(from 調査日記より、写真はウェブ化に際して添付) Dec. 14, 1991, Sat, kpwisha
昼過ぎ、Murina、Chari、Tushe来る。全員でMahuhu氏の屋敷へ。屋敷では数人のatumia1が酒を飲んで屯しており、やたら絡んでくるので閉口した。Chai2とmukahe5をご馳走になり、すぐにkuzuza6の準備。
[屋敷の中庭に設置された「池」。ライカ12とシェラ35の草木を中心にしたヴオ38を満たした搗き臼。置いてあるのは「嗅ぎ出し(ku-zuza)」に用いる瓢箪子供たちと、キリャンゴナ(chiryangona39)。]
[出発前、「閉じの瓢箪」の薬を人々に塗ってやるチャリ。助手のトゥシェに念入りに塗ってあげている。この薬は「嗅ぎ出し」の危険から人々を護る。]
Chariはhangu dzuzi tsisikirato40 と言って気分悪そうにしている。しかしいざkuzuzaが始まると踊るような足取りでどんどん進み、ついて行く方ではときおり駆け出さねばならないほど。
[ほとんど駆け足に近いので、ついて行くのも大変]
[子供たちもついて来る。トゥシェも自分の瓢箪子供を抱えて、ついて行く(左)。どこまで行くの~。目的地はキラジニ川みたい。]
muho41ではMurinaとkayamba奏者二人、Tushe、Mwawayaを引き連れてざぶざぶ胸の辺りまで水に入って、実際に数回もぐったりして大活躍。見ごたえはあった。
[肩に羽織っていたシェラの布をトゥシェに預けて、どんどん深みに向かって進むチャリさん]
さらにmuhoだけでは飽き足らず、人々がやっと家に帰れるかとほっとしていると、屋敷に通じる分かれ道を通り過ぎてどんどん進んでいく。半分くらいの人々はここで脱落してしまう。バオバブの木の根元の穴が目的地だった!
いやはや大変なkuzuzaだった。 Chariは気分は悪いがmaumivu42はないと、kuzuzaの成功に気をよくしている。水の中に蛇がいたとか、話題には事欠かない。また患者はずいぶん昔にchivuri7を奪われたに違いない。彼女のmwiri43の様子を見ればわかる、などとMurinaと話し合っている。 例によって夕食前にfungu44でもめる。というよりfunguの分配でもめる。210シル45のうち、呪医(Murina、Chari、Tusheの3人分)130シル、anamadzi4680シルという提示に、anamadziたち(kayamba47奏者たちで、Chari自身のanamadziはほんの数名)が文句をつける。anamadziは人数が多いのだから、対等に分割するべきだというのだ。Mwainzi49がてこずっているのと同じ問題。 fungu150シルを100と50に。その他にkadzama70はuchi71の代わりに呪医とanamadziそれぞれに20シル。mbuzi72、これも本物のmbuziではなく、4本足=二本足×2というわけでkuku73二羽。さらにkuku=maharagbwe74で、anamadzi分に関しては夕食の提供で相殺、残りの呪医分のkukuは現金20シルで。かくして合計210シルということになる。 funguを引いた残りの60シルを呪医とanamadziで二等分すると30シルずつ。funguの100と50にそれぞれ加えると、呪医の取り分130シル、anamadziの取り分80シルということになる。十分穏当な分配だと思うのだが、もめにもめ、結局呪医が110シル、anamadzi100シルという形で落ち着く。 kayamba開始はようやく10時過ぎてから。今回は私は完徹でつきあった。よく踊る、ただそれだけ。踊るというよりは発作のようなtrance状態(?)。
[憑依されて痙攣みたいに震えている女性を介抱するチャリたち。カヤンバ奏者たちはここぞとばかりにテンション上げて演奏。]
Chariは夕食中からずっとmwana wa ndonga75の用意をしている。私は途中からその様子を記録。瓢箪子供は0:30ようやく完成。Chariもkayambaの場に参加。それまではTusheがつかさどっていた。今晩のkayambaではChariのための歌は一切演奏されなかったし、Chari自身も一度もgolomokpwa80せず、また自ら先に立って歌いだすということもなかった。 明け方再びmulunguが演奏され、そのなかでmwana wa ndonga(chereko76)が患者に対して授与された。最後は例によってmudigo81とshera35で締めくくる。06:45終了。Chai2とmahamuri82を食べて、8時過ぎにはfunguの分配も終わり(Chariたちはfungu 300シルとkadzamaを要求していたのだが、支払われたのは200シル。ないと言われれば仕方ない。昨夜と同様、呪医とanamadziで110シルと90シルに分配。chariは自分の取り分の中からさらにTusheとMwawayaに特別に少し余分に分け与えていた。9:30帰宅。 (日記の記述、ここまで)
この日のンゴマ(カヤンバ)には、先月末に「外に出す」ンゴマで施術師になったトゥシェが、初めて徹夜のンゴマを主宰する(チャリの弟子の施術師として)という意味もあり、皆かなり気合が入っていた。
ンゴマの目的は、瓢箪子供を正式に授けること。昨年、不妊を悩んでそれがムルングのせいだということで、チャリに「手付の瓢箪子供」を「鍋(nyungu59)」とともに処方してもらった患者(このときは私はすでに調査地を離れ日本に帰郷していた)だが、なんと先週めでたく第一子を出産したそうなのである。うそみたい!ただこの女性患者は、普段から健康状態はすぐれず、ライカやシェラその他の憑依霊をたくさんもっている人で、ライカによってキブリ(chivuri7)を持ち去られている可能性があるので、徹夜のンゴマに先立って、「嗅ぎ出し(ku-zuza6)」をやっておく必要があった。これは占いで指示されていた。そのため、昼の「嗅ぎ出し」のカヤンバと、瓢箪子供を出すための徹夜のカヤンバという二本立てになっていた。
「嗅ぎ出し」のカヤンバについては別項で詳述するが、その事例もかねてこちらのカヤンバについての記述も行う。とはいえ、録音は冒頭部のハプニングのみ。フィールドノートの記述も簡潔だが、それは他の「嗅ぎ出し」と同じプロセスの描写を省略したせい。そちらは他の事例で示すことにする。
この項でのメインは、瓢箪子供の作成と、徹夜で行われた瓢箪子供の授与である。
患者(muwele): カッゾ(Kadzo) 施術師(muganga): チャリ(Chari wa Malau) 施術師助手(muteji): トゥシェ(Umazi wa Kumbo、3週間ほど前に施術師になる)、ムベユ(Mbeyu、同じくチャリのmutejiだが施術師にはなっていない) 施術師助手: ムリナ(Murina wa Chimera、チャリの夫) ソロ歌い手: ベニャンジェ(Benyanje、チャリのmwanamadziではないが、患者の親族) マワヤ(Mawaya、チャリの筆頭歌い手)
(Dec. 14, 1991のフィールドノートより) 例によってフィールドノートをほぼそのまま転記したテキストをそのまま貼り付ける。フィールドノートそのものの記述に手を加えないため、現地語なども注釈の形で補足説明することにしている。(DB...)は後にフィールドノートに紐づけた書き起こしテキストの、該当箇所を示す番号。植物名の同定はフィールドではできず、文献に基づく事後的な補筆である。 今回は表題、ナンバリングはフィールドノートにおけるもの。
muganga: Chari muwele: Kadzo muteji: Tushe, Mbeyu
(注: 写真は日記の方に貼りつけておきました)
14:40 小屋の中でkayamba開始。 mwarabu83から始める(ディゴ風84) 患者、golomokpwa80 体を揺する mwanamulungu7885 一人の女性(患者の妹)が激しくgolomokpwa Chari、唱えごとをして静める チャリの唱えごと ドゥルマ語テキスト(DB 4544-4545)
15:30 katsimbakazi13 15:45 musambala86 15:56 laika12 15:55 Murina、外でchiryangonaの用意 peremende(白)87 mazu88 2 mahamuri82 2 mikahe5 ya ivu89 6
16:05 Chari、自らリードして "nasikira shenene kazi ya uganga..." の歌 Chari、mwingo90を持って外に出てくる、患者は屋内に残る mwingoをchinu91のvuo38に漬け、それを使って頭からvuoをかぶる mwingoでchinuのvuoをあたりに振り撒く 再び小屋の中に戻る Chari、kuzagazwa92、laika12の演奏続く
16:10 Chari、すぐに踊りながら出てくる。
頭にmulunguのchiremba93を巻いている
kufungira94のndonga(頸のところにmapande10がついている)のlulimi95
を嗅ぎながら、辺りを眺め回す仕草
(kufungiraの瓢箪)
16:20 再び小屋の中に入ると、今度はmangui96たちを連れて出てくる。
manguiたちの足の裏に、kufungira のndongaの液がついたlulimiを一人一人こすり付けていく。
そのままmaironi97に出発
キラジニ川とほぼ水の涸れたmutsara98の二ヶ所。
川の深みに入って、kuku73、chiryangona39を水の中に
Chari、水の中にもぐる。
水底から泥や水蓮の根などを持ち帰る
そのまま屋敷に帰るのかと思いきや、屋敷への分岐点を過ぎてどんどん進む
バオバブの木の洞で、中の枯れ葉や土を採取
17:20 屋敷に帰り、muwele99が仰向けに寝て待っている小屋の周りを反時計回りに
二周。
後ろ向きに小屋に入る。
ku-udzira104 chivuri7 の施術105
20:30 夫と妻が瓢箪をkuhumbula106する。
まず夫が穴を開け、そして妻がそれを広げ、最後に夫が穴を完成させる。
mihi ya ukulume107
mutserere(Hoslundia opposita)109
mwerekera(unidentified)
mihi ya ukuche111
muvumo(Premna chrysoclada)113
muvunzakondo(Allophylus rubifolius)114
4つのmihiはすべて、mapande10に(ニ片ずつ)「心臓 maroho」
夫婦で一粒ずつ交代で瓢箪のなかに入れる
21:30 ムウェレ夫婦、退出。 muvumo, mwerekera, muvunzakondo はチャリがkukuna115してmavumba56に
0:30 mwana wa ndonga77 完成 完成した瓢箪子供に対する唱えごと ドゥルマ語テキスト(DB 4546-4549)
22:30 カヤンバ開始117 Mawaya(弟)、結婚式のときのようにleso118をすっぽり被った行列 を先導し(taireni119をくりかえしつつ)小屋からmuweleをkayambaの 席に導く
Chariが mwana wa ndonga の制作にかかりっきりのため、kayambaはTusheが差配する
Mwarabu83
mwanamulungu78
katsimbakazi13
musambala86
chiyugaaganga120
gasha122 ...このあたりでChariも合流(だが、あまりしゃしゃり出ない)。トゥシェに任せている。トゥシェ、意外と巧み。
dzuni bomu123
mwavitswa135
tsovya134
nyari30
jamba136
zikili137....激しくgolomokpwa
jine bahari138 etc.(イスラム系の霊たち)
03:00 makoloutsiku139
03:40 kayamba再開
pungahewa140
mudigo81
masai141
muduruma67
laika12
mukusi18
05:20 mwanamulungu
Murina、Chari、患者夫婦を白い布ですっぽり覆い
TusheとMbeyuがその布の端をもち、その中で患者夫婦に
mwana が授けられる
患者、ndonga144を布でくるみ、それを抱いてひとしきり踊る
父に渡し、父もそれを抱いて踊り、ndongaをvuo38で洗う
父、兄弟にこれがお前の孫だ、お前の息子だと教えるのだという。
lola anangu145 の演奏の中、小屋まで進み、ベッドの上に ndongaを置く。
小屋の中から、先日生まれた本物の自分の子供を抱いて現れる。
kayambaの演奏の中、子供をvuoで洗う。
最後に、例によって
mudigo
shera
でおおいに盛り上がり、kayamba終了。
06:45 Chariのmakokoteriでngomaを閉じる。
一連のmakokoteriは録音。とくにchereko制作の手順に関するもの。 (DB 4544-4549)
kuzuzaにて
Chariはmuhoでkuzuzaしたおりに、水中に大蛇を見たという。最初は丸太かと思ったのだが、大蛇だった。Murinaは足で踏みつけてしまったという。Tushe も確かに見たという。 kufungiraのndongaで治療していたので、危害はおよばなかった。 こちらを向いて口をあけていたとか。本当はただの水中の朽木じゃないのかな?
帰り道で Chariとヤシ酒
Chariは昔は、随分uchi71を飲んでいた。すでにmuchenzala146は生まれていた。 子供を産む前は、夫(前夫)から酒を禁じられていた。夫は酒を飲むと子供が生まれないと嘘をついた。夫は酒が嫌いで、酒を飲んだ人が家に入ろうとしただけで追い払ったりした。
病気の治療にMurinaが来て、kokotera147し、酒を飲むなと言ったのでやめた。イスラム系の憑依霊。marashi148でkuoshwa149される治療。
Murinaによるとしかし、Chariが酒をやめる前は、Chariは健康そのものだった。現在まで続いているこの病気は、酒をやめた後で始まった。Murinaによると、Chariにはすでに酒好きなDena29、Muduruma67、digozee31などが憑いており、後からイスラム系の霊がやってきたが、akala kaana nafasi150 だった。すでにいる酒好きの霊と、イスラム系の霊がapigana[kupigana_here] これが病気の原因。
jumma151とkayamba
今回のkayambaはkpwisha152に開かれ、明けてjumaであったため、Chariは朝6時頃までにngomaを終了させるよう、前もって指示していた。今日のngomaが早く終了したのはそのため。
(フィールドノートからの転記、ここまで)
瓢箪子供とは、いったい何なのか?瓢箪で作った人形?それを人が自分の子供として受け取る?いや、それはイスラム系を除く全ての憑依霊の母ムルングが、欲しがった自分の子供?そして今や、この子供のムルングが、ほぼ同時に生を受けた人間の子供の成長を助け、さらに多くの出産を可能にしてくれる?壮大なお人形さんゴッコ?
おまけに、この瓢箪の子供を受け取ることは、夫婦にさまざまな行動の制約を強いることになる。まず第一に、夫婦のどちらも浮気ができない。浮気をすると、瓢箪の子供は泣き(なんと瓢箪の口から自然に、中身が溢れ出てくるのだ!)、外で性交をして帰宅した者が、触れるだけで壊れてしまう。再度、作り直して、またカヤンバを開いて受け取り直さなければ、妻はまたまた妊娠・出産を封じられてしまうばかりか、最悪、生まれてきた子供も死んでしまうかもしれない。
実は、他にもいろいろある。例えば近親者に死なれると、瓢箪の子供は(そして女性に憑いているムルングは)その事態を理解できず、宿主の人間が嘆き悲しんでいるのを見て、なんと自分が嫌われていると思うのだそうだ。そして怒って宿主を病気にしてしまう。あるいは日が経っても親族の死を嘆き悲しみ続け、日常生活に復帰できない。となると、カヤンバ・ラ・ポーレ(kayamba ra pore「お悔やみのカヤンバ」と訳したことがある)を開いて、ムルング(瓢箪子供)に「何が起こったのか」をきちんと説明し、納得してもらわなければならない。そう、人知を超えた情報に通じているはずの憑依霊たちは、人間の世界の事情にはめちゃくちゃ疎い連中なのだ。
こうして憑依霊と仲良く生きていくことを選んだ(強いられた)結果、人生、めちゃめちゃややこしくなってしまうのだ。
それでも、ムルングに目をつけられて、封印されてしまった出産力を、再び「とき解いて」もらい、人間としての多産を取り戻すためには、やむを得ないこと。多産はそれほどにも尊いものなのである。
瓢箪子供を作り終えた後のチャリの唱えごとも興味深い。なんども、もう単なる瓢箪ではない。瓢箪子供なのだと繰り返している。本当に、ただの瓢箪ではなくなったのか。ムルングの子供になったのか。見た目ではそう違いはない。おとぎ話のように、突然の閃光が!とか、煙が!とか、変化の印があったわけではない。でも正しいやり方で作ったのだから、瓢箪子供になったはずだ。そう何度も自分に言い聞かせているようにも見える。 でも、それは明け方にまずわかるはずだ。ムルングの歌が打たれ、憑依されたカゾさん=ムルングがそれを喜んで受け入れてくれれば!
人形ごっこなどと、茶化してはいけない。人の運命を左右する「変容」がかかった大真面目な実践なのだ。
私がはるか昔に書いた論考浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22は、訳語も今から見ると変だし、ちょっと論拠の乏しい議論も含まれていたりするのだが、基本的には、瓢箪子供なるものがいったい何であるのかについては、そこでの分析に、今でも付け加えるべきものはあまりない。しかもその論考で、データとして最も多用しているのは、まさにここで紹介したカヤンバの事例なのだ。
というわけで、この論文を、この事例についての一応の結論に代えておきたい。同じ唱えごとの翻訳の違い(当時よりも文法的にはより正確な訳になっていると思います)を検討するのも一興。
場違いに憑依した女性に対する唱えごと 4544 (14:40 ムウェレの女性(Kadzo)を囲んで、カヤンバは屋内で始まる。)
Benyanje(Mahuhu側の主歌い手(B)): 先頭は153... Woman(W): 間違った人、報告して。 B: 誰(どの憑依霊)が先頭か、ってこと。リーダーは何子神?規則にのっとって、最初にその歌から始める人(憑依霊)のことだよ。 W: (ムウェレ)が恥ずかしがらないように。もし言いたいことがあったら、言って。この屋敷の長老は自分でお金の工面に出かけちゃったわ。 B: 彼女のために憑依霊アラブ人でンゴマを始めてあげよう。彼女がしっかり感じるようにね。あとの方でね。 (カヤンバ演奏開始。すぐに一人の女性が激しい憑依状態に陥る。ムウェレではない女性。チャリが彼女(霊)の説得をする) Chari: こうして今、私たちがお話するとすれば、それはこの娘のためにお話するのです。娘は憑依状態になりました(yugolomokpwa)。それも、自分の姉のンゴマでです。さて、おだやかに、私たちはお祈りいたします。北の皆さまに、南の皆さまに、東の、そして西の皆さまに。ブグブグ(bugubugu154)の方々に、ニェンゼ155の小池の方々に。 おだやかに、マンゲラ(mangera「鷺」)の池の方々にもおだやかにと申し上げます。ウヴンヴニ(uvumvuni156)の方々にも、おだやかにと申し上げます。チャキチャキ(Chakichaki157地名)の皆さま、おだやかに。私はまた、おだやかにと申し上げます。子神ドゥガ(mwanaduga)、子神トロ(mwanatoro)、子神マユンギ(mwanamayungi)、子神ムカンガガ(mwanamukangaga)、キンビカヤ(chimbikaya)、あなたがた池を蹂躙する皆さまに。 子神ムルング・マレラ(mwanamulungu marera「養育する者」)、ムルングジ(mulunguzi)、そしていっしょにおられる子神サンバラ人(mwana musambala)。 でも、私がお話しするとすれば、あなたムルング子神とお話しします。あなたこそ砦の主なのです。もしかしたら、お客人たちもいらっしゃるのかもしれません。私はその方々を存じ上げません。ムルング子神、ペーポー子神(mwana p'ep'o158)、バラワ人(mubarawa159)、サンズア(sanzua160)、ブルシ(bulushi161)、ムクヮビ人(mukpwaphi162)、天空のキツィンバカジ(chitsimbakazi13 cha mbinguni)、池のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha ziyani)、地下のペーポーコマ(p'ep'o k'oma163 wa kuzimu)、池のペーポーコマ(p'ep'o k'oma wa ziyani)、ガラ人(mugala164)、ダハロ人(mudahalo165)、コロンゴ人(mukorongo166)、コロメア人(mukoromea168)、ドゥングマレ(dungumale132)、ジム(zimu171)、キズカ(chizuka172)、スンドゥジ(sunduzi173)、ドエ人(mudoe174)。あなたドエ人、またの名をムリマンガオ(murimangao175)。あなた奴隷(mutumwa176)、またの名をンギンドゥ人(mungindo167)。
4545
Chari: 私は皆さまにおだやかにと申します、私の兄弟たちよ。あなたデナ(Dena29)とニャリ(nyari30)、キユガアガンガ(chiyuga aganga120)、ルキ(luki121)、ムビリキモ(mbilichimo32)、カレ(kare177)とガーシャ(gasha122)。あなたレロニレロ(rero ni rero178)、マンダーノ(mandano33)、あなたプンガヘワ子神(mwana pungahewa140)。皆さま方にお静まりくださいと申します。 あなたディゴ人(mudigo81)、あなたイキリク(ichiliku3735)も一緒にいらっしゃいます。あなた方にお静まりくださいと申します。 あなたジネ・バラ・ワ・キマサイ(jine bara wa chimasai142)もおられます。あなたゴロゴシ(gologoshi179)、またの名をンガイ(ngai180)もおられます。ンガイ、またの名をカンバ人(mukamba181)。カヴィロンド人(mukavirondo170)、マウィヤ人(mawiya129)、ナンディ人(munandi169)、マニェマ人(mumanyema182)。どうかおだやかに。 どうかおだやかに。あなたアラブ人(mwarabu83)、あなたロハニ(rohani183)もおられます。あなたスディアニ導師(mwalimu sudiani65)もおられます。メッカのスディアニ、メッカの巡礼者(zurura maka)、メッカのジャバレ(jabale maka52)。あなた方にお静まりくださいと申し上げます。そして「お静まりください」の言葉は聞き届けられるものです。あなたペンバ人(mupemba54)。 皆さん全員、どうか収まってください184。眠って夜が明けると、あなた方がこの者の身体をすっかり壊してしまっている、というのは、なしです。私が欲しているのは、つつがなきことです。そしてこうして彼女のところにお出でになったからには、彼女にンゴマを踊らせてください。彼女の姉のためのンゴマです。姉と一緒に満足するまで踊ること。でも、こんな風に身体を震わせて(痙攣させて)、夜が明けたら身体じゅうが壊れている、というのは、なしです。どうか皆さま方、私たちは皆さま方の足元に身を投げ出しております。争いごとはございません。さあ。
完成した瓢箪子供に対する唱えごと 4546
Chari: さて、私はお話します。こんな時間にお話することもなかったでしょう。私がお話するとすれば、それはあなた瓢箪子供とお話するのです。 あなた、瓢箪子供(mwana wa ndonga)。そうあなたは瓢箪(chirenje185)だと言われます。あなたは瓢箪です。でもあなたが瓢箪であったのは一昨日、昨日のこと(過ぎたこと)です。今は、そう、私はあなたを子供として置きました。カゾ(Kadzo)がいて、彼女は瓢箪子供を必要とされていると言われたのです。彼女が瓢箪子供を必要とされていると言われた際に、私たちはンゴマ(の開催)を約束しました。まず私たちは、あなた瓢箪子供の鍋(nyungu59)を設置いたしました。そして今、(約束の)ンゴマは今日です。あなた瓢箪子供を差し出すンゴマです。 あなたは、(植物の)瓢箪(murenje)の実になった瓢箪(ndonga)でした。あなたは瓢箪(murenje)から生まれました。そして瓢箪(ndonga)になりました。あ、あなたは瓢箪(chirenje)になりました、あなたは。今日、私はあなたに心臓(moyo186)をお入れしました。私はあなたに血(mulatso)もお入れしました。ヒマの油(mafuha ga nyono79)です。心臓はマパンデ(mapande10)です。 そして今、私はあなたをカゾに与えると宣言しました。あなたは彼女、カゾのために子供を育ててあげてください。昼も夜も。
4547
Chari: 子供が激しい激しい熱病に捕らえられることは、なしです。もしあなたが瓢箪子供であるならば。 こうして今日、私はあなたをカゾに与えます。彼女が瓢箪子供を必要とされていると言われることは、二度となしです。瓢箪子供は、そう、この子です。そして、こうして今日、そう私はあなたを、ひとつの心をもって差し出します。これはもう二度と瓢箪(chirenje)ではありません。そうチェレコ(chereko76)の瓢箪(ndonga)になったのです。この子は、瓢箪子供(mwana wa ndonga)と呼ばれます。この子は相方の子供(カゾの実の子供)、自分の足で歩く子どもと、いつもいっしょです。 そう、この子、この子が褒め称えられるようにと、カゾがたくさんの子供たちをこの子とともに背中に負うことになるようにと、彼女が閉経し出産しなくなるまでそんな風にあれと、私は宣言いたします。もしあなたが瓢箪子供であるのなら。 私はあなたムルング子神を盗んではおりません。盗みませんでした。私はあなたをバンジュ・ワ・ムレマによって与えられました。それも上首尾に。私は(施術上の)父、バンジュ・ワ・ムレマによって与えられました。それもとても首尾よく、一つの心で。
4548
Chari: 思いますに、私がムァバンジュさんに与えられたその子は、この瞬間、私がここでお話しているこの時に至るまで、まだ壊れておりません。それをとても上首尾に与えてもらったからです。そして今、お父さんに与えられたような仕方で、今も私が人々に与えているその仕方で子供を差し出せば、そう、私も褒め称えられますように。施術師は、ノーと言われるべきではありません。施術師はその通り(taire)と言われるべきです。 その後、私はあなたをフピ・ワ・ンゴメとマシュディ・ワ・マンガーレによって与えられました、あなたムルングの瓢箪子供を。そして、もし困難に遭って瓢箪子供を必要とされている人に会ったら、お前もその人に与えておあげなさいと言われたのです。 私はあなたを盗んではおりません。私はニャマウィ・ワ・マゴンゴからもあなたムルング子神を与えられました。私はあなたを盗んではおりません。私は、あなたムルング子神を、チャイとキジからも与えられました。あなたムルング子神、私はあなたを盗んではおりません。私はあなたを、ムァインジとその妻アンザジからも与えられました。思いますに、その数は5人の父と5人の母に達しています。だから10人です。
4549
Chari: でも、癒しの術(uganga)について言えば、私はそれを祖霊とムルング自身から与えられたのです。私は自分で(憑依霊たちに)呼びかけておりましたし、自分で草木を採取しており、(正式に)癒しの術を与えられるに至ったときも、すでに癒やし手だったのです。なぜなら、占い(mburuga)も、まだ私が「外に出される」前から、すでに打ち始めていたんですよ。自分ひとりで、占いを打っていたのです。それどころか、道端でたまたま見かけた病人に、(その人の病気について)話してあげちゃっていたほどです。 さて、今日、私はカゾにこの子を与えます。そしてこの子について、何か間違っていたとか、なんとか、言われることがありませんように。私の見たところ、うまく行っています。今や、これはもはや瓢箪(chirenje)ではありません。この子はちゃんとした子供です。そう、瓢箪(ndonga)の。この子は血を手に入れました。この子は心も手に入れました。今、私はつつがなきことを欲します。 本当に、これで終わり。 Hamamoto: この子は夜が明けたら与えられるのですか? C: そう午前4時頃ね。