"In any case, the culture concept to which I adhere has neither multiple referents nor, so far as I can see, any unusual ambiguity: it denotes an historically transmitted pattern of meanings embodied in symbols, a system of inherited conceptions expressed in symbolic forms by means of which men communicate, perpetuate, and develop their knowledge about and attitudes toward life." Religion As a Cultural System(Geertz 1973:89).
マリノフスキー以来の人類学の理解の目標であったfrom natives' point of view 人々が周囲の世界をどのように捉え意味づけているかを知ることは、ギーアツによると、「読心術」のようなことをしろと言っているわけではない。
それは観察可能なシンボルの形でアクセス可能なのだ。
意味は個人の心の中だけの不可知なものではなく、同じ社会で暮らす人々であれば、だれでもアクセスできる「家の庭や市場や町広場」でみられる公共的(public)で間主観的(intersubjective)なものであり、その集合体である文化は、観察者 にとっても「結婚と同程度に公的で、また、農業のごとく観察可能なもの」だ
この学問的伝統のなかで活動していることが、「内的表象」という概念に居心地の悪さを覚える(私)理由の一つ
表象や意味の「自然化」の議論に感じたもう一つの?ハテナ?
因果的説明というのは基本的には所謂「インデックス記号」についての話
「インデックス記号」がどんなふうにして「シンボル記号」に変化するのかが議論されていない
類人猿にどこまでのことができるのか、どのような困難があるのか
ヒトが用いるシンボル記号の性格についてよりよく理解する手がかりになるのではないか
類人猿は自ら「内的表象」について証言できない
彼らについての研究は、もっぱら目に見える(外的な)記号オブジェクトを彼らがどんなふうに使って、何をするかに関するものとなる
ここでも、もう一つの?ハテナ?
類人猿に記号を「インデックス記号」として学習させているのに、学習を繰り返したらいつのまにか「シンボル」みたいになってました、みたいな説明が気持ち悪い
この一番気になるはずの、そこで「いったい何がおこったのか」的な部分がサラリとスルーされてしまっている
以下の文献で考えたが、プレマックのものは興味深いものの中心からはずした。ランバウの有名なカンジについての著作よりも、それ以前の研究のほうが、インデックス記号からシンボル記号へという今回の私のターゲットについて考えるにはより向いているように思われた。
Premack, D., 1986, Gavagai! or the future history of the animal language controversy, An MIT Press classic
(ディヴィッド・プレマック,『ギャバガイ!「動物のことば」の先にあるもの』橋彌和秀訳、勁草書房)
Premack, D. & Premack, A.J., 2003, Original intelligence: unlocking the mystery of who we are. New York: McGraw-Hill
(ディヴィッド・プレマック アン・プレマック,2005『心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト』長谷川寿一監修・鈴木光太郎訳、新曜社)
S・S・ランバウ,1992『チンパンジーの言語研究―シンボルの成立とコミュニケーション―』小島哲也訳、ミネルヴァ書房
(Savage-Rumbaugh, E. S., 1986, Ape Language: from conditioned response to symbol, Columbia Univ. Press.)
スー・サベージ=ランバウ, ロジャー・ルーウィン 1997『人と話すサル「カンジ」』石館康平訳、講談社
(Savage-Rumbaugh, E. S., & Lewin, R., 1996, Kanzi: The Ape at the Brink of the Human Mind, Willey)
Humphrey, N., 2002, The Mind Made Flesh: Essays from the Frontiers of Psychology and Evolution, Oxford Univ. Press
Deacon, T., 1998, The Symbolic Species: The Co-Evolution of Language and the Brain, W. W. Norton & Company
プレマック
サラ(チンパンジー)の記号行為は、プラスチック片の記号を複数提示され、そこから一つを選ぶという見本合わせ的なものに限られていた。選択は正解か誤りかの判定を受けた。
プレマック(Premack 1971,1976)によれば、
学習経験の全くないチンパンジーに語を教える基本的手続きはきわめて単純である…例えば、まずチンパンジーに与える果物を用意する。試行ごとに種類の異なる果物を提示し、語もそれに対応して変える。バナナの時はある形のプラスチック片、林檎の時は別の形の、そしてオレンジの時はさらに別の形のプラスチック片を使う。チンパンジーの課題はどの試行も同じである。つまり、果物を受け取る前に果物の横に置いてあるマグネットボードにプラスチック片の語を貼り付けるのである。
サラの記号操作は相手の行動や環境の事物に対して働きかけるものとは言えなかった。サラは自発的に記号を使うようにはならなかった。しかし、サラが課題に正解を出す仕方から、プレマックはサラの「心の働き方」、どのような概念が形成され、どのような抽象的な思考が可能になっているかを明らかにすることができた。サラの記号操作は、サラが何かを伝達するために、あるいは何かをなすためになされるものというよりは、知的課題を処理するサラの心の働き方について教えてくれる徴候のようなものだったといえる。
ランバウのカンジ
面白いのだが、カンジは特別な訓練をうけることなく、他のチンパンジーが訓練されているのを見て、勝手に記号操作ができるようになってしまったみたいな感じなので、ここでの私の問いにはほとんどなんの光も投げてくれない。
一方、ランバウの4頭の(それ以前の1頭を加えると5頭の)チンパンジーについての研究においては、まさに主題は、私の言い方になるが、インテックス的記号の習得から、シンボル記号の獲得への変化を何が可能にするのかという問である。
これまでの類人猿の言語研究では、実験個体が指示機能のない記号使用段階から実質的に象徴的命名と呼べる段階へ移行したかどうかの検証は全く行われていない、とわれわれは考えている。後述するように、チンパンジーは人間と違って自然に言語を発達させることはないので、単に「命名行動」をテストするだけでは十分な検証にならないのである。…つまり言語の発達段階をブラウン(Brown 1973)の枠組みに当てはめて分析しようとしたり語連鎖から統語の能力の検証を試みる以前に、表象機能を備えた記号の使用ができるかどうかを実証する(単に仮定するのではなく)ことが必要なのである。 p.18
ランバウは記号の使用を、他者や世界に対する働きかけ(相互行為)としてとらえるべきだとする。
語はきわめて複雑なものである。実際、それは物ではない。むしろ二者間で行われる活動というべきである。われわれが語と読んでいる音の組み合わせを表出する活動は、そもそも話し手と聞き手の注意を発語という実際の運動以外のものに向けさせるためのものである。 通常、語は聞き手の心に意味対象を喚起させようとする意図をもって話され、聞き手も話し手にそうした意図があることを前提にして聞く。語はその場にない物や動作へ複数の人間の注意を同時に向ける特殊な機能をもつ。この機能は個人間の相互作用を通して成立するが、初期のやりとりでは眼前にあるものが指差しや視線によって注目の対象として共有される。意味対象の共有が起こればそこに音声標識が重ねられる。その後、眼前にないものでも音声標識だけで意味対象として指示できるようになる。
…
言語は道具であり、われわれはそれを使って何かをする… したがって、語で何かを意味する行動を教えることは実際には不可能であるが、語自体を教えることはできる(傍点)。語は使用される(傍点)ものであり、使用に伴って学習される。 p.19
ランバウは類人猿の記号行為が、相手(訓練者)や世界に対して何かを要求する行為として学ばれていくという事実に注目する。それは指示機能のあるシンボルとはまだ言えない。
これまでの言語研究で訓練されたチンパンジーのほとんどが、人間やコンピュータを相手に記号を意図的に使用し、食物の入手、遊びや移動など多彩な内容の要求を伝えられるようになった。訓練者が彼らの伝達意図を認め、要求に即応できる環境を用意すれば、野生のチンパンジー同士では現れない伝達も可能となるのである。しかし、彼らの使ったサインや図形シンボルが、物や出来事を指示し、未来の行為を叙述する表象的記号としての機能を十分に備えていたとはいい難い。 p.20
手話を覚えたワシューやレキシグラムの使用を覚えたラナ
ラナの場合は(身振りの代わりに)レキシグラムの記号を一定の順序で選択すると訓練者がドアの鍵を開けて外へ出してくれた。ワシューと同様、ラナは最初、記号をより直接的な要求表現(ドアを押すような行動)と併用して使うだけだったが、その後、その記号を象徴機能のない直接的な行動に代わるものとして、しかもそれに先行して使用するようになった。 …
しかし、チンパンジーによる記号の要求表現としての使用は
伝達手段が常に使用可能な状態にあり
訓練者がチンパンジーの記号使用を何らかの意図の下になされたものと見なし
訓練者がチンパンジーの記号使用に即応的行動で対応する
という訓練の人為的環境のなかでのみ可能となったものだ
このように、人間が適切な訓練環境を設定しさえすれば、チンパンジーは内的動機づけによる欲求と必要に基づいた要求を記号を使って自発的に表現できるようになる。… ここで、チンパンジーは学習した<記号―物>の連合を要求以外の言語機能に使えるかという疑問が残る。…対象物や出来事を叙述したり未来の出来事の内容について考えたりできるのだろうか? p.27
「どのようにして要求の行為が指示行為に変わっていくのか」これが本書の中心的な解明の軸になる。
チンパンジーの記号使用がもっぱら「要求」の行為であるのに対し、幼児は初期からそれ以外の指示的な要素を含んでいる
ニム(チンパンジー)が食事場面で使ったサインはどれも基本的には飲食物の要求である。それと対象的にローラ(人間の子供)は、食器の属性、牛乳をこぼした自分自身の行為、牛乳を継いでくれる母親の行為、牛乳を飲み干した状態について叙述している。チンパンジーではこの種の叙述が言語的表現として現れることはなく、学習された記号は要求のためだけに使われるのが普通である。この点がチンパンジーと子供の記号使用における劇的で重大な違いであり、それは言語習得の最も初期の段階から歴然とした差として現れる。 p.31
チンパンジーも子供も社会的交互作用の複雑なルーティンの中で記号を動作遂行的な反応として使用する…そうしたルーティンが十分に学習され身についてくれば、両者はともに記号を意図的に使い、自分の好きなルーティンを開始するようになる。しかし子供はこの段階を超えて即時的な必要や欲求と文脈的関連のない情報の伝達に記号を使うようになる。… p.32
チンパンジーの伝達が「要求の段階(記号による即時的欲求の伝達)を超えられない」のは、子供の記号使用に共通に認められる次の「2つの特性の欠落」に関係しているとランバウは考える。
記号理解の能力
自分は記号使用を要求として行うが、他者の記号使用をそうしたものとして(あるいは何としても)理解できない
訓練者のサインに対するニムの反応をビデオ分析した結果はその良い例であり、ニムは2年間にわたって林檎を見てそのサインを正しく表出できていたにもかかわらず、訓練者の[apple]のサインの意味をほとんど理解できなかった(Savage-Rumbaugh and Sevcik 1984)。
他者の要求に対して応えようとする傾向性、役割交代の能力
記号による要求に対して品物を渡すという単純な反応であっても、チンパンジーは特定の目的のために記号を使うという一定の反応形式を乗り越えることが求められる。つまり、他者が記号で表現した要求に注目し、その内容にそうように自分の行動を調整することが必要になる。…
つまり、記号を受容し理解するためには役割交代の能力が保証されていなければならず、そのためには記号自体を習得する段階では必要のない他の多くのスキルが不可欠となる。…
役割交代スキルの欠如と関連して、類人猿ではやり取りの行動が見られないこと、他者の注意を非言語的行動で喚起しながら記号で要求する行動が見られないことも指摘されている。 p.36
著者の狙い=この2つの欠如を訓練でなんとかすれば、チンパンジーの記号使用はヒトの言語により近づくのかもね
レキシグラム(註1)による記号訓練
(註1)サベージ=ランバウはチンパンジーが操作するキーボード上の様々な図柄が描かれたキーについて、レキシグラム、シンボル、記号などさまざまな呼び方で言及している。日本語訳ではシンボルに統一されているが、これは本論考の問題意識の上からは甚だ不正確で都合が悪い。というわけでこの用語に関しては日本語訳を離れてレキシグラムで統一したい。
キーボードの各キーの図柄は試行のたびに変更される(チンパンジーが位置をヒントにキーを選ばないように)
薄明るく点灯したキーのみ押すことができる
押したキーは明るく点灯し、その図柄がモニター上に表示される
物を提示し、キーボード上の特定のレキシグラムとの連合を訓練する
品物を提示し、チンパンジーにいずれかのレキシグラムを選ぶように促す。正しいレキシグラムが選択できると食物報酬と社会的称賛を与える。選択を誤った場合は次の試行に移る。最初はキーボードにレキシグラムを一つだけ載せて選択的反応をしないでもすむようにした。つまり、品物が提示されたときにそのレキシグラムを押すだけの学習から始めたのである。この反応が確実に現れる様になった時点で2番めのレキシグラムを導入したが、最初しばらくはこの新しいレキシグラムだけを使ってエラーレス弁別訓練を行い、そののち、2つのレキシグラムをキーボードに載せ、2種類の品物のランダム提示へ移行した。この段階で彼らは学習に困難を示し始めたが、そのまま訓練を継続すると4頭とも成績が向上した。そこで3番めのレキシグラムを導入した。3番目のレキシグラムの導入に伴いどのチンパンジーも成績が著しく低下し、課題に対する注意の集中も悪くなった。…
結局、複数の物とレキシグラムとの連合学習には失敗
毎日数時間の訓練を4ヶ月間継続したにもかかわらず、最初に予定した6種類の連合を学習できたチンパンジーは1頭もいなかった。 pp.72-73
この疑問に対する答えは訓練セッションを記録したビデオテープの分析から得られた。分析の結果、シャーマンたちにとっては訓練場面のある一面だけが重要な意味を持つことがわかった。それは、キーを押した後に訓練者の手にある食物が自分に渡されるか否かという点である。彼らは提示された品物と自分の選んだレキシグラムの関係ではなく、選んだレキシグラムとその結果生じる事象、つまり食物が来るか来ないかの関係に注目していたのである。…
チンパンジーの関心は、どうすれば訓練者が食物を渡し、くすぐり、あるいは外へ連れて行ってくれるのか、にある。つまり、彼らは自分の行為とそれが生物的及び非生物的環境にもたらす影響との関係に関心を向ける傾向があるように思える。 pp.74-77
シャーマンとケントン
キーボードを自動給餌装置とつなぐ
4つのシンボル(ジュース、M&M、スイートポテト、固形飼料)のどれかを選択すればいつでもその品物が出てくるようにした。…品物が出た直後はそのレキシグラムが選べないようにした。
キーボードには4つのレキシグラムと、それらとは無関係な4つのレキシグラムを載せる
キーの配列は試行ごとに変える
キーボード使用場面での要求順位と前もって記録した自由選択場面での選択順位とを比較した。
↓
4種類のレキシグラム間の弁別も他の無関係な4種類のレキシグラムとの弁別も学習した。
エリカとオースティン
部屋の外にいる訓練者が4種類の飲食物の中から一つを選んで持ち上げて見せ、そのレキシグラムを選んだ場合に限り、手に持っている品物を給餌装置の筒から彼らが座っている直ぐ側の餌口に落とす。提示した品物以外のものを「要求」した場合には、品物をもとに戻し次の試行へ移った。
2語段階で平均試行数450でオースティンのみ基準達成、3語段階以上では学習不可
給餌装置に何が置かれているか見えるように設置
給餌装置にM&Mが置いていなくても、スイートポテトを置き、目の前でスイートポテトのレキシグラムを押して給餌装置からスィートポテトを入手して見せても、相変わらずM&Mのキー押しをやめなかった。
この段階では、シャーマンたちはレキシグラムを伝達のためではなく、ちょうど押したり揺すったり噛んだりする単純な行為が他個体に直接的な影響を及ぼすのと同様、素朴な<原因―結果>関係の中で用いていたにすぎない。換言すれば、レキシグラムが自分に何をもたらすかを学習していても、レキシグラムの適切な使用に関係する文脈上の手がかりについては何も学習できていなかったのである。
文脈上の手がかりの学習は一般に「条件性弁別」と呼ばれるものである。シャーマンたちの課題における手がかりの学習は典型的な条件性弁別に比べるともっと複雑で、3次性の条件性弁別課題と言える。1次性の条件性弁別ではキーの明かりがついているときに反応することが、2次性の条件性弁別ではキーが点灯し、なおかつ品物がセットされているときに反応することが要求される。3次性の条件性弁別になると、キーの点灯、品物の存在、更に訓練者による品物の提示を、反応表出の手がかりとして学習しなければならない。 p.85
ちょっと悲しい結論
我々の失敗から明らかになった点は、類人猿にとって特定の記号と特定の物の連合学習は簡単には成立しないということである。 p.86
シャーマンとケントンの課題は1次性の条件性弁別であって、内的な動機づけの違いがレキシグラムを弁別する「刺激」となる。これと対照的に、エリカとオースティンの課題は訓練者が刺激を提示する3次性の条件性弁別である。 p.87
エリカはM&Mとスイートポテトのレキシグラムの訓練で2500回以上の試行を経験したにもかかわらず、訓練者の提示した品物の名前をどちらも正しく選べるようにはならなかった。 p.87
(プレマックらの説明では)<記号―物>の連合が理論的には不当に単純な説明がなされていたのでは?。
そこでは、物と記号の連合形成のためにある刺激条件の下で記号の表出や理解を行うことが重視されていたする点で。
しかし、それを類人猿に実際に教えることはかなり困難
チンパンジーが種々の食物の入手、くすぐり遊び、外出など、自分の好きな事象とシンボル使用の連合を簡単に学習できることは明らかである。しかも、シンボル使用が常にそうした品物や出来ごとに結びつく場合には「語彙」の習得は早く、特に、内的手がかりを刺激に自分の意志で要求が出せる場合は早くなるように思われる。 pp.87-88
《その場合ですら…》
そうしたやり方で連合が成立した場合、その<記号>は品物が眼前になければ使えないような単なる対連合の対象としてでなく、品物に代わりそれを意味するものとして使用されるようになるのか?
《さらにもう少し突っ込むなら》
そうした連合を学習する、つまりあるレキシグラムのキーを押せば、要求した何かが手に入ることを学習することは、それだけではインデクスとしての記号の学習とすら言えないかもしれない。 ある壁のスイッチを押せば、部屋の明かりがつくことを学習しても、それだけで、壁のスイッチが明かりのインデクスだということにはならないように(単なる因果関係の学習は、それだけでは記号の学習とは言えない?)
要求表現と関係づければ、連合が学習できるという見通しに気をよくして、ランバウはさらに課題を少し複雑にする
定型文(stock sentences)[A+B+C+(食べ物名)+ピリオド]あるいは「A+B+D+(飲み物名)+ピリオド]の形式を録る種類の連鎖表現を対象にエラーレス訓練を実施した。
≪ちょっとここで突っ込ませてほしい。ランバウはAをPlease、Bをmachine、Cをgiveのレキシグラムと設定しているのだが、チンパンジーにそれが理解できているようには思われない≫
この翻訳には意味があるのか?
ビーンケーキ、バナナ、固形飼料、オレンジ、オレンジジュース、水、ミルク、コーラ
2台の給餌装置
どの試行もその要求表現に必要なキーだけ(ただし、要求と全く無関係なキーがダミーとしていくつか含まれる)が点灯
チンパンジーからよく見える場所に要求対象の品物をセット
1種類ずつ個別に試行 (セットされた1種類の品名、ABCまたはABD、無関係なシンボルのみ点灯)
学習基準は5日間連続100%正答
4頭とも各要求表現について学習基準を達成するまで行う(どの個体も一つの表現の学習に最低でも1750試行を必要とした)
給餌装置に品物がセットされていないときに要求→装置は動くが品物は出てこない
給餌装置に品物がセットされている時にだけ要求を出して装置を動かせるようになるまでに、4頭はかなりの試行数を要した(シャーマン257試行、オースティン1119試行、エリカ2113試行、ケントン1593試行)
テストでは2種類の連鎖の要求表現に必要なシンボルを点灯した。
A+B+C beancake banana の5種類のシンボルを要求と無関係なシンボルと共に点灯し、給餌装置にはビーンケーキかバナナをセット
チンパンジーは給餌装置にどちらの食物があるか注意し、そのシンボルを含む正しい連鎖表現で要求しなければならない。
↓
シャーマンたちは給餌装置にセットされた食物のシンボルを正しく選ぶことができなかった。シャーマン、オースティン、ケントンは、どちらの食物がセットされるかに関わらず、常に同じ食物を要求し続けた。エリカは定型文で要求することができなかった(同時に両方の食物シンボルを使用した)
再びちょっと悲しい結論
<記号―物>の連合は反復練習によって成立するような独立の小さな学習単位ではない。
ABC+beancakeの要求には右側の、ABC+bananaの要求には左側の給餌装置がそれぞれ動くよう設定
常にどちらか一方の装置だけに食物をセット(バナナは左側に、ビーンケーキは右側に)
↓
最初は一方のシンボルにのみ反応が集中
バナナ用の給餌装置がからになると、片方の装置にビーンケーキがセットされるのをじっと見て、なおもABC+bananaと要求
↓
ビーンケーキが出てこないのを見ると、再びABC+bananaを繰り返す
ついにはアクリルの窓を叩いたり、室内を歩き回ったり、定型文ではない表現で(bananaとbeacakeを同時に含む表現で)要求したり(この場合にはどちらの装置も動かない)
↓
ABC+bananaと要求し、ビーンケーキから目を話した際に、空のバナナの給餌装置が動いていることに<偶然>気づく
↓
ABC+bananaの要求を繰り返し、そのときに左側の装置が動くことを確認
↓ 右側の装置を見ながらABC+beancakeと要求
おそらくチンパンジーは次のような戦略でやっていたのでは
条件A(左の給餌装置にbananaが置かれる)場合、ABC+bananaの連鎖表現で要求する
条件B(右の給餌装置にbeancakeが置かれる)場合、ABC+beancakeの連鎖表現で要求する。
上記のいずれの条件でもない場合は、訓練者に何らかの行動を取るよう要求する
2台の装置の1台を取り除き、残った1台にバナナとビーンケーキを交互にセット
食物の種類と場所が反応の手がかりとして重複しないようにし、食物の種類だけに注目させるようにする
↓
年長の2個体(シャーマンとエリカ)は最初わずかに成績が低下したが、食物名を2つ含む表現が再発することもなく、フラストレーションや反応の中断も起こらなかった
年少の2頭(オースティンとケントン)は困難を示す 食物名の重複使用、フラストレーション、シンボルを見ずにキーをたたくなど
↓
2台システムに戻す
最終的には全員、一ヶ月後には1台の装置から8種類の異なる食物を要求できるようになった
↓
新しい品物(M&M,ジュース、スイートポテト)を追加
難なく成功!!
最初シャーマンたちは自分の行為の結果には注目したが、先行条件に注意を払わなかった
給油時装置の状態(それに食物が載っているかどうか)に注目するようになる(つまり載っている場合にはシンボルを押し、載っていない場合には要求しない)までに相当数の訓練試行を必要とした
→他の先行事象にも注目するようになった(訓練者が装置に食物をセットする行動、品物の容器、それを置く場所など)
それを催促する行動がとれるようになった(自分たちの行動がそうした先行条件に影響を与えるということについての理解)
[Please machine give/pour 品名]と[please (訓練者名) give/pour(品 名)]の二種類の表現の導入
↓
誤反応には起こりうる様々なタイプの間違いが含まれていて数百回にも及んだ
↓
連鎖表現による要求の訓練を放棄
単なる要求の実現を引き起こす、インデクスとしてではなく、シンボルとしてそれらの記号が使えるようになるには、どうすればよいのかが、ランバウたちの次の課題
上の実験の後、新しいシンボルの習得にかかる時間も著しく短縮
[くすぐりtickle][外out]といった飲食物以外の要求語の導入もできたのだが、問題があった
要求対象として全く関心を持たないもの、またはそれに近いものについては、シャーマンたちがそのシンボルを学習しないことである。
2つ目の問題は、彼らのシンボルが主に要求を目的に使用されていたことによる。…
シャーマンたちは他者からの要求には関心を示さず応答しなかったので、もし訓練者が彼らの要求を充足してやらなければシンボル使用が継続して現れることはなかっただろう。 p.123-124
他者からバナナをもらうためには[banana]のシンボルを使えば良いとしっていることと、[banana]のシンボルがバナナに代わってそれを意味することを理解していることは別物である。…
記号使用者が記号自体と意味対象を別個のものとして区別でき、記号の使用が常に意味対象の即時出現に結びつくわけではないことを理解できることが記号の成立にとって必要条件の一部であることは明白であろう。 p.124
というわけで
↓
シャーマンたちが<話し手―聞き手>の会話関係に参入するためには、シンボル使用とその直後に起こる品物の入手を切り離して捉えることが必要なため、その分離を目的として、命名した品物をすぐに入手して食べることのできない条件で命名訓練を行うことにした。
品物を彼らに確認させる(渡すのではなく)ように提示した後、それを身体に近づけて持ち、与えるものではなく命名の対象であることを強調した。彼らが提示した品物を正しく命名できた時は別の食物を与えた。… この訓練を通して、シャーマンたちはシンボルAの使用で品物aが入手できることを予期するかわりに、ある品物とあるシンボルの1対1関係を保持しなければならなかった。 p.126
↓
結果は
褒めてもらっても全く別の食物が渡されるので、彼らはしばしば驚きと落胆の表情を見せた。報酬の食べ物を食べ終わった後も、命名した品物に向けて身振りを出し続けた。… p.126
↓
最初の数試行で訓練者の提示する品物を入手できないことが明らかになると、シャーマンたちの成績は悪化し始めた。 p.126
↓
最初の数試行で良い成績を示し、その後は誤反応を頻発するというパターンに陥ってしまった。 p.128
シャーマンのフラストレーション(プラスチックの食べ物を地面に投げつけ、踏んだりする)≪そりゃ、怒るだろうと思います≫
手続きのフェイディングを導入
(正しく命名できた時はその品物を少しだけ与え、できるだけ大げさに褒めた後、手元スイッチで操作できる訓練室の外の給餌装置から大きめの食物を報酬として与えた。…
命名用に提示した品物を与える両を徐々に減らし、最終的にはわざわざ食べるのが面倒になるくらい少なくした。そして最後には完全に与えないようにした。…
その結果は驚くなかれ!
訓練は順調に、早く、簡単に進んだ。シャーマンは3種類の食物の命名を30試行連続して正答できるようになるまでに102試行しかかからず、オースティンは同じ学習レベルに到達するまでに201試行を要した。
↓
M&M、ビーンケーキ、スイートポテトで訓練がうまく行ったので、シャーマンたちが楽しなものも同じように命名できるかどうかを調べてみた。他の7食物について第一試行の合計21試行全てにおいて正しく命名し、特別な「命名」のための訓練を行う必要はなかった。 pp.129-130
≪えっ?こんな他愛のないことでインデクスからシンボルへの移行が成功しちゃうの?
というわけで、ここでもあれだけ困難だった記号学習が、なぜか突然すんなり進んでしまうという、プレマック等の場合と同様の現象を私達はまた見ることになる≫
その後はトントン拍子にシャーマンたちはシンボルを使った正真正銘のコミュニケーション行動までやってしまうのだ
chap. 7
1頭だけに情報を与える
1頭だけに与えた情報を2頭がともに理解できることが示される
2頭とも正しい要求をしない限り、どちらも食物を受け取れない。
オースティン、隣の部屋に行き訓練者が11種類の飲食物から選んだ品物を容器に入れるところを観察する
シャーマンがキーボードの傍らで待機している部屋まで歩いて戻る
オースティン、キーボードを使い容器の中のものを要求
それを見ていたシャーマン、急いで自分のキーボードに駆け寄ると、オースティンが要求したものと同じ品物を要求
両者が正しい品物を要求してきたので、訓練者は容器を開け食物を両者に分け与える。
chap. 8 訓練者が介在して行われる食物分配の訓練
伝達の価値
シャーマンにとって容器の中身をキーボードでオースティンに伝えることが価値を持つのは、訓練者が2頭に食物名を指示して中身を要求するように強制し、取り出された食物を2頭に分け与えているためである。もし訓練者が食物の分配を保証しなければ、おそらく中身についての情報を相手に伝えることはシャーマンたちにとって何の意味もなくなってしまう。
↓
2頭が相互に食物を要求し分配し合う
2頭が食べ物を分配し合う訓練 相手からのシンボルによる要求に応じて特定の食物を選びだしそれを渡すという役割交代
chap. 9
シャーマンたちは食物に名前があることはすぐに理解できたが、その理解が食物以外の品物へ般化することはなかった。…
実際、彼らを促して食物以外のものにもシンボルを使わせるように試みたが、かなり難しかった。
食物名以外に訓練の中で導入された他のシンボル
動詞 open give tickle groom scare
固有名詞 Sherman Austin Sue Janet Sally
物の名前 key blanket money
状態を示す語 open out
修飾語 big little
場所を表す語 outdoors sink colony room
訓練室の外へ出たいときにはOpen door...のように、すぐにシャーマンたちは様々な要求が出せるようになった。… しかし、具体的場面を離れた命名課題の場面でテストしてみると、個々の食物は簡単に命名できるのに、[blanket] [wrench] etcのシンボルによる命名は正確にできないことがわかった。
初期段階の食物名の学習で経験した同じ困難、つまり、要求はできても使う必然性のない状況での命名はできないという状態に陥ったのである
問題の中心は、訓練者が品物を指差してシンボルを選んで見せても、その行動が記号で品物を指示していること、つまり、選ばれたシンボルが指示物と連合することをシャーマンたちが理解できない点にあった
しかし、この困難も克服され、その後はさらにトントン拍子に進む
Chap. 10
シャーマンとオースティンが互いにシンボルで要求を伝え合うようになると、シンボル以外の手段を用いて伝達を調整する行動も自発的に現れるようになった。相手の注意を喚起する、伝達の医師や内容を強調する、相手の反応を促したり修正する、などの身振りを中心にしたメタ伝達スキルと呼ぶべき行動である。
chap. 11
シャーマンたちが食物分配や道具使用の場面で使用してきたシンボルは、対象を意味し指示するという表象化の機能を備えた記号なのか?
面白いことに、ラナはシャーマンとオースティンが訓練初期に直面した問題と全く逆のことで困難を示した。シャーマンたちは最初、道具の要求はできても命名はできなかったが、ラナの場合はこれと対照的に、命名はできても要求できないことがよくあった。
ランバウらは「命名」に用いることができることで、シンボルとしての学習がなされたと考える。これをクリアすると、シャーマンたちは個々の品物の命名だけではなく、「食物」「道具」といった抽象的なカテゴリーを命名することすらできるようになる
≪以上がランバウの研究の要約であるが、最後にランバウのこの研究についての私自身の考えを述べてみたい≫
本当に、要求行動における使用だけだったものが、「命名」にもなることで完全なシンボル記号となったと言えるのだろうか。
そもそもここで「命名」と呼ばれているものの実態は以下のような行為である。つまり、訓練者が品物を指差して、シンボルAを押す、チンパンジーも同じようにその品物を提示されたときにシンボルAを押すよう訓練された。これが「命名」とされている行為なのだ。
でもこれって「命名」なの?この行動を「命名」行動と呼ぶというのは、人間にそれらしく見えるという理由以外に何の理由も、根拠もないように思える。これをそのチンパンジーが命名をおこなったと記述することは比喩的な陳述でしかないのでは。
他方、実際に経験上ある記号と品物の結びつきの経験をくりかえすことなしに、両者を結びつけることができたのを見ると、そこには因果関係によらないシンボル的な結びつきがあるのだと考えて良いような気もすることも確かである。
問うべきは、初期においては経験的な繋がりを何千回ももったあとで、ようやく結びつけることができるようになった両者の関係が、後期においてはほとんど経験上の結びつきをかさねることなく簡単に成立するのはどうしてか。後期においては何が両者の結びつきを支えているのかという問題である。
経験で固めるしかなかったつながりが、ある時期を境にして、なにか別のものによってはるかに簡単に作り上げられているように見えるのだ。
まさにそれがインデクスからシンボルへの移行そのものにほかならない。これはけっして自然な移行とは言えない。そもそもインデクスとシンボルは、ある意味で正反対の特性をもっているとすら言えるからだ。
テレンス・ディーコンによるとインデクス的結合にはいくつかの特徴がある
条件反射にせよ、オペラント条件づけにせよ、一旦出来上がったインデクス的結びつきの学習は、両者の経験的な相関がなくなると解消される。
ブザーの音と食事の出現の結びつきを学習したイヌも、ブザーの音の後に何も現れないという経験を重ねると、その結びつきの学習は解消されてしまう。逆に、インデクス的結びつきが生きていれば、ある記号にであうたびに、それと結びついたなにかの出現に身構えることになる。
インデクス的結びつきは、互いに独立している。複数の音声と何らかの状態のインデクス的連合は、互いに影響しない。連合のどれかが消えても、別の連合が付け加わっても、別の連合に取って代わられたとしても、それは他のインデクス的連合には影響しない。
逆に、あるインデクス的連合の存在が、別のインデクス的連合の学習を容易にしたり、困難にしたりすることもない。
どれくらいのインデクス的連合を使えるかは、脳の記憶容量しだいである。節約のすべはない。
それに対してシンボル的連合を学習することは、
当初のコンテクストでインデクスとして学習した記号を、その指示対象が存在しない別のコンテクストで用いることを学習することである。しかしそれはその記号を当初成立させたインデクス学習の解消を意味する。
テレンス・ディーコンによると記号同士の規則的関係の存在に気づくことによって、個々の記号が自らの存在を他の記号によって支えられることが可能になり、記号とリファラントの結びつきは、この記号同士の関係にその根拠をうつす。レファラントの現物は記号と共存する必要がもはやなくなるのだという。
彼はこれを以下のような図で説明している。
具体的にはどういうことだろうか。
テレンス・ディーコンのこの説明は、結局のところ、インデクス的連合の蓄積がシンボル記号の習得に移行するのだと示している。ただし、そのためには単なるインデクス的連合の集積が、記号同士の間の規則性についての気づきを通して、記号とリファラントとの関係を変質させねばならない。それによって現前する現物とのコンテクスト共有なしに、他の記号との規則的連関を通じて、記号はその指示機能を保持する。それは目の前にあるわけでも、さっきまでいたわけでもない、一度も行ったことすらない山のあなたのそのまたあなたの何処かに在るかもしれないし無いかもしれない、あるいは明日の明日のそのまた明日に出くわすかもしれないししないかもしれない、でもついさっき見た何かに似たなにかについて語ることを可能にする。つまりその記号を使用できる生き物をいきなりちょっとヴァーチャルな世界の生き物に変える変化である。シンボルの魔法が起こるのである。
具体的には、これはそんなに謎めいたことではない。シャーマンたちのランバウの言うところの「要求」行為や「命名」行為の学習で、シャーマンたちが実際にどのような連合を蓄積したかを考えてみよう。
初期の何千回もに及ぶ試行のなかで、シャーマンたちは同じような何かを要求し手に入れるための、異なるいくつものプロトコルを学習する。あるコンテクストではあるレキシグラムを押せば、欲しかったバナナが手に入る。別のコンテクストでは、別の手順であるレキシグラムを押すことによって、さらに別のコンテクストでは別のパフォーマンスによって。
例えば以下のような感じだ。
図形はレキシグラムだと思ってほしい。最初はある一つのレキシグラムを押せばバナナがもらえることを学習したのに、別のコンテクストではそれを押してもバナナがもらえず、別のレキシグラムと連続して押した場合にもらえることを学習する。新たなインデクス的連合の学習である。などなど。 A+B+C+食物などのより複雑な連鎖の学習では以下のようなレキシグラム・パフォーマンスとそれぞれの結果との連合が学習される。
こんなことを仮にやらされたとしたら、私達ならたちどころに在る種の規則性に気が付かないわけには行かない。バナナとりんごのある種の等価性、ジュースと牛乳の置換可能性、それらと他のレキシグラムとの隣接性の関係など。 さらにフェーディングが行われたセッションでは、シャーマンたちは同じ(かつてはバナナの入手と結びついていた)レキシグラムが、今度はバナナの入手ではなく、でも別の好物の入手が帰結する異なるプロトコルの中で用いられることを学ぶ、つまり別の好物を入手するためには、目の前に見せられたものを欲しがって見せなければならないといったことを学ぶわけだ。 こうした無数の異なるプロトコルの試行の積み重ねの中で、見て取れた規則性が、現物とのインデクス的連合の学習の完成をまたずに、あらたな連合を習得する手助けになる。例えば、コカコーラを入手するプロトコルに初めて接したとしても、おそらく牛乳やジュースプロトコルのなかのレキシグラム連鎖のなかでなにか新たなレキシグラムを用いれば良いだろう、くらいの類推が利くといった風に。
こんな風に、いつのまにか現物との結びつきを学習するまでもなく、新しい記号の使用が可能になるようになる。ちょうどヒトの子供が、いつかは現物の一角獣に出会わなくても、「角の一本生えた馬に似た生き物で、処女が好き」などという記号の連鎖を与えられただけで、一角獣という言語記号をそれなりに使いこなせるようになるように。
シャーマンらに対するサベージ=ランバウの実験は、ヒトの子供にとっては実に容易な、インデクスの学習からシンボル習得への移行が、チンパンジーにとっては、可能ではあるものの、すごく困難だということを物語っている。
この違いが、ヒトとチンパンジーでの、規則性の看破と理解の素早さの違いに由来することを示唆するデータがある。つまりヒトは、規則性に気づき、注目することが得意(チンパンジーと比べると)な生き物だということだ。
ニコラス・ハンフリーが引用するFarrerの1967年の興味深い報告がそれである。 チンパンジーに、次のような図形が提示される。
そして以下のような4つの図が表示されたレバーのどれかを引くと正解で報酬が得られる(この場合正解は◎)という課題を課せられる。
実は正解は最初に示された図の上段にある記号なのだが、ヒトならば同様な課題を2~3問もこなせば、あっという間にこのあまりにも簡単でミエミエな規則に気づかないわけにはいかない。 同じような問が24題だされるのだが、ヒトなら苦もなく全問正解になるだろう。しかしチンパンジーは正解率90%に達するまでに、何百回と繰り返し同じ課題を試行せねばならない。つまり、このミエミエの規則性にまるで気が付かないのだ。 しかしヒトである我々はこれでいい気になってはならない。
実験の次の段階では、上段の記号を省いた、下段の4つの図形の並び飲みが示され、再び正しいレバーを引くよう求められる。
最初の課題には簡単に全問正解できただろう人も、これにはお手上げのはずである。しかし驚くべきことにチンパンジーたちはこの課題についてもやはり90%近い正解率で答えたのである。つまり彼らは、最初の課題についても規則性の発見にもとづいてではなく、個々の問について正解を丸暗記することで対処していたのだ。そしてチンパンジーにはそうした素晴らしい丸暗記の能力があることが示された。
ハンフリーはこの実験結果を引きつつ、ヒトの規則性把握能力は、ヒトがかつてもっていただろうチンパンジーと同様な丸暗記の能力の低下とのトレードオフで獲得した能力であると主張する。彼のこの主張が正しいかどうかはさておき、ヒトとチンパンジーとのあいだの最大の違いの一つが、こうした規則性の発見、着目の能力であり、問題解決を個々の問題に対する個別の解の丸暗記に頼るのではなく、規則性の発見に頼って問題を解決しようとするヒトの傾向性にあることは明らかである。
ヒトの規則性への敏感さ、規則性志向こそが、ヒトがシンボル記号を容易に習得し、使いこなすことを可能にしているまさに条件の一つであるように思われる。