ドイツ・イデオロギー

ここで検討したいのは高校以来ずっとひっかかっていた問題である。マルクスとエンゲルスによる『ドイツ・イデオロギー』で提示され、後にマルクスの『経済学批判』の序言で、下部構造が上部構造を規定するという、よく知られた形で「公式化」されることになる、有名な議論に関する疑問である。

なれそめ

高校時代にこれを読んで、当然すべてが理解できたわけではなかったが、頭をひっぱたかれたような衝撃を受けたことは覚えている。このなかでマルクスとエンゲルスがふたりがかりで悪戦苦闘の末につかんだ考え方は、『経済学批判』の序言で、我々にもよく知られた形で「公式化」されている。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産的諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(マルクス 1956: 13)

つまり人間は、(1)物質的世界に働きかけて自らの糧を手に入れなければならないのだが、(2)それは常になんらかの協働を通じてである。人間の歴史のなかで(1)の技術(物質的生産諸力)にはさまざまな発展段階があり、それに応じて(2)協働のあり方(社会の様態)も様々に異なったあり方(生産的諸関係)をする。この(1)と(2)が現実の土台(下部構造)となり、それが、政治、法、「一定の社会的意識形態」を規定するので、そのようなものとして後者(上部構造)を説明することができる、という考え方である。上の引用の最後の文章がキメである。ほとんど同じ文はドイツ・イデオロギー1の中にも出てくる(マルクス and エンゲルス 2002: 31)。

単純に言えば、人間が世界に対して働きかける実践が、人間の世界に対する意識を規定するので、人間社会の説明もこの順序に従うべきだというのだ。「絶えず現実的な歴史の地盤にとどまり、実践を理念から説明するのではなく、理念的構成物を物質的な実践から説明する」(前掲書: 87)という立場である。社会で流通しているなんらかの観念や命題が、どこかおかしい、間違っているというとき、それを精神的な批判によって正そう、ひっくり返そうとしたくなるのは、無理もない。学問っていうのはそういうものだったりする。でもマルクスたちは、こう言う。「意識の形態や産物はすべて、精神的な批判によってではなく...(つまり、錯覚だとか迷妄だとかだと証明してみせることによってなどではなく)...これら観念的な戯言の発生源となっている実在的な社会的諸関係の実践的転覆によってのみ、解消されうるということである。――批判ではなく革命こそが歴史の駆動力であり、また宗教や哲学やその他の理論の駆動力でもある。」(マルクス and エンゲルス 2002: 87-88)高校生の頭をひっぱたくには十分すぎる!

高校生の私が一所懸命に無い知恵を絞って考えたことも、これぞと思って書き記したことも、結局、私がそこにいるところの経済的・社会的な生存条件によって決定付けられたものだったのだ2!私の生存条件を転覆しない限り、私の思考のこの限界を破ることはできない!

目が覚めたような気がする一方で、人間の特定の生存条件が、いかにして具体的に人の思考を規定するのか、その仕組についてはほとんど説明されていないのは不満だった。例えば、そのとき私の考えていたあれこれのことが、貧しい工場労働者を父とし、母に内職させてまで進学校に通わせてもらい、それを申し訳ないと思いつつ裕福な友人たちに混じって勉強していた当時の私の「生存条件」によってどのように決定されていたのか(そもそも問の立て方も間違っていたわけだが)、その答えは得られそうになかった。まさか私の生存条件がなにやらビビビと不思議な力を発して、私の脳をコントロールしているとかではあるまい。たしかに私がくださねばならない現実的な選択は、実際に私のすぐ身の回りの具体的な状況をもとにするしかないし、経済状況はもっとも考慮に入れざるをえないものだったけど、私自身が考えていることのほとんどは、多くは人に勧められて読んできた本や、人から教えてもらった話の単なる受け売りみたいなものだったし。

じじいになった今、読み直してみても、生産的実践とそこでの協働のあり方が特定の意識形態に対応しているという事実は、立証されていないし、また前者が後者を産出するその過程や仕組みについても、説明はない。後者が前者を反映するといった、曖昧な形で述べられているだけである3。その仕組が明示されない限り、同じ下部構造が同じ意識形態を産出する保証もないし、その反映がひとつの形態に収斂するという保証もない。

それでもマルクスとエンゲルスによる議論には、説得力があった。「貴族支配の時代には名誉や忠誠などの概念が支配した、ブルジョアジーの支配期には自由や平等などの概念が支配した、などと」歴史学者は言うことがある。マルクスらによると、これらはまさに「ある階級を支配階級たらしめる...支配的な物質的諸関係の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたもの」にほかならないとわかるのである(マルクス and エンゲルス 2002: 114)。なるほど。

高校から大学1,2年次あたりでの理解はこんなものだった。その後も『ドイツ・イデオロギー』は友人たちとの読書会で取り上げたり、ずっと気になる書籍の一つだった。人類学を始めてからは、一時期など、自分の目標はマルクスとエンゲルスが着手だけしていた上部構造についての議論を人類学的に(当時はレヴィ=ストロースの構造主義にもはまってたし)完成させることだ、などと息巻いていたりした。

人類学に進んだ学部3年のときに、高校時代に某先生から勧められて読み始めた、同じくマルクスの『ブリュメール18日』をやっと読了。高校時代から何度もチャレンジして敗退し続けていた本だった。今回も、危うくいつもの辺りで挫折かと思ったが、そこまでを何回か繰り返し読んだところ、ごちゃごちゃした話がなんとなく頭に落ち着いたらしく、その後は一気に最後まで行けた。またまた、頭をひっぱたかれた感じ。ドイツ・イデオロギーの問題をもう一度、考え直すきっかけになった。思い出話ばかりしているわけにはいかないので、このあたりでストップしよう。

ドイツ・イデオロギーをその後の「公式」に従って、下部構造と上部構造のあいだの因果関係(とりわけ経験的な因果関係4)についての理論と思って読んではいけないのではないかということ。

事例分析におけるマルクスの理論的スタンス

実は、読んだのはもう随分あとになるが、グラムシも同じような疑問をもっていたようで、ちょっと驚いた。

政治やイデオロギーのあらゆる浮沈を(下部)構造の直接的な表現として示すこと、説明することができるという(歴史的唯物論の根本公理とされる)主張は、理論的にはきわめて幼稚だと言うべきだし、また、実際問題としても、マルクス自身の、具体的な政治的・歴史的著作のなかでの証言によって真っ向から反駁されるしかない。 (Forgacs 2000: 190) 英訳

ここで、グラムシがマルクス自身の証言として真っ先に上げているのが『ブリュメール18日』5なのである。このフランスの1848年の第二共和政の成立から1851年のルイ・ボナパルトのクーデタによる第二共和政の終焉までを、詳細かつ鮮やかかつ軽妙かつ熱く描いたこの傑作は、上述の「史的唯物論の公理」についての彼自身による見事なコメンタリでもある。一連の事件は、経済的・社会的生存条件の違いによって特徴づけられる諸階級間の闘争として眺められるのだが、同時に彼が描き出す現実の歴史的経緯はこうした経済的・社会的生存条件による規定性で片付けるには過剰な複雑さと迷走に満ちているのだ。

このなかで下部構造による上部構造の規定性という「基本公理」が、最も雄弁に述べられている箇所がある。1849年5月28日に始まる立法国民議会内の対立構造の分析である。その時点では、与党の秩序党は異なる王家による「王政復古」を目指す正統王朝派とオルレアン派の連合体で、対する野党はモンターニュ派である。前者は「反動」、後者は「共和派」を代表し「永遠の人間の諸権利」を擁護する。しかしマルクスは、さらによく見ると、「これらの薄っぺらな外見は消え去る」という。たとえば秩序党の二大派閥は単に支持する王家の違いではなく、正統王朝派は大土地所有ブルジョア、オルレアン派は財界、大工業、大商業などの市民的なりあがりのブルジョアに対応している。(ちなみに彼らに対する野党の「社会=民主党」は新たに加わった労働者階級出身の数名を別として、従来のモンターニュ派と変わるところはなく、商店主などの小市民を代表していたという。)

したがってこれらの分派を区別するものは、いわゆる原理ではなく、それぞれの物質的生存条件、二つの所有の種類の違いであり、都市と農村との昔からの対立、資本と土地所有との対抗関係であった。同時に、昔の記憶、個人的な敵意、悪い予感と希望、偏見と幻想、共感と反感、確信、信仰箇条、原理といったものが、彼らを一方のあるいは他方の王家に結びつけたということを、誰が否定するだろうか? 所有の、つまり生存条件の異なる形態の上に、独自に形作られた異なる感性、幻想、思考様式、人生観といった上部構造全体がそびえ立つ。階級全体が、自らの物質的基礎から、そしてこの基礎に対応する社会的諸関係から、それらを創造し、形作る。それらは伝統と教育を通して個々人に注ぎ込まれるので、彼は、それらが自分の行為の本来の動因であり出発点をなすものだと思い込むこともありうる。 (マルクス 2008: 46) 5

おっと待ってほしい。「所有の、つまり生存条件の異なる形態の上に、独自に形作られた異なる感性、幻想、思考様式、人生観といった」もの、「昔の記憶、個人的な敵意、悪い予感と希望、偏見と幻想、共感と反感、確信、信仰箇条、原理といったもの」、上部構造の内容をここまで広げてしまうと、個々人ごとのバリエーションがかなり出てきてしまうんじゃないか。共通の生存条件を生きていれば、それらまで結局は似通ったものになっているとでもいうのだろうか。まさか。 このように多岐にわたり複雑な「上部構造」を、もし具体的に細部にわたって記述し(それはほとんど一冊の文化誌と呼ぶべきもの以上になるだろう)、さらに、それを基盤となる物質的生存条件によって説明し尽くさねばならないとすれば、それは離れ業というしかない。誰もが同じ幻想を見、同じ仕方で考え、同じ人生観をもつのであればいざ知らず、個々の人間の脳神経系を通して出力される、幻想や思考や人生観に見られるバリエーション、それが言説空間で他のそれらと対抗し、淘汰されあるいは合成され、形を変えて転送される中でたどる運命をも考慮にいれるとすれば、それはほとんど不可能なプロジェクトである。

さらに、ある階級を代表する者たちが、その階級の物質的生存条件を共有していないことすらある。彼らが紡ぎ出す幻想や信条は、彼らの物質的生存条件に規定されているとすら言えないことになる。

民主派の議員たちはみな商店主であるか、あるいは商店主を熱愛している、と思い描いてもいけない。彼らは、その教養と知的状態からすれば、商店主とは雲泥の差がありうる。彼らを小市民の代表にした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らが頭の中で超えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派の議員たちが理論的に駆り立てられる、ということである。 (マルクス 2008: 50)

しかも、人々が生み出す「上部構造」には、大量のエラーやノイズやジャンクが含まれている可能性がある。マルクスが同じく上部構造としてとらえる政治的行動をとっても、それは計算違いやエラーに満ちている。マルクスによるとこの時期のモンターニュ派の政治的動きは、ただただエラーに満ちていた。

モンターニュ派が議会で勝利したいのなら、武器を取れと叫んではならなかった。議会で武器を取れと叫んだとしても、街頭では議会でのように振る舞ってはならなかった。平和的なデモンストレーションを本気で考えていたとしても、それが戦闘的に迎えられることを予想しなかったとすれば、ばかげていた。現実に戦うつもりだったとすれば、戦うために不可欠な武器をもたずにいたのは、風変わりなことだった。しかし、小市民とその民主的な代表者の革命的脅迫は、敵をおびえさせようとする試みにすぎなかった。そしてそれが窮地にはまり込んで抜け出せなくなると、それがすっかり信用をなくしてしまって脅迫を実行せざるをえなくなると、目的のための手段だけは回避し、いっしょうけんめいに負ける口実を手に入れようとする、といういかがわしいやり方で、おこなわれるのである。 (マルクス 2008: 52-53)

もし上部構造が下部構造に「規定」されており、それを「反映」するものであるというのなら、それが帰結するものがエラーであるというのは、どういう意味だろう。少なくとも、マルクス自身がもはや両者の関係を単純な因果関係とは捉えていない。

この同じ理由でグラムシは、くだんの「史的唯物論の公式」を否定するにいたった。彼は下部構造を歴史的な過程の「ただなかで」特定することがそもそも不可能であることを指摘する。

構造を任意の時点で静態的に(写真のように瞬間的な像として)特定することの困難さ。 実際、政治とは、任意の時点における構造の発展の傾向の反映である。しかし、これらの傾向が実現されるとは限らない。構造の局面は、その発展の全過程が終わったのちにしか、具体的に研究・分析することができず、その発展過程のただなかにおいては、仮説的にしかできないのである。しかも、我々が仮説を扱っているだけだということを、はっきり認めておく必要がある。 (Forgacs 2000: 191) 英訳

それゆえあらゆる行為が結果的にはエラーでありうる。そもそもエラーとは事後的に、つまりすべてが終わった後ではじめてエラーと判明する。それが行われるまさにその時点でエラーであるわけがない。彼は言う。

このことから言えるのは、特定の政治的行為は、支配階級の指導者たちの計算違いでありえるということである。議会や政府の「危機」を通じて歴史が発展するなかでのみ、あきらかになり、正され、乗り越えられる類の計算間違い。 機械的唯物史観は、こうした誤りの可能性を考慮せず、あらゆる政治的行為を、構造によって直接決定され、したがって、構造の現実的かつ恒久的な(達成されたという意味での)変更であるとみなす。 「誤り」の原理は複雑である。それは誤った計算に基づく個々の衝動に関係しているかもしれないし、特定のグループや宗派が指導的集団内でヘゲモニーを握ろうとする試み、おそらくは不首尾に終わるかもしれない試み、の現れである可能性もある。 (Forgacs 2000: 191) 英訳

ここからグラムシは有名な「歴史的ブロック」の概念に行き着く。

構造と上部構造は「歴史的ブロック」を形成する。つまり、上部構造の複雑で矛盾に満ちた不調和な集合体が、生産の社会的関係の集合体の反映なのである。 (Forgacs 2000: 192) 英訳

しかし上部構造が「複雑で矛盾に満ちた不調和な集合体」であることを認めたからと言って、あいかわらず構造(下部構造)がそれに反映される(それを規定する?)仕組みはまったく説明されていない。エラーの可能性を認めた瞬間に、あらゆるプロセスは決定不可性に満ちたものに変わる。エラーというのは、プロセスの各段階における偶然性、採りうる選択の偶然のばらつき以外の何物でもないからだ。あからさまな計算ミスに基づく行為は、相手側の正しい対処によって一定の結果を導くかもしれないし、そのミスをスルーしてしまうという相手側のさらなるミスに続き、さらに別の結果を導くかもしれない。そうしたことの連鎖が、どのような意味で下部構造に規定されているとか、反映しているとかいえるというのだろう。

マルクス、エンゲルスの洞察と因果性

それでは結局、マルクスとエンゲルスの下部構造が上部構造を規定するという着眼点は、まったくの見当違いということになるのだろうか。そうとも言えない。

すでに書いたように、『ドイツ・イデオロギー』のなかでマルクスらは「ある時代にはしかじかの思想が支配した」といった言い方がなされることがあることに触れている。「例えば、貴族支配の時代には名誉や忠誠などの概念が支配した、ブルジョアジーの支配期には自由や平等などの概念が支配した、などと」。しかしこうした言い方は、「思想を生産する諸条件や生産者たちに思いを至さない...つまり思想の基礎にある諸個人や世俗世界の状態を度外視」したものだと彼らは言う(マルクス and エンゲルス 2002: 114)。支配的な思想とは、「支配的な物質的諸関係の観念的な表現...つまり、ある階級を支配階級たらしめるまさにこの諸関係が思想として捉えられたものに他なら」(マルクス and エンゲルス 2002: 113)ず、「支配階級が自分の利害を社会全成員の利害として示す必要に迫られれば迫られるほど、ますますより普遍的でより包括的な形式をもつようになる」(マルクス and エンゲルス 2002: 114)のである。

封建的な土地制度のなかでの、恩賞と服従の経済的社会関係を考慮すると、こうした物質的諸関係が名誉や忠誠の観念を支配的な観念として生み出したというのも筋が通っているように見える。いくつかの社会の歴史において、実際にそうなっていることも確認できる。個々人のレベルで見ると、バリエーションばかりが見えるが、距離を置いて(時間的、空間的にも)俯瞰的に見れば、なにか一貫した上部構造のように見えてくるものがある?そして、経済的下部構造とこうした上部構造の間にやはり因果的連関があると考えたくもなる。

しかし前項での考察により、その因果関係がヒューム的な因果関係4ではありえないこともあきらかである。

例のごとく、予定していた以上にぐだぐだした議論になってきたが、この遠くから俯瞰したときに、あるいはすべてが終わったはるか後から眺めたときに、経済的下部構造とこうしたイデオロギーや観念との間に看て取れる連関を、どう捉えるべきか。それを安易に因果関係と見てよいのか、という問題だ。私は駄目だと思う。もう下部構造という言葉は使わないが、要するに特定の社会・経済的コンテクストのある特徴と、研究の対象としている当該社会のある特定のイデオロギーというか、ある言説空間でどこにいても看て取れるような信念体系というかを、因果的に説明するというのは、人類学でも広く見られる説明である。例えば、ある社会における妖術観念とそれを巡る実践の活性化を、当該社会が経験している植民地支配とかグローバル化とかによるものとして説明するみたいなやつだ。それらを反映しているくらいだったら、まだ可愛げがあるが、それらに対する人々の抵抗戦略だ、なんて言われたら、当の人々自身が目を白黒させようというもんだ。憑依にしても、近代化に対する応答だ、みたいな説明がされたりする。これらも、広いコンテクストとその内部の現象のあいだに、因果関係をほのめかす類の粗雑な議論である。

こうした俯瞰的眼差しの下で看て取れる関係性は、雑な因果的関係などではなく、もっと複雑に解き明かされる必要がある。

一見すると因果関係っぽく見える、だめだめ議論の例は、他の分野の同様な例で考えたほうがわかりやすいかもしれない。

たとえば乾燥した草原で、アカシアみたいな上の方に葉を茂らしている木々がところどころに見られるような環境に、キリンみたいな首の長い草食動物がたくさん暮らしているとしよう。つい、「こうした環境が、高い木の葉を食べることができる長い首をもったこのキリンみたいな草食動物を生んだのだ」などと言いたくなるかもしれない。まるでこうした環境が動物を生み出す原因であるかのように。しかしこれは一種の比喩的表現としては許容できるかもしれないが、因果関係の主張としてはダメダメだ。環境がキリンみたいな動物の首を太く長くさせる不思議な作用をもっていたわけではない。

もちろん、ご存知のように、生じる変化は生物が自らの子孫を作る仕組みをもっていることから始まる。ダーウィンの進化理論では、(1)種に属する個体は少しずつ異なる性質をもっており(変異がある)、(2)親の性質は子孫に受け継がれる、(3)性質の違いはその個体の繁殖成功度に違いをもたらす、その結果、繁殖に有利な性質は種全体に広まっていき、繁殖に不利な性質は消えていく、この3ステップが進化である。デネットによると、ダーウィンが発見した自然選択(natural selection)という、このプロセスは「アルゴリズム」、つまり「それを『走らせ』ないしインスタンス化すると必ず―論理的に―ある種の結果を生み出すことが当てにできる、一種の形式的プロセス」^algorithmに他ならない。

親の性質が子供に受け継がれるのは、遺伝子という自己複製子によってであることがその後、明らかになった。遺伝子のコピーは極めて正確なもので、コピー・エラーに対する修復の仕組みが常にはたらいている。その検閲をかいくぐってDNAの4つのヌクレオチドの連鎖パタンのどこか一箇所が書き換わって、そのまま複製されてしまうことが10億分の1くらいの確率で起こる。これが突然変異であるが、おそろしく稀な、ほとんど不可能といえるほどの珍しいこの出来事が進化を引き起こす。この超めったに起こらない出来事も、そのほとんどは自然選択によって取り除かれる。自然選択が受け入れた(つまり生じた変異が結果的に自らをより多く複製することに成功した)変異が、その種の成員のあいだに広がっていき進化を引き起こすことになる(Dawkins 1987: 177-178)。6

キリンの祖先の、木の葉を食べるオカピみたいな偶蹄目の動物に1200万年くらい前におきた、上記の恐ろしく滅多にしか起こらない、ほとんど不可能みたいな出来事が、たまたま頚椎の骨をほんの少し大きくし、首の筋肉をほんの少し強くするという変化だったのだろう。ほんのほんの少しだけ長くなった首は、他のオカピみたいな仲間よりも、少しだけ高い木の葉を食べ、ほんの少し多くの子供を作ることを可能にしたかもしれない。ほんの少し首の長いオスを選好するメスがほんの少し多かった偶然で、性淘汰も生じたのかもしれない。オスどうしが頭や首をぶつけ合って戦うのにも有利だったのかもしれない。こうしてこの同じタイプの変異がさらに稀に起こる都度、自然選択され、キリンのような動物になっていった。しらんけど。

このオカピ動物に起きたことをたくさんの時間が経った後で俯瞰的に眺めたら、まるでアフリカの草原の環境を構成する諸力や諸要素が、オカピ動物を、その環境に適した動物―キリンみたいな―に作り変えていったかのような見た目になっているというだけのことなのだ。おまけにこの変化には、必然的なところはなにもない。タイムマシンで時間を1200万年前くらいに戻して、リセットしてやり直したら、おそらく同じ進化はけっして起こらないだろう。それくらい珍しいほとんど不可能な偶然の重なりがもたらしたことだったので、同じことが二度とその通りに起こるとはとても思えないからだ。

下部構造と上部構造、そこに現れる意識形態にも、同じことが言えるのではないだろうか。さまざまな信念や、たまたま選ばれた(あるいはふと思いついたり、夢で見たり、啓示をえたりした)行動戦略や、指し手が、さまざまな利害や他者との協働関係のなかで、試みられ、せめぎあい、失敗したり、そこそこ上手く行ったり、相手にされなかったり、もっともらしく見えたり、多くの人々に転送されたり、その過程で変形したり、を繰り返す。こうした複雑な、その真っ只中では何が起こっているのかすら定かではないプロセスを経て、あとから見ると、その回顧的な眼差しの中で、その時どきにその言説空間のどこかで、特定の信念が支配的になっていたり、特定の「指し手」や戦略が広く共有されていたり、はっきりした対抗関係や亀裂を露呈させたりしていることに気づいたりする。それらの「意識形態」がまるで「下部構造」によって「規定」されたものであるかのように見えてしまう。そうしたことがあるのかもしれない。

環境と、その中でのオカピ動物の進化が、距離と時間を置いた者の目には、前者から後者への因果関係のように見えてしまう。しかしそれは、単なる見せかけの因果関係であり、実際にはオカピ動物に、環境とは独立に偶然に生じる変異が、その環境とインタラクトしつつ生存するプロセスの中で、変異→選択という単純なアルゴリズムの反復・累積を通じて固定、強化されていった結果であった。特定の歴史状況、物質的生存条件と、そのなかでの「意識形態」が一種の因果関係的規定性に見えたとしても、それも同様に、その歴史的状況とは相対的に自立して、偶然的に生まれ、転送され、変形されていく意識状態が、そこで受ける同様な自然選択的なアルゴリズムによって、その時々に見せる見え姿以上のものではないのかもしれない。

粗雑な疑似・因果関係の見かけに騙されることなく、そうした見かけを作り出すプロセスにもっと注目すべきなのである。

と、偉そうなことを言っても、私自身がそのことに気づいたのは、ずいぶん後になってからの話だ。私の2007年の論考がそれだが、そこでは、上のざっくりした議論よりはもう少しきっちりとそれを論じている。ただ、すでに行なったフィールドワークでは、そうした問題意識が欠けていたために、ここで述べたようなマクロなレベルでの疑似・因果関係の見かけの生成のプロセスを実証的に論じるには、圧倒的に不十分なデータしかない。残念。

というわけで、憑依の問題においても私が行える分析は、「言説空間において現に定着し、繰り返し転送され続けている信念や語り」が、実際に人々の実践をどのように方向づけ、それが人々の「世界経験」をどのようなものにしていくか、というマルクスがドイツ・イデオロギーで提唱したものとは逆の方向のものに限られてしまうのである。

参考文献

Dawkins, Richard. 1987. The Blind Watchmaker : Why the Evidence of Evolution Reveals a Universe Without Design. Norton. Dennett, Daniel C. 1995. Darwin’s Dangerous Idea : Evolution and the Meanings of Life. Tokyo : Simon & Schuster. Forgacs, David, ed. 2000. The Antonio Gramsci Reader: Selected Writings 1916-1935. New York, NY: New York Univ Pr. Wright, G. H. von. 1971. Explanation and Understanding. Routledge and K. Paul. マルクスK.. 1956. 経済学批判. Translated by 武田隆夫, 遠藤湘吉, 大内力, and 加藤俊彦. 岩波文庫. 岩波書店. ———. 1971. ルイ・ボナパルトのブリュメール18日. Translated by 村田陽一. 国民文庫. 大月書店. マルクスK., and エンゲルスF.. 1956. ドイツ・イデオロギー. Translated by 古在由重. 岩波文庫. 岩波書店. マルクスK., and エンゲルスF.. 2002. ドイツ・イデオロギー 新編輯版. Translated by 廣松渉 and 小林昌人. 新編輯版. 岩波文庫. Tōkyō: 岩波書店. マルクスK.ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[初版]. Translated by 植村邦彦. 平凡社.

注釈


1 私が高校時代に読んだものは岩波文庫の旧版、古在由重訳のもの(マルクス and エンゲルス 1956)だが、新たに同じ岩波文庫から出た廣松渉編訳・小林昌人補訳『新編輯版・ドイツ・イデオロギー』(マルクス and エンゲルス 2002)で読み直したので、そちらからの引用・参照である。
2 この「規定する」という日本語の意味は少し茫漠としているが、英訳では文字通り"determine"となっている。とすると、そこにははっきりと両者の因果関係が含意されていることになる。
3 たとえば『ドイツ・イデオロギー』では、同じ関係が、「現実に活動している人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される」、また「自分たちの物質的な生産と物質的な交通を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである」という言い方で述べられているのだが、具体的な因果関係の指摘としてはいささか、心もとない。
4 「ヒューム的 Humean」はウリクト(von Wright)の用語。原因・結果の関係は、経験的(empirical)かつ事実的(factual)であり、根拠(ground)と帰結(consequence)の関係とは区別される。原因と結果は、論理的に互いに独立であるのに対し、後者は概念的で論理的な関係である。ウリクトは、この区別がヒュームの因果理論の最も重要なポイントだとする(Wright 1971: 93)。原因・結果の関係は類的現象(generic phenomena)が規則的に時間的に継起することである(Wright 1971: 34)。
5 私が当時読んだのは村田陽一訳の大月書店の国民文庫版(マルクス 1971)だが、今回引用にあたっては平凡社刊の初版の植村邦彦訳(マルクス 2008)のキンドル版を用いた。
6 このパラグラフはほぼドーキンズの受け売りなのだが、残念ながら私の理解力は必ずしもドーキンズの議論を完全に正しく理解はしていないかもしれない。