修正が必要なわけ

おそらくこの論文は、査読付きの雑誌に掲載される私にとって最後の論文になるだろう。でもその出来は、満足の行くものではない。

この論文は国立民族学博物館共同研究(研究代表者中川敏)「人類学を自然化する」(2017-10/2021-03) の最終成果物の一つとして発表された。 この研究会はとても刺激的で、とりわけ科学哲学の権威で多くの書籍を 著しておられる戸田山先生とご一緒できるという、またとない機会を私に与えてくださった。心から感謝しています。

しかし、私自身は迷走してしまいました。まず戸田山先生のとても刺激的な『哲学入門』から出発したのですが、いろいろ引っかかる部分があり、ここぞとばかりに戸田山先生にからんで、まあ、ご迷惑だったのではと思います。

以下に、この論文を提出することになった経緯を書き、なぜかなりの修正が必要なのかをご説明させていただきます。これから少しずつ加えていく修正については、その都度、下の修正履歴に記録して参りたいと思います。 修正履歴 updated 16-03-2025

共同研究会での私の研究の経緯

  1. 2018年に1回目の発表(2018年5月12日)において、まず私の問題関心と方向性を報告させて頂きました。 断片的なメモしか残っておりませんが

  2. その後戸田山和久氏の「哲学入門」での内的表象の概念につまづき、しつこく疑問を呈して、みなさんをうんざりさせ メモ

  3. さらに専門外の類人猿の言語習得実験について、インデックスからシンボルへの移行の問題として、素人考察を発表(恥) 発表レジュメ

  4. そろそろ翌年のシンポジウム(およびその後の出版)に向けての論文を用意すべし、ということで、苦手な科学哲学を勉強しつつ、結局昔読んだ本をネタに議論を作り始めた。前半の科学哲学との格闘で力尽き、本題の行動プログラムの進化における言語の役割の話へはほとんど入ることが出来なかった。

実は、ここで取り上げたP.ウィンチとW.ドレイは、私がアメリカのノースウェスタン大学に留学していた際に、当時アシスタント・プロフェサーだったRobert Launay先生の「人類学理論の歴史」のゼミ形式授業において取り上げられて、おおいに影響を受けた本で、ちゃんと論じることが出来そうなのはこの2冊くらいだったのだ。先生のおもしろい語り口を思い出しながら(本当は引用したかったのだが、その授業で先生が配布した原稿 Apologetics for Empiricism(だったと思う)は出版されたのではないかと探し回ったのだが見つからなかった)。記憶だけに基づいて先生の名前にリファーし、もし間違っていたりしたらまずいので、リファーしなかったのだが、こういうのって許されるんだろうか。

さらに発表の席で、戸田山先生から、「いろいろ突っ込みたいところはいっぱいあるんだけど、一点だけ」みたいなコメントを受け、その一点についての議論に終止し、いっぱいあるはずの他の突っ込みどころについては、伺う機会を失ってしまった。

研究会での発表原稿 上記原稿のVer.2

  1. そしていよいよシンポジウムなのだが、時間の制限もあり、そこでは私が本当にいいたかった話、ヒトにおける模倣=リバースエンジニアリング能力が、言語によって飛躍的な段階に達したこと、ヒトにとっての言語は、世界について語る以前に、他者や自分自身をプログラムする「プログラム言語」であったことを示唆する議論を提示するにとどまった。 発表スライドのpdf

  2. ところが書籍(のちに書籍化は無理で、国立民族学博物館研究報告誌での特集扱いとなった)の原稿にするという段階で、すごく悩んでしまった。言いたかったことをそのまま文章化すると、ワタシ的には、すごく論拠が貧弱な感じがしてしまったのだ。単なるジャスト・ソウ・ストーリー、ちょっともっともらしいが根拠に乏しいお話になってしまう気がしたのだ。そもそも発表の段階では、まだあらすじしか出来ていなかったし、それを肉付けする体力も忍耐力ももちあわせていなかった。というわけで、文献のみに基づく、前半の背景説明議論を雑誌論文にすることにしてしまった。なんて、安易な、逃避的選択。

  3. 結局出版されたのは、「回顧と展望」なんていう、なんの新たな発見や新領域への冒険的探索もない、おとなしい論考になってしまった。校正を重ねるに従って、残念感が高まり、やる気も低下していった。

そしていよいよ、抜き刷りが手元にとどき、改めて読み直し、ふと気づいた。戸田山先生が、突っ込みどころいっぱいとおっしゃった議論を、ほぼそのまま出してしまったことに。で、どこが突っ込みどころかも確認しないままに。

というわけで正月休みの暇に飽かして、ネットで戸田山和久でググってみたら、出てくる出てくる。同じ大学の伊勢田哲治先生のページに行って、科学哲学を学ぶための文献リストなるものがあったのでそれにもアクセスした瞬間に、ショックで失神しそうになった。これらの日本語文献を、私はほとんど読んでいなかったのだ!

私は傲慢にも戸田山先生にからもうとしていたくせに、戸田山先生の書籍としては、入門書の「哲学入門」と「科学哲学の冒険」しか読んでおらず、それでなんとなく科学哲学は押さえたつもりになっていた。肝心の先生の主著『科学的実在論を擁護する』を読みさえしていなかった。「科学哲学の冒険」で紹介されていたものを読むので精一杯だったのだ。ああ、必読文献がたくさんあった。それ読まずに書いちゃったよ、ワタシ。

伊勢田先生の文献リストの、さらなるショックは、私が論文中で取り上げて論じたP.ウィンチの「社会科学の概念」が、なんとご丁寧に消し線をほどこされて、今となっては読まないでもいい!と書いてあるのだ。私には、自分が勉強不足であるという、よく考えれば当たり前の事実に向き合っていなかったのだ。

  1. というわけで、3万円分ほど書籍を注文しました。これらを読んで、時間が許す限り、バージョンアップしていきたいと思います。印刷しちゃったものはどうしようもないので、このページでできる限りの修正を試みていこうと思います。もちろん、どこを修正したかが、はっきり分かる形で。ウィンチ、ドレイについても議論を更新する予定です。何と言っても50年近く前に得た理解をベースに書くという怠慢なことをやっちゃったので。文献も補強する予定。あーあ。

  2. そして、最終的には、書きたかったが書けなかった後半部のメインテーマをしっかり文章化して付け加えたいと思う。(できるのか???) 道のりは長い。

修正履歴

  1. 修正するぞ宣言(04/01/2025)

  2. 第一回修正(04/02/2025)

    1. 先行研究がありましたので、それを加筆しました。

    日本語文献をあまり読まずにいたことの反省から、とりあえず9冊注文して読み始めています。同時に、ウェブもサーチしていろいろなキーワードでヒットするものをチェックしています。その中で、明治大学の大畑裕嗣教授がドレイの議論を紹介されている「何が起こった(ている)?―ウィリアム・ドレイの歴史的説明論と戦後社会学、現代日本の社会運動論」明治大学人文科学研究所紀要・第85冊(2019年3月31日)をみつけました。ドレイが車のエンストを例にとってヘンペルの被覆法則モデルを批判している箇所について、私が本論文で行ったのとほぼ同趣旨の紹介をされていることがわかりました。当然、執筆時に知っていれば先行研究としてリファーすべきものだったと思いますので、そのような修正を赤字で書き加えました。

    1. 伊勢田先生の科学哲学の文献リストで、ウィンチを読む必要がなくなったとして紹介されていた吉田敬先生の『社会科学の哲学入門』勁草書房2021年を、真っ先に読み終えました。

    ウィンチについては、私が問題にしている部分についてはほとんど触れられておらず、もっぱら私が「その後の人類学の歴史を考えると、この2つのウィンチの主張の帰結と思われたものは、擬似問題に過ぎず、結果的にはそれらに拘泥することはあまり得策とは言えなかった」と私の論文の草稿版で述べ、最終版では章ごと削除した、ウィンチの文化相対主義的な主張とのからみで論じられているだけでした。残念。さらにこれは別項をたてて別に論じたいと思うのですが、吉田氏の人類学での有名な議論についての紹介は、同じく私が上記草稿版で、それに続いた「不毛な大騒ぎ」と断じた合理性論争という人類学ではカビの生えたコンテクストで紹介されているのが、すごく残念。サーリンズ/オベーセーカラ論争について

  3. 第二回追加(16/03/2025)

    1. 論文本体の書き直しにはなかなか着手できないでいるのですが、研究会での私の発表をもう一度、きちんと文字化していくことから始めようと思い直し、まずは2018年5月12日の最初の発表で触れた、ダーウィン的アルゴリズム(Dennettの用語)を社会科学、人類学の理論の中心軸に据える見通しについて、きちんと自分の来歴を振り返りつつ文章化してみました。ドイツ・イデオロギーで気になること。口頭発表からあまり進歩していないような気もするが....

    2. 伊勢田先生の科学哲学の文献リストのうち、オカーシャ『科学哲学』、入門書ということでサクサク読めましたが、あまり大きな発見はなかった。ウリクトの Explanation and Understanding を再読。practical inference(syllogism)は、一度きちんと批判しておかなければと痛感。私の『プログラムとしての物語』論のためにはpractical syllogism はscriptあるいはscenarioの概念に置き換えねば。みたいな。