[2019-02-26 13:00]民博「人類学の自然化]研究会 感想者 浜本 満
戸田山先生のご発表は、非常に刺激的な書物をその著者自身の口で説明していただけるという実に得難い経験を与えてくださいました。唐沢先生のいつでも質問OKに便乗して、「哲学入門」を読んで少し引っかかっていた部分を、思い出しつつ質問させていただきました。本当は、レジュメの後半の認識論の脱構築の話を聞きたかったのに、前半のすでに著書の最初の方の議論にひっかかって、進行を遅らせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。調子に乗りすぎて、内堀先生からお叱りを受けてしまいましたが、皆様に御迷惑をおかけしたこと、お詫び申し上げます。(私の不規則発言は、そもそも全然人類学的じゃなかったし。)
私がまだ十分に論点を整理しきれておらず、明快でなかった箇所も多々あったと思いますので、ここで当日私が行った質問を思い出しつつ、できるだけ整理して提示させていただきたいと思います。
私が引っかかっていたことの多くは、心的表象という概念についてだった。なぜそれが引っかかったのか、少し整理してみる。
私たちが「表象」という言葉で普通理解している(と私が思い込んでいる)ものは、表象はふたつのもの、自ら自身とそれ自身とは別の何ものか、を必要とする。戸田山氏の説明でもそのことははっきりしている。
「頭の中にハエを表し実物のハエの代わりをする「何か」があって、その「何か」に対していろいろな処理を加えることで、最終的に行動が生み出されるのだろう。この「何か」 を表象(representation)という。ようするに表象とは、頭の中に何らかの仕方で実現されていて、それに対して処理を施すことによって認知が進んでいくところのサムシングのことだ。」戸田山和久. 哲学入門 (ちくま新書) (Kindle Locations 701-704).
ただ私たちの通常の(と私が…以下略)理解では、この2つのものはいずれもたいがいは外の世界に存在する実際に見たり、聞いたりできるモノである。言語記号が良い例だ。表象が別に頭の中にあっても悪いわけではないが、頭の中の表象については私は見たり、聞いたり、触ったりはできない。人類学では、ギーアツの主張にも見られるように、象徴や意味はまずもって公的であることが前提である。
「意味とは主観的、秘私的、個人的な「頭の中の」存在物ではない。それは公的で社会的なもので、生の流れの中で構築されるなにかである。私たちは「戸外で en plein air」、行為が展開する外の世界で記号をやりとりする。そして意味が生成するのは、まさにこのやり取りのなかでなのだ。私たちが何かを「意味する」ことがそもそもできるのは、口に出す(あるいは理解可能な仕方で所作する、行為する、進行する、振る舞う)ことによってのみであるので、私たちは「自分たちが口に出すことを意味する」しかないのである」(Geertz 2005:6)。
私たちにとって表象とそれが表すモノとの関係が、外の世界にある認識の対象となる二つのモノどうしの関係なのだとすれば、この頭の中にあるとされる「何か」を表象の仲間入りさせるためには、それが表象の名に値することを説得するなんらかの追加説明が必要なのではないだろうか。
もちろん見たり聞いたり触ったりという仕方以外の仕方で、例えば思い描かれた、あるいはふと浮かんだイメージや思念のように、私たちがそれらを経験しているのだと言えないこともないようなモノもあり、それらは外の世界にある物体とは違っているような気もするが、それらが「頭の中」の表象かというと、ちょっと疑わしい。私たちはこうしたイメージを「見ている」というとき、べつにそれを頭蓋骨の中の空間に見ているわけではない。たとえば私が心に飼い猫のイメージを描くとしても、それは実在する眼の前の空間ではないが、たしかに頭蓋骨のなかではなく、虚構的ではあるがイメージの猫の下にカーペットがあったり、その後ろに本棚があったりする「外」の空間のなかに定位されたイメージなのだ。そのイメージ猫は頭の中になどいやしない。
第二のポイントは表象とそれが指示するなにかという二つのモノは、別物だということが理解されているということである。餅の絵は、あるいは餅という言葉は、あるいは頭にふと浮かんだ餅のイメージや思念は、それが表している(指示している、意味している、代わりをしている)実物の餅と違って、食べるわけにはいかない。 カエルやネコが頭の中にもっている表象という考えに、違和感を感じたのは、ミジンコやカエルやネコは、こうした別物として明確に区別された二つのモノを、表象とそれが表すモノというかたちで認知しているのだろうかという点だった。おそらくは彼らはしていないような気がする。とするとそこに表象という言葉を持ち込むのは、この言葉のちょっと乱暴な拡大適用じゃないだろうか。そんな違和感だった。
戸田山氏の説明の過程で、戸田山氏が論じているのは、私たち人が理解しているような十分に発展した表象ではなく、当の生き物がそれを自分が操作していることを知らないような頭の中に生まれた原初的な表象についてであると理解できた。
外の世界にある実物を代理する関係にあるようななにかが頭の中に形成されているだけで、それが意識の対象となっておらず、両者の関係も自覚されていないという言わば「表象もどき」段階であるが、その構造を解明することで、私たちがもっている言語のような表象とその意味作用についての、自然化された説明の基礎がつくられるということなのであろう。
しかし頭の中の「何か」と外の世界にある「何か」の関係を一方が他方を代理するという関係でとらえること、その頭の中の「何か」を表象ととらえることは本当に正当なのだろうか。まだちょっともやもやする。
表象の因果説では、表象はそれが指示する外在する何かが原因となって、頭のなかに作り出される何かだということだったと思う。この因果的なつながりが、一方が他方の代わりとなる、あるいは他方を示すことを可能にする。
しかしこの一連の因果連鎖の性格は、逆にそこに登場するどれか二項を、表象とその指示対象として特権的に取り出すことをむしろ不可能(あるいは問題含み)にしてしまう。
戸田山氏は、延々と遡行可能な因果系列のどこか特定の場所を、当該の表象の指し示す対象だと主張する根拠はなにか、というターゲット固定問題として、それを提示された。(そしてそれは自然淘汰の考えを持ち込むことによって解決された。)しかし同種の問題は表象の側についても生じるのではないか。すでに引用した箇所では頭の中で「(それ)に対していろいろな処理を加えることで、最終的に行動が生み出される…「何か」」が表象(representation)だとされていたが[戸田山和久. 哲学入門 (ちくま新書) (Kindle Locations 700-704)]、それは、例えば網膜上の視覚細胞の興奮のパタン(適当なことを言ってます)からそれが転送されていく途中経過、視覚野での処理、等々のどの過程で登場するのだろう。というかこの一連の因果連鎖のどこかで、本当に紛れもない表象として出現するのだろうか。なぜ、網膜の上の視覚細胞の興奮のパタンは表象とは呼べないのだろうか。頭の中の表象を誰も見たり、聞いたり、触ったりしたものがいないのでは、本当に頭の中に表象があるのかという疑問すら起こってくる。
戸田山氏によると、認知科学では頭の中の表象(心的表象)の存在は大前提となっている。しかしカエルがハエを食べるという行動を行ううえで、一連の脳内の因果的な連鎖のどこかにほんとうにこの「何か」が存在していることが必要なのだろうか。そうしたものが存在するという根拠は、本書では実にあっさりと片付けられてしまっている。「正体はいまのところ不明だが、何かそういうものがあるでしょう。なければ認知ができないもんね」[戸田山和久. 哲学入門 (ちくま新書) (Kindle Locations 708-709)]。 ほんとうにそうなの?人が近づくと自動的に開くドアや、室温が低下するとスイッチが入るサーモスタットをそなえた暖房装置が、その作動に人についての表象や室温についての表象を必要としているとは思われない。生物だからといって、最初から表象の存在を前提とするのはおかしい。そうしたものが現にカエルやヒトにあるとすれば、そうしたものが進化の過程でいかに登場したのかを明らかにする必要があるだろう。
一連の因果的プロセスのどこでという逆ターゲット固定問題とあわせて、心的表象はかなり問題含みの概念であるように思われる。
ちなみに「選言問題」についても、私は同じ種類の困難に端を発しているように思う。因果意味論では表象間違いが生じ得ないことが重大な困難だとされていた。ネズミを見ると必ず頭の中に生じる「表象」(ネズミ表象)が、もしモグラを見ても必ず生じるなら、それは表象間違いとはならず、結局その表象は実は「モグラまたはネズミ」を意味していたのだということになり、間違いは解消されてしまう。戸田山氏が言うには、「『意味する』という概念は、正解と間違いの区別を前提して」[戸田山和久. 哲学入門 (ちくま新書) (Kindle Locations 825-826)]おり、表象間違いの余地がないという事実が、心的表象の説明として因果意味論の不十分さを示すものになってしまうのである。しかし、そもそも心的表象の存在を前提とし、その心的表象(あるいは脳内の状態X)とその状態の原因となったものYとの関係を「意味する」という言葉で捉えようとしたことそのものが間違っていたということにはならないのだろうか。
ダムの決壊という状態は、大雨によっても、テロリストの爆破によっても生じる。だが、私たちはそもそもダムの決壊を(まるで表象であるかのように)それが大雨を意味する、といったり、テロリストの爆破を意味すると言ったりしない。だって、それは単なる原因・結果の関係であり、同じ結果が複数の原因で起こったってまったくおかしくはない。それはそもそも「意味する」という関係ではない。心的表象の意味についての因果説の困難は、単なる因果関係を「意味する、意味される」という表象の関係として捉えようとすることにそもそも無理があったせいだとは言えないか。「心的表象」として捉えようとしていたものが、実は表象でも何でもなかったというだけのことなのかもしれない。
頭の中で進行する一連の因果的プロセスの何処かで表象が生み出されているという考え方が、腑に落ちないもう一つの理由が、この一連のプロセスが明らかに生み出しているものがあるからである。私たちには外の世界や、そこでのさまざまな事物が見えたり、聞こえたり、感じたりできているのだが、つまり外の世界の経験を持っているわけだが、言うまでもなくこれは頭の中で進行する一連の因果的プロセスの産物、それらの出力のようなものである。心的表象は、この世界の経験という産物の手前で作られるなにかなのだろうか。それともこうした経験自体も心的表象なのだろうか。
今、私の何十センチか先にネコが見えている。にゃあと鳴いているのも聞こえるし、手を伸ばしてそのビロードのような柔らかい毛皮の感触を味わうこともできる。しかしこうしたネコが見え聞こえ感じられている経験は、まさに脳が作り出してくれたものである。これを「知覚像」と呼べば、ちょっと心的表象っぽくなる。戸田山氏も「知覚像も志向的表象の一種だ」[戸田山和久. 哲学入門 (ちくま新書) (Kindle Location 2476)]と書いている。知覚像というとなにか頭の中に浮かび上がる像、あるいは心の中のスクリーンに映っている何かみないなものと勘違いしそうになるが、もちろん私達は頭の中の知覚像を眺めているわけではない。表象だったとしても、私はその表象を頭の中にもっているとはどうしても思えない。だってそれは私の身体の外、まさに何十センチのところに見えてニャアニャア鳴いている「像」であり、手をのばすと舐めてくる「像」である。いわゆる「知覚像」は頭のなかなどにではなく、実物がいると思われるまさにその位置に見え、聞こえ、感じられている。というかそれは表象などではなく、私にとっては実物のネコそのものである。いやそれは私が実物の猫だと思っているだけで、実は表象で、実物の猫の代わりをしているのだと言われても、じゃあ、実物の猫はどこにいるんだ、ということになってしまう。哲学の素人としては、こんなふうに考えてしまう。おかしいんだろうか?いずれにしてもこの場合、頭の中の心的表象と、実物のネコという(最初の例ではハエだったが)わかりやすい関係はもはや成り立たない。
ニコラス・ハンフリーによると脳が神経線維のつながりを通して直接処理することができるのは、自分の体のなかで生じている変化の情報だけである。外の世界からのさまざまな影響が、生物の体(とりわけ身体表面に、ハンフリーの用語では「構造的境界 structural boundaries」に)さまざまな変化や反応をもたらす。たとえば網膜の視覚細胞をさまざまに興奮させる。こうした変化の情報が脳が直接扱える唯一の情報だ。我々の外の世界についての経験は、我々の体に生じているさまざまな変化をもとに、脳が、外の世界がどのようなものであるかのモデルとして出力した何かであると考えることができる[e.g., Humphrey 2006: Chap.4]。
表象の因果説によると、外の世界の既知の原因から始まって、脳内のプロセスが辿られていくという構図であるが、脳の処理のプロセスから見ると、出発点は個体の身体(その表面近く)で生じている出来事であり、そこから身体の外の世界がどのようになっているかについての、いわば想像図が出力されるという構図になる。この視点で事態を見ると、それがS・ピンカーの言うところの「逆光学 inverse optics」の問題を孕んでいることがわかる[Pinker 1997:28-29]。物理学の一部門である通常の光学では、特定の形や素材の物体が光学系を通してどのような像を結ぶか、例えば外部の物体がどのような網膜像を結ぶかを予測することができる。しかしピンカーが言うには、脳はこれとは反対の問題を解かねばならない。網膜像を入力として、世界にどのような物体があり、それが何からできているかをアウトプットせねばならない。しかしこの逆光学は、よく言われるところの「不正問題」つまり解を持たない問題なのである。したがって、極端な言い方をすれば、脳は身体の「構造的境界」で起こっている情報をもとに、外の世界がどうなっているかについて言わば一か八かの賭けをして、一つの解を出力していることになる。脳が出力したこうした解が、私たちが外の実物の世界に対してもつ経験となる。一方、外の実物の世界が本当はどうなっているのかは、原理的に知りえない。脳が出力したこうした解、知覚像、経験と、原理的にそもそも知りえない「実物」との関係は、表象とそれが代理する対象の関係ではありえない。前者を「心的表象」と呼ぶのはやはり不適切であるように思われる。
頭の中のなにかと、外の世界のなにかの関係として表象をとらえることは、一見したところの素朴さにもかかわらず、厄介な問題を孕んでいるように見える。表象を問題とするのなら、そして人間の表象能力の進化をたどろうとするのなら、やはり表象は基本的には、外の世界の二つの項の間の関係として、あるいは外の実物の世界として経験される脳の出力の内部の二項の関係として問題にしたほうが良いのではないか。その場合、カエルのハエ表象やネコのネズミ表象という問題設定はどのようになるだろう。戸田山氏が提示している形では、それは表象の問題ではなくなるのではないか。
もしかしたら、これらすべての引っ掛かりは、私が単に「表象」という言葉の通常の(と私が勝手に…以下略)使い方に拘泥しすぎていることが原因にすぎないのかもしれない。私は表象を記号とほぼ同義にとらえているが、それがおかしいのかもしれない。いずれにしても、上記のような素人的議論のどこがおかしいのか、わからせていただけるととても嬉しい。