 ク・ココモラ(ku-kokomola)。「除霊する」。憑依霊を2つに分けて、「身体の憑依霊 nyama wa mwirini9」と「除去の憑依霊 nyama wa kuusa1011と呼ぶ呼び方がある。ある種の憑依霊たちは、女性に憑いて彼女を不妊にしたり、生まれてくる子供をすべて殺してしまったりするものがある。こうした霊はときに除霊によって取り除く必要がある。ペポムルメ(p'ep'o mulume7)、カドゥメ(kadume19)、マウィヤ人(Mawiya20)、ドゥングマレ(dungumale23)、ジネ・ムァンガ(jine mwanga24)、トゥヌシ(tunusi25)、ツォビャ(tsovya27)、ゴジャマ(gojama22)などが代表例。しかし除霊は必ずなされるものではない。護符pinguやmapandeで危害を防ぐことも可能である。「上の霊 nyama wa dzulu17」あるいはニューニ(nyuni「キツツキ」18)と呼ばれるグループの霊は、子供にひきつけをおこさせる危険な霊だが、これは一般の憑依霊とは別個の取り扱いを受ける。これも除霊の主たる対象となる。動詞ク・シンディカ(ku-sindika「(戸などを)閉ざす、閉める、閉め出す」)、ク・ウサ(ku-usa「除去する」)、ク・シサ(ku-sisa「(客などを)送っていく、見送る、送り出す(帰り道の途中まで同行して)、殺す」)も同じ除霊を指すのに用いられる。スワヒリ語のku-chomoa(「引き抜く」「引き出す」)から来た動詞 ku-chomowa も、ドゥルマでは「除霊する」の意味で用いられる。ku-chomowaは一つの霊について用いるのに対して、ku-kokomolaは数多くの霊に対してそれらを次々取除く治療を指すと、その違いを説明する人もいる。
9 ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini)「身体の憑依霊」。除霊(kukokomola8)の対象となるニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa)「除去の憑依霊」との対照で、その他の通常の憑依霊を「身体の憑依霊」と呼ぶ分類がある。通常の憑依霊は、自分たちの要求をかなえてもらうために人に憑いて、その人を病気にする。施術師がその霊と交渉し、要求を聞き出し、それを叶えることによって病気は治る。憑依霊の要求に応じて、宿主は憑依霊のお気に入りの布を身に着けたり、徹夜の踊りの会で踊りを開いてもらう。憑依霊は宿主の身体を借りて踊り、踊りを楽しむ。こうした関係に入ると、憑依霊を宿主から切り離すことは不可能となる。これが「身体の憑依霊」である。こうした霊を除霊することは極めて危険で困難であり、事実上不可能と考えられている。
10 ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa11)。「除去の憑依霊」。憑依霊のなかのあるものは、女性に憑いてその女性を不妊にしたり、その女性が生む子供を殺してしまったりする。その場合には女性からその憑依霊を除霊する(kukokomola8)必要がある。これはかなり危険な作業だとされている。イスラム系の霊のあるものたち(とりわけジネと呼ばれる霊たち14)は、イスラム系の妖術使いによって攻撃目的で送りこまれる場合があり、イスラム系の施術師による除霊を必要とする。妖術によって送りつけられた霊は、「妖術の霊(nyama wa utsai)」あるいは「薬の霊(nyama wa muhaso)」などの言い方で呼ばれることもある。ジネ以外のイスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba6)も、ときに女性を不妊にしたり、その子供を殺したりするので、その場合には除霊の対象になる。ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl.nyama a dzulu17)「上の霊」あるいはニューニ(nyuni18)と呼ばれる多くは鳥の憑依霊たちは、幼児にヒキツケを引き起こしたりすることで知られており、憑依霊の施術師とは別に専門の施術師がいて、彼らの治療の対象であるが、ときには成人の女性に憑いて、彼女の生む子供を立て続けに殺してしまうので、除霊の対象になる。内陸系の霊のなかにも、女性に憑いて同様な危害を及ぼすものがあり、その場合には除霊の対象になる。こうした形で、除霊の対象にならない憑依霊たちは、自分たちの宿主との間に一生続く関係を構築する。要求がかなえられないと宿主を病気にするが、友好的な関係が維持できれば、宿主にさまざまな恩恵を与えてくれる場合もある。これらの大多数の霊は「除去の憑依霊」との対照でニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini9)「身体の憑依霊」と呼ばれている。
11 クウサ(ku-usa)。「除去する、取り除く」を意味する動詞。転じて、負っている負債や義務を「返す」、儀礼や催しを「執り行う」などの意味にも用いられる。例えば祖先に対する供犠(sadaka)をおこなうことは ku-usa sadaka、婚礼(harusi)を執り行うも ku-usa harusiなどと言う。クウサ・ムズカ(muzuka)あるいはミジム(mizimu)とは、ムズカに祈願して願いがかなったら云々の物を供犠します、などと約束していた場合、成願時にその約束を果たす(ムズカに「支払いをする(ku-ripha muzuka)」ともいう)ことであったり、妖術使いがムズカに悪しき祈願を行ったために不幸に陥った者が、それを逆転させる措置(たとえば「汚れを取り戻す」12など)を行うことなどを意味する。
12 ノンゴ(nongo)。「汚れ」を意味する名詞だが、象徴的な意味ももつ。ノンゴの妖術 utsai wa nongo というと、犠牲者の持ち物の一部や毛髪などを盗んでムズカ13などに隠す行為で、それによって犠牲者は、「この世にいるようで、この世にいないような状態(dza u mumo na dza kumo)」になり、何事もうまくいかなくなる。身体的不調のみならずさまざまな企ての失敗なども引き起こす。治療のためには「ノンゴを戻す(ku-udza nongo)」必要がある。「悪いノンゴ(nongo mbii)」をもつとは、人々から人気がなくなること、何か話しても誰にも聞いてもらえないことなどで、人気があることは「良いノンゴ(nongo mbidzo)」をもっていると言われる。悪いノンゴ、良いノンゴの代わりに「悪い臭い(kungu mbii)」「良い臭い(kungu mbidzo)」と言う言い方もある。
13 ムズカ(muzuka)。特別な木の洞や、洞窟で霊の棲み処とされる場所。また、そこに棲む霊の名前。ムズカではさまざまな祈願が行われる。地域の長老たちによって降雨祈願が行われるムルングのムズカと呼ばれる場所と、さまざまな霊(とりわけイスラム系の霊)の棲み処で個人が祈願を行うムズカがある。後者は祈願をおこないそれが実現すると必ず「支払い」をせねばならない。さもないと災が自分に降りかかる。妖術使いはしばしば犠牲者の「汚れ12」をムズカに置くことによって攻撃する(「汚れを奪う」妖術)という。「汚れを戻す」治療が必要になる。
14 マジネ(majine)はジネ(jine)の複数形。イスラム系の妖術。イスラムの導師に依頼して掛けてもらうという。コーランの章句を書いた紙を空中に投げ上げるとそれが魔物jineに変化して命令通り犠牲者を襲うなどとされ、人(妖術使い)に使役される存在である。自らのイニシアティヴで人に憑依する憑依霊のジネ(jine)と、一応区別されているが、あいまい。フィンゴ(fingo15)のような屋敷や作物を妖術使いから守るために設置される埋設呪物も、供犠を怠ればジネに変化して人を襲い始めるなどと言われる。
15 フィンゴ(fingo, pl.mafingo)。私は「埋設薬」という翻訳を当てている。(1)妖術使いが、犠牲者の屋敷や畑を攻撃する目的で、地中に埋設する薬(muhaso16)。(2)妖術使いの攻撃から屋敷を守るために屋敷のどこかに埋設する薬。いずれの場合も、さまざまな物(例えば妖術の場合だと、犠牲者から奪った衣服の切れ端や毛髪など)をビンやアフリカマイマイの殻、ココヤシの実の核などに詰めて埋める。一旦埋設されたフィンゴは極めて強力で、ただ掘り出して捨てるといったことはできない。妖術使いが仕掛けたものだと、そもそもどこに埋められているかもわからない。それを探し出して引き抜く(ku-ng'ola mafingo)ことを専門にしている施術師がいる。詳しくは〔浜本満,2014,『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版会、pp.168-180〕。妖術使いが仕掛けたフィンゴだけが危険な訳では無い。屋敷を守る目的のフィンゴも同様に屋敷の人びとに危害を加えうる。フィンゴは定期的な供犠(鶏程度だが)を要求する。それを怠ると人々を襲い始めるのだという。そうでない場合も、例えば祖父の代の誰かがどこかに仕掛けたフィンゴが、忘れ去られて魔物(jine14)に姿を変えてしまうなどということもある。この場合も、占いでそれがわかるとフィンゴ抜きの施術を施さねばならない。
16 ムハソ muhaso (pl. mihaso)「薬」、とりわけ、土器片などの上で焦がし、その後すりつぶして黒い粉末にしたものを指す。妖術(utsai)に用いられるムハソは、瓢箪などの中に保管され、妖術使い(および妖術に対抗する施術師)が唱えごとで命令することによって、さまざまな目的に使役できる。治療などの目的で、身体に直接摂取させる場合もある。それには、muhaso wa kusaka 皮膚に塗ったり刷り込んだりする薬と、muhaso wa kunwa 飲み薬とがある。muhi(草木)と同義で用いられる場合もある。10cmほどの長さに切りそろえた根や幹を棒状に縦割りにしたものを束ね、煎じて飲む muhi wa(pl. mihi ya) kunwa(or kujita)も、muhaso wa(pl. mihaso ya) kunwa として言及されることもある。このように文脈に応じてさまざまであるが、妖術(utsai)のほとんどはなんらかのムハソをもちいることから、単にムハソと言うだけで妖術を意味する用法もある。
17 ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl. nyama a dzulu)。「上の動物、上の憑依霊」。ニューニ(nyuni、直訳するとキツツキ18)と総称される、主として鳥の憑依霊だが、ニューニという言葉は乳幼児や、この病気を持つ子どもの母の前で発すると、子供に発作を引き起こすとされ、忌み言葉になっている。したがってニューニという言葉の代わりに婉曲的にニャマ・ワ・ズルと言う言葉を用いるという。多くの種類がいるが、この病気は憑依霊の病気を治療する施術師とは別のカテゴリーの施術師が治療する。時間があれば別項目を立てて、詳しく紹介するかもしれない。ニャマ・ワ・ズル「上の憑依霊」のあるものは、女性に憑く場合があるが、その場合も、霊は女性をではなく彼女の子供を病気にする。病気になった子供だけでなく、その母親も治療される必要がある。しばしば女性に憑いた「上の霊」はその女性の子供を立て続けに殺してしまうことがあり、その場合は除霊(kukokomola8)の対象となる。
18 ニューニ(nyuni)。「キツツキ」。道を進んでいるとき、この鳥が前後左右のどちらで鳴くかによって、その旅の吉凶を占う。ここから吉凶全般をnyuniという言葉で表現する。(行く手で鳴く場合;nyuni wa kumakpwa 驚きあきれることがある、右手で鳴く場合;nyuni wa nguvu 食事には困らない、左手で鳴く場合;nyuni wa kureja 交渉が成功し幸運を手に入れる、後で鳴く場合;nyuni wa kusagala 遅延や引き止められる、nyuni が屋敷内で鳴けば来客がある徴)。またnyuniは「上の霊 nyama wa dzulu17」と総称される鳥の憑依霊、およびそれが引き起こす子供の引きつけを含む様々な病気の総称(ukongo wa nyuni)としても用いられる。(nyuniの病気には多くの種類がある。施術師によってその分類は異なるが、例えば nyuni wa joka:子供は泣いてばかり、wa nyagu(別名 mwasaga, wa chiraphai):手脚を痙攣させる、その他wa zuni、wa chilui、wa nyaa、wa kudusa、wa chidundumo、wa mwaha、wa kpwambalu、wa chifuro、wa kamasi、wa chip'ala、wa kajura、wa kabarale、wa kakpwang'aなど。これらの「上の霊」のなかには母親に憑いて、生まれてくる子供を殺してしまうものもおり、それらは危険な「除霊」(kukokomola)の対象となる。
19 カドゥメ(kadume)は、ペポムルメ(p'ep'o mulume)、ツォビャ(tsovya)などと同様の振る舞いをする憑依霊。共通するふるまいは、女性に憑依して夜夢の中にやってきて、女性を組み敷き性関係をもつ。女性は夫との性関係が不可能になったり、拒んだりするようになりうる。その結果子供ができない。こうした点で、三者はそれぞれの別名であるとされることもある。護符(ngata)が最初の対処であるが、カドゥメとツォーヴャは、取り憑いた女性の子供を突然捕らえて病気にしたり殺してしまうことがあり、ペポムルメ以上に、除霊(kukokomola)が必要となる。
20 マウィヤ(Mawiya)。民族名の憑依霊、マウィヤ人(Mawia)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつ。同じ地域にマコンデ人(makonde21)もいるが、憑依霊の世界ではしばしばマウィヤはマコンデの別名だとも主張される。ともに人肉を食う習慣があると主張されている(もちデマ)。女性が憑依されると、彼女の子供を殺してしまう(子供を産んでも「血を飲まれてしまって」育たない)。症状は別の憑依霊ゴジャマ(gojama22)と同様で、母乳を水にしてしまい、子供が飲むと嘔吐、下痢、腹部膨満を引き起こす。女性にとっては危険な霊なので、除霊(ku-kokomola)に訴えることもある。
21 マコンデ(makonde)。民族名の憑依霊、マコンデ人(makonde)。別名マウィヤ人(mawiya)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつで、マウィヤも同じグループに属する。人肉食の習慣があると噂されている(デマ)。女性に憑依して彼女の産む子供を殺してしまうので、除霊(ku-kokomola)の対象とされることもある。
22 ゴジャマ(gojama)。憑依霊の一種、ときにゴジャマ導師(mwalimu gojama)とも語られ、イスラム系とみなされることもある。狩猟採集民の憑依霊ムリャングロ(Muryangulo/pl.Aryangulo)と同一だという説もある。ひとつ目の半人半獣の怪物で尾をもつ。ブッシュの中で人の名前を呼び、うっかり応えると食べられるという。ブッシュで追いかけられたときには、葉っぱを撒き散らすと良い。ゴジャマはそれを見ると数え始めるので、その隙に逃げれば良いという。憑依されると、人を食べたくなり、カヤンバではしばしば斧をかついで踊る。憑依された人は、人の血を飲むと言われる。彼(彼女)に見つめられるとそれだけで見つめられた人の血はなくなってしまう。カヤンバでも、血を飲みたいと言って子供を追いかけ回す。また人肉を食べたがるが、カヤンバの席で前もって羊の肉があれば、それを与えると静かになる。ゴジャマをもつ者は、普段の状況でも食べ物の好みがかわり、蜂蜜を好むようになる。また尿に血や膿が混じる症状を呈することがある。さらにゴジャマをもつ女性は子供がもてなくなる(kaika ana)かもしれない。妊娠しても流産を繰り返す。その場合には、雄羊(ng'onzi t'urume)の供犠でその血を用いて除霊(kukokomola8)できる。雄羊の毛を縫い込んだ護符(pingu)を女性の胸のところにつけ、女性に雄羊の尾を食べさせる。
23 ドゥングマレ(dungumale)。母親に憑いて子供を捕らえる憑依霊。症状:発熱mwiri moho。子供泣き止まない。嘔吐、下痢。nyama wa kuusa(除霊ku-kokomola8の対象になる)11。黒いヤギmbuzi nyiru。ヤギを繋いでおくためのロープ。除霊の際には、患者はそのロープを持って走り出て、屋敷の外で倒れる。ドゥングマレの草木: mudungumale=muyama
24 ジネ・ムァンガ(jine mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネの一種。別名にソロタニ・ムァンガ(ムァンガ・サルタン(sorotani mwanga))とも。ドゥルマ語では動詞クァンガ(kpwanga, ku-anga)は、「(裸で)妖術をかける、襲いかかる」の意味。スワヒリ語にもク・アンガ(ku-anga)には「妖術をかける」の意味もあるが、かなり多義的で「空中に浮遊する」とか「計算する、数える」などの意味もある。形容詞では「明るい、ギラギラする、輝く」などの意味。昼夜問わず夢の中に現れて(kukpwangira usiku na mutsana)、組み付いて喉を絞める。症状:吐血。女性に憑依すると子どもの出産を妨げる。ngataを処方して、出産後に除霊 ku-kokomolaする。
25 トゥヌシ(tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)とも。憑依霊の一種。別名トゥヌシ・ムァンガ(tunusi mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネ(jine14)の一種という説と、ニューニ(nyuni18)の仲間だという説がある。女性がトゥヌシをもっていると、彼女に小さい子供がいれば、その子供が捕らえられる。ひきつけの症状。白目を剥き、手足を痙攣させる。女性自身が苦しむことはない。この症状(捕らえ方(magbwiri))は、同じムァンガが付いたイスラム系の憑依霊、ジネ・ムァンガ26らとはかなり異なっているので同一視はできない。除霊(kukokomola8)の対象であるが、水の中で行われるのが特徴。
26 ムァンガ(mwanga)。憑依霊の名前。「ムァンガ導師 mwalimu mwanga」「アラブ人ムァンガ mwarabu mwanga」「ジネ・ムァンガ jine mwanga」あるいは単に「ムァンガ mwanga」と呼ばれる。イスラム系の憑依霊。昼夜を問わず、夢の中に現れて人を組み敷き、喉を絞める。主症状は吐血。子供の出産を妨げるので、女性にとっては極めて危険。妊娠中は除霊できないので、護符(ngata)を処方して出産後に除霊を行う。また別に、全裸になって夜中に屋敷に忍び込み妖術をかける妖術使いもムァンガ mwangaと呼ばれる。kpwanga(=ku-anga)、「妖術をかける」(薬などの手段に訴えずに、上述のような以上な行動によって)を意味する動詞(スワヒリ語)より。これらのイスラム系の憑依霊が人を襲う仕方も同じ動詞で語られる。
27 ツォビャ(tsovya)。子供を好まず、母親に憑いて彼女の子供を殺してしまう。夜、夢の中にやってきて彼女と性関係をもつ。ニューニ18の一種に加える人もいる。鋭い爪をもった憑依霊(nyama wa mak'ombe)。除霊(kukokomola8)の対象となる「除去の霊nyama wa kuusa11」。see p'ep'o mulume7, kadume19
tsovyaの別名とされる「内陸部のスディアニ」の絵
28 スディアニ(sudiani)。スーダン人だと説明する人もいるが、ザンジバルの憑依を研究したLarsenは、スビアーニ(subiani)と呼ばれる霊について簡単に報告している。それはアラブの霊ruhaniの一種ではあるが、他のruhaniとは若干性格を異にしているらしい(Larsen 2008:78)。もちろんスーダンとの結びつきには言及されていない。スディアニには男女がいる。厳格なイスラム教徒で綺麗好き。女性のスディアニは男性と夢の中で性関係をもち、男のスディアニは女性と夢の中で性関係をもつ。同じふるまいをする憑依霊にペポムルメ(p'ep'o mulume, mulume=男)がいるが、これは男のスディアニの別名だとされている。いずれの場合も子供が生まれなくなるため、除霊(ku-kokomola)してしまうこともある(DB 214)。スディアニの典型的な症状は、発狂(kpwayuka)して、水、とりわけ海に飛び込む。治療は「海岸の草木muhi wa pwani」29による鍋(nyungu38)と、飲む大皿と浴びる大皿(kombe42)。白いローブ(zurungi,kanzu)と白いターバン、中に指輪を入れた護符(pingu35)。
29 ムヒ(muhi、複数形は mihi)。植物一般を指す言葉だが、憑依霊の文脈では、治療に用いる草木を指す。憑依霊の治療においては霊ごとに異なる草木の組み合わせがあるが、大きく分けてイスラム系の憑依霊に対する「海岸部の草木」(mihi ya pwani(pl.)/ muhi wa pwani(sing.))、内陸部の憑依霊に対する「内陸部の草木」(mihi ya bara(pl.)/muhi wa bara(sing.))に大別される。冷やしの施術や、妖術の施術30においても固有の草木が用いられる。muhiはさまざまな形で用いられる。搗き砕いて香料(mavumba31)の成分に、根や木部は切り彫ってパンデ(pande32)に、根や枝は煎じて飲み薬(muhi wa kunwa, muhi wa kujita)に、葉は水の中で揉んで薬液(vuo)に、また鍋の中で煮て蒸気を浴びる鍋(nyungu38)治療に、土器片の上で炒ってすりつぶし黒い粉状の薬(muhaso, mureya)に、など。ミヒニ(mihini)は字義通りには「木々の場所(に、で)」だが、施術の文脈では、施術に必要な草木を集める作業を指す。
30 ウガンガ(uganga)。癒やしの術、治療術、施術などという訳語を当てている。病気やその他の災に対処する技術。さまざまな種類の術があるが、大別すると3つに分けられる。(1)冷やしの施術(uganga wa kuphoza): 安心安全に生を営んでいくうえで従わねばならないさまざまなやり方・きまり(人々はドゥルマのやり方chidurumaと呼ぶ)を犯した結果生じる秩序の乱れや災厄、あるいは外的な事故がもたらす秩序の乱れを「冷やし」修正する術。(2)薬の施術(uganga wa muhaso): 妖術使い(さまざまな薬を使役して他人に不幸や危害をもたらす者)によって引き起こされた病気や災厄に対処する、妖術使い同様に薬の使役に通暁した専門家たちが提供する術。(3)憑依霊の施術(uganga wa nyama): 憑依霊によって引き起こされるさまざまな病気に対処し、憑依霊と交渉し患者と憑依霊の関係を取り持ち、再構築し、安定させる癒やしの術。
31 マヴンバ(mavumba)。「香料」。憑依霊の種類ごとに異なる。乾燥した草木や樹皮、根を搗き砕いて細かくした、あるいは粉状にしたもの。イスラム系の霊に用いられるものは、スパイスショップでピラウ・ミックスとして購入可能な香辛料ミックス。
32 パンデ(pande, pl.mapande)。草木の幹、枝、根などを削って作る護符33。穴を開けてそこに紐を通し、それで手首、腰、足首など付ける箇所に結びつける。
33 「護符」。憑依霊の施術師が、憑依霊によってトラブルに見舞われている人に、処方するもので、患者がそれを身につけていることで、苦しみから解放されるもの。あるいはそれを予防することができるもの。ンガタ(ngata34)、パンデ(pande32)、ピング(pingu35)、ヒリジ(hirizi36)、ヒンジマ(hinzima37)など、さまざまな種類がある。ピング(pingu)で全部を指していることもある。憑依霊ごとに(あるいは憑依霊のグループごとに)固有のものがある。勘違いしやすいのは、それを例えば憑依霊除けのお守りのようなものと考えてしまうことである。施術師たちは、これらを憑依霊に対して差し出される椅子(chihi)だと呼ぶ。憑依霊は、自分たちが気に入った者のところにやって来るのだが、椅子がないと、その者の身体の各部にそのまま腰を下ろしてしまう。すると患者は身体的苦痛その他に苦しむことになる。そこで椅子を用意しておいてやれば、やってきた憑依霊はその椅子に座るので、患者が苦しむことはなくなる、という理屈なのである。「護符」という訳語は、それゆえあまり適切ではないのだが、それに代わる適当な言葉がないので、とりあえず使い続けることにするが、霊を寄せ付けないためのお守りのようなものと勘違いしないように。
34 ンガタ(ngata)。護符33の一種。布製の長方形の袋状で、中に薬(muhaso),香料(mavumba),小さな紙に描いた憑依霊の絵などが入れてあり、紐で腕などに巻くもの、あるいは帯状の布のなかに薬などを入れてひねって包み、そのまま腕などに巻くものなど、さまざまなものがある。
35 ピング(pingu)。薬(muhaso:さまざまな草木由来の粉)を布などで包み、それを糸でぐるぐる巻きに球状に縫い固めた護符33の一種。厳密にはそうなのだが、護符の類をすべてピングと呼ぶ使い方も広く見られる。
36 ヒリジ(hirizi, pl.hirizi)。スワヒリ語では、コーランの章句を書いて作った護符を指す。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。ドゥルマでも同じ使い方もされるが、イスラムの施術師が作るものにはヒンジマ(hinzima37)という言葉があり、ヒリジは、ドゥルマでは非イスラムの施術師によるピングなどの護符を含むような使い方も普通にされている。
37 ヒンジマ(hinzima, pl. hinzima)。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。イスラム教の施術師によって作られる。スワヒリ語のヒリジ(hirizi)に当たるが、ドゥルマではヒリジ(hirizi36)という語は、非イスラムの施術師が作る護符(pinguなど)も含む使い方をされている。イスラムの施術師によって作られるものを特に指すのがヒンジマである。
38 ニュング(nyungu)。nyunguとは土器製の壺のような形をした鍋で、かつては煮炊きに用いられていた。このnyunguに草木(mihi)その他を詰め、火にかけて沸騰させ、この鍋を脚の間において座り、すっぽり大きな布で頭から覆い、鍋の蒸気を浴びる(kudzifukiza; kochwa)。それが終わると、キザchiza39、あるいはziya(池)のなかの薬液(vuo)を浴びる(koga)。憑依霊治療の一環の一種のサウナ的蒸気浴び治療であるが、患者に対してなされる治療というよりも、患者に憑いている霊に対して提供されるサービスだという側面が強い。https://www.mihamamoto.com/research/mijikenda/durumatxt/pot-treatment.htmlを参照のこと
39 キザ(chiza)。憑依霊のための草木(muhi主に葉)を細かくちぎり、水の中で揉みしだいたもの(vuo=薬液)を容器に入れたもの。患者はそれをすすったり浴びたりする。憑依霊による病気の治療の一環。室内に置くものは小屋のキザ(chiza cha nyumbani)、屋外に置くものは外のキザ(chiza cha konze)と呼ばれる。容器としては取っ手のないアルミの鍋(sfuria)が用いられることも多いが、外のキザには搗き臼(chinu)が用いられることが普通である。屋外に置かれたものは「池」(ziya40)とも呼ばれる。しばしば鍋治療(nyungu38)とセットで設置される。
40 ジヤ(ziya, pl.maziya)。「池、湖」。川(muho)、洞窟(pangani)とともに、ライカ(laika)、キツィンバカジ(chitsimbakazi),シェラ(shera)などの憑依霊の棲み処とされている。またこれらの憑依霊に対する薬液(vuo41)が入った搗き臼(chinu)や料理鍋(sufuria)もジヤと呼ばれることがある(より一般的にはキザ(chiza39)と呼ばれるが)。
41 ヴオ(vuo, pl. mavuo)。「薬液」、さまざまな草木の葉を水の中で揉みしだいた液体。すすったり、phungo(葉のついた小枝の束)を浸して雫を患者にふりかけたり、それで患者を洗ったり、患者がそれをすくって浴びたり、といった形で用いる。
42 コンベ(kombe)は「大皿」を意味するスワヒリ語。kombe はドゥルマではイスラム系の憑依霊の治療のひとつである。陶器、磁器の大皿にサフランをローズウォーターで溶いたもので字や絵を描く。描かれるのは「コーランの章句」だとされるアラビア文字風のなにか、モスクや月や星の絵などである。描き終わると、それはローズウォーターで洗われ、瓶に詰められる。一つは甘いバラシロップ(Sharbat Roseという商品名で売られているもの)を加えて、少しずつ水で薄めて飲む。これが「飲む大皿 kombe ra kunwa」である。もうひとつはバケツの水に加えて、それで沐浴する。これが「浴びる大皿 kombe ra koga」である。文字や図像を飲み、浴びることに病気治療の効果があると考えられているようだ。
43 バラ・ナ・プワニ(bara na pwani)。世界導師(mwalimu dunia3)の別名。baraは「内陸部」、pwaniは「海岸部」の意味。ドゥルマでは憑依霊は大きく、nyama wa bara 内陸系の憑依霊と、nyama wa pwani 海岸系の憑依霊に分かれている。海岸系の憑依霊はイスラム教徒である。世界導師は唯一内陸系の霊と海岸系の霊の両方の属性をもつ霊とされている。
44 ク・ラヴャ・コンゼ(ンゼ)(ku-lavya konze, ku-lavya nze)は、字義通りには「外に出す」だが、憑依の文脈では、人を正式に癒し手(muganga、治療師、施術師)にするための一連の儀礼のことを指す。人を目的語にとって、施術師になろうとする者について誰それを「外に出す」という言い方をするが、憑依霊を目的語にとってたとえばムルングを外に出す、ムルングが「出る」といった言い方もする。同じく「癒しの術(uganga)」が「外に出る」、という言い方もある。憑依霊ごとに違いがあるが、最も多く見られるムルング子神を「外に出す」場合、最終的には、夜を徹してのンゴマ(またはカヤンバ)で憑依霊たちを招いて踊らせ、最後に施術師見習いはトランス状態(kugolomokpwa)で、隠された瓢箪子供を見つけ出し、占いの技を披露し、憑依霊に教えられてブッシュでその憑依霊にとって最も重要な草木を自ら見つけ折り取ってみせることで、一人前の癒し手(施術師)として認められることになる。
45 ムペンバ(mupemba)。民族名の憑依霊ペンバ人。ザンジバル島の北にあるペンバ島の住人。強力な霊。きれい好きで厳格なイスラム教徒であるが、なかには瓢箪子供をもつペンバ人もおり、内陸系の霊とも共通性がある。犠牲者の血を好む。症状: 腹が「折りたたまれる(きつく圧迫される)」、吐血、血尿。治療:7日間の「飲む大皿」と「浴びる大皿」42、香料31と海岸部の草木29の鍋38。要求: 白いローブ(kanzu)帽子(kofia手縫いの)などイスラムの装束、コーラン(本)、陶器製のコップ(それで「飲む大皿」や香料を飲みたがる)、ナイフや長刀(panga)、癒やしの術(uganga)。施術師になるには鍋治療ののちに徹夜のカヤンバ(ンゴマ)、赤いヤギ、白いヤギの供犠が行われる。ペンバ人のヤギを飼育(みだりに殺して食べてはならない)。これらの要求をかなえると、ペンバ人はとり憑いている者を金持ちにしてくれるという。
46 ムドゥルマ(muduruma, pl. aduruma)。憑依霊ドゥルマ人、田舎者で粗野、ひょうきんなところもあるが、重い病気を引き起こす。多くの別名をもつ一方、さまざまなドゥルマ人がいる。男女のドゥルマ人は施術師になった際に、瓢箪子供を共有できない。男のドゥルマ人は瓢箪に入れる「血」はヒマ油だが女のドゥルマ人はハチミツと異なっているため。カルメ・ンガラ(kalumengala 男性47)、カシディ(kasidi 女性48)、ディゴゼー(digozee 男性老人49)。この3人は明らかに別の実体(?)と思われるが、他の呼称は、たぶんそれぞれの別名だろう。ムガイ(mugayi 「困窮者」)、マシキーニ(masikini「貧乏人」)、ニョエ(nyoe 男性、ニョエはバッタの一種でトウモロコシの穂に頭を突っ込む習性から、内側に潜り込んで隠れようとする憑依霊ドゥルマ人(病気がドゥルマ人のせいであることが簡単にはわからない)の特徴を名付けたもの、ただしニョエがドゥルマ人であることを否定する施術師もいる)。ムキツェコ(muchitseko、動詞 kutseka=「笑う」より)またはムキムェムェ(muchimwemwe(alt. muchimwimwi)、名詞chimwemwe(alt. chimwimwi)=「笑い上戸」より)は、理由なく笑いだしたり、笑い続けるというドゥルマ人の振る舞いから名付けたもの。症状:全身の痒みと掻きむしり(kuwawa mwiri osi na kudzikuna)、腹部熱感(ndani kpwaka moho)、息が詰まる(ku-hangama pumzi),すぐに気を失う(kufa haraka(ku-faは「死ぬ」を意味するが、意識を失うこともkufaと呼ばれる))、長期に渡る便秘、腹部膨満(ndani kuodzala字義通りには「腹が何かで満ち満ちる」))、絶えず便意を催す、膿を排尿、心臓がブラブラする、心臓が(毛を)むしられる、不眠、恐怖、死にそうだと感じる、ブッシュに逃げ込む、(周囲には)元気に見えてすぐ病気になる/病気に見えて、すぐ元気になる(ukongo wa kasidi)。行動: 憑依された人はトウモロコシ粉(ただし石臼で挽いて作った)の練り粥を編み籠(chiroboと呼ばれる持ち手のない小さい籠)に入れて食べたがり、半分に割った瓢箪製の容器(ngere)に注いだ苦い野草のスープを欲しがる。あたり構わず排便、排尿したがる。要求: 男のドゥルマ人は白い布(charehe)と革のベルト(mukanda wa ch'ingo)、女のドゥルマ人は紺色の布(nguo ya mulungu)にビーズで十字を描いたもの、癒やしの仕事。治療: 「鍋」、煮る草木、ぼろ布を焼いてその煙を浴びる。(注釈の注釈: ドゥルマの憑依霊の世界にはかなりの流動性がある。施術師の間での共通の知識もあるが、憑依霊についての知識の重要な源泉が、施術師個々人が見る夢であることから、施術師ごとの変異が生じる。同じ施術師であっても、時間がたつと知識が変化する。例えば私の重要な相談相手の一人であるChariはドゥルマ人と世界導師をその重要な持ち霊としているが、彼女は1989年の時点ではディゴゼーをドゥルマ人とは位置づけておらず(夢の中でディゴゼーがドゥルマ語を喋っており、カヤンバの席で出現したときもドゥルマ語でやりとりしている事実はあった)、独立した憑依霊として扱っていた。しかし1991年の時点では、はっきりドゥルマ人の長老として、ドゥルマ人のなかでもリーダー格の存在として扱っていた。)
47 カルメンガラ(kalumeng'ala)。直訳すれば「光る小さな男」。憑依霊ドゥルマ人(muduruma46)の別名、男性のドゥルマ人。「内の問題も、外の問題も知っている」と歌われる。
48 カシディ(kasidi)。この言葉は、状況にその行為を余儀なくしたり,予期させたり,正当化したり,意味あらしめたりするものがないのに自分からその行為を行なうことを指し、一連の場違いな行為、無礼な行為、(殺人の場合は偶然ではなく)故意による殺人、などがkasidiとされる。「mutu wa kasidi=kasidiの人」は無礼者。「ukongo wa kasidi= kasidiの病気」とは施術師たちによる解説では、今にも死にそうな重病かと思わせると、次にはケロッとしているといった周りからは仮病と思われてもしかたがない病気のこと。仮病そのものもkasidi、あるはukongo wa kasidiと呼ばれることも多い。あるいは重病で意識を失ったかと思うと、また「生き返り」を繰り返す病気も、この名で呼ばれる。またカシディは、女性の憑依霊ドゥルマ人(muduruma46)の名称でもある。カシディに憑かれた場合の特徴的な病気は上述のukongo wa kasidi(カシディの病気)であり、カヤンバなどで出現したカシディの振る舞いは、場違いで無礼な振る舞いである。男性の憑依霊ドゥルマ人とは別の、蜂蜜を「血」とする瓢箪子供を要求する。
49 ディゴゼー(digozee)。憑依霊ドゥルマ人の一種とも。田舎者の老人(mutumia wa nyika)。極めて年寄りで、常に毛布をまとう。酒を好む。ディゴゼーは憑依霊ドゥルマ人の長、ニャリたちのボスでもある。ムビリキモ(mubilichimo50)マンダーノ(mandano51)らと仲間で、憑依霊ドゥルマ人の瓢箪を共有する。症状:日なたにいても寒気がする、腰が断ち切られる(ぎっくり腰)、声が老人のように嗄れる。要求:毛布(左肩から掛け一日中纏っている)、三本足の木製の椅子(紐をつけ、方から掛けてどこへ行くにも持っていく)、編んだ肩掛け袋(mukoba)、施術師の錫杖(muroi)、動物の角で作った嗅ぎタバコ入れ(chiko cha pembe)、酒を飲むための瓢箪製のコップとストロー(chiparya na muridza)。治療:憑依霊ドゥルマの「鍋」、煙浴び(ku-dzifukiza 燃やすのはボロ布または乳香)。
50 ムビリキモ(mbilichimo)。民族名の憑依霊、ピグミー(スワヒリ語でmbilikimo/(pl.)wabilikimo)。身長(kimo)がない(mtu bila kimo)から。憑依霊の世界では、ディゴゼー(digozee)と組んで現れる。女性の霊だという施術師もいる。症状:脚や腰を断ち切る(ような痛み)、歩行不可能になる。要求: 白と黒のビーズをつけた紺色の(ムルングの)布。ビーズを埋め込んだ木製の三本足の椅子。憑依霊ドゥルマ人の瓢箪に同居する。
51 マンダーノ(mandano)。憑依霊。mandanoはドゥルマ語で「黄色」。女性の霊。つねに憑依霊ドゥルマ人とともにやってくる。独りでは来ない。憑依霊ドゥルマ人、ディゴゼー、ムビリキモ、マンダーノは一つのグループになっている。症状: 咳、喀血、息が詰まる。貧血、全身が黄色くなる、水ばかり飲む。食べたものはみな吐いてしまう。要求: 黄色いビーズと白いビーズを互違いに通した耳飾り、青白青の三色にわけられた布(二辺に穴あき硬貨(hela)と黄色と白のビーズ飾りが縫いつけられている)、自分に捧げられたヤギ。草木: mutundukula、mudungu
52 キヴリ(chivuri)。人間の構成要素。いわゆる日本語でいう霊魂的なものだが、その違いは大きい。chivurivuriは物理的な影や水面に写った姿などを意味するが、chivuriと無関係ではない。chivuriは妖術使いや(chivuriの妖術)、ある種の憑依霊によって奪われることがある。人は自分のchivuriが奪われたことに気が付かない。妖術使いが奪ったchivuriを切ると、その持ち主は死ぬ。憑依霊にchivuriを奪われた人は朝夕悪寒を感じたり、頭痛などに悩まされる。chivuriは夜間、人から抜け出す。抜け出したchivuriが経験することが夢になる。妖術使いによって奪われたchivuriを手遅れにならないうちに取り返す治療がある。chivuriの妖術については[浜本, 2014『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版,pp.53-58]を参照されたい。また憑依霊によって奪われたchivuriを探し出し患者に戻すku-zuza53と呼ばれる手続きもある。
53 クズザ(ku-zuza)は「嗅ぐ、嗅いで探す」を意味する動詞。憑依霊の文脈では、もっぱらライカ(laika)等の憑依霊によって奪われたキブリ(chivuri52)を探し出して患者に戻す治療(uganga wa kuzuza)のことを意味する。キツィンバカジ、ライカやシェラをもっている施術師によって行われる。施術師を取り囲んでカヤンバを演奏し、施術師はこれらの霊に憑依された状態で、カヤンバ演奏者たちを引き連れて屋敷を出発する。ライカやシェラが患者のchivuriを奪って隠している洞穴、池や川の深みなどに向かい、鶏などを供犠し、そこにある泥や水草などを手に入れる。出発からここまでカヤンバが切れ目なく演奏され続けている。屋敷に戻り、手に入れた泥などを用いて、取り返した患者のキブリ(chivuri)を患者に戻す。その際にもカヤンバが演奏される。キブリ戻しは、屋内に仰向けに寝ている患者の50cmほど上にムルングの布を広げ、その中に手に入れた泥や水草、睡蓮の根などを入れ、大量の水を注いで患者に振りかける。その後、患者のキブリを捕まえてきた瓢箪の口を開け、患者の目、耳、口、各関節などに近づけ、口で吹き付ける動作。これでキブリは患者に戻される。その後、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。それがすむと、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。クズザ単独で行われる場合は、この後、患者にンガタ34を与える。この施術全体をさして、単にクズザあるいは「嗅ぎ出しのカヤンバ(kayamba ra kuzuza)」と呼ぶ。やり方の細部は、施術師によってかなり異なる。
54 手付の瓢箪子供をムルングに示す施術は、通常は「鍋」をムルングに差し出すことで行われる。本格的にはカヤンバの開催が望ましいが、金銭的な問題でカヤンバは抜きに、あるいは簡略化されて済ます場合が多い。この日私がみたものは、盛大なカヤンバを伴うものであった。あいにく、ムウェレが一向に踊らず、クハツァしたりいろいろ試みた挙げ句、妖術使いが妨害しているということになるという、あまり成功したとはいえないカヤンバとなったが。
55 ムウェレ(muwele)。その特定のンゴマがその人のために開催される「患者」、その日のンゴマの言わば「主人公」のこと。彼/彼女を演奏者の輪の中心に座らせて、徹夜で演奏が繰り広げられる。主宰する癒し手(治療師、施術師 muganga)は、彼/彼女の治療上の父や母(baba/mayo wa chiganga)56であることが普通であるが、癒し手自身がムエレ(muwele)である場合、彼/彼女の治療上の子供(mwana wa chiganga)である癒し手が主宰する形をとることもある。
56 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。この4シリングはムコバ(mukoba57)に入れられ、施術師は患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者は、その癒やし手の「ムコバに入った」と言われる。こうした弟子は、男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi,pl.anamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji, pl.ateji)とも呼ばれる。これらの言葉を男女を問わず用いる人も多い。癒やし手(施術師)は、彼らの治療上の父(男性施術師の場合)58や母(女性施術師の場合)59ということになる。弟子たちは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。治療上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。治療上の子供は癒やし手に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る」という。
57 ムコバ(mukoba)。持ち手、あるいは肩から掛ける紐のついた編み袋。サイザル麻などで編まれたものが多い。憑依霊の癒しの術(uganga)では、施術師あるいは癒やし手(muganga)がその瓢箪や草木を入れて運んだり、瓢箪を保管したりするのに用いられるが、癒しの仕事を集約する象徴的な意味をもっている。自分の祖先のugangaを受け継ぐことをムコバ(mukoba)を受け継ぐという言い方で語る。また病気治療がきっかけで患者が、自分を直してくれた施術師の「施術上の子供」になることを、その施術師の「ムコバに入る(kuphenya mukobani)」という言い方で語る。患者はその施術師に4シリングを払い、施術師はその4シリングを自分のムコバに入れる。そして患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者はその施術師の「ムコバ」に入り、その施術上の子供になる。施術上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。施術上の子供は施術師に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る(kulaa mukobani)」という。
58 ババ(baba)は「父」。ババ・ワ・キガンガ(baba wa chiganga)は「治療上の(施術上の)父」という意味になる。所有格をともなう場合、例えば「彼の治療上の父」はabaye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」56を参照されたい。
59 マヨ(mayo)は「母」。マヨ・ワ・キガンガ(mayo wa chiganga)は「治療上の(施術上の)母」という意味になる。所有格を伴う場合、例えば「彼の治療上の母」はameye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」56を参照されたい。
60 日誌では「亀の病気」と直訳しているが、亀がかかる病気ではなく、皮膚がただれて、薄皮のようにところどころ剥がれていくような皮膚症状(亀の皮膚に似ていることから)を呈す皮膚病。盗難除けに仕掛けられた「カメのキラボ(chirapho cha k'obe)61」に捕らえられた結果だと考えられている。
61 キラボ(chirapho)。薬(muhaso)を使役する者が、命令によって薬にターゲットを攻撃させるという点で、キラボ(chirapho)も妖術(utsai)と同じ理屈に従うが、妖術の場合とは異なり、chiraphoにおいてはその命令は条件節を伴う構文をとる。妖術が単純に薬に「誰それを云々の仕方で殺せ」といった命令を出すのに対し、キラボでは例えば、もし「私のウシが勝手にいなくなったのではなく、誰かがそれを盗んでいったのだとすれば、キラボよその者とその一族を捕らえよ」といった形で命令する。その主たる用法は、作物などの盗難除け、何者かによってなされた損害を当人とその一族に賠償させることを目的とした使用、そして妖術告発で訴える側と訴えられた側のどちらもが譲らなかった場合に、どちらが正しいかを決める「試罪法」での使用である。私の調査地の近所には最後のタイプのキラボで、単にドゥルマ地域を超えて広くミジケンダ地域全体によく知られた施術者がいる。詳しくは〔浜本満,2014,『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版会、pp.68-78、第6章〕を参照のこと。
62 ムァナムルング(mwanamulungu)。「ムルング子神」と訳しておく。憑依霊の名前の前につける"mwana"には敬称的な意味があると私は考えている。しかし至高神ムルング(mulungu)と憑依霊のムルング(mwanamulungu)の関係については、施術師によって意見が分かれることがある。多くの人は両者を同一とみなしているが、天にいるムルング(女性)が地上に落とした彼女の子供(女性)だとして、区別する者もいる。いずれにしても憑依霊ムルングが、すべての憑依霊の筆頭であるという点では意見が一致している。憑依霊ムルングも他の憑依霊と同様に、自分の要求を伝えるために、自分が惚れた(あるいは目をつけた kutsunuka)人を病気にする。その症状は身体全体にわたる。その一つに人々が発狂(kpwayuka)と呼ぶある種の精神状態がある。また女性の妊娠を妨げるのも憑依霊ムルングの特徴の一つである。ムルングがこうした症状を引き起こすことによって満たそうとする要求は、単に布(nguo ya mulungu と呼ばれる黒い布 nguo nyiru (実際には紺色))であったり、ムルングの草木を水の中で揉みしだいた薬液を浴びることであったり(chiza39)、ムルングの草木を鍋に詰め少量の水を加えて沸騰させ、その湯気を浴びること(「鍋nyungu」)であったりする。さらにムルングは自分自身の子供を要求することもある。それは瓢箪で作られ、瓢箪子供と呼ばれる63。女性の不妊はしばしばムルングのこの要求のせいであるとされ、瓢箪子供をムルングに差し出すことで妊娠が可能になると考えられている64。この瓢箪子供は女性の子供と一緒に背負い布に結ばれ、背中の赤ん坊の健康を守り、さらなる妊娠を可能にしてくれる。しかしムルングの究極の要求は、患者自身が施術師になることである。ムルングが引き起こす症状で、すでに言及した「発狂kpwayuka」は、ムルングのこの究極の要求につながっていることがしばしばである。ここでも瓢箪子供としてムルングは施術師の「子供」となり、彼あるいは彼女の癒やしの術を助ける。もちろん、さまざまな憑依霊が、癒やしの仕事(kazi ya uganga)を欲して=憑かれた者がその霊の癒しの術の施術師(muganga 癒し手、治療師)となってその霊の癒やしの術の仕事をしてくれるようになることを求めて、人に憑く。最終的にはこの願いがかなうまでは霊たちはそれを催促するために、人を様々な病気で苦しめ続ける。憑依霊たちの筆頭は神=ムルングなので、すべての施術師のキャリアは、まず子神ムルングを外に出す(徹夜のカヤンバ儀礼を経て、その瓢箪子供を授けられ、さまざまなテストをパスして正式な施術師として認められる手続き)ことから始まる。
63 ムァナ・ワ・ンドンガ(mwana wa ndonga)。ムァナ(mwana, pl. ana)は「子供」、ンドンガ(ndonga)は「瓢箪」。「瓢箪の子供」を意味する。「瓢箪子供」と訳すことにしている。瓢箪の実(chirenje)で作った子供。瓢箪子供には2種類あり、ひとつは施術師が特定の憑依霊(とその仲間)の癒やしの術(uganga)をとりおこなえる施術師に就任する際に、施術上の父と母から授けられるもので、それは彼(彼女)の施術の力の源泉となる大切な存在(彼/彼女の占いや治療行為を助ける憑依霊はこの瓢箪の姿をとった彼/彼女にとっての「子供」とされる)である。一方、こうした施術師の所持する瓢箪子供とは別に、不妊に悩む女性に授けられるチェレコchereko(ku-ereka 「赤ん坊を背負う」より)とも呼ばれる瓢箪子供64がある。瓢箪子供の各部の名称については、図66を参照。
64 チェレコ(chereko)。「背負う」を意味する動詞ク・エレカ(kpwereka)より。不妊の女性に与えられる瓢箪子供63。子供がなかなかできない(ドゥルマ語で「彼女は子供をきちんと置かない kaika ana」と呼ばれる事態で、連続する死産、流産、赤ん坊が幼いうちに死ぬ、第二子以降がなかなか生まれないなども含む)原因は、しばしば自分の子供がほしいムルング子神62がその女性の出産力に嫉妬して、その女性の妊娠を阻んでいるためとされる。ムルング子神の瓢箪子供を夫婦に授けることで、妻は再び妊娠すると考えられている。まだ一切の加工がされていない瓢箪(chirenje)を「鍋」とともにムルングに示し、妊娠・出産を祈願する。授けられた瓢箪は夫婦の寝台の下に置かれる。やがて妻に子供が生まれると、徹夜のカヤンバを開催し施術師はその瓢箪の口を開け、くびれた部分にビーズ ushangaの紐を結び、中身を取り出す。夫婦は二人でその瓢箪に心臓(ムルングの草木を削って作った木片mapande32)、内蔵(ムルングの草木を砕いて作った香料31)、血(ヒマ油65)を入れて「瓢箪子供」にする。徹夜のカヤンバが夜明け前にクライマックスになると、瓢箪子供をムルング子神(に憑依された妻)に与える。以後、瓢箪子供は夜は夫婦の寝台の上に置かれ、昼は生まれた赤ん坊の背負い布の端に結び付けられて、生まれてきた赤ん坊の成長を守る。瓢箪子どもの血と内臓は、切らさないようにその都度、補っていかねばならない。夫婦の一方が万一浮気をすると瓢箪子供は泣き、壊れてしまうかもしれない。チェレコを授ける儀礼手続きの詳細は、浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22を参照されたい。
65 ニョーノ(nyono)。ヒマ(mbono, mubono)の実、そこからヒマの油(mafuha ga nyono)を抽出する。さまざまな施術に使われるが、ヒマの油は閉経期を過ぎた女性によって抽出されねばならない。ムルングの瓢箪子供には「血」としてヒマの油が入れられる。
66 ンドンガ(ndonga)。瓢箪chirenjeを乾燥させて作った容器。とりわけ施術師(憑依霊、妖術、冷やしを問わず)が「薬muhaso」を入れるのに用いられる。憑依霊の施術師の場合は、薬の容器とは別に、憑依霊の瓢箪子供 mwana wa ndongaをもっている。内陸部の霊たちの主だったものは自らの「子供」を欲し、それらの霊のmuganga(癒し手、施術師)は、その就任に際して、医療上の父と母によって瓢箪で作られた、それらの霊の「子供」を授かる。その瓢箪は、中に心臓(憑依霊の草木muhiの切片)、血(ヒマ油、ハチミツ、牛のギーなど、霊ごとに定まっている)、腸(mavumba=香料、細かく粉砕した草木他。その材料は霊ごとに定まっている)が入れられている。瓢箪子供は施術師の癒やしの技を手助けする。しかし施術師が過ちを犯すと、「泣き」(中の液が噴きこぼれる)、施術師の癒やしの仕事(uganga)を封印してしまったりする。一方、イスラム系の憑依霊たちはそうした瓢箪子供をもたない。例外が世界導師とペンバ人なのである(ただしペンバ人といっても呪物除去のペンバ人のみで、普通の憑依霊ペンバ人は瓢箪をもたない)。瓢箪子供については〔浜本 1992〕に詳しい(はず)。
67 ムァラブ(mwarabu)。憑依霊アラブ人、単にp'ep'oと言うこともある。ムルングに次ぐ高位の憑依霊。ムルングが池系(maziyani)の憑依霊全体の長である(ndiye mubomu wa a maziyani osi)のに対し、アラブ人はイスラム系の憑依霊全体の長(ndiye mubomu wa p'ep'o a chidzomba osi)。ディゴ地域ではカヤンバ儀礼はアラブ人の歌から始まる。ドゥルマ地域では通常はムルングの歌から始まる。縁飾り(mitse)付きの白い布(kashida)と杖(mkpwaju)、襟元に赤い布を縫い付けた白いカンズ(moyo wa tsimba)を要求。rohaniは女性のアラブ人だと言われる。症状:全身瘙痒、掻きむしってchironda(傷跡、ケロイド、瘡蓋)
68 ムガンガ(muganga pl. aganga)。癒やす者、施術師、治療師。人々を見舞うさまざまな災厄や病に対処する専門家。彼らが行使する施術・業がuganga30であり、ざっくり分けた3区分それぞれの専門の施術師がいる。(1)秩序の乱れや規則違反がもたらす災厄に対処する「冷やしの施術師(muganga wa kuphoza)」(2)薬(muhaso)を使役して他人に危害をもたらす妖術使いが引き起こした災厄や病気に、同じく薬を使役して対処する「妖術の施術師(muganga wa utsai(or matsai))」(3)憑依霊が引き起こす病気や災いに対処し、自らのもつ憑依霊の能力と知識をもとに、患者と憑依霊の関係を正常化し落ち着かせる技に通じた「憑依霊の施術師(muganga wa nyama(or shetani, or p'ep'o))」がそれである。
69 チャーネ(chane, pl.chane or ano chane)。「母の姉妹」。「父の姉妹」はツァンガジーミ(tsangazimi)。
70 ムァナ・ワ・キガンガ(mwana wa chiganga)。憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の(施術上の)子供(mwana wa chiganga, pl. ana a chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi, pl.anamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji, pl.ateji)とも呼ばれる。男女を問わずムァナマジ、ムテジと語る人もかなりいる。これら弟子たちは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ71)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。
71 ハムリ(hamuri, pl. mahamuri)。(ス)hamriより。一種のドーナツ、揚げパン。アンダジ(andazi, pl. maandazi)に同じ。
72 ゴロモクヮ(ku-golomokpwa)。動詞ク・ゴロモクヮ(ku-golomokpwa)は、憑依霊が表に出てきて、人が憑依霊として行為すること、またその状態になることを意味する。受動形のみで用いるが、ku-gondomola(人を怒らせてしまうなど、人の表に出ない感情を、表にださせる行為をさす動詞)との関係も考えられる。憑依状態になるというが、その形はさまざま、体を揺らすだけとか、曲に合わせて踊るだけというものから、激しく転倒したり号泣したり、怒り出したりといった感情の激発をともなうもの、憑依霊になりきって施術師や周りの観客と会話をする者など。憑依の状態に入ること(あること)は、他にクカラ・テレ(ku-kala tele)「一杯になっている、酔っている」(その女性は満たされている(酔っている) muchetu yuyu u tele といった形で用いる)や、ク・ヴィナ(ku-vina)「踊る」(ンゴマやカヤンバのコンテクストで)や、ク・チェムカ(ku-chemuka)「煮え立っている」、ク・ディディムカ(ku-didimuka73)--これは憑依の初期の身体が小刻みに震える状態を特に指す--などの動詞でも語られる。
73 ク・ディディムカ(ku-didimuka)は、急激に起こる運動の初期動作(例えば鳥などがなにかに驚いて一斉に散らばる、木が一斉に芽吹く、憑依の初期の兆し)を意味する動詞。
74 ほとんど意味不明のコメントだが、素面の状態から憑依状態に、なんの兆候もなく突然変化することを「唐突」と表現し、憑依状態になったということをなにか特有の動作や表情などで強調せずに、普通に憑依霊として話し出すことを「すんなりと」と表現したのであろう。施術師の憑依は、だいたいがこんな感じ。叫んだり、ひっくり返ったりせず、普通にいきなり喋り方が少し変わっているみたいな。
75 ジンジャ(jinja)。憑依霊ジンジャ(jinja)。ジンジャ導師(mwalimu jinja)。イスラム系か内陸系かあいまい。かつてChariのもつ主要な憑依霊の一つだった。瓢箪子供を世界導師(mwalimu dunia)と共有。使用草木は、ジャバレ導師(mwalimu jabale)、世界導師(mwalimu dunia)、ジンジャ、カリマンジャロ(karimanjaro/kalimanjaro)で同一。他方で、ガンダ人(muganda)の別名ともガンダ人の王だとも言う。上着、横縞の布、羽毛の帽子(chiluu)、右手に毛はたき(mwingo)、左手に瓢箪子供をもった姿で現れる。Chariの占いの担い手。症状: いたるところにヘビが見える、道を歩いていてヘビに出会う、身体じゅうをヘビが這い回る(のを感じる)、意識が変調する(kubadilisha akili)、血を吸われる、死んだり(意識をなくしたり)生き返ったり。治療: 12日間の「鍋」(mudurumaと同じ)。mudurumaと同時に「外に出された」。ただし瓢箪子供はドゥルマ人は自分の瓢箪子供をもち、ジンジャは世界導師の瓢箪子供を共有。歌の中では「私は海岸部(pwani)にもいるし、内陸部(bara)にもいる」とされ、世界導師の属性そのものを示す。
76 マコロツィク(makolotsiku)。マコロウツィク(makoloutsiku)、マコロウシク(makolousiku)とも。カヤンバ(ンゴマ)の中間に挟まれる休憩時間で、参加者に軽い料理(揚げパンと紅茶が多い)あるいはヤシ酒が振る舞われる。この経費も主催者もちであるが、料理や準備には施術師の弟子(anamadziやateji)たちもカヤンバ開始前から協力する。
77 ムベガ(mbega, pl.mbega)。オナガザル科のアビシニアコロブス(Colobus guereza)。そのマント状の長い毛が特徴の毛皮を、背中に付けて激しく揺り動かす伝統的な踊りもムベガと呼ばれる。
78 ムカンガガ(mukangaga, pl.mikangaga)「葦」, 正確にはカイエンガヤツリ Cyperus exaltatus、屋根葺きに用いられる(Pakia2003a:377)
79 ディワ(diwa, pl.madiwa)は伸ばし放題の長い髪を意味するが、ムァディワ(mwadiwa)であれば、憑依霊シェラの別名「長髪女」。しかしここはムルングの歌なので、書き起こし担当による、ムルングの別名のマレラ(marera80)か、池の複数形マジヤ(maziya40)の聞き間違いではないかという可能性もある。
80 マレラ(marera)。ムルング子神の別名。「養う者」。動詞ku-rera(子供を「養う、養育する」)より。施術師によってはマレラを憑依霊ディゴ人(mudigo81)やシェラ(shera82)のグループに入れる者もいる。
81 ムディゴ(mudigo)。民族名の憑依霊、ディゴ人(mudigo)。しばしば憑依霊シェラ(shera=ichiliku)もいっしょに現れる。別名プンガヘワ(pungahewa, スワヒリ語でku-punga=扇ぐ, hewa=空気)、ディゴの女(muchet'u wa chidigo)。ディゴ人(プンガヘワも)、シェラ、ライカ(laika)は同じ瓢箪子供を共有できる。症状: ものぐさ(怠け癖 ukaha)、疲労感、頭痛、胸が苦しい、分別がなくなる(akili kubadilika)。要求: 紺色の布(ただしジンジャjinja という、ムルングの紺の布より濃く薄手の生地)、癒やしの仕事(uganga)の要求も。ディゴ人の草木: mupholong'ondo, mup'ep'e, mutundukula, mupera, manga, mubibo, mukanju
82 シェラ(shera, pl. mashera)。憑依霊の一種。laikaと同じ瓢箪を共有する。同じく犠牲者のキブリを奪う。症状: 全身の痒み(掻きむしる)、ほてり(mwiri kuphya)、動悸が速い、腹部膨満感、不安、動悸と腹部膨満感は「胸をホウキで掃かれるような症状」と語られるが、シェラという名前はそれに由来する(ku-shera はディゴ語で「掃く」の意)。シェラに憑かれると、家事をいやがり、水汲みも薪拾いもせず、ただ寝ることと食うことのみを好むようになる。気が狂いブッシュに走り込んだり、川に飛び込んだり、高い木に登ったりする。要求: 薄手の黒い布(gushe)、ビーズ飾りのついた赤い布(ショールのように肩に纏う)。治療:「嗅ぎ出し(ku-zuza)53、クブゥラ・ミジゴ(kuphula mizigo 重荷を下ろす83)と呼ばれるほぼ一昼夜かかる手続きによって治療。イキリク(ichiliku85)、おしゃべり女(chibarabando86)、重荷の女(muchet'u wa mizigo87)、気狂い女(muchet'u wa k'oma88)、狂気を煮立てる者(mujita k'oma89)、ディゴ女(muchet'u wa chidigo90、長い髪女(mwadiwa91)などの多くの別名をもつ。男のシェラは編み肩掛け袋(mukoba57)を持った姿で、女のシェラは大きな乳房の女性の姿で現れるという。
83 憑依霊シェラに対する治療。シェラの施術師となるには必須の手続き。シェラは本来素早く行動的な霊なのだが、重荷(mizigo84)を背負わされているため軽快に動けない。シェラに憑かれた女性が家事をサボり、いつも疲れているのは、シェラが重荷を背負わされているため。そこで「重荷を下ろす」ことでシェラとシェラが憑いている女性を解放し、本来の勤勉で働き者の女性に戻す必要がある。長い儀礼であるが、その中核部では患者はシェラに憑依され、屋敷でさまざまな重荷(水の入った瓶や、ココヤシの実、石などの詰まった網籠を身体じゅうに掛けられる)を負わされ、施術師に鞭打たれながら水辺まで進む。水辺には木の台が据えられている。そこで重荷をすべて下ろし、台に座った施術師の女助手の膝に腰掛けさせられ、ヤギを身体じゅうにめぐらされ、ヤギが供犠されたのち、患者は水で洗われ、再び鞭打たれながら屋敷に戻る。その過程で女性がするべきさまざまな家事仕事を模擬的にさせられる(薪取り、耕作、水くみ、トウモロコシ搗き、粉挽き、料理)、ついで「夫」とベッドに座り、父(男性施術師)に紹介させられ、夫に食事をあたえ、等々。最後にカヤンバで盛大に踊る、といった感じ。まさにミメティックに、重荷を下ろし、家事を学び直し、家庭をもつという物語が実演される。またシェラの癒やしの術を外に出すンゴマにおいても、「重荷下ろし」はその重要な一部として組み込まれている。
84 ムジゴ(muzigo, pl.mizigo)。「荷物」「重荷」。
85 イキリクまたはキリク(ichiliku)。憑依霊シェラ(shera82)の別名。シェラには他にも重荷を背負った女(muchet'u wa mizigo)、長い髪の女(mwadiwa=mutu wa diwa, diwa=長い髪)、狂気を煮たてる者(mujita k'oma)、高速の女((mayo wa mairo) もともととても素速い女性だが、重荷を背負っているため速く動けない)、気狂い女(muchet'u wa k'oma)、口軽女(chibarabando)など、多くの別名がある。無駄口をたたく、他人と折り合いが悪い、分別がない(mutu wa kutsowa akili)といった属性が強調される。
86 キバラバンド(chibarabando)。「おしゃべりな人、おしゃべり」。shera82の別名の一つ
87 ムチェツ・ワ・ミジゴ(muchet'u wa mizigo)。「重荷の女」。憑依霊シェラ82の別名。治療には「重荷下ろし」のカヤンバ(kayamba ra kuphula mizigo)が必要。重荷下ろしのカヤンバ
88 ムチェツ・ワ・コマ(muchet'u wa k'oma)。「きちがい女」。憑依霊シェラ82の別名ともいう。
89 ムジタ・コマ(mujita k'oma)。「狂気を煮立てる者」。憑依霊シェラ(shera82)の別名の一つ。憑依霊ディゴ人(ムディゴ(mudigo81))の別名ともされる。
90 ムチェツ・ワ・キディゴ(muchet'u wa chidigo)。「ディゴ女」。憑依霊シェラ82の別名。あるいは憑依霊ディゴ人(mudigo81)の女性であるともいう。
91 ムヮディワ(mwadiwa)。「長い髪の女」。憑依霊シェラの別名のひとつともいう。ディワ(diwa)は「長い髪」の意。ムヮディワをマディワ(madiwa)と発音する人もいる(特にカヤンバの歌のなかで)。mayo mwadiwa、mayo madiwa、nimadiwaなどさまざまな言い方がされる。
92 ヴンザレレ(vunzarere, pl. mavunzarere)。猛毒を持つ毒蛇、東アフリカグリーンマンバDendroaspis angustoceps。ムルングの別名(実体?)。
93 ムァチェ(Mwache)。クワレ・カウンティを流れる川の名前。キナンゴ-マゼラス間を結ぶダートロードがこの川と交差するあたりは、川は大きく湾曲し深い淵となっている。ドゥルマの人々はその淵をマヴョーニ(Mavyoni)と呼んでいる。かつてはヴョーニvyoni94と呼ばれる異形の赤ん坊(逆子や上の歯が先に生えてきた乳児、その他)が、それらが本来属する世界(霊たちの世界)に戻すために置き去りにされる場所であった。
94 ヴョーニ(vyoni)。異常出産児。生まれつき奇形の出産児以外に、逆子、生れつき多くの毛髪を持った子供、上の歯から先に生え始める子供(meno ga dzulu)なども vyoni である。vyoni は、かつては産婦の母親により殺されねばならなかった。Mwache その他の水辺で置き去りにされたり、水を満たした壷に沈められたり、バオバブの木の根元でmukamba(負ぶい布) によって鞭うたれたりして殺害された。「ヴョーニよ、ヴョーニ。もしお前がヴョーニなら、お前がもといたところに帰れ。」と唱えられながら。それでも死ななかった場合は、その後は通常の子どもとして育てられた。
95 ヌング(nungu, pl.nungu)。「ヤマアラシ」(porcupine)。なぜこの動物がムルングの歌に登場するのか不明(人々に聞いてもわからない)。
96 タイレ(taire)。2つの意味で用いられる間投詞。(1)施術の場で、その場にいる人々の注意を喚起する言葉として。複数形taireniで複数の人々に対して用いるのが普通。「ご傾聴ください」「ごらんください」これに対して人々は za mulungu「ムルングの」と応える。(2)占いmburugaにおいて施術師の指摘が当たっているときに諮問者が発する言葉として。「その通り」。
97 ムング(mungu)。スワヒリ語で「神」。ドゥルマ語のムルング(mulungu)に相当。
98 書き起こし担当は、これをアラブ人の歌としているが、書き起こされた一部分から判断して、これはアラブ人に続いて演奏されたはずのキツィンバカジ(chitsimbakazi99)の歌、それもクツァンガーニャ(kutsanganya100)のリズムのものであると思われる。1989年度の調査のテープ資料は郵便事故で失われたため、確認は困難だが。
99 キツィンバカジ(chitsimbakazi)。別名カツィンバカジ(katsimbakazi)。空から落とされて地上に来た憑依霊。ムルングの子供。ライカ(laika)の一種だとも言える。mulungu mubomu(大ムルング)=mulungu wa kuvyarira(他の憑依霊を産んだmulungu)に対し、キツィンバカジはmulungu mudide(小ムルング)だと言われる。男女あり。女のキツィンバカジは、背が低く、大きな乳房。laika dondoはキツィンバカジの別名だとも。「天空のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha mbinguni)」と「池のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha ziyani)」の二種類がいるが、滞在している場所の違いだけ。キツィンバカジに惚れられる(achikutsunuka)と、頭痛と悪寒を感じる。占いに行くとライカだと言われる。また、「お前(の頭)を破裂させ気を狂わせる anaidima kukulipusa hata ukakala undaayuka.」台所の炉石のところに行って灰まみれになり、灰を食べる。チャリによると夜中にやってきて外から挨拶する。返事をして外に出ても誰もいない。でもなにかお前に告げたいことがあってやってきている。これからしかじかのことが起こるだろうとか、朝起きてからこれこれのことをしろとか。嗅ぎ出しの施術(uganga wa kuzuza)のときにやってきてku-zuzaしてくれるのはキツィンバカジなのだという。
100 ク・ツァンガーニャ(ku-tsanganya)。カヤンバの演奏速度(リズム)は基本的に3つ(さらにいくつかの変則リズムがある)。「ゆする(ku-suka)」はカヤンバを立ててゆっくり上下ひっくりかえすもので、憑依霊を「呼ぶ(kpwiha)」歌のリズム。その次にやや速い「混ぜ合わせる(ku-tsanganya)」(8分の6拍子)のリズムで患者を憑依(kugolomokpwa)にいざない、憑依の徴候が見えると「たたきつける(ku-bit'a)」の高速リズムに移る。
101 ここでの「子供」が具体的には誰であるのかは不明だが、後に知ることになったムリナとチャリのあいだの最も深刻な問題、ムリナと一緒になって以来チャリに子供ができないという問題と関係していると思われる。これについては、後年、チャリは私に、お腹に子供は何度かいたのだが、生まれずに消えてしまう、といった意味のことを言った。こうした「出来事」を指しているのかもしれない。しかし実際に妊娠があったのかどうかは不明。
102 カタナ氏によると kutuweni mulangala mbavu はこの3語で一つの罵倒語(maneno ga kuhakana)。「馬鹿野郎!」みたいな。ただ mulangalaという語自体の意味はわからないという。kutuweniは動詞 ku-tuwa(追う、付いていく)に由来、kuは場所を示すlocative、mbavu は身体の脇腹(肋骨の左右)。直訳すると2人称複数の命令文「mulangala脇腹のあたりでも辿ってやがれ」か。
103 ク・ブンガ(ku-phunga)。字義通りには「扇ぐ」という意味の動詞だが、病人を「扇ぐ」と言うと、それは病人をmuweleとしてカヤンバを開くという意味になる。スワヒリ語のク・プンガ(ku-punga104)も、ほぼ同じ意味で用いられる。1939年初版のF.ジョンソン監修の『標準スワヒリ・英語辞典』では、「扇ぐ」を意味する ku-pungaの同音異義語として"exorcise spirits, use of the whole ceremonial of native exorcism--dancing, drumming,incantations"という説明をこの語に与えている。ザンジバルのスワヒリ人のあいだに見られる憑依儀礼に言及しているのだが、それをエクソシズムと捉えている点で大きな誤解がある。少なくとも、ドゥルマの憑依霊のために開催するンゴマやカヤンバには除霊という観念は当てはまらない。しかしニューニ(nyuni18)の治療を専門とするニューニの施術師(muganga wa nyuni)たちは、ニューニに対する施術をク・ヴンガ(ku-vunga)とク・ブンガ(ku-phunga、あるいはスワヒリ語を用いてク・プンガ(ku-punga))の二つに区別している。前者は、引きつけのようなニューニ特有の症状を示す乳幼児に対し薬液(vuo41)を、鶏の羽根をいっぱい刺した浅い籠状の「箕(lungo109)を用いて患者の子供に振り撒くことを中心に据えた治療を指し、後者は母親に憑いたニューニを女性から除霊する施術を指すのに用いている。ここではexorcismという説明が文字通り当てはまる。
104 ク・プンガ(ku-punga)。スワヒリ語で「扇ぐ、振る、除霊する」を意味する動詞。ドゥルマ語のク・ブンガ(ku-phunga103)と同じく、病人を「扇ぐ」と言うと病人をムウェレ(muwele55)としてンゴマやカヤンバ105を開くという意味になる。除霊する(ku-usa nyama, kukokomola8)という目的で開く場合以外は、除霊(exorcism)の意味はない。しかしニューニ(nyuni18)の治療を専門とするニューニの施術師(muganga wa nyuni)たちは、ニューニに対する施術をク・ヴンガ(ku-vunga)とク・ブンガ(ku-phunga、あるいはスワヒリ語を用いてク・プンガ(ku-punga))の二つに区別している。前者は、引きつけのようなニューニ特有の症状を示す乳幼児に対し薬液(vuo41)を、鶏の羽根をいっぱい刺した浅い籠状の「箕(lungo109)を用いて患者の子供に振り撒くことを中心に据えた治療を指し、後者は母親に憑いたニューニを女性から除霊する施術を指すのに用いている。ここではexorcismという説明が文字通り当てはまる。
105 ンゴマ(ngoma)。「太鼓」あるいは太鼓演奏を伴う儀礼。木の筒にウシの革を張って作られた太鼓。または太鼓を用いた演奏の催し。憑依霊を招待し、徹夜で踊らせる催しもンゴマngomaと総称される。太鼓には、首からかけて両手で打つ小型のチャプオ(chap'uo, やや大きいものをp'uoと呼ぶ)、大型のムキリマ(muchirima)、片面のみに革を張り地面に置いて用いるブンブンブ(bumbumbu)などがある。ンゴマでは異なる音程で鳴る大小のムキリマやブンブンブを寝台の上などに並べて打ち分け、旋律を出す。熟練の技が必要とされる。チャプオは単純なリズムを刻む。憑依霊の踊りの催しには太鼓よりもカヤンバkayambaと呼ばれる、エレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'uri106)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器の方が広く用いられ、そうした催しはカヤンバあるいはマカヤンバと呼ばれる。もっとも、使用楽器によらず、いずれもンゴマngomaと呼ばれることも多い。特に太鼓だということを強調する場合には、そうした催しは ngoma zenye 「本当のngoma」と呼ばれることもある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira107)」と呼ばれることもある。
106 ムトゥリトゥリ(mut'urit'uri)。和名トウアズキ。憑依霊ムルング他の草木。Abrus precatorius(Pakia&Cooke2003:390)。その実はトゥリトゥリと呼ばれ、カヤンバ楽器(kayamba)や、占いに用いる瓢箪(chititi)の中に入れられる。
107 ウィラ(wira, pl.miira, mawira)。「歌」。しばしば憑依霊を招待する、太鼓やカヤンバ108の伴奏をともなう踊りの催しである(それは憑依霊たちと人間が直接コミュニケーションをとる場でもある)ンゴマ(105)、カヤンバ(108)と同じ意味で用いられる。
108 カヤンバ(kayamba)。憑依霊に対する「治療」のもっとも中心で盛大な機会がンゴマ(ngoma)あるはカヤンバ(makayamba)と呼ばれる歌と踊りからなるイベントである。どちらの名称もそこで用いられる楽器にちなんでいる。ンゴマ(ngoma)は太鼓であり、カヤンバ(kayamba, pl. makayamba)とはエレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'ti106)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器で10人前後の奏者によって演奏される。実際に用いられる楽器がカヤンバであっても、そのイベントをンゴマと呼ぶことも普通である。カヤンバ治療にはさまざまな種類がある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira107)」と呼ばれることもある。
109 ルンゴ(lungo, pl.malungo or nyungo)。「箕(み)」浅い籠で、杵で搗いて脱穀したトウモロコシの粒を入れて、薄皮と種を選別するのに用いる農具。それにガラス片などを入れた楽器(ツォンゴ(tsongo)あるいはルンゴ(lungo))は死者の埋葬(kuzika)や服喪(hanga)の際の卑猥な内容を含んだ歌(ムセゴ(musego)、キフドゥ(chifudu))の際に用いられる。また箕を地面に伏せて、灰をその上に撒いたものは占い(mburuga)の道具である。ニューニ18の治療においては、薬液(vuo41)を患者に振り撒くのにも用いられる。
110 クウサ(ku-usa)。「除去する、取り除く」を意味する動詞。憑依霊の中には「除去の霊(nyama wa kuusa10)」と呼ばれる、妖術使いなどによって送りつけられたとされる霊がおり、そうした霊は「除去」の対象となる。つまり除霊される。またクウサは転じて、負っている負債や義務を「返す」、儀礼や催しを「執り行う」などの意味にも用いられる。例えば祖先に対する供犠(sadaka)をおこなうことは ku-usa sadaka、婚礼(harusi)を執り行うも ku-usa harusiなどと言う。クウサ・ムズカ(muzuka)あるいはミジム(mizimu)とは、ムズカに祈願して願いがかなったら云々の物を供犠します、などと約束していた場合、成願時にその約束を果たす(ムズカに「支払いをする(ku-ripha muzuka)」ともいう)ことであったり、妖術使いがムズカに悪しき祈願を行ったために不幸に陥った者が、それを逆転させる措置(たとえば「汚れを取り戻す」12など)を行うことなどを意味する。
111 ズカ(zuka)。ズカ・ラ・キペンバ(zuka ra chipemba)、ズカ・ラ・キカウマ(zuka ra chikauma)等の種類がある。母親にとり憑き、その子供を病気にするニューニ(nyuni18)あるいは「上の霊(nyama wa dzulu17)」などと呼ばれる、鳥の霊の一種。子供の病気の治療には、憑依霊の施術師ではなく、ニューニ専門の施術師が当たるが、ニューニの施術師になるためには憑依霊の施術師のように霊との特別な結びつきが必要なわけではなく、単に他のニューニの施術師から買うことでなれる。ズカが女性が生む子供を次々に殺してしまうといった場合には除霊(kukokomola8)が必要となる。除霊を専門とする施術師がいる。除霊にはズニ(dzuni112)等と同様に泥で作った鳥を形どった人形を用いるが、ズカの人形は嘴が短い。白い鶏、赤い鶏の2羽がキリャンゴナ(chiryangona114)として必要。
112 ズニ(dzuni, pl.madzuni)。dzuni bomu(「大きなズニ」)、キルイ(chilui113)は別名。ズニとキルイは別だと言う人もいる。子供の痙攣などを引き起こす「ニューニ(nyuni18)」、「上の霊(nyama a dzulu17)」と呼ばれる鳥の霊の一つ。ニャグ(nyagu)、ツォヴャ(tsovya)などと同様に、母親に憑いてその子供を殺してしまうこともあり、除霊(kukokomola8)の対象にもなる。通常のカヤンバで、これらの霊の歌が演奏される場合、患者は、死産、流産、不妊などを経験していたことが類推できる。水辺にいて、長い嘴と鋭い爪のある足をもつ鳥。ツルかサギを思わせるが、巨大な鳥で象ですら空へ持ち上げてしまう、脚だけでもバオバブの木くらいの太さがあるという。ということは空想上の鳥。除霊の際に幼い子供は近くにいてはならない、また幼い子供を持つ若い母はその歌を歌ってはならない。除霊の際には、泥で二本の長い嘴をもつ鳥を形どった人形を作り、カタグロトビ(chiphanga, black-winged kite)に似た白と灰色の模様の鶏(kuku wa chiphangaphanga)の羽根で飾る。除霊の後この人形は分かれ道(matanyikoni)やバオバブの木の根本(muyuni)に捨てられる。鶏は屠殺されその血を患者に飲ませる。この人形は一体のなかに雄と雌を合体させている。この人形の代わりに、雄のズニと雌のズニの二体の人形が作られることもある。
113 キルイ(chilui)。空想上の怪鳥。水辺にいて、長い嘴と鋭い爪のある足をもつ。ツルかサギを思わせるが、巨大な鳥で象ですら空へ持ち上げてしまう、脚だけでもバオバブの木くらいの太さがあるという。ということは空想上の鳥。「上の霊(nyama wa dzulu17)」の一種。女性にとり憑き、彼女が生む子供を殺してしまう。除霊(kukokomola8)の対象である「除去の霊(nyama wa kuusa10)」である。ニャグ(nyagu)同様、夫婦のいずれかが婚外性交すると、子供を病気にする。除霊の際に子供は近くにいてはならない、また子供を持つ若い母はchilui の歌を歌ってはならない。除霊の際には、泥で二本の長い嘴をもつ鳥を形どった人形を作り、カタグロトビ(chiphanga、black-winged kite)のような白と灰色(黒)の模様の鶏(kuku wa chiphangaphanga)の羽根で飾る。除霊の後この人形は分かれ道(matanyikoni)やバオバブの木の根本(muyuni)に捨てられる。鶏は屠殺されその血を患者に飲ませる。ズニ(dzuni112)、ズニ・ボム(dzuni bomu)の別名(それらとは別の霊だと言う人もいる)。
114 キリャンゴナ(chiryangona, pl. viryangona)。施術師(muganga)が施術(憑依霊の施術、妖術の施術を問わず)において用いる、草木(muhi)や薬(muhaso, mureya など)以外に必要とする品物。妖術使いが妖術をかける際に、用いる同様な品々。施術の媒体、あるいは補助物。治療に際しては、施術師を呼ぶ際にキリャンゴナを確認し、依頼者側で用意しておかねばならない。
115 ンガンジ(ng'anzi, pl.ng'anzi)。「歓談、雑談、世間話」。マネノ(maneno)、つまり互いに要求や異論をぶつけ合ったりする、論争的な会話に対して、もっぱら友好的で楽しみを目的とする談話をンガンジという。ku-gomba ng'anzi 「歓談する、雑談する」、ku-rya ng'anzi(字義通りにはンガンジを「食べる」)も「歓談する」だが、お互いにそれを楽しんでいることがより強調される。
116 「ンガンジを食べる」ku-rya ng'anzi という表現は、「歓談を楽しむ」を意味する慣用表現であるが、それに掛けて、自分が憑依霊であなたがたとは別の食べ物を食べる者なのだと、話をずらしている。
117 ク・ジラ(ku-zira)。食べるよう提供された食べ物を拒む行為を指す動詞。非常に無作法な振る舞いとされる。敵意の表明に近い。
118 マラシ(marashi)。スワヒリ語で「香水」、ドゥルマではもっぱらローズウォーターのこと。ローズウォーターは化粧水などの目的で使用されるもので、市販されている。このあたりではもっぱらkombe42治療などの目的で使われている。ンゴマの席などで、イスラム系の憑依霊は、これをガブ飲みしてはゲップする。彼らの好物である。
119 ベメリ(Bemeri)は人名だとすると「メリの父」という意味の子供名(dzina ra mwana120)である。このンゴマの文脈では、カヤンバ奏者のなかの主歌い手(リードヴォーカル)ングイ(ngui121)の名前であると解釈できるが、もしかするとベメリという名前の憑依霊がいるのかもしれない。このとき以外には憑依霊の名前として聞いたことはなかったが...
120 ジナ・ラ・ムヮナ(dzina ra mwana)。「子供名」夫婦は第一子をもうけると、敬意をこめてその子供の名前にちなんだ「子供名」で呼ばれるようになる。第一子の名前は、それぞれのクラン(ukulume)ごとに、子供の祖父の世代の人名から一定の規則に従って選ばれた名前がつけられるが(たとえばムァニョータ・クランの場合は、長子には男児であれば、その子の父親の父の名前が、女児であればその子の父親の父の姉妹の名前がつけられる、といった具合に)、以後、夫はその子供の名前(例えばムエロ(Mwero))にちなんでその名前の前にベ(Be)をつけて(たとえばBemweroというふうに)、妻は子供の名前の前にメ(Me)をつけて(たとえばMemweroというふうに)呼ばれることになる。これが「子供名」である。
121 ングイ(ngui pl. mangui)。カヤンバやンゴマにおける歌い手。特にリードヴォーカル。即興で自ら作詞作曲、アレンジも行う。ンゴマを首尾よく主宰するうえで重要な役割を果たす。
122 フンディ(fundi, pl. mafundi)。「職人、匠」。一般に特定の技術にたけた専門家を指す。憑依霊の治療の際に、フンディと呼ばれるのは太鼓やカヤンバの奏者や歌い手、施術師の助手たちだが、癒しの術の施術師自身もフンディという言葉で指されることがある。「匠(たくみ)」という訳語に統一しようかと思う。
123 ジネ・ツィンバ(jine tsimba)。ジネ・シンバ(jine simba)とも。イスラム系憑依霊jine(fr.(ス)jini,(英)genie,(ア)jinn)の一種。ジネは犠牲者の血を飲むという共通の攻撃が特徴だが、ジネ・ツィンバはもちろんそのライオンtsimbaのように鋭い爪で犠牲者の血をとる。症状:首を圧えられる、血の咳、腎臓(噛み潰されるkpwafunwa)、カヤンバで憑依されると地面を4足歩行し、ライオンのように吠える。
124 ワリ(wari)。トウモロコシの挽き粉で作った練り粥。ドゥルマの主食。水を沸騰させ、そこに少量の粉を入れて撹拌し、やや粘りが出た所に、どっさり粉を入れて力いっぱい練る。大きな更に盛って、各自が手で掴み取り、手の中で丸めてスープなどに浸して食する。スワヒリ語でウガリ(ugali)と呼ばれるものと同じ。スワヒリ語ではワリ(wari)は米飯を指す。ドゥルマ語では米飯はムテレ(mutele)あるいはムブンガ(muphunga)と呼ぶ。
125 ク・オチャ(ku-ocha, 実際にはkochaが動詞の原形)「焼く、燃やす」。憑依霊の文脈では、鍋治療(nyungu38)において蒸気を浴びる(ku-dzifukiza)することを、しばしば「焼かれるkochwa」と表現することがある。
126 キティティ(chititi)。占い(mburuga)に用いる、中にトウアズキ(t'urit'uri)の実を入れた小型瓢箪のマラカス。
127 チャリをライカ、シェラ、デナについて外に出す(kulavya konze44)ンゴマは、次の週の月曜(1989/11/27)に予定されていたらしい。実際には翌月の12月14日から16日にかけてMwamoko地域で実施された。
128 ピーニ(pini)。ギリアマ系の霊で、同じくギリアマ系のSanzua129の別名ともいう。占いに従事する。また「祈願の施術(uganga wa kuvoyera131)」の技も与えてくれる。
129 サンズア(sanzua)。憑依霊ギリアマ人、女性。占いをする。matali(野ネズミ)を食べる。憑依されると、周りにいる人の誰が健康で、誰が病気かを言い当てたりする。症状: 発狂kpwayusa,歩くのも困難なほどの身体の痛み。要求: hando ra mupangiro(細長く切った布片を重ねるように縫い合わせて作った蓑=chituku)、ヤマアラシの針を植え付けた3本脚の御椀(chivuga130)
130 キヴガ(chivuga, pl.vivuga)。木をくり抜いて作った3本脚の小さいお椀。ヤマアラシの針が植え付けてある。憑依霊サンズア(sanzua129)、別名(?)ピーニ(pini128)が必要とする道具の一つ。
131 ク・ヴォイェラ(ku-voyera)。 ku-voya 「祈る、祈願する」のprep.formなので、「~のために祈る」という意味になるが、uganga wa kuvoyera というと、通常の人にはわからない妖術使いを探索して探し出す施術という特殊な意味をもつ。
132 カヤ(kaya)。カヤとはミジケンダの諸集団がガラ人やムクァヴィ人、マサイなどの牧畜民の襲撃に備えて、海岸にそった山脈に19世紀まで形成して暮らしていた要塞村のことである。今日ではいずれも深い森林になっている。ドゥルマでは、今日カヤは機能していないが、カヤの森の木は伐採してはならないという禁止がある。いくつかの父系氏族は1950年代くらいまでは、かつて死者はカヤに埋葬していたと主張する。またカヤの中では長老の集会がそこで行われ、人肉を食べていたと語るものもいるが、かつての最上位年齢組の長老たち(ngambi)の集会について、こうした誤解をしているだけだろう。隣接するギリアマではカヤは儀礼場として機能しているとも言われる。ディゴ語ではカヤ(kaya)という言葉は、こうした意味での他に、単に「家、屋敷」(ドゥルマ語ではムジ(mudzi, pl.midzi)に当たる)の意味でも用いられている。
133 カヤ・ターフ(kaya tahu)。「3つのカヤ」。カヤとはミジケンダの諸集団がガラ人やムクァヴィ人、マサイなどの牧畜民の襲撃に備えて、海岸にそった山脈に19世紀まで形成して暮らしていた要塞村のことである。ドゥルマ人は、カヤ・ドゥルマ(kaya duruma)、カヤ・チョーニ(kaya chonyi)、カヤ・ムツヮカラ(kaya mutswakara)という3つのカヤをもっていた。他のミジケンダ諸集団と違い、これらのカヤは今日ではまったく見捨てられている。しかし儀礼や仕来りなどが3つのカヤに由来すると語ることは、いまなお人々の正当性とアイデンティティの一部となっている(少なくとも年長の人々にとっては)。
134 原文では uratu be ni wangu wenye ludzere.癒やしの術(uratu= uganga)を、頭に生えた一本の毛髪にたとえ、「頭に生えた一本の毛髪の主が私であるように、私のものである」と述べている。あまりにもぶっ飛んだ比喩なので、解説してもらうまでさっぱり理解できなかった表現。Nasanta mutumia Katana Bekadama!
135 キブーリェ(chiphurye)。「無視」。動詞ク・ブーリャ(ku-phurya)「無視する、相手にしない」より。「キブーリェの人(mut'u wa chiphurye)」とは他人の言うことに耳を貸さない、丁寧な依頼も相手にせず、無礼に拒絶する、といった人間を指す。人として好ましくない人格だと考えられている。
136 ザーニ(zani)。「不運」。kasidiという言葉には、なにか悪いことをしでかしてそれが「わざと故意に」なされたものだといった場合の「わざと、故意に」の意味がある。それに対し、その悪いことが(例えば人を殺す)が事故で、殺害を意図せずに起こってしまった場合それはザーニ(zani)という。
137 「もしお前が男なら、来るがよい」は妖術使い、あるいは強力な「薬」を所持している者が、相手を煽って発する脅し文句とされている。ここでは「男」は強力な薬によって自らを防御しているという自信がある者のこと。「もし自信があるならやって来て私に挑戦してみればよい。そうでないなら、目にものを見せてやるぞ。」という脅し文句。
138 ムダタ(mudat'a, pl. midat'a)。棒状の杖。ムクァジュ(mukpwaju)との違いは真っ直ぐであること。ムクァジュは握りが曲がっている。
139 チュマ(chuma, pl.vyuma)「鉄」。より市販されている工場で作られているトウモロコシ粉をこう呼んでいる。田舎者の憑依霊ドゥルマ人は、畑で穫れ石臼で粉に挽いたトウモロコシ粉で作った練粥しか食べない。それも木製のお椀で。
140 埋葬は近隣の人々の義務であるが、死者の子供たちが主宰する。
141 ムゾンバ(mudzomba, pl. adzomba)。海岸部のイスラム教徒。複数形はadzomba。mwislamu/(pl.)aislamuという言葉もあるが、こちらは宗教的に敬虔なイスラム教徒を指すのに用いられており、それに対してmudzombaは海岸部のスワヒリ人を指すのにも用いられる。内陸部のイスラム改宗者もmudzombaと呼ばれる。キリスト教徒がムジェソmujesoと呼ばれるように。
142 マコザ(makodza)は葉を指す一般的な名詞だが、カタナ君の解読によると、薬液を作るための草木(mihi)をここでは意味しているとのこと。「その連中は何が望みなんですか」の問に対する答えで「逃げてった奴は葉っぱだよ。」と言ったのだとすると話は通るので、この解釈を採用。
143 ガンジ(ganzi, pl.maganzi)。ピレナカンサ(pyrenacantha vogeliana)。根本が大きく膨らんだサボテンに似た植物。
144 ムルング(mulungu)。ムルングはドゥルマにおける至高神で、雨をコントロールする。憑依霊のムァナムルング(mwanamulungu)62との関係は人によって曖昧。憑依霊につく「子供」mwanaという言葉は、内陸系の憑依霊につける敬称という意味合いも強い。一方憑依霊のムルングは至高神ムルング(女性だとされている)の子供だと主張されることもある。私はムァナムルング(mwanamulungu)については「ムルング子神」という訳語を用いる。しかし単にムルング(mulungu)で憑依霊のムァナムルングを指す言い方も普通に見られる。このあたりのことについては、ドゥルマの(特定の人による理論ではなく)慣用を尊重して、あえて曖昧にとどめておきたい。
145 ペーポー(p'ep'o, pl. map'ep'o)。p'ep'oは憑依霊一般を指すが、憑依霊アラブ人(Mwarabu)と同義に用いられる場合もある。ペーポー子神(mwana p'ep'o)という呼称は、憑依霊アラブ人に対する呼称。なお憑依霊一般については p'ep'oの他に、shetani146もあるが、ドゥルマ地域ではnyama(「動物」を意味する普通名詞147)という言葉が最も一般的に用いられる。
146 シェタニ(shetani, pl.mashetani)。憑依霊を指す一般的な言葉の一つ。スワヒリ語。他にドゥルマ語ではペーポ(p'ep'o, pl.map'ep'o)、ニャマ(nyama, pl.nyama)。p'ep'o はpeho「風、冷気、冷たさ」と関係ありか。nyama は「動物、肉」を意味する普通名詞。
147 ニャマ(nyama)。憑依霊について一般的に言及する際に、最もよく使われる名詞がニャマ(nyama)という言葉である。これはドゥルマ語で「動物」の意味。ペーポー(p'ep'o145)、シェターニ(shetani146スワヒリ語)も、憑依霊を指す言葉として用いられる。名詞クラスは異なるが nyama はまた「肉、食肉」の意味でも用いられる。憑依霊はさまざまな仕方で分類される。その一つは「ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini9)」と「ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa10)」の区別。前者は「身体にいる憑依霊」の意味で人に憑いて一生続く関係をもつ憑依霊。憑依霊の施術師たちの手を借りて交渉し、霊たちの要求を満たしてやることで、霊と比較的安定して友好的(?)な関係を維持することができる。このタイプの霊の多くは除霊できない。後者は「除去の憑依霊」の意味で、女性に憑くが、その子供を殺してしまうので除霊(kukokomola8)が必要な霊。後者の多くは、妖術使いによって送りつけられたジネ系の霊で、イスラム教徒の施術師による除霊を必要とする。他にも「上の霊(nyama wa dzulu)」と呼ばれる鳥の霊たちがあり、こちらはドゥルマの施術師によって除霊できる。この分類とは別に憑依霊を、「海岸部の憑依霊(nyama wa pwani148)」あるいは「イスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba6)」と「内陸部の憑依霊(nyama wa bara149)」の2つに分ける区別もある。
148 ニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl.nyama a pwani)。「海岸部の憑依霊」。イスラム系の霊(nyama wa chidzomba6)に同じ。非イスラム系の土着の憑依霊たち、ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara)との対比で、この名で呼ばれる。
149 ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara, pl. nyama a bara)。「内陸系の憑依霊。」イスラム系の霊がニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl. nyama a pwani)、つまり「海岸部の憑依霊」と呼ばれるのに対比して、内陸部の非イスラム的な憑依霊をこの名前で呼ぶ。
150 ブルシ(bulushi)。憑依霊バルーチ(Baluchi)人、イスラム教徒。バルーチ人は19世紀初頭にオマンのスルタンの兵隊として東アフリカ海岸部に定住。とりわけモンバサにコミュニティを築き、内陸部との通商にも従事していたという。ドゥルマのMwakaiクランの始祖はブッシュで迷子になり、土地の人々に拾われたバルーチの子供(mwanabulushi)であったと言われている。要求:イスラム風の衣装 白いローブ(kanzu)、レース編みの帽子(kofia ya mukono)、チョッキ(chisibao)。
151 ムクヮビ、憑依霊クヮビ(mukpwaphi pl. akpwaphi)人。19世紀の初頭にケニア海岸地方にまで勢力をのばし、ミジケンダやカンバなどに大きな脅威を与えていた牧畜民。ムクヮビは海岸地方の諸民族が彼らを呼ぶのに用いていた呼称。ドゥルマの人々は今も、彼らがカヤと呼ばれる要塞村に住んでいた時代の、自分たちにとっての宿敵としてムクヮビを語る。ムクヮビは2度に渡るマサイとの戦争や、自然災害などで壊滅的な打撃を受け、ケニア海岸部からは姿を消した。クヮビ人はマサイと同系列のグループで、2度に渡る戦争をマサイ内の「内戦」だとする記述も多い。ドゥルマの人々のなかには、ムクヮビをマサイの昔の呼び方だと述べる者もいる。
152 バラカ(baraka)。アラビア語に由来するスワヒリ語の名詞。「幸運、祝福、繁栄」。
153 ムバラワ(mubarawa)。イスラム系憑依霊、バラワ人は、ソマリアの港町バラワに住むスワヒリ語方言を話す人々。イスラム教徒。症状:肺、頭痛。赤いコフィア,チョッキsibao,杖mukpwajuを要求
154 ペーポーコマ(p'ep'o k'oma)。ムルング(mulungu144)と同じだと言う人も。ムルングの子供だとも。ペーポーコマには2種類あり、「地下世界(=死者の土地)のペーポーコマ(p'ep'o k'oma wa kuzimu)」と「池のペーポーコマ(p'ep'o k'oma wa ziyani)」であるが、特に断りがなければ前者である。草木はムラザコマ(mulazak'oma155)、ムブァツァ(muphatsa156)。ペーポーコマの護符ンガタ(ngata34)やピング(pingu35)のなかに入れるのはムルングの瓢箪の中身。主な症状としては、身体の発熱(しかし、手足の先は氷のように冷たい)。寝てばかりいる。トウモロコシを挽いていても、うとうと、ワリ(練り粥)を食べていても、うとうとするといった具合。カヤンバでも寝てしまう。寝てばかりで、まるで死体(lufu)のよう。それが「死者の土地のペーポーコマ(p'ep'o k'oma wa kuzimu)」の名前の由来。治療には、ピング(pingu)の中にいれる材料としてミミズが必要。寝てばかりなのでムァクララ(mwakulala(mutu wa kulala(=眠る))の別名もある。スンドゥジ(sunduzi157)やムドエ(mudoe158)と同様に、女性に憑いた場合、母乳を介してその子供にも害が加わる。
155 ムラザコマ(mulazak'oma)。Achyrothalamus marginatus(Pakia&Cooke2003:387)、ムルング(mwanamulungu)とペポコマ(p'ep'o k'oma)の草木。動詞 ku-laza は「眠らせる」を意味する。k'omaはドゥルマでは「祖霊」を指すが、同時に「夢」の意味でも用いられている。ムラザコマは「祖霊を眠らせる者」あるいは「夢を眠らせる者」になる。祖霊は子孫の夢のなかでのみ子孫の前に現れるので、祖霊を眠らせるなら子孫の夢の中に出てきてさまざまな要求を伝えてくることもなくなる。などとこじつけることもできるが。施術師Chariはこの名称をムブァツァ(muphatsa156)の別名だとしているが、Pakia&Cookeは muphatsaを別の植物 Vernonia hildebrandtii, Acalypha fruticosaとして記述している(ibid.)。
156 ムブァツァ(muphatsa)。ディゴではmuphatsaはAcalypha fruticosa(Pakia&Cooke2003:389)、phatsaはVernonia hildebrandtii。チャリはmuphatsaの別名をmulazak'oma155としているが、phatsaをmlazakomaと呼ぶのはギリアマ語らしい(Parkia&Cooke2003:387)。ドゥルマ語でmulazak'omaと呼ばれているのはParkia&Cookeによると、Achyrothalamus marginatusという別の植物である(ibid.)。ムルングの草木のひとつである chiphatsa chibomu も、おそらくmuphatsaの類縁種。chiphatsa は muphatsa の指小形で、それに大きい -bomuという形容詞がついているのは不思議な感じもするが。
157 スンドゥジ(sunduzi)。ムドエ(mudoe)、ドゥングマレ(dungumale)、キズカ(chizuka)、ジム(zimu)、ペポコマ(p'ep'o k'oma)などと同様に、母親に憑いて、その母乳経由で子供に危害を及ぼす。スンドゥジ(sunduzi)は、母乳を水に変えてしまう(乳房を水で満たし母乳が薄くなってしまう ku-tsamisa maziya, gakakala madzi genye)ことによって、それを飲んだ子供がすぐに嘔吐、下痢に。。母子それぞれにpingu(chihi)を身に着けさせることで治る; Ni uwe sunduzi, ndiwe ukut'isaye maziya. Maziya gakakala madzi.スンドゥジの草木= musunduzi
158 ムドエ(mudoe)。民族名の憑依霊、ドエ人(Doe)。タンザニア海岸北部の直近の後背地に住む農耕民。憑依霊ムドエ(mudoe)は、ドゥングマレ(Dungumale)やスンドゥジ(Sunduzi)、キズカ(chizuka)などとならんで、古くからいる霊とされる。ムドエをもっている人は、黒犬を飼っていつも連れ歩く。それはムドエの犬と呼ばれる。母親がムドエをもっていると、その子供を捕らえて病気にする。母親のもつムドエは乳房に入り、母乳を水のように変化させるので、子供は母乳を飲むと吐いたり下痢をしたりする。犬の鳴くような声で夜通し泣く。また子供は舌に出来ものが出来て荒れ、いつも口をもぐもぐさせている(kpwafuna kpwenda)。ピング(pingu35)は、ムドエの草木(特にmudzala159)と犬の歯で作り、それを患者の胸に掛けてやる。ムドエをもつ者は、カヤンバの席で憑依されると、患者のムドエの犬を連れてきて、耳を切り、その血を飲ませるともとに戻る。ときに muwele 自身が犬の耳を咬み切ってしまうこともある。この犬を叩いたりすると病気になる。
159 ムザラ(mudzala)。ムザラ・ドエ(mudzala doe)とも。uvaria acuminata, または monanthotaxis fornicata(Pakia&Cooke2003:386)。これらとは別にムザラ・コンバ(mudzala komba)もあり、こちらはUvaria faulkneraeおよびUvaria lucida(Pakia&Cooke2003:386)。ムルング、憑依霊ドゥルマ人(muduruma46)、憑依霊ドエ人(mudoe158)の草木。
160 ムガラ(mugala)。民族名の憑依霊、ガラ人(Mugala/Agala)、エチオピアの牧畜民。ミジケンダ諸集団にとって伝統的な敵。ミジケンダの起源伝承(シュングワヤ伝承)では、ミジケンダ諸集団はもともとソマリア国境近くの伝説の土地シュングワヤに住んでいたのだが、そこで兄弟のガラと喧嘩し、今日ミジケンダが住んでいる地域まで逃げてきたということになっている。振る舞い: カヤンバの場で飛び跳ねる。症状:(脇がトゲを突き刺されたように痛む(mbavu kudunga miya)、牛追いをしている夢を見る、要求:槍(fumo)、縁飾り(mitse)付きの白い布(Mwarabuと同じか?)
161 ムボニ(muboni)。民族名の憑依霊、ボニ人(Boni)、ケニア海岸地方のソマリアに隣接する内陸部にいた狩猟採集民。ドゥルマの人々にとってはMuryangulo(Aryangulo(pl.))の名の方が馴染み深い。憑依霊の別名kalimangao(kalima=dim. of mulima「小さい山」、ngao=「盾」)、占いの能力、症状: kpwayusa(発狂)、その歌にはカヤンバ演奏ではなく太鼓を要求する。
162 ムダハロ(mudahalo)。民族名の憑依霊、ダハロ人(Dahalo)、19世紀にはクシュ系の狩猟採集民で、ワサーニェ(Wasanye)、ワータ(Wata)などの名前でも知られている。憑依霊としては、カヤンバではなく太鼓ngomaを要求、占いmburugaをする。症状: 発狂、ブッシュに逃げ込んでしまう
163 ムコロンゴ(mukorongo)。民族名の憑依霊、ンギンド人164の別名とされるが、コロンゴ人(Korongo)だとすると、その居住地はスーダン・コルドファン地域であり、ンギンド人の別名とするには無理がある。一方、korongoはスワヒリ語ではツル科(Gruidae)の鳥を指す。
164 ムンギンドゥ(mungindo)。民族名の憑依霊、ンギンド人(Ngindo)、マラウィに住む東中央バントゥの農耕民、憑依霊「奴隷mutumwa」の別名とされる。「奴隷」はギリアマでの呼び名。足に鉄の輪をはめて踊る。占いmburugaをする。カヤンバではなく太鼓を要求。mukorongoもその別名だとする意見もある。
165 この最後のパラグラフは解釈困難。書き起こしではチャリの発話のようになっているが、チャリが患者の女性を「私の妻」と呼んでいることは、どう考えたらよいかわからない。私は、このパラグラフの発話の主は、唱えごとの対象の女性の夫ではないかと思う。つまり夫婦の諍いのせいで、夫の「心の凝り(mufundo166)も彼女の不調や、世帯の貧困問題の原因になっているかもしれないという表明である。このパラグラフの語りは、正式なクハツァ(kuhatsa167)ではないが。この発話を女性の夫のものとすると、それが挿入されたことで、チャリの唱えごとが終了したと勘違いしたカヤンバ奏者たちが演奏を始めたことも納得できる。ただ、録音テープが紛失し(ケニアからの郵便事故で)、チェックができないため、これらは単なる推測以上の域を出ない。
166 ムフンド(mufundo)。フンド(fundo)は縄などの「結び目」であるが、心の「しこり」の意味でも用いられる。特に mufundo は人が自分の子供などの振る舞いに怒りを感じたときに心のなかに形成され、持ち主の意図とは無関係に、怒りの原因となった子供に災いをもたらす。唾液(あるいは口に含んだ水)を相手の胸(あるいは口中に)吹きかけることによって解消できる。この手続きをkuhatsa167と呼ぶ。知らず知らずのうちに形成されているmufundoを解消するためには、抱いたかもしれない怒りについて口に出し、水(唾液)を自分の胸に吹きかけて解消することもできる。本人も忘れている取るに足らないしこりが、例えばンゴマやカヤンバで患者が踊ることを妨げることがある。muweleがいつまでたっても憑依されないときには、夫によるkuhatsaの手続きがしばしば挿入される。ムフンドは典型的には親から子へと発動するが、夫婦などそれ以外の関係でも生じるとも考えられている。
167 クハツァ(ku-hatsa)。文脈に応じて「命名する kuhatsa dzina」、娘を未来の花婿に「与える kuhatsa mwana」、「祖霊の祝福を祈願する kuhatsa k'oma」、自分が無意識にかけたかもしれない「呪詛を解除する」、「カヤンバなどの開始を宣言する kuhatsa ngoma」などさまざまな意味をもつ。なんらかのより良い変化を作り出す言語行為を指す言葉と考えられる。憑依の文脈では、憑依霊を呼び出すンゴマ(カヤンバ)の場で、患者(ムウェレ(muwele55)がなかなか憑依状態に入らない(踊らない場合)があり、それが患者に対して心の中になにか怒り(ムフンド(mufundo166))をもっている親族(父母、夫など)がいるせいだとされることがある。その場合は、そうした怒りを感じている人に、その怒りの内容をすべて話し、唾液(あるいは口に含んだ水)を患者に対して吹きかけるという、呪詛の解除と同じ手続きがとられることがある。この行為もクハツァと呼ばれる。ンゴマやカヤンバにおいてムウェレが踊らない問題についてはリンク先を参照のこと。
168 サラマ(salama)。スワヒリ語で形容詞としては「平安な」「安全な」「平和な」、名詞としては「平安」「健康」。さまざまな唱えごとで、締めくくりの言葉として使われる。salama salamini「平和に、そして安全に」とでも訳せるかもしれないが、唱えごとの締めの決まり文句として、「サラマ、サラミーニ」とそのまま音表記する。
169 ポーレ(pore)。名詞・副詞として、ゆっくりしたさま、穏やかなさま、礼儀正しいさまなどを指す。間投詞としては、穏やかに、もの静かに、ゆっくりと、などに加えて、ひどい目に遭った人や、感情を高ぶらせている人に対して、相手がクールダウンするように、宥めたり、同情の意を示したり、謝ったりする言葉として用いられる。憑依の文脈では私はこれを「お静まりください」と訳している場合が多いが、コンテクストによっては異なる訳語を当てている。ここでは単になだめる言葉を与えていない、という以外にも、親族に死者が出た憑依霊持ちに対して開かれる「お悔やみのンゴマ(またはカヤンバ)」(kayambara pore/ngoma ya pore)が開催されていないという意味でもとれる。
170 グヮヤ(gbwaya)。擬音語。「ばさっ、どさっ」など茂みの中に何かが落ちるような音。ブッシュに物を投げ捨てるように、次々に必要とされるンゴマの要求について語られることを、このように表現している。
171 この発話の前後とのつながりは不明。
172 ライカ(laika)、ラライカ(lalaika)とも呼ばれる。複数形はマライカ(malaika)。きわめて多くの種類がいる。多いのは「池」の住人(atu a maziyani)。キツィンバカジ(chitsimbakazi99)は、単独で重要な憑依霊であるが、池の住人ということでライカの一種とみなされる場合もある。ある施術師によると、その振舞いで三種に分れる。(1)ムズカのライカ(laika wa muzuka173) ムズカに棲み、人のキブリ(chivuri52)を奪ってそこに隠す。奪われた人は朝晩寒気と頭痛に悩まされる。 laika tunusi174など。(2)「嗅ぎ出し」のライカ(laika wa kuzuzwa) 水辺に棲み子供のキブリを奪う。またつむじ風の中にいて触れた者のキブリを奪う。朝晩の悪寒と頭痛。laika mwendo175,laika mukusi176など。(3)身体内のライカ(laika wa mwirini) 憑依された者は白目をむいてのけぞり、カヤンバの席上で地面に水を撒いて泥を食おうとする laika tophe177, laika ra nyoka177, laika chifofo180など。(4) その他 laika dondo181, laika chiwete182=laika gudu183), laika mbawa184, laika tsulu185, laika makumba186=dena187など。三種じゃなくて4つやないか。治療: 屋外のキザ(chiza cha konze39)で薬液を浴びる、護符(ngata34)、「嗅ぎ出し」施術(uganga wa kuzuza53)によるキブリ戻し。深刻なケースでは、瓢箪子供を授与されてライカの施術師になる。
173 ライカ・ムズカ(laika muzuka)。ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)の別名。またライカ・ヌフシ(laika nuhusi)、ライカ・パガオ(laika pagao)、ライカ・ムズカは同一で、3つの棲み処(池、ムズカ(洞窟)、海(baharini))を往来しており、その場所場所で異なる名前で呼ばれているのだともいう。ライカ・キフォフォ(laika chifofo)もヌフシの別名とされることもある。
174 ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)は「怒りっぽさ」。トゥヌシ(tunusi)は人々が祈願する洞窟など(muzuka)の主と考えられている。別名ライカ・ムズカ(laika muzuka)、ライカ・ヌフシ。症状: 血を飲まれ貧血になって肌が「白く」なってしまう。口がきけなくなる。(注意!): ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)とは別に、除霊の対象となるトゥヌシ(tunusi)がおり、混同しないように注意。ニューニ(nyuni18)あるいはジネ(jine)の一種とされ、女性にとり憑いて、彼女の子供を捕らえる。子供は白目を剥き、手脚を痙攣させる。放置すれば死ぬこともあるとされている。女性自身は何も感じない。トゥヌシの除霊(ku-kokomola)は水の中で行われる(DB 2404)。
175 ライカ・ムェンド(laika mwendo)。動きの速いことからムェンド(mwendo)と呼ばれる。mwendoという語はスワヒリ語と共通だが、「速度、距離、運動」などさまざまな意味で用いられる。唱えごとの中では「風とともに動くもの(mwenda na upepo)」と呼びかけられる。別名ライカ・ムクシ(laika mukusi)。すばやく人のキブリを奪う。「嗅ぎ出し」にあたる施術師は、大急ぎで走っていって,また大急ぎで戻ってこなければならない.さもないと再び chivuri を奪われてしまう。症状: 激しい狂気(kpwayuka vyenye)。
176 ライカ・ムクシ(laika mukusi)。クシ(kusi)は「暴風、突風」。キククジ(chikukuzi)はクシのdim.形。風が吹き抜けるように人のキブリを奪い去る。ライカ・ムェンド(laika mwendo) の別名。
177 ライカ・トブェ(laika tophe)。トブェ(tophe)は「泥」。症状: 口がきけなくなり、泥や土を食べたがる。泥の中でのたうち回る。別名ライカ・ニョカ(laika ra nyoka)、ライカ・マフィラ(laika mwafira178)、ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka179)、ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。
178 ライカ・ムァフィラ(laika mwafira)、fira(mafira(pl.))はコブラ。laika mwanyoka、laika tophe、laika nyoka(laika ra nyoka)などの別名。
179 ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka)、nyoka はヘビ、mwanyoka は「ヘビの人」といった意味、laika chifofo、laika mwafira、laika tophe、laika nyokaなどの別名
180 ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。キフォフォ(chifofo)は「癲癇」あるいはその症状。症状: 痙攣(kufitika)、口から泡を吹いて倒れる、人糞を食べたがる(kurya mavi)、意識を失う(kufa,kuyaza fahamu)。ライカ・トブェ(laika tophe)の別名ともされる。
181 ライカ・ドンド(laika dondo)。dondo は「乳房 nondo」の aug.。乳房が片一方しかない。症状: 嘔吐を繰り返し,水ばかりを飲む(kuphaphika, kunwa madzi kpwenda )。キツィンバカジ(chitsimbakazi99)の別名ともいう。
182 ライカ・キウェテ(laika chiwete)。片手、片脚のライカ。chiweteは「不具(者)」の意味。症状: 脚が壊れに壊れる(kuvunza vunza magulu)、歩けなくなってしまう。別名ライカ・グドゥ(laika gudu)
183 ライカ・グドゥ(laika gudu)。ku-gudula「びっこをひく」より。ライカ・キウェテ(laika chiwete)の別名。
184 ライカ・ムバワ(laika mbawa)。バワ(bawa)は「ハンティングドッグ」。病気の進行が速い。もたもたしていると、血をすべて飲まれてしまう(kunewa milatso)ことから。症状: 貧血(kunewa milatso)、吐血(kuphaphika milatso)
185 ライカ・ツル(laika tsulu)。ツル(tsulu)は「土山、盛り土」。腹部が土丘(tsulu)のように膨れ上がることから。
186 マクンバ(makumba)。憑依霊デナ(dena187)の別名。
187 デナ(dena)。憑依霊の一種。ギリアマ人の長老。ヤシ酒を好む。牛乳も好む。別名マクンバ(makumbaまたはmwakumba)。突然の旋風に打たれると、デナが人に「触れ(richimukumba mutu)」、その人はその場で倒れ、身体のあちこちが「壊れる」のだという。瓢箪子供に入れる「血」はヒマの油ではなく、バター(mafuha ga ng'ombe)とハチミツで、これはマサイの瓢箪子供と同じ(ハチミツのみでバターは入れないという施術師もいる)。症状:発狂、木の葉を食べる、腹が腫れる、脚が腫れる、脚の痛みなど、ニャリ(nyari188)との共通性あり。治療はアフリカン・ブラックウッド(muphingo)ムヴモ(muvumo/Premna chrysoclada)ミドリサンゴノキ(chitudwi/Euphorbia tirucalli)の護符(pande32)と鍋。ニャリの治療もかねる。要求:鍋、赤い布、嗅ぎ出し(ku-zuza)の仕事。ニャリといっしょに出現し、ニャリたちの代弁者として振る舞う。
188 ニャリ(nyari)。憑依霊のグループ。内陸系の憑依霊(nyama a bara)だが、施術師によっては海岸系(nyama a pwani)に入れる者もいる(夢の中で白いローブ(kanzu)姿で現れることもあるとか、ニャリの香料(mavumba)はイスラム系の霊のための香料だとか、黒い布の月と星の縫い付けとか、どこかイスラム的)。カヤンバの場で憑依された人は白目を剥いてのけぞるなど他の憑依霊と同様な振る舞いを見せる。実体はヘビ。症状:発狂、四肢の痛みや奇形。要求は、赤い(茶色い)鶏、黒い布(星と月の縫い付けがある)、あるいは黒白赤の布を継ぎ合わせた布、またはその模様のシャツ。鍋(nyungu)。さらに「嗅ぎ出し(ku-zuza)53」の仕事を要求することもある。ニャリはヘビであるため喋れない。Dena187が彼らのスポークスマンでありリーダーで、デナが登場するとニャリたちを代弁して喋る。また本来は別グループに属する憑依霊ディゴゼー(digozee49)が出て、代わりに喋ることもある。ニャリnyariにはさまざまな種類がある。ニャリ・ニョカ(nyoka): nyokaはドゥルマ語で「ヘビ」、全身を蛇が這い回っているように感じる、止まらない嘔吐。よだれが出続ける。ニャリ・ムァフィラ(mwafira):firaは「コブラ」、ニャリ・ニョカの別名。ニャリ・ドゥラジ(durazi): duraziは身体のいろいろな部分が腫れ上がって痛む病気の名前、ニャリ・ドゥラジに捕らえられると膝などの関節が腫れ上がって痛む。ニャリ・キピンデ(chipinde): ku-pindaはスワヒリ語で「曲げる」、手脚が曲がらなくなる。ニャリ・キティヨの別名とも。ニャリ・ムァルカノ(mwalukano): lukanoはドゥルマ語で筋肉、筋(腱)、血管。脚がねじ曲がる。この霊の護符pande32には、通常の紐(lugbwe)ではなく野生動物の腱を用いる。ニャリ・ンゴンベ(ng'ombe): ng'ombeはウシ。牛肉が食べられなくなる。腹痛、腹がぐるぐる鳴る。鍋(nyungu)と護符(pande)で治るのがジネ・ンゴンベ(jine ng'ombe)との違い。ニャリ・ボコ(boko): bokoはカバ。全身が震える。まるでマラリアにかかったように骨が震える。ニャリ・ボコのカヤンバでの演奏は早朝6時頃で、これはカバが水から出てくる時間である。ニャリ・ンジュンジュラ(junjula):不明。ニャリ・キウェテ(chiwete): chiweteはドゥルマ語で不具、脚を壊し、人を不具にして膝でいざらせる。ニャリ・キティヨ(chitiyo): chitiyoはドゥルマ語で父息子、兄弟などの同性の近親者が異性や性に関する事物を共有することで生じるまぜこぜ(maphingani/makushekushe)がもたらす災厄を指す。ニャリ・キティヨに捕らえられると腰が折れたり(切断されたり)=ぎっくり腰、せむし(chinundu cha mongo)になる。胸が腫れる。
189 ムガンダ(muganda)。憑依霊ガンダ人。民族名の憑依霊。バナナを主食にするなど。Chari以外にこの霊をもっている人にあったことがない。1991年の時点でChariの占いを担う霊とされていた。ジンジャ導師(mwalimu jinja)の別名。
190 憑依霊カリマンジャロ(kalimanjaro/karimanjaro)。女性。正体は曖昧。ムリナとチャリの夫婦は、かつて憑依霊ジンジャ(ジンジャ導師 jinja/ mwalimu jinja)の別名だと語っていた。ジンジャ導師は世界導師の別名とされる。しかし後には憑依霊ドゥルマ人(女性)だとしていた。使用する草木は、世界導師の草木と同じ。歌の中でも「自分は内陸部(bara)にもいる。海岸部(pwani)にもいる」と歌われる。
191 ムリサ(murisa)「牛追い」動詞 ku-risa「放牧する」より。憑依霊ドゥルマ人(muduruma46)の別名とする人もいる。ムリサに憑依されると、飼っている山羊が多くの子供を産むが、それを使用することは出来ない。それを個人的な目的で使用すると病気になる。ムリサに憑依された人はカヤンバの席で子供たちに牛追いの真似をさせ、中ごしに座ってウガリと酸乳を食べる。立ち上がって自分でも牛追いの真似をし、また座ってウガリを食べるといった動作を繰返す。持ち手の曲がった杖mukpwajuと木の御椀muvureを要求。
192 マサイ(masai)。民族名の憑依霊。ジネ・バラ・ワ・キマサイ(jine bara wa chimasai193 マサイ風の内陸部のジネ)と同一の霊だとされる場合もある。区別はあいまい。ウガリ(wari)を嫌い、牛乳のみを欲しがる。主症状は咳、咳とともに血を吐く。目に何かが入っているかのように痛み、またかすんでよく見えなくなる。脇腹をマサイの槍で突かれているような痛み。治療には赤い鶏や赤いヤギ。鍋(nyungu)治療。最重要の草木はkakpwaju。その葉は鍋の成分に、根は護符(pande32)にも用いる。槍(mukuki)と瘤のある棍棒(rungu)、赤い布を要求。その癒しの術(uganga)が要求されている場合は、さらに小さい牛乳を入れて揺する瓢箪(ごく小さいもので占いのマラカスとして用いる)。赤いウシを飼い、このウシは決して屠殺されない。ミルクのみを飲む。発狂(kpwayuka194)すると、ウシの放牧ばかりし、口笛を吹き続ける。ウシがない場合は赤いヤギで代用。
193 ジネ・バラ・ワ・キマサイ(jine bara wa chimasai)。イスラム系の憑依霊ジネ(jine)の一種。直訳すると「内陸部のマサイ風のジン」ということになる。民族名の憑依霊マサイ(masai)と同じとされることも、それとは別とされることもある。ジネは犠牲者の血を飲むという共通の攻撃が特徴で、その手段によって、さまざまな種類がある。ジネ・パンガ(panga)は長刀(panga(ス))で、ジネ・マカタ(makata)はハサミ(makasi(ス))で、といった具合に。ジネ・バラ・ワ・キマサイは、もちろん槍(fumo)で突いて血を奪う。症状: 喀血(咳に血がまじる)、胸の上に腰をおらされる(胸部圧迫感)、脇腹を槍で突き刺される(ような痛み)。槍と盾を要求。
194 ク・アユカ(kpwayuka)。「発狂する」と訳するが、憑依霊によって kpwayuka するのと、例えば服喪の規範を破る(ku-chira hanga 「服喪を追い越す」)ことによって kpwayuka するのとは、その内容に違いが認められている(後者は大声をあげまくる以外に、身体じゅうが痒くなってかきむしり続けるなどの振る舞いを特徴とする)。精神障害者を「きちがい」と不適切に呼ぶ日本語の用法があるが、その意味での「きちがい」に近い概念としてドゥルマ語では kukala na vitswa(文字通りには「複数の頭をもつ」)という言い方があるが、これとも区別されている。霊に憑依されている人を mutu wa vitswa(「きがちがった人」)とは決して言わない。憑依霊によってkpwayukaしている状態を、「満ちている kukala tele 」という言い方も普通にみられるが、これは酒で酩酊状態になっているという表現でもある(素面の状態を matso mafu 「固い目」というが、これも憑依霊と酒酔いのいずれでも用いる表現である)。もちろん憑依霊で満ちている状態と、単なる酒酔い状態とは区別されている。霊でkpwayukaした人の経験を聞くと、身体じゅうがヘビに這い回られているように感じる、頭の中が言葉でいっぱいになって叫びだしたくなる、じっとしていられなくなる、突然走り出してブッシュに駆け込み、時には数日帰ってこない。これら自体は、通常の vitswaにも見られるが、例えば憑依霊でkpwayukaした場合は、ブッシュに駆け込んで行方不明になっても憑依霊の草木を折り採って戻って来るといった違いがある。実際にはある人が示しているこうした行動をはっきりと憑依霊のせいかどうか区別するのは難しいが、憑依霊でkpwayukaした人であれば、やがては施術師の問いかけに憑依霊として応答するようになることで判別できる。「憑依霊を見る(kulola nyama)」のカヤンバなどで判断されることになる。
195 フング(fungu)。施術師に払う料金