応用編マニフェスト

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文化人類学を「自然化」するとは?

[2020-10-18 13:00]民博「人類学の自然化]研究会

はじめに

本共同研究の代表者である中川氏は、「文化人類学の自然化」について、次のように述べている。その目的は「人類学を他の自然科学(とりわけ心理学と生物学)と横にならぶ自然科学の一つの部門として成立させる」ことであり、まず手始めに「人類学独自のことば遣いを自然科学のある部門(とりあえず心理学と生物学)の言葉へと翻訳する可能性」を考えることであると。中川氏はそこで「還元」ということばを使っているが(註1)、自然化を単に文化人類学を生物学あるいは心理学に「還元」することだというと、社会生物学をきっかけに起こった、当時の自然科学的な傾向性をもった論者たちと、70年代に理論的な主流となりつつあった解釈学的人類学との熾烈な論争を知っている(私のような)古い世代の人類学者には、一種暴言に響いてしまいかねない。その論争の中で「文化」や「社会」を生物学に還元しようとする試みは不適切であると、多くの人類学者は判断した(はず?)のであるから(see Sahlins 1976、浜本 2012) 。もちろん、文化人類学の自然化は、けっしてこの古い論争を蒸し返そうとするものではない(と思う)。

余計なことかもしれないが、あらぬ誤解を前もって解いておくために、ここでいう文化人類学の自然化が、(私にとって)「何でないか」を一応はっきりさせておこう。 第一にそれは、物理学であれ化学であれ、もちろん心理学であれ、生物学であれ、既存の自然科学の用語や方法をそっくりそのまま人類学に適用するということではないだろう。ニュートンの運動方程式で人類学の問いに答えるとか、生物学的遺伝の理論によって文化を説明するとか、考えただけでも無謀というしかない(ほんとうか?)。言うまでもないことだが、70年代を賑わせた文化人類学内の社会生物学をめぐる議論の争点の一つはこれだった。

第二に、問題的にはより根深いところに関係しており、それ自身はいささか古めかしい言い方になるが(用語は[Windelband 1998(1894)]によるもの)、文化人類学の自然化は、「法則定立的(nomothetic)」な方法をとるという意味での自然科学になろうとすることでは、おそらくない。人類学的言説の中核に位置する民族誌という叙述形式は、歴史学と同様、法則定立的なやり方があまりなじまず、どちらかというと「個性記述的(idiographic)」な側面が強いと言われてきた(see Evans-Pritchard 1951:61, 1962:152)。先の19世紀的区別でいうなら、その方法において、文化人類学はどちらかと言えば「自然科学」というよりは、「文化科学」「精神科学」の側にいるということになる。この19世紀的二項対立の枠組みが、その後も、文化人類学を自然科学とは相容れないものととらえる根強い見解の背景にある(のではないかと思う)。フィールドワークを通じて見聞し記録するあらゆることについて、社会的事象や文化のレベルで普遍的な法則的連関が経験的に見いだせることなど、めったに(ほとんど)ない。どう考えてもいまさら法則定立的な学問にはなれそうな気がしないのである。実験なんて、そもそも無理な話。数量化とか、できる場面があれば、もちろん喜んでやりますよ。でも、それくらいで自然科学の顔はできないでしょう。文化人類学(その限りにおいて少なくとも歴史学も)は、どう転んでも、自然科学なんかになれっこないように見える。これは困った。

「自然化」にとっての障害

では、いったいどう「自然化」しようというのだろうか。第一の点は、実はそう大きな問題ではない。自然科学どうしでも、他分野の方法や理論をそのまま別の分野に適用するといったことは普通できない。このこと(つまり他の部門の方法や理論をそのまま使えないこと)自体は、文化人類学が自然科学の「独立した一部門」になることを不可能にするものではない。社会生物学が文化や社会を理解する上であまり良いやり方でないことは繰り返し示されてきた(たとえば[浜本 2012](註2))が、それは単に文化人類学が生物学になれない(逆もまたしかり)ということしか意味していない。なる必要もない。 厄介なのは第二の点である。19世紀以来、手を変え品を変え反復されてきたこの二項対立図式を受け入れてしまうと、文化人類学(および他の人文諸科学)はどうしようもなく、非・自然科学の領域に閉じ込められてしまうからである。回り道にはなるが、この二項図式そのものについて、考え直すところから始める必要があるのかもしれない。80年代、90年代におそらく主流といってよかった「解釈学的」人類学は、その呼称そのものが、この二項対立との密接な関わりを物語っており、解釈学的人類学を反省的に捉え直すうえでも、このあたりでこの二項対立そのものを見直す作業をやっておくのも良いかもしれない。それは中川氏のいう「自然科学というものを変化・発展させる契機」にもつながるかもしれない。 ヴィンデルバントが上述の違いーー法則定立的/個性記述的ーーによって自然科学と文化科学との線引をしたのは19世紀の末であったが、この区別は、ミルの自然科学/道徳科学(moral science)の区別、それを引き継いだデュルタイの自然科学/精神科学(デュルタイにとって後者、歴史的社会的現実に対する研究を方法的に基礎づけるものこそが解釈学であった)の区別を、研究する対象の違いよりは研究方法の違いによって区別しようとするものであった(註3)。 こうした一連の二項図式は、19世紀における自然主義と反自然主義の主張の対立として生まれてきた。

実証主義

一方ではコントによる明確に自然主義的な主張があった。それによると社会/人文科学(当時はそういう呼び名ではなかったが)も科学である以上、当然自然科学と同じ原理に従うべきとする主張である。それは実証主義の原理であり、ヴィンデルバントが法則定立的と述べたものにほかならない。その考え方のもとにあるのはヒュームの理論である。それによると世界は経験可能な所与の原子的事象からなりたっており、事象相互の一定不変の随伴関係、つまりそれらの生起の規則性は経験を通じて与えられる。この経験的規則性が因果法則にほかならない。法則は、具体的事例によって確証(反証)される。科学とはこのようにして因果法則を打ち立てる活動にほかならない。この「自然主義」の主張は、後に20世紀なかばにヘンペルとオッペンハイムによって科学的説明の被覆法則モデル(covering law model)あるいは演繹的法則的説明モデル(deductive-nomological model)として定式化されている[Hempel & Oppenheim, 1948](註4)。以下がそれだ。

ある現象E(「被説明項(explanandum)」)を、前提条件C1,C2,…,Ckおよび一般法則L1,L2,…,Lr(合わせて「説明項(explanans)」)が説明するのは、以下の4つの条件が満たされる時およびその時に限る。

  1. C1,C2,…,Ck とL1,L2,…,Lr の連言からEが論理的に導出できる。

  2. C1,C2,…,Ck のみからはEを導出できず、少なくとも一つの一般法則が必要である。

  3. 説明項は経験的内容を持っている。

  4. 説明項は真である。

具体例として、ヘンペル自身の用いた有名な例([Von Wright 1971:12]によるパラフレーズ)をあげよう。

E:私の車のラジエーターは夜のうちに破裂した

C1~C5:

  1. タンクは水でいっぱいに満たされていた

  2. 蓋はきつく閉められていた

  3. 不凍液は添加されていなかった

  4. 車は裏庭に放置されていた

  5. 夜間の気温は思いがけず氷点下に下がった

L1:液体は凍ると体積が膨張する

C1~C5かつL1からEが演繹できる
(厳密に言うと、タンクの強度とか、膨張による圧力増加の割合についての法則とか、まだまだいろいろ付け加えなければ、これだけでは「論理的」に導出できないが、単なる例なので、こんな感じとわかればよいのだろうか(註5))。

ともかく、科学的説明とはこうした形をとらねばならないというわけである。単純明快でバカバカしいほど面白みもないが、非のうちどころもない、みたいに見える(註6)。ある現象を説明するために、一般法則的言明が、中心的な役割を演じるというのが、自然主義の構図だったのである。

解釈学

前述の二項対立の、もう一方の項はさまざまな微妙に異なる立場を含んでいるが、ウリクトに倣って「解釈学」と総称しておくことにしよう([von Wright 1971:5])。上述の実証主義に対する反動として現れた立場である。ウリクトは、ドロイゼン、デュルタイ、ジンメル、マックス・ウェーバー、ヴィンデルバント、リッケルトらの名を挙げている。「これらの思想家は全て、実証主義の方法論的一元論を拒否し、また厳密な自然科学こそ、現実を合理的に理解する際の唯一最高の理想であるという見解を、拒絶する。彼らの多くは、物理学や科学や生理学のような、再現可能で予測可能な事象の一般化をめざす科学と、歴史学のような、対象の個性的で一回的な特質をとらえようとする科学との相違を、強調する」([von Wright 1971:5]。イギリス人類学の内部でも、初期の段階から自然主義と反自然主義の対立が観られた。エヴァンズ=プリチャードは自分たちが、人類学を自然科学の一種であるとみなす「この国の大部分の同僚たち」(ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義の一派がそれにあたる)とは異なる立場にたつことを、早くから宣言していた。彼によると人類学は、「自然科学によりは、歴史学のある分野ー社会史や制度史、観念の歴史…ーにはるかに似て」いるのであり、「より高い抽象化のレベルで総合し、また比較と一般化をよりあからさまに目指しているという違いはあるものの、人類学は歴史学と同じ記述的統合をその方法としている」([Evans-Pritchard 1951:60-61])(註7)。

ここでは特にふたりの理論家をとりあげて、この時代の反自然主義側のロジックを検討しておこう。ひとりは50年代に、人類学内部の相対主義と反自然主義を加速させる議論を提供し、その後の多くの人類学者に影響を残した分析哲学者ピーター・ウィンチである。彼経由で、後期ウィトゲンシュタインの議論にはじめて触れることになった人類学者も多いのではないだろうか(私も)。もうひとりは同じく50年代に歴史学の分野で、反自然主義の立場をクリアカットに表明したウィリアム・ドレイである。エヴァンズ=プリチャードらの一部の人類学者が早くから予感していたように、民族誌における出来事の記述と説明の重要性は、実証主義的な出来事の説明に対する違和感の源泉であったが、ドレイはそれを最も明快に提示した最初の人物のひとりであった。

ウィンチと人類学的他者理解の可能性

意味づけられた世界における意味づけられた行為

ウィンチは『社会科学の理念とその哲学との関係』[Winch 1990(1958)]において、社会科学における説明は「自然科学において提供されている種類の説明とは論理的に両立不可能」(Winch op. cit.:72)だと言い切っている。今、改めて読み直すと、本書の議論は必ずしもすっきりしたものとは言えない。私なりに整理してみる。

  1. 全体の三分の一近くが後期ウィトゲンシュタインについてのウィンチ流の紹介となっている。特定の言葉に一定の意味があるという事実が、その言葉が「同じ」仕方で使われていること、他の仕方ではなくある仕方を当然のこととして続けること、それに他の人が当然のこととして同調でき、彼のその言葉の使用を把握できること、のなかにあることを、ウィトゲンシュタインは「規則に従う」という概念の考察を通じて明らかにした。これは、もし彼が違った仕方でその言葉を使う、つまり誤りをおかしたとすると、それを他の人は指摘することができる、そうした暗黙の基準が、ある共同性の内部に所与として存在していることを意味している。この共同性のなかに暗黙の同意として成立している「われわれのやり方」が、ウィトゲンシュタインの言うところの「生の形式(生活の形式、生活形態、生活の様式などさまざまな訳語がある)form of life」である。複数の異なる「生の形式」があることが想定されている。この後期ウィトゲンシュタインの議論がウィンチの考察の土台になっている。

  2. ウィンチは、人間は言葉=概念を通じて世界を経験しているというところから出発する。自然科学においては、研究対象である「世界」と、それを記述する「言語」とは独立したものとして切り離されている。「世界」の方は経験的に、つまり実験や観察を通じて直接にアクセスすることができるとされている。それに対しウィンチは、人間にとっての世界がそれを記述する言語とは独立していないこと、つまり両者が不可分であることを主張する。

 「実在の領域に属しているものについてのわれわれの観念は、われわれが使用する言語の中に与えられている。われわれが持つ諸々の概念が、世界についてわれわれ自身が持つ経験の形を決定するのである。世界について語るとき、「世界」という表現が現に意味しているものについてわれわれは語っているのだ、という当たり前の事実をあらためて思い出してみるのも良いかもしれない。われわれは諸々の概念を用いて世界について考えているのであって、これらの概念の外側に出るすべなどない。われわれにとって世界とはこれらの概念を通して提示されるところのものにほかならないのである。」(Winch op.cit.:15)

  1. 実在を概念を通じて特定の仕方で理解すること、世界についてのそうした理解をもつことが、社会的世界における出来事の経緯を左右する最大の特徴である。人間は、「自分がどうふるまうかを、自分たちの周りの世界がどんなふうになっているかについての認識に基づいて決めている」(op.cit:21)とウィンチは言う。さらに「人と人との社会関係には、彼が実在について持っている観念が深く「浸透」しているというだけでも十分ではない。社会関係は実在についての観念の表われなのである。」(op.cit.:23)

  2. こうした世界でなされる社会的行為もまた概念=意味と不可分に結びついている。というよりも、社会的な行為とはすでにして意味づけられている行為なのである。たとえばウィンチは、特に明確な動機や理由もなく、ただ惰性で(両親や友人たちがそうしているから、とすら意識して考えることなく)労働党に投票する男を例に挙げる(op.cit.:45-49)。このように主観的な意味を一見欠いていてさえ、この行為には「投票する」という明確な意味がある。彼は「単に紙切れに印をつけ」ているだけではない。さらに、「それはゲームでの一手を指しているのでも、宗教的な儀礼の一部での所作でもない」(op.cit.:49)。(いうまでもなく、人が以前からそうした行動を繰り返してきて、そこから後に「投票する」という概念が生じたなどというわけでもない。そもそも投票という概念がなければ、人々が紙切れに印をつけて箱の中に入れていくという行為が行われたとは思われない。)何がある特定の行為を「投票」するという行為にするのかは、投票とは見なしえない行為とそれとを区別する暗黙の基準によっており、それゆえその行為はウィトゲンシュタイン的な意味での「規則に従う」行為である。彼の行為が「投票」という意味を獲得するのは、彼の所属する共同性の内部でそうした基準にのっとって、それが「投票」として通るからである。こうした暗黙の基準は必ずしも明示的ではなく、「生の形式 form of life」のなかに非反省的に所与として受け入れられている基準である。

  3. 彼はまた別の言い方で、社会関係や社会的出来事についての概念は、そうした関係や出来事に対して「内的」な関係にある、内在的であるという。「投票」の概念と、その概念のもとで実際に行われる出来事との関係は内的関係である。ウィンチは別の例を使ってこのことを説明する。たとえば、上官の「かしら右!」の号令で、兵士たちが一斉に右を向く。この出来事を指す概念「命令と服従」は、この出来事にとって内在的である。雷鳴の轟という出来事が、「雷鳴の轟」という概念とは独立に存在する(外的関係)のとは対照的だ。電気的嵐と雷は、人間がそれらについての概念を形成し、それらと結びつけるはるか以前から存在していた。しかし、人が命令と服従という観念を形作るようになる以前に、命令を出したりそれらに従ったりする行為をずっと行っていたと想定するのはナンセンスである。そういった振る舞い自体が、そうした観念を彼らが持っているという事実の表れ以外のなにものでもないからである。(op.cit.:125)

  4. 社会的行為の相互関係も内的関係である。上の例を用いて言えば、上官の「かしら右!」という発声と、兵士たちの頭が一斉に右を向くこととの関係も、もちろん概念的関係、すなわち内的関係である。「もし人間同士の社会的関係がそれらの観念の中にそして観念を通じてのみ存在するのだとすれば、観念どうしの関係は内的関係であるので、社会的関係も必然的に一種の内的関係であるということになる。」(op.cit.:123)上官の号令の音量の凄まじさが、兵士たちの頭を回転させたといった、外的な因果関係ではない。兵士たちは、上官の叫びの音圧、その他に反応しているのではなく、その意味に応じた行動をしている。「社会的相互行為は物理的システムにおける力どうしの相互作用によりは、会話における概念の交換になぞらえたほうが、より実り多いと言えよう。」(op.cit.:128)(註8)

  5. 人間についての経験主義的な説明では、理由や動機や意図はしばしば行為の「原因」であるかのように(あたかも外的関係であるかのように)語られるが、ウィンチによるとこれも誤りである。理由や動機も行為と内的な関係にたつ。図書館で調べ物をしたいという「理由」で講義を休講にしようといった場合、私は図書館で調べ物をしたいという欲望から、自分の休講するという意図を推測する必要はない。誰かが石を投げたという事実とガラスが脆いという事実から、グラスが今にも割れるだろうと推測するのとはわけが違う。私は休講という自分の未来の行動についての自分の予測の正しさの証拠として、図書館で調べ物をするという理由を提出しているわけでもない。それは単に私の行為を正当化するものになっているのである(op.cit.:81, ただし事例はより日本でも通りそうなものに変更してある)。「理由」の場合とは違って、人の行為の「動機」が問題とされる場合には、正当化というよりはむしろ非難にしばしば結びついている(ウィンチによると)が、いずれにせよ、理由や動機に言及することは、「行為をわれわれの社会で周知の行動モードの用語によって了解可能 intelligible」にし、それを「コンテクストにふさわしい配慮によってなされたもの」として示す、つまり、筋のとおったものにすることなのである。「人の行為は、これら(理由や動機等々)からまさにその意味を導出する」(op.cit.:82)。

以上の、大雑把な要約を、さらに短くまとめるならば、人が生きる世界のあらゆる出来事や事物は、諸々の概念を通じて経験されており、人がある概念(言葉)を他の人々と同じ仕方で使っているかどうか(ある概念の使い方の「規則」に従っているかどうか)が判断される諸々の基準は、人々の生きる社会の固有の「生の形式」の内側にある。こうした基準と規則が、社会の成員のそれぞれの行為に「意味」を与え、社会関係や相互行為やそこでの諸々の出来事に内在的な意味を与える。当然そこにはある規則性が現れるかもしれないが(上官が「かしら右!」と叫ぶと、ほぼ必ず兵士たちの頭が右に回転する、等々)、その規則性は、自然科学におけるそれとも、単なる統計的な規則性とも異なる、論理的な関係(概念的な関係)である。それは未来の出来事を「予測」するためのものではなく、出来事を了解可能なものにするつながりである。万有引力の法則(規則)に従い損なうことなどできないが、生の形式の内側に発する規則は、まさに従い損ないうることが前提であるような(それとの区別においてのみ規則であることがはっきりと示されるような)規則であり、必然的な未来の予測をそれらから引き出し難い。あるジャズ・ミュージシャンが、これからジャズはどこに向かおうとしていると思うかと尋ねられて「それがわかってたら、俺はとっくにそこにいるよ」と応えたというエピソードを引きながら、ウィンチが強調するのも「予測 prediction」が社会科学的理解にはいかになじまないかである。社会科学における理解は、自然科学における説明ではなく、出来事を了解可能にする「解釈」なのである。(op.cit.:94)

かくして、ウィンチは社会科学においては、自然科学における実証主義的な方法論は不適切であると結論づける。ミル流の経験主義は通用しない。ミルによると、経験される規則性から法則定立へというやり方において、社会科学(ミルによると「道徳科学 moral sciences」)における説明も、自然科学と根本的には同じ論理構造に従うことになる。しかし、上で見てきたように、「問題となるのは経験的なものではまったくない。それは概念的である。経験的な研究によって真実がどうなっているかを示せるかという問題ではなく、何を語れば筋が通るのかということについて、哲学的分析が何を明らかにできるかという問題である。…人間社会という概念は、自然科学で提供される類の説明とは論理的に両立しえない概念の図式に関係しているのである。」(op.cit.:71-72)

ウィンチ:相対主義的帰結と通約不可能性

以上が、社会科学の自然化の不可能性についてのウィンチの議論のあらましであるが、その議論の中心をなすのが、人間社会の研究は、対象社会の「生の諸形式」を内在的に理解することからなるというものである。人々の社会的行為は当該社会の「生の形式」に内在する規則(同定・分別の基準)によってその意味を与えられている。何が「同じ」行為として通り、何がそうでないかは、そうした暗黙の基準・規則によっており、外部の観察者のもつ、何を同じとし何を異なっているとするかの基準をそこに適用することは誤りである。この点で、それは自然科学の方法論とは両立しえないのである。

「社会学者が研究しているのは…人間の活動であり、それゆえ規則に則って遂行されている活動である。そして、その種の活動に関連して、何が『同じ種類の行為』にあたるのかを特定するのは、社会学者の探求を支配している規則ではなく、これらの規則のほうなのである。」(op.cit.:87)その探求の中では、研究者と研究対象の人々との関係も当然自然科学におけるそれとは異なってくる。たとえば宗教を研究しているのであれば、「何が同じ行為にあたるのかの判定、それゆえ彼が行う一般化が、宗教の内部に由来する基準に基づくものであるとすれば、宗教活動の従事者に対する彼の関係は、もはやたんなる観察者と観察される者との関係ではありえない。」(ibid.)職人が実践している技がいかなるものであるのかを学ぼうとしている、見習い職人にむしろなぞらえるべきものだということになる(op.cit.:88)。さらに「彼が行ういかなる反省的理解も、それがいやしくも真正な理解であろうとするなら、参与者(当事者)自身の非反省的理解を必然的に前提としたものでなければならない。」(op.cit.:89)

これは人類学者にとっては、きわめて馴染み深い立場である。自分たちの文化とはかけはなれた異社会を研究する人類学者は、対象社会を「現地人の視点から」内在的に理解しようと努めている。そのためには、どのような行為があり、それがどのように他の行為から区別され、どのように相互に連関しているのか、それを特定する対象社会の内側の判別基準を、それぞれの状況において把握するように務めねばならない。実際、これは多くの人類学者が現に実践していることにほかならず、この主張を受け入れることに大きな困難はなかった。やっかいなのは、この主張には他の2つの帰結が伴い、ウィンチの主張をめぐるその後の議論や論争がともすればこちらを中心に進んだことである。世界の複数性が含意する「相対主義」と、「通約不可能性」がそれである。

世界の複数性と相対性

ウィンチの主張は、それぞれの個別の「生の形式」に内在する個別の判別基準をもった、複数の世界が存在するという、世界の複数性の主張と表裏の関係にある。ウィンチは、行為や出来事の意味付けに関わる基準だけでなく、より抽象的な合理性や、論理性、了解可能性についても、異なる基準を持った複数の世界を当然のように想定している。

論理の規準は神からの直接の賜物などではなく、生き方 ways of living すなわち社会生活の様式 modes of social life から生じ、またその文脈においてのみ了解可能である。論理の基準は、生の様式そのものに適用することはできないということになる。例を挙げると、科学はそうした生の様式の一つであり、宗教もまた科学とは違った様式の一つである。それぞれが固有の了解可能性の基準をもっている。科学、あるいは宗教それぞれの内部の諸行為については、それらが論理的であるとか非論理的であるとか、言うことができる。たとえば、科学では、適切に実施された実験の結果にしばられることを拒絶するのは非論理的である。宗教においては、自分の力が神に対抗しうると考えることは非論理的だろう。だが、科学の活動や宗教の活動それ自体を指して、それが論理的だとか非論理的だとか言ったりすることはできない。どちらも無論理的なのである。(op.cit: 100-101)。

これはきわめて強い相対主義的主張であり、その後いわゆる「合理性論争」として人類学をも巻き込んだ哲学的論争を刺激した(e.g.,[Wilson ed.,1970], [Hollis & Lukes eds., 1982])。

通約不可能性

『社会科学の理念』で表立って主張されているといえるのは、内在的理解の必要性と、世界の複数性・相対性のみである。ウィンチ自身がはっきりと複数世界の間の通約不可能性を主張している箇所はない。ウィンチの主張は、特定の社会における出来事や行為の理解に対しては、外部(分析者)の基準を適用してはならないというだけのものである。しかし多くの論者は、何かを理解することが自分たちの言語と基準を対象に適用することにほかならない以上、この主張は、異なる世界は結局理解できないという帰結につながると判断したように見える。少なくとも論理的には個々の世界を横断する共通の基準、尺度が存在しないという主張、つまり通約不可能性、比較不可能性を含意していることは明らかだと思われた(註9)。

これは人類学にとっては大問題だった。人類学的他者理解の不可能性を帰結するかのように思われたからである。同じく後期ウィトゲンシュタインに依拠し、人類学を批判的に位置づけなおそうとしたニーダムのような学者は、この帰結を大真面目にうけとめて長大な考察の末に「人間の経験に関する唯一の理解可能な事実とは、それが理解不可能であるということである」(Needham 1972:246)と結論づけることになったし、エヴァンズ=プリチャードも「社会人類学にはたった一つの方法しかない。比較である。そしてそれは不可能である。」と述べたと伝えられている(註10)。もしこの通約不可能性を字義通りにとるとすれば、ウィンチの主張する内在的な理解が(当の社会の一員になってしまうという仕方以外では)不可能だということになるし、仮にそうして身につけた理解であるとしても、それらを再び元いた社会の人々にどうやって伝えたら良いかもわからないということになってしまう。

その後の人類学の歴史を考えると、この2つのウィンチの主張の帰結と思われたものは、擬似問題に過ぎず、結果的にはそれらに拘泥することはあまり得策とは言えなかったことがわかる(註11)。そもそも、どんなにそれが原理的には不可能なはずだと言われたところで、人類学者たちは現に自分たちの社会とはかけ離れた多くの社会において、そこそこ他者理解に成功してきていた。もちろん完全な理解、絶対的に正しい理解を手に入れたとは誰も考えていない。そもそも完全な理解ということで何を意味しているのかも不明だ。しかし、現地の人々の語りや説明、出来事の流れやその結末について、現地の人々と同程度にそれらを了解可能なものとして追うことができ、そこでそれらの語りや出来事の流れに特に顰蹙を買ったりすることなく参入する程度には、たいていは成功してしまうのである。おかしな結論を出してくる理論は、どんなに理にかなっているように見えても、どこか間違っている。ただこうした実用的に健全な他者理解がどうして可能なのかについては、かならずしも明らかではなかった。

『未開社会を理解すること』

ウィンチのいう内在的理解がどのようにして可能となるのか、その手がかりは『社会科学の理念』のなかにも、部分的には示されているが、それがよりはっきりと分かるのは、『社会科学の理念』を補足する意味をもった1964年に出版された論文『未開社会を理解すること』においてである。

この論文は、文字通り文化人類学における他者理解の事例ーーエヴァンズ=プリチャードによるザンデの妖術をめぐる言説と実践についての研究、妖術研究の金字塔ーーを基本的には彼の推奨する異文化の「内在的理解」の成功例に近いものとしてとりあげている。よく知られているように(少なくとも人類学者のあいだでは)、エヴァンズ=プリチャードは、ザンデの妖術をめぐる観念と託宣のシステムが論理的に首尾一貫した体系をなしていることを示し、それらがザンデの人々の問題解決の実践ーー問題を理解し、それに対処する指針を与えるーーと緊密に絡み合っていることを、見事に描き出した。西洋人の目に齟齬と見える「現実」とのずれも、その体系の語りの内部に吸収され、個別の事例に関してザンデ人自身が抱く懐疑ですら、その体系の内部の言葉でしか語り得ないため、彼らの思考様式そのものを転覆させることにはつながらないのだとエヴァンズ=プリチャードは言う。体系の内部の語りは、ある種の柔軟性すら具えているのだ。

「この信念の蜘蛛の巣の中では、あらゆる撚り糸はすべての他の撚り糸にささえられていて、ザンデ人はそこから抜け出すことができない。なぜならこれが彼らが知っている唯一の世界であるからだ。この蜘蛛の巣はけっして外から彼らを取り巻いている外的な構造物ではなく、彼ら自身の思考の網の目そのものであるため、それが誤っているなどとは考えられないのである。それでいて、その信仰は完全に固定されたものではなく、状況の違いを受け入れ、経験的観察や懐疑さえをも許容するだけの、変異性と振幅が具わっている。」([Evans-Pritchard 1937:194-195])

このように述べる点で、エヴァンズ=プリチャードはウィトゲンシュタインとほとんど同じ問題に別の方向から関わっているとウィンチは指摘する。『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは、あたかもすべての「言語」が基本的には同じ種類のものであり、それが「実在」と取り結ぶ関係も同じ種類のものでなければならないかのように語っていた。それに対して、エヴァンズ=プリチャードは、一方の言語の中で表現できることの多くが、他方の言語にはその可能な対応物をもたないほどに根本的に異なっているかのように見える2つの言語に直面しているのだとウィンチは言う。「それゆえエヴァンズ=プリチャードが『哲学探究』における後期ウィトゲンシュタインに近い立ち位置に向かっていくのかと期待してしまうほどである。」([Winch 1964:313])

しかし、そうはならなかった。エヴァンズ=プリチャードがウィンチの目に未だ十分に徹底していないように見える点はここにある。「エヴァンズ=プリチャードは実在に関する2つの異なる概念の違いを解明したことで満足しない。さらに進んで、われわれの実在についての概念が正しく、ザンデ人のものは間違っていると言いたいのである。」(ibid.)たしかにエヴァンズ=プリチャードは「彼らの原因についての観念は一般に客観的な実在からはかけ離れている」(Evans-Pritchard op.cit.:495)といった言い回しを用いているし、別の論文では、科学的概念は単に論理的であるだけでなく、客観的実在と合致しているが、ザンデの妖術の概念は、論理的ではあるが非科学的であると言ってはばからない([Evans-Pritchard 1935])。ウィンチはこれを問題にする。エヴァンズ=プリチャードは「科学的なるものを『客観的な実在との合致』ということで特徴づける点で、…決定的に間違っている。…(観念を)独立した実在的なるものによってチェックするというのは、なにも科学に固有のことではない。問題は、…われわれはともすれば科学を、他の言説様式の信頼度を測るパラダイムとして採用しがちであるという点なのである。」(op.cit.:308) このように確かに限定付きではあるものの、ウィンチはエヴァンズ=プリチャードの仕事を彼が推奨する異なる世界の内在的理解を与えた著作として高く評価しているのは事実である。

これが意味しているのは、ウィンチは、固有の「生の形式」に立脚した、独自の論理性、合理性、真理の基準をもち、さらに実在のあり方に関してすら異なる複数の世界の存在を当然のこととして前提とし、それぞれは内在的に理解されねばならないとしつつも、これらの帰結であると思われがちな、通約不可能性にはほとんど拘泥していないということだ。これほどまでに異質なザンデの文化ですら、現に内在的に理解可能なのであるから。しかしどのようにして?

『社会科学の理念』のある箇所で、ウィンチは異文化の理解(あるいはむしろ、それについての誤った説明)について論じるなかで、ウィトゲンシュタインの「われわれは、日常使用している概念の用法に関して哲学的困難に陥るときには、ちょうど、異文化からもたらされた見知らぬものに直面した未開人のようなものだ」という発言を引きつつ、それをひっくり返した系としてそれを述べ直している。「異文化を誤って説明しようとしている社会学者は、自分自身の概念の用法に関して困難に陥っている哲学者のようなものなのである」と(Winch 1990(1958): 114)。異文化つまり異なる独自の「生の形式」の内部の実践を理解する際には、むしろわれわれ自身の概念の用法の問題を主題化し、それを解決する必要があるというのだ。

『未開社会を理解すること』においては、それはより明快に述べられている。ザンデ社会における呪術を理解する場合、「まず強調すべきは出発点においては『われわれ』の方にはザンデの呪術に当たる類似したカテゴリーがないということである。ザンデのカテゴリーを理解したがっているのがわれわれである以上、重荷を負うべきはわれわれの方なのであり、われわれ自身の科学/非科学という出来合いのカテゴリーに当てはめることに執着するのはやめて、ザンデのカテゴリーを収容する余地をつくるべくわれわれの理解の方を拡張せねばならないのである。」(Winch 1964: 319)

もちろん、求められている理解を得るためには、「ザンデのカテゴリーをわれわれ自身のすでに理解済みのカテゴリーとの関係で眺めるということが不可欠である」が、「われわれの思考のどのカテゴリーが、ザンデの慣行の理解を可能にしてくれる準拠点となってくれるのかに、まえもって手がかりが与えられているわけではない」、とウィンチは付け加える(ibid.)。とすると、それは新たな現実=実在を既存の言葉で捉えようとして、誰も思いつかなかった斬新な隠喩を手探りで作りださねばならない詩人の認識作業に似てくるのではないだろうか(註12)。これはけっして簡単な作業ではない。

ウィンチは、彼自身の戦略とでも呼べる方法を最後に提案している。それはジャンバッティスタ・ヴィーコにならって人間の生の根幹となる基本的な諸概念(ウィンチはこれを限界概念と呼ぶ)、すなわち誕生、死、性との関係で問いをたてることである。たしかに問題の現地の概念を理解するのに、手がかりの見当も皆目つかないような状況では、出発点として悪くはないかもしれない。しかし、これだけだとあまりにもざっくりした枠組みで、人類学者の目には使い物になりそうにないように見える。この印象はウィンチ自身による具体的な「分析」を見ると、いっそう強まる。

彼はオーストラリア・アボリジニーのあるグループの人々が、一本の棒あるいは石をあたかも自分の「魂」であるかのように扱って、常に持ち歩き、万一それをなくすと、ちょうど死者が塗油されるように自分自身を塗油するというのを、恋人の髪の毛をロケットの中に入れて持ち運ぶ男にたとえて理解可能だと述べる(op.cit.:323)。たしかに「まるで意味をなさない」と言って投げ出すマッキンタイアよりはましかもしれないが、こんな思いつき程度で理解された気になられても、ちょっと困るのである。この程度の思いつきならいくらでも出すことができるだろう。問題はそれぞれちょっとした理解の片鱗を見せてくれる、一連の比喩の中のどれがもっとも適切なのかを判定することである。人類学者なら、そのフィールドワークと民族誌を通して、彼が研究する土地の人々のまさに「生の形式」を生活の様々な場面について徹底的に詳細に記述し、その中から立ち上がってくる理解、より適切な比喩や類比を見出そうと悪戦苦闘しているだろう。もしウィンチの議論が、この悪戦苦闘の産物を軽い思いつきのようなアイディアに見せかけてしまうとしたら残念なことである。

こうした不満点もあるものの、ウィンチの一連の議論が、それに続いた相対主義論争や、合理性論争といった不毛な大騒ぎを脇に置けば(そしてそれはそれから半世紀以上がたった今だからできることなのかもしれないのだが)、人類学が当時の意味における自然化とはいかに折り合いが悪いかをしっかりと示すものであったことは確かである。だが、ほんとうにそれでよかったのだろうか。

W・ドレイと歴史における説明の了解可能性

人類学における異文化理解の問題に直接かかわる議論を展開したウィンチに対し、ドレイの議論は、人類学自体との交通を念頭においてはいないものの、対象となる具体的な出来事をいかに説明するかという研究実践に立脚した議論である点で、人類学にとって親和性の高い議論となっている。

カヴァー法則モデルに対するスタンス

ヘンペルの被覆法則モデルに対する歴史学者たちの対応は、2つに分かれたようだ。ドレイは歴史家たちの反応について、実践者は自分の実践についての最良の理論家であるとは限らないと断った上で、歴史学の現状に不満を持つ歴史家たちがヘンペルのモデルを進んで受け入れたと述べている([Dray 1957:12])。歴史学は19世紀における自然化の議論において、個性記述による学問としてすでに反自然主義の代表選手のようなものだったという事実を考慮すると、ヘンペルの定式化がいかに強烈な説得性をもっていたかを物語っているとも言える。それに対抗するには、19世紀風の解釈学を押し立てることでは(たとえばコリングウッドのように歴史は感情移入を通して歴史上の行為者の視点を知ることだといった主張(註13)では)相手にならなかったと見える。ドレイの1957年の著作は、歴史における「説明」がいかなるものかについて新たな照明を当てることによって、ヘンペルのモデルに真正面から応答した研究のひとつであろう。

すでに触れたように人類学では比較的早くから、自らの作業に歴史の方法との類似性を見てとる流れがあったが、被覆法則モデルに対する歴史学者たちの対応との関係については、まだ明らかではない。人類学者の著作においてドレイの名が参照されている例を私は知らないし、ドレイの研究がその後の歴史哲学の中でどのような位置づけを与えられているのかも、専門外の私には測りかねるところがある(註14)。しかし彼の歴史的説明に関する視点はきわめてユニークで、人類学における自然化の方途を探る上でもとりわけ参考になると思われる。

ダントは被覆法則モデルに対する歴史学者の対応を次の相容れない3つの命題との関係で整理している。(a)すべての説明は一般的法則を用いてなさねばならない。(b)歴史家は何らかの出来事の説明を行う。(c)歴史家はその説明において一般的法則に訴える必要はない。最初の選択肢は、(a)と(c)を肯定するものの、(b)を否定し、自然科学だけが出来事の説明をおこなうのだという立場である。歴史家はというと出来事を「説明」するのではなく「理解」するというのだ([Danto 1958:298])。これは19世紀以来の解釈学的な反自然主義の立場の主張である。第二の選択肢は、(a)(b)を正しいと認め(c)を否定する。歴史家が一般的法則に訴えた説明をあまりしないのは、そうした法則のあるものがいちいち言挙げするには些末であるか(たとえば、「圧倒的に優越した武力を持った国と、劣った国が戦うと、通常優越した武力を持つ国が勝つ」みたいな)、あるいは逆に少数の法則ではとらえきれないほど歴史的現象が複雑すぎるからで、もし労をいとわず、すべての初期条件を挙げ、すべての関係する法則を列挙すれば、歴史的説明は被覆法則モデルに合致する。歴史的説明はそうならねばならない、という立場、つまりヘンペルのモデルを支持する歴史家たちの立場である(ibid.)。そしてダントが正しく認めているように、ドレイはこのいずれの選択肢も拒絶する(ibid.)。(b)(c)はいずれも正しいが、(a)が間違っているのだという立場である。彼は被覆法則モデルを「歴史哲学が模範とするには危険なモデル」であるとして拒絶する。それは「歴史における説明について、根本的に間違った仕方で、あるいは重要な点で誤解につながる仕方で語るよう仕向けているからである」([Dray op.cit.:1])

実践的・実用的な行為としての説明

ドレイによると、むしろ被覆法則モデルが説明としてはきわめて特殊な説明で、一般の人も含め人々が行っている通常の説明活動は、被覆法則モデルが指示しているものとは異なったタイプの説明なのだ。「『説明』ということばの論理型が問題である。実証主義者たちはこの言葉を形式論理の用語だと誤ってとらえている。実際にはそれは実践的、実用的な(pragmatic)用語なのである。」(op.cit.:20)

哲学者による「説明」についての議論は、真理というものを基準とした、唯一の正しい説明はいかにあるべきか、という問題設定のうえになされている。しかし説明という実践は、人々が(研究者のみならず、一般の人々やドゥルマの農民たちもが、わけのわからない現実に直面したりする都度行っている)つね日頃から従事している活動であり、それは人々にとっての現実的な要請や問いに対して答える実用的かつ実践的な活動である。説明は、それゆえ真理との抽象的な関係において問題にするというよりも、実践的な場面におけるその利得において考えるべきだというのだ。「説明を求める要請は、ほんものの困惑、訳のわからなさから生まれる。そして説明は、単に相手を黙らせるためや冗談でではなく、誠意を持って提供される(op.cit.:73)」。「了解可能性 intelligibility」こそが説明の目指すものであり、説明されることによって、なるほどそうかと合点がいくのが説明の利得である。説明を求めた人が合点がいかないと説明とは言えない。「法則をもちだせば、それで説明になるというわけではないのだ」(op.cit.:73)被覆法則モデルは「形式的に formally」は健全であっても、「実用的に健全 pragmatically sound」(op.cit.:74)であるとは限らない。ドレイのこの一歩は、画期的な一歩であるように思われる。すくなくとも人類学から見てそうである。人類学では、われわれが研究において行うべき正しい説明とはどういうものであるべきか、という問いとは別に、常日頃から、現地の人々がさまざまな場面で実際にどのような説明をおこなっているかをむしろ明らかにしようと努めてきたのであるから。もし説明はいかにあるべきか、ではなく、説明は通常どんな風になされているかに目を向けると、被覆法則モデルとは似てもにつかない、しかし「実用的には健全な」説明の存在に気づく。

ドレイはこれを自動車のエンストを例にとって説明する(以下 op.cit.:67-70)。

私の車のエンジンが突然動かなくなった。メカニックは「オイル漏れだね」という。これはエンストの説明になっているだろうか。それは、誰が誰に言ったかで、さらにどんな予備知識があり、なにが文脈から明らかであるかで違ってくる。エンジンの仕組みに通じた修理助手なら、これは立派に説明となる。でもボンネットの下で何が起きているのかまるでちんぷんかんぷんな私には、それは説明にはならない。

ここで誰かが得意げに被覆法則モデルに則って、

  1. この自動車のオイルタンクの底には漏れがある。(初期条件C1)

  2. 「オイルタンクの底に漏れがある自動車なら、すべてそのうちにエンストを起こす」(一般法則 L1)

  3. 故に、この自動車はエンストを起こした。(説明すべき出来事 E)

と私に教えてくれたとしよう。明らかに私にとって何の助けにもならない。これは「オイル漏れだね」という説明を、単にもってまわった面倒くさい仕方で言い直しただけのことで、あいかわらず私にはわけがわからない。被覆法則モデルなどなんの役にもたっていない。

ではどんな説明だと良いのだろうか。私は自動車エンジンの仕組みのなにがしかと、潤滑系の重要な役割について教えて貰う必要がある。たとえば、「エンジンを動かすのはシリンダーの内部のピストンの運動です。もしピストンを潤滑するオイルがシリンダーに届かなければ、乾いたピストンはシリンダーの壁との摩擦で熱くなります。熱くなった金属は膨張するので、ピストンがシリンダー内で固着してしまいます。オイルは通常オイルタンクからパイプを通ってシリンダーに届きます。もしタンクの底に穴があき、オイルが流れ出てしまうと、シリンダーにオイルが届かなくなります。そうすると遅かれ早かれエンジンは固着してしまうのです。」といった説明で合点がいく。私のエンスト理解は、「今やそれが起きるにいたる出来事の経緯を自分でたどることができるという事実」に直結している。当初の「オイル漏れ→エンスト」ではわからなかったことが、両者の間を埋める一連の出来事の系列を捉えることによって、今や了解可能になる。

ドレイはこのタイプの説明を「連続的出来事系列モデル model of the continuous series」(op.cit.:66)と呼び、歴史における説明は主としてこのタイプであるとする。このモデルでは、唯一の最終的に完全な説明は求められない。「説明の必要性」次第でいくらでも下位の出来事に細分化可能である。たとえば、「ねえ、どうして熱くなった金属は膨張するの」という困惑がさらなる説明を求めるというふうに。逆に、全てが説明しつくされなくても、説明に対する要望が終われば、説明の役割は終わる(註15)。

ドレイの実用論的視点は、その対象が因果分析に移っても、保持されている(op.cit.:chap.4)。一例だけあげると、因果的連関がいかに発見されるかについての彼の議論において、ドレイが強調するのは実践とのつながりである。ナイチンゲールと彼女の助手たちが「不潔さが病気を引き起こす」と述べたとき、彼女らはただ繰り返し観察することを通じて、そうした結論に達したわけではない。「ここでは追加的な事実を考慮に入れねばならない。出てきた因果連関の結論は、単にこれらの女性が何を見たかに基づいているだけではない。彼女たちが自分たちに何ができるかわかったことにも基づいている。自分たちが不潔の度合を「操作」することによって、罹患率を制御できるとわかったという事実が、彼女らにとって不潔さが病気を引き起こすと結論する適切な根拠であったのだ」(op.cit.:93)(註16)。

後にウリクトによって精緻化される、条件概念による因果分析([Von Wright 1971:38])の基本的な発想に関しても(註17)、ドレイにおいては実践的な関心が中心に置かれている([Dray op.cit.:98-102])。彼は人が、ある事態を検討する際に何を「原因」として示すだろうかと問う。原因は、問う者にとって重要であると同時に、結果にとっても重要なものでなければならない。この2つの重要性のチェックを経て、あるものが「原因」だとされることになる。この2つのチェックを、ドレイは「帰納的 inductive」および「実践的 pragmatic」と呼んで区別する。前者は必要条件に当たるもの、そのことがなければ結果は起こらなかっただろうと考えられるものであり、後者はさまざまな範疇の事柄を含んではいるが、人がなんとかできたかもしれないこと、することができたかもしれないこと、しないでいることができたかもしれないこと、するべきだったこと、するべきではなかったこと、などからなる。たとえば爆発事故が起きたとき、それを説明しようとする語りは、語り手が化学者か、警備担当者か、保険調査員か、市の調査委員かによって、将来の同様な災いをいかに防ぐかの関心のもとに異なる原因が問題にされるだろう。

ドレイの議論が、科学的説明はいかにあるべきかという問題意識でなされている研究とは一線を画したものであることがわかるだろう。人類学にとっては、しかしながら、これはきわめて馴染み深いスタンスである。事の成り行きについての説明を人が求め、またそれを説明しようとするときの関心は、理論的な興味、知的好奇心というよりは(もちろんそれも大いにあるが)、多くは「なぜ、こんな事が起こることになってしまったのか」「では、どうすれば防げたのか」「なぜ、そんなことが可能だったのか」「では、どうすればよかったのか」などなどの実践的なものに根をおろした(純然たる理論的、知的関心の場合も、そうした関心はその根を実践的な問題意識にもっている)関心であることは、周知の事実である。こうした説明の語りと、実証主義における一般法則の関係はどうなっているのだろうか。これらの説明も、結局はヘンペルのモデルに書き直すことができると主張する実証主義者は、一般法則の知識ーーヒューム的な経験的相関関係の規則性に由来するーーが(たとえ暗黙のものであれ)こうした説明の語りを可能にしていると主張するだろう。しかしドレイはこれは逆立ちしているという。「科学的法則の定式化のほうが、こうした因果分析の説明の語りに依存しているのであって、その逆ではないのである」(op.cit.:107)。

連続的出来事系列の語りとしての歴史的説明

通常の歴史的説明には具体的にはどのような特徴があるのだろうか。ドレイは一章を割いて、歴史的な出来事のほとんどが人間的な行為者による行為として生起する出来事であるという事実が提起する問題について論じている。そこでは被覆法則モデルはとりわけ無力である。なぜなら、ドレイがコリングウッドの言葉を引きつつ言うように、「歴史は見物対象(spectacle)ではない」からである。見物人として人の行動を眺め、そこに経験的な規則性や法則やパターンを見出そうとするアプローチ(「自然科学的」アプローチ)よりも、行為者の立場から、つまりその行為を導いている目的や、解決しようとしている問題や、そこに適用しようとしている原理原則がなにか等々の視点からアプローチするほうが、人の行為ははるかによく理解できるのだ(op.cit.:140)。ウィンチがその反自然主義のもっとも強力な議論として提出したものと、同じ趣旨の議論である。しかし、このスタンスと、歴史的説明の連続的出来事系列という語りのあり方が組み合わされるとき、歴史的説明はきわめて物語的な相貌を帯びることになるだろう。「この点では、歴史は論理的には、社会科学によりは文学に連続している。社会科学という言葉で、なにか社会『物理学』のようなものをイメージしての話ではあるが。」(op.cit.:139)

この特徴は、歴史的説明の語り口のもう一つの特徴とも関係している。ドレイは説明について考える際のもう一つの暗黙の前提に注意を向ける。「その前提とは、説明は『なぜwhy』の問いに対する『なぜならば…だからbecause』の答えの形で与えられるものだ、という思い込みだ。」(op.cit.:156)。しかし実際には「歴史的語りの中には『なぜwhy』の問いに対する答えとはみなしえないような説明が実に頻繁にみられる」(op.cit:157)のであり、それらは、「何らかの種類の『いかにして how』の問いに答える」(ibid.)ものであることがわかる。ドレイはその例として大衆紙のコラム記事を引用する。

ビクトリア球場からの野球のラジオ実況中継でアナウンサーが言った。「センターへの大きなフライです。フェンスの上部に当たりそうです。センターがバック、今その下につきました。キャッチ。バッター、アウトです。」そのフェンスの高さが6メートルあることを知っていたリスナーたちは、センターがどうやって捕球できたのかわけがわからなかった。球場にいた観客ならこの普通ならありそうにない出来事の説明をしてあげることができただろう。センターの後ろにはスコアラーのための高い足場があったのだ。野手はその梯子を駆け上って、地上6メートルのボールを捕球したのであった。 (op.cit:158)

この説明のポイントはなんだろうか。「なぜ」その野手はフライを追ったり、ボールを取ったりしたのか、といった問いに答える説明ではない。いずれも野球というゲームを知っている者にはわかりきったことだからだ。問われているのは、普通なら取れっこない高さ6メートルの打球を「どうやって」野手は取ることができたのか、ということである。そしてその問いに答えるには、スコアラーのための足場とそこに登る梯子の存在と、どんなふうに野手がその梯子を登ってフライを捕球したのか、その経緯を詳らかに語りさえすればよいのである。

説明は、訳のわからなさを解消する要請、問いに対して行われる。そしてその問いには2種類あるとドレイは言う。

あることが『なぜ』起こったのかを説明するさいには、それは起こらないでもよかったはずなのに it need not have happened、という思いに対して、いくつかの考慮すべき事項(いくつかの事実や法則も含まれるかもしれない)に光をあて、それは起こるしかなかったのだ it had to happenと示すことで反駁することになる。しかし何かが『いかにして』起こり得たのかを説明するさいには、そんなの起こりえたはずがないのに it could not have happened という思いに対して、いくつかのさらなる事実に光をあてて、起こりえたはずがないと考える理由はないのだと示すことで反駁することになる。それぞれを「なぜー必然的にwhy-necessarily」の説明と「いかにー可能にhow-possibly」の説明と呼ぼう。 (op.cit:161)

たしかに、この区別をめぐる彼の議論は、じっくり吟味するとかなり大雑把で乱暴な議論であることはわかる。しかし歴史的説明に多く見られる連続的出来事系列タイプの語りを特徴づけるのが、この「いかに」の説明であることを踏まえると、この2つの説明の実践的・実用的位置づけが見えてくる。

因果分析のところでもっぱらドレイがとりあげていたのは「なぜ」タイプの問いとその答えだった。すでに起きてしまったなにか(爆発とか)に対して、もしかして起こらずにすんだかもしれないのに「なぜ」という思いに対し、ぎちぎちと、もしこのことがなければ起こらなかったのではないか、これが起こったので、問題の出来事の生起が避けがたくなったのだ、将来もしそれを防ぐためには、これの生起をさまたげれば、あるいはあれをこれの代わりにしていればよいのかもしれないと、詰めていく、これが「なぜ」の問いによって始動する原因究明の説明にほかならない。それに対し、エンストにせよありえない捕球にせよ、通常のなりゆきでは起こらないはずのことを、可能にしてしまう、予測不可能な要因(オイルタンクに穴が空いちゃってましたよ、なんとそんなところに梯子がありましたよ)によって、ふつうなら起こらないはずの予期しえなかった出来事が現実に生起してしまう、その予測不可能な要因を明らかにして出来事の連鎖の穴埋めをおこなう、これが「いかに」の問いによって始動する「連続的出来事系列」の説明、つまりことの経緯を語る語りだということになる。そもそも出来事の経緯について語る必要があるのは、それに語る価値があるからであり、それは、誰もが知っている語るに足らない通常のことの成り行きではないからである。予測不可能で思いがけない要因の介入について注目した語りなのだ。ちょっと考えればわかるように、「なぜー必然的に」と「いかにー可能に」の説明の2つの語り口はドレイの分析がそう思わせるほど、截然と区別された別個のものというよりは、同じ出来事の系列についての視点の違いによって目まぐるしく表になったり裏になったりする2つの語りの様相と考えたほうが良いかもしれない(註18)。

反自然化の議論のポイント

こうして今日、改めて読み直すと、ウィンチとドレイの議論がきわめて人類学に親和性の高いものであったことに気づく。異文化理解に焦点を当てたウィンチについては言うまでもないが、ドレイの説明に対する姿勢は、正しい説明とはいかにあるべきかという問いよりも、人々が日常生活において日々おこなっているような「説明」に注目し、それを実践的関心との関係でとらえようとするという点で、フィールドでの人類学者の問題への取り組み姿勢にきわめて近い。結果として、それらが当時の人類学者にとって受け入れるのに容易だっただろうことは想像に難くないし(私の個人的な感想としてもそうだったし)、こうした議論が人類学を反自然化の方向に強力に後押ししたのだとしても不思議ではない(註19)。

ウィンチとドレイの議論には大きな共通点がある。

  1. どちらも批判のターゲットになっているのは実証主義である。ウィンチは自然科学を、広くヒュームやミルの経験主義の流れの上に位置づけ、それが社会科学とは相容れないと主張する。ドレイは、さらにターゲットをヘンペルの被覆法則モデルに特定して、それが歴史における説明にはむしろ有害なモデルであると論じる。

  2. その論拠として両者に共通する視点。人間の行為を「理解(ウィンチ)」・「説明(ドレイ)」するうえで、観察によって見出す規則性や因果関係(「見物対象」として行動を観察する自然科学的アプローチによる説明(ドレイ)、「外的関係」(ウィンチ))よりも、「理由」「動機」「意図」「規則」等々の行為に意味をあたえるものによる説明や理解(「行為者の立場から、つまりその行為を導いている目的や、解決しようとしている問題や、そこに適用しようとしている原理原則がなにか等々の視点から」の説明(ドレイ)、社会的行為に内在する概念と、その帰結としての社会的行為相互の「内的関係」を示すことによる理解、(ウィンチ))の方が適切であるという見解。

  3. 研究対象に対するアプローチの姿勢における共通性がある。研究者の分析概念や同一性基準を適用することを慎み、対象社会における概念や基準を知ることを重視する(ウィンチ)、研究者にとって「健全な」説明の仕方よりも、当の人々が求め、応える「プラグマティックに健全な」説明の仕方を重視する(ドレイ)、といった具合に、研究者と研究対象の非対称的な関係を反転させようとする姿勢が読み取れる。

人類学にとって、(3)はまさに学問的アイデンティティの一部であり、大前提である。(2)については、社会の個々の成員が自らの行為を説明し、あるいは他者の行為を理解する際にやっていることに他ならないので、(3)的スタンスからいくと、全面的に同意するしかない。したがってもし(1)で論じられているように、自然科学がすなわち経験主義的実証主義とイコールであるのであれば、人類学は到底自然科学ではありえないということになってしまう。

実証主義を離れて

しかしもし(1)でターゲットにした経験主義、実証主義が、自然科学の自己認識としても正しくなかったのだとすれば、話は別である。われわれ(というより「私」なのですが)は、あまりにも長く、自然科学といえば実証主義、経験的実在論の具現といった感じでとらえてきた。しかし戸田山氏によると、なんとヘンペルの被覆法則モデル(というよりはそれを典型とする科学哲学の「文パラダイム」そのもの)は「そろそろ賞味期限切れ」([戸田山 2005:219])なのだという(註20)。もしそうであるなら、当時実証主義やヘンペルのモデルがまだ「旬のモデル」であったにしても、ウィンチやドレイらの自然科学批判の議論は、結果的には空振りだったということになるのかもしれない。(それゆえ、ここまで私がくどくど書いてきたことも。)

しかしその場合、実証主義的な説明とは両立できない社会科学、歴史学における説明(あるいは理解)の特徴だとされていた(2)についてはどうなるのだろうか。あいかわらず、それらーー「動機」「理由」「意図」「原理原則」「規則」等々によって人間行為を理解・説明するやり方ーーは、社会科学や歴史学を自然科学以外のなにかにしてしまうのだろうか。それとも新たな科学哲学は、新しい枠組みのもとでの科学的説明の中に、こうした説明も包摂するようになるのだろうか。それとも社会科学の側から、自らを実証主義とは別の自然科学のモデルにおける説明の可能な種別として位置づけなおす必要があるのだろうか。社会科学のそして人類学の自然化の可否が、少なくとも今後の方向性が、これにかかっている(というと大げさだろうか)。

さらに(3)で問題になる歴史家による歴史記述や、人類学の対象とする社会の人々自身がおこなう出来事の経緯についての説明がしばしばとる「物語」のようなスタイルーー単に出来事の経緯が述べられ、そのなかであたかも原因であるかのように示される出来事の因果関係は原理的に証明不可能であるような一回きりの「ということだったのさ物語」just-so storyーーは、脱ヘンペル・モデル以降の(あるいはポスト「文パラダイム」の)科学論の中で、それなりの位置づけが与えられるのだろうか。それとも結局は、この特徴は歴史学や人類学の非科学性を示すもの、自然化への障害として相変わらず残り続けるのだろうか。

社会科学が自然科学とは相容れないことの論拠であった(2)(3)は、自然科学のあり方の根幹であるとその当時考えられていた経験的実証主義が賞味期限切れとなったからといって、自然化の障害であることを自動的に停止してくれるわけではない。自然科学の自己認識が変化したのであれば、その新しい姿のもとで社会科学は自然科学との関係を改めてもう一度考え直す必要がある。

因果メカニズムのモデルとデザイン

(ここからは、まだ十分に詰められていない思いつきレベルの議論です。肝心のSalmon 1984、まだ取寄中だし。)

因果メカニズムによる説明

戸田山氏によると科学的説明には、ヘンペルのモデル以外にも「原因を突き止めることによる説明、法則をより基本的な法則から導出して総合することによる説明、理論的同一視による説明などがある。」(戸田山 前掲書:126)(2)や(3)の説明は、これらのどれかに当てはまるのだろうか。エンストについてのドレイの説明は、ここで言う原因を突き止めることによる説明、「『これこれこういう仕組みでそうなったんです』っていうタイプの説明」(op.cit.:220)つまり「因果メカニズムモデル」に近い(相当する?)かもしれない。ただし、サモンの因果メカニズムモデルは、私がまだ原著([Salmon 1984])にあたっておらず戸田山氏の紹介で理解した限りではあるが、統計的連関性とスクリーニング・オフによって確定される2つの事象のあいだの因果連関について言及するものである。それに対してドレイの連続的系列モデルにおいて描かれているのは、エンジンの仕組みそのもの、つまりいくつもの因果連関が巧みに組み合わされ協調して全体が作動するようにする設計あるいはデザインである。まさに「メカニズム」が描かれているわけだが、「因果メカニズムモデル」のなかでこうした当のメカニズムそのもの、そのデザインはどのような位置をしめているのだろうか。

エンストというトラブルの原因追及ということで言えば、統計的連関とスクリーニング・オフでオイル漏れと確定できるだろう。しかし「なぜ車がエンジンが調子よく動いているのか」を理解するためには、そのやり方でうまくいきそうにない。どの部分が不調になってもエンジンはうまく動かない。それどころか、すべての部品が完調であったとしても、それのアレンジがまちがっていたり、そもそも設計にミスがあればうまく動かない。メカニズムそのもの、設計、デザインが因果関係の中で占めている役割は圧倒的であるように見えるのだが、それは「因果メカニズムモデル」でどのように扱われているのだろうか。メカニズムを構成する各部分の機能にかかわる因果連関がうまくいっているかどうかのレベルと、それら各部分が互いに連関し合ったパターン、各部分の連携がうまくいっているかどうかのレベルは異なる。こうした階層性を、因果メカニズムのモデルはどんなふうに処理しているのだろうか。こうした点は戸田山氏の記述だけからはわからなかった。

たしかに自然界では、なんらかのデザイン、設計にのっとって現象が出現することはあまりないのかもしれない。ケニアのサバンナにピタゴラスイッチみたいな、いくつもの別のエネルギー源で作動するサブ・システムを連結したような不思議な物体を発見したら、誰もそれが自然に出現したとは思うまい。誰か「人」が作って設置したものだと思うだろう。自然科学が解明する現象で、設計やデザインが問題になることはあまりないのかもしれない。しかし、よく知られているように、生物はたとえバクテリアのような生物ですら、巧みにデザインされた存在であるかのように見えるし、まさにこうした設計者のいない巧みなデザインを説明するのがダーウィンの進化理論であった(e.g., [Dawkins 1986],[Denett 1995])。このことを考えると、自然科学においても、経験的に与えられる個々の独立した原子的事象の随伴関係のみを所与とする経験主義では、もはや不十分で、複数の因果連関が相互に関係づけられた総体と、その配置のパターン、デザインをも説明の中核に据えたアプローチが不可欠のはずである。

R・バスカーの超越論的実在論における因果メカニズム

超越論的実在論――なにそれ?

現在の英国社会人類学の一部で、実在論的人類学 realist anthropology を唱える人々が(e.g., [Zeitlyn & Just 2014])依拠している哲学者ロイ・バスカーは、「基本的に実在論に基づいた、反実証主義的な条件付きの自然主義」([Bhaskar 1979:5])を標榜する。上述の因果メカニズムとどんなふうに切り結ぶ議論なのか、私にはわからないが、なにかの参考にはなるかもしれない。というのも、彼の超越論的実在論においては、実在は経験的レベルにではなく、経験レベルでの現象を超事実的に(transfactually)生成する構造あるいは生成メカニズムのレベルにあるとされ、なんだか因果メカニズムと共通した匂いがする(メカニズムという共通の言葉を使っているだけの話だったりして)。彼はこんなふうに言っている。

世界は、出来事(events)からなっているのではなく、メカニズム(mechanisms)からなる。そうしたメカニズムが組み合わさって、世界における現実(actual)の諸状態や生起事象(happenings)を構成する現象の流れを生成する。こうしたメカニズムは実在(real)と呼びうる。もっともそれらは現実に目に見える形で現れることはまれであり、人間によって経験的に同定されることとなると、一層まれである。それらこそが科学理論の自動詞的(intransitive)対象なのである。 ([Bhaskar 2008(1975):47])

彼によると実証主義は、経験主義的実在論、つまり経験の対象である原子的事象(atomistic events)と、事象間に成立する不変の随伴関係(constant conjunctions)を基礎とした暗黙の実在論にたち、この随伴関係を因果法則と同一視する点で誤っている。

実証主義は、因果法則についてのヒュームの理論を軸としている。それによると因果法則は、経験可能な原子的事象あるいは原子的事態の一定不変の随伴関係である。これは、知識は経験によって得られた確実なものであるべしという要請から、必然的に導かれたものである。 ([Bhaskar 1979:124])

ところがバスカーによると、そもそもこの一定不変の随伴現象なるものは、実際には「(1)極端に稀な現象であり、(2)そのほとんどが人工的に作り出されなければならないもの」(op.cit.:127)である。この(2)は具体的には実験活動を指しているのだが、もしそうなら、「人間は自然法則を(単に経験的に同定するというよりは)、その実験活動を通じて、引き起こしたり変えたりするのだ、という馬鹿げた結論に導かれる。」(ibid.)それゆえ、因果法則を経験可能な事象間の不変の随伴関係と同一視するのは誤りだということになる。

それに対して、現実に生起する出来事の継起には還元できないものの、場合によっては(通常は実験的環境のもとで)そうした出来事の継起を作り出し、その中で自らの実在を顕にするような、超事実的に(transfactually)作用するメカニズムが存在すると考えるなら、上の2つのプロセスには合点がいく。 (ibid.)

彼の立場が超越論的実在論と呼ばれる所以である。

科学的探求の対象は経験的所与でもなければ、明確に現実化したこの世界の断片(actually determinate chunks of the world)ですらなく、むしろ実在する諸構造(real structures)である。科学の実験作業と理論化によって、それらの構造を現実に出現させ、適切な概念を作ってやらねばならない。 (op.cit.:13)

超越論的実在論における因果メカニズム

では、ここでいう、「実験室の閉じた条件の下で同定」できるとされる自然のメカニズムとは、具体的にはどのようなものと考えられているのだろう。

こうしたメカニズムはそれらが生成する出来事とは実在的に独立していると想定する場合に限り、それらの経験的な同定を許す実験的に閉じた条件の外でも、存続し正常に作用し続けているとの想定が正当化できる。こうした想定が正当化できる場合にのみ、既知の法則が普遍的であるとの観念は保持しうるし、実験活動も理解可能になる。 ([Bhaskar 2008(1975):13])

しかしそれは因果法則そのもののことではない。

因果法則の実在的基礎を提供するのが、この自然の生成メカニズムである。こうした生成メカニズムとは、事物の作用様式(ways of acting of things)にほかならない。因果法則はそれらの傾向性(tendencies)として分析されねばならない。傾向性とは、実行されても必ずしもなんらかの特定の結果の形では見て取ることが出来ないかもしれない、事物に備わった力(powers)あるいはある種の仕方で作用しがちな傾向(liablities)だと考えることができる。ここで関係している条件法(conditional)は、規範的(normic)なものである。それらは反事実的(counterfactual)言明ではなく、超事実的(transfactual)言明である。 (op.cit:14)

すでに、ほぼ私の理解を超えている。

同じ趣旨の議論は、事象間の自然的必然性に関する議論の中でも繰り返されている。

自然的メカニズムとは、もちろん事物にそなわる諸々の力、あるいは作用様式にほかならない。そこで、いやしくも科学が可能であるとすれば、ある事物が何であるかということと、その事物に何ができるのかということのあいだには、それゆえ、ある事物がなにであるかということと、その事物が適切な条件のもとで何をなす傾向にあるかということのあいだには、自然的必然性の関係があるはずである。ある本性からある傾向性を演繹できるということは、それゆえ、自然的必然性について我々が知識をもっているということのひとつの判定基準である。自然的な傾向性が現実化したとき、諸事象は必然的につながることになる。 (op.cit:202)

自然的メカニズムを具体的にイメージすることは、あいかわらず難しいが、これらの記述からは、特定の事物が他の事物に対してどのように働きかける力があるのか、何をする傾向があるのかという形で、2つの事象の因果関係を根拠づけうるということをメカニズムと呼んでいるように読める。メカニズムというにはいささか単純だし、あくまでも二項関係に関する話である。次に挙げるのは、比較的わかりやすいメカニズムあるいは自然の構造の事例である。

科学の他動詞的(transitive)過程では三つの知識水準が区別される。第一の(ヒューム的)レベルでは、実験的に作り出された結果の不変性を手にする。こうした不変性を得て、科学は直ちにそれに対する可能な諸々の説明の構築とその検証へと進む。その事物の振る舞いを、仮定された法則、ないしはその事物が属するシステムの構造の言葉で記述でき、事物の本性に定位した正しい説明があれば、われわれは、その事物がなぜそのように振る舞うのかについて、その振る舞いからは独立した根拠を得たことになる。この場合、その根拠は経験に基づいて発見されたと言える。さらにそこからその事物に備わる傾向性が演繹されたとすると、自然的必然性の認識に関する可能な限り最も厳しい(ロック的)判定基準が満たされる。例えば、銅がある特定の原子ないし電子構造をもつことを発見し、その構造についての言明から銅の傾向的な諸特性を演繹できるかもしれない。そうすれば、われわれは自然的必然性についてのアポステリオリな知識を得たと言えるであろう。第三の(ライプニッツ的)レベルにおいては、銅の電子構造の発見を、事物を実在的に規定することを企図した用語によって表現せんとするかもしれない。 (op.cit:19)

他に、彼がメカニズムの例として挙げているものに、ダーウィンの「自然選択のメカニズム」(op.cit:22)(ただしこれについてはとくに説明はない)や、以下の例(op.cit:168-169)がある。

科学研究のほとんどは、普通、実験的に作り出され統制された条件の下で自然界の不変性を同定し、それらを持続的なメカニズムに基づいて説明するためにデザインされた二層構造の方法に従って進展していく。そして、不変性の同定から、それを説明するメカニズムと構造に至る運動の中にこそ、科学的発見の論理は見いだされる。例えば、教科書などで2Na+2HCI=2NaCI+H2という式であらわされる観察可能な化学反応は、原子論や原子価、化学結合に関する理論に基づいて説明される。しかし、言うまでもなく、原子価理論の被説明項を構成するパターンは、表面的にすぐ見て取れるものではないし、容易に手に入るものでもない。概念も実質も、条件もどれも、科学という社会的活動のために、科学の内部で作業し、作り出されねばならなかったし、また作り出されねばならないのである。また、理論は理論で問題の化学反応をもたらしていると見られる因果メカニズムを記述するという課題に取り組まねばならない。メカニズムの実在性が確証され(これは、化学結合という現象が存在し、しかも化学法則が実験室以外の場でも成り立っているという仮説が裏づけられたことを意味する)、理論の諸帰結が十分に探究されると、今度は、化学結合や原子価をもたらしているメカニズムを見つけだすという課題が待ち受けている。このメカニズムはやがて原子構造に関する電子理論によって説明されることになるが、その実在性が確証されると、科学的探究は続いて、陽子、電子、中性子からなる原子より下位の極小宇宙で起こるさまざまな現象を説明する新たなメカニズムの発見へと向かう。かくして今や原子内部の構造をめぐるさまざまな理論が並存しているというわけである。
化学のこうした歴史的展開は、以下のような図式で示されるだろう。

Stratum I 2Na + 2HCl = 2NaCl + H2
実験で観察された化学反応

explained by

Stratum II theory of atomic number and valency

Mechanism 1

explained by

Stratum III theory of electrons and atomic structure

Mechanism 2

explained by

Stratum IV [competing theories of sub-atomic structure]

[Mechanism 3]

 

本書全体([Bhaskar 2008(1975)])でメカニズムという言葉は240回以上用いられているが、その具体例は以上の3つだけである。

社会科学の自然化と因果メカニズム

一方『自然主義の可能性:現代人間諸科学についての哲学的批判』([Bhaskar 1979])ではその副題のとおり心理学や社会科学の自然化が焦点になっているが、そこではいきなり、社会構造が自然現象を生み出す自然メカニズムのアナロジーとして提示されている。自然のメカニズムと違って初っ端からずいぶん複雑なものをもってきている。

さてもし社会活動が分析的には生産、すなわち所与の対象への働きかけと変形にあるのだとすると、そしてもしこうした働きかけが、自然的事象のアナローグにあたるのだとすると、われわれに必要なのはそれを生成するメカニズムのアナローグである。もし社会構造がメカニズムのアナローグにあたるとすると、ただちに両者の重要な違いに気づく。社会構造は、自然メカニズムとは違って、自らが統制している活動によってのみ存在し、それらと独立に経験的に同定することはできない。 (op.cit:38)

議論の重点は社会的な事物と自然的な対象との違いに移っている。

  1. 社会構造は、自然構造とは違って、それが支配している諸活動から独立には存在しない。

  2. 社会構造は、自然構造とは違って、活動主体がその活動のなかで自分たちがやっていることについて持っている観念とは独立には存在しない。

  3. 社会構造は、自然構造とは違って、相対的にのみ永続的である(したがって、社会構造に由来する傾向性には、時間・空間を問わず一定不変だという意味での普遍性がない)。 (ibid.)

こうした違いはあるものの、因果力をもった複雑な全体構造としての社会は、自然科学の対象と同等の存在性格をもつという。

社会はばらばらな事象やそれらの系列の集まりではない。しかしそれは、人がその生理的状態に付与する諸観念によってわれわれが構築したものでもない。むしろ社会は、因果力をもった一つの複雑な全体であり、また人間の実践の中で不断に作り変えられていく一つの全体である。研究対象としての社会は、直接に読み取れる所与の世界でも、主観的な経験から再構築されたものでもない。むしろそれは、経験論的実在論には考えもつかないことであるが、少なくともこの点では(因果力をもった複雑な全体性という点では(訳者))自然科学の対象と全く同等の研究対象なのである。 (op.cit.:54)

複雑であることがしきりと強調されてはいるが、では、社会構造、あるいは社会は、因果メカニズムとしてはどのような仕組みと特徴をもっているのだろうか。再び、その具体的なケースについては多くは語られていない。上記のいくつかの引用から、社会構造の因果力は、人間の活動を左右することで、世界とそこでのさまざまな対象に働きかけ、それらを変形するという仕方で考えられているらしい、つまり人間の行為を媒介として働くと考えられているらしいことがわかる。(それが当の社会構造を再生産し作り変えていく活動でもあるという点が強調されているが、それは因果メカニズムの点から見ると本筋ではない。)社会学ではほとんど常識のことだが、社会構造のそれぞれの位置ごとに、異なるさまざまな行為が行われ――役割と役割行動として語られることが普通だ――そうした異なる行為が協調・連携・反発・応答するなかで社会的活動や社会現象が組織され展開していくのだが、そうした協働がどのようにして可能になっているのか、どんな仕組みで起こるのかという肝心の点は、ほとんど論じられていない。

自然のメカニズムについても、複数のメカニズムが「組み合わさって combine」現象を生成すると、こともなげに述べられていたが([Bhaskar 2008(1975):47])、そうした結合がどのようにして可能で、いかに実現するのかについては、またそうした結合が偶然的なものであるのか、それ自体必然的なものであるのか(同じく超事実的なメカニズムによって作り出されるのか)についても議論されていなかった。

一方社会の場合は、「構造」という用語の使用が、そうした組織体がすでにできているかのように(どうやって?)、想定されているように見える。

社会構造の因果力は人間の諸活動を媒介として作用するのであるから(とはいうものの、再び、社会構造がどんなふうに人間の諸活動を組織・媒介するのかについては一切論じられていないのだが)、人間の行為に対して及ぶ因果メカニズムが極めて重要な位置を占めているはずだ。実際、第三章「行為主体(agency)」の章の冒頭でバスカーは言う。

(第二章では)社会形態が志向的な人間の行為者を通して媒介されることで、物質的世界の状態に因果的作用を及ぼすということから、社会形態の実在性を立証した。したがって、このようにして(「理由」が行為の原因たりうることを論じることによって)、本章では前章での議論を完成させることになるだろう。 (op.cit.:80)

ウィンチが社会科学の自然化の不可能性を論じた際に、行為の理由や動機、意図などを行為の「原因」と考えるのが誤りであると主張していたことを思い出そう。その理由は、それらが自然科学における「原因」とは違って、結果とされる出来事と「外的」な関係ではなく「内的」な関係にあることだった。経験主義的な実証主義においては、因果関係とは、2つの互いに独立した出来事の間の経験的に得られた一定不変の随伴関係でしかなかった。「理由」は行為の説明において、行為と意味的、論理的につながっており、けっしてこうした外的な関係には立たない。いきなり立ち上がって冷蔵庫のビールを飲みだした男が、その行為を「のどが渇いていた」という理由で説明したとき、彼はけっして彼の「のどが渇いていた」という理由から、自分が冷蔵庫のビールを飲むことを正しく予測できたと言っているわけではない。理由に言及することは、彼の行為を「了解可能」なものに、つまり合点がいくようにすること、その行為の意味を導出することであって、なんらかの法則的連関を立証しようとしているわけではないのである。

しかし、よく考えてみると、このウィンチ風の議論は少し変だ。おかしいのはむしろ、因果関係を2つの出来事の随伴関係の観察によって手に入れられるような外的な関係でなければならないとする実証主義における原因概念の方で、それにこだわらなければ、別に動機や理由を、その行為を「引き起こした」原因だと言っても、日常的な意味では少しもおかしくなかったのである。

バスカーの超越論的実在論では、経験主義を否定した結果として、「理由」は問題なく行為の「原因」と解釈されうるものとなる。「理由」の「因果的有効性(causal efficacy)」についての彼の議論は、基本、次の2つの主張からなる。

因果的有効性の有無は、物質的世界に成立しえたであろう事態に「何らかの違い」をもたらすかどうかで判定される。

行為をその対象とするいかなる認知活動も、理由の因果的有効性を前提としている。 (op.cit:91)

それは次のような理屈である。

「理由」が原因として機能しえないのなら、いかに行動すべきか決める際に、人が異なる信念を評価(あるいは見積もる)ことに意味はないことになるだろう。なぜなら、「理由」は、彼あるいは彼女の振る舞いに違いを生むか、それとも生まないかの、いずれかだから。違いを生むとしたら、「理由」はまさしく原因だということになるし、違いを生まないとしたら、「理由」は論理的には余計なものであり、それについて熟慮したり、推論を重ねたり(それどころかそれについて考えること全般)することが、事実上無駄だということになる。このことは、人がどんな理由を(あるいはどちらを)採用すべきか(あるいは否定すべきか、漫然と頭の中にいだいていたり、それが意味するところを検討したり)など純粋に理論的に考えているときにも原則として当てはまる、ということに注意しよう。要するに、行為(どんな種類のものであれ)を対象にした、あるいは行為につながるいかなる認知活動も、理由にそなわる、現実に成立するだろう物理的事態に違いをもたらしうるという意味での、因果的有効性を前提にしているのである。 (op.cit.:92)

「理由」が「原因」であることは以上の議論で尽きているが、因果有効性の上記の判定基準は、この議論のなかにも見えているように、信念一般についても当てはまりうる。経験主義的な「原因」概念との対峙において「理由」がそれとは異なるとされていた根本的特性は、バスカーも述べているように行為に対する正当化、弁明のコンテクストで、「理由」が「他の原因とは異なり無矛盾性、真理性、整合性などに対する信念として価値評価」(op.cit.:87)されること、「信じたり(受け入れたり)、それに基づいて行為することが適切かどうかで評価」(ibid.)されることであった。信念そのものはそれ自体として特定の欲求とは結びついていないが、それが何らかの欲求と結びついたときに「理由」になる。

したがって、理由は信念である。そして信念がいかなる欲求からも切り離されて、言わば利害中立的に特定可能であるという事実が、理由という概念がもつ体系的曖昧さを説明してくれる。つまり理由は、命題の根拠でもあれば、行為の説明の根拠にもなり、「(未来の行為)のための理由」と「(なされたことについての)なぜなされたのかの理由」というよく知られた対比の根拠ともなる。だがそうなると、信念はそもそもなぜ欲求と結びついたりするのかという問題が残る。今こそ心理学におけるニュートン革命だ。人は行動をおこすのに、何かによって押されたり、突っつかれたり、刺激されたりする必要はない、人は自発的に行為するのだと、心得よう。人間は性来、活動的な生き物なのだと言っても良い。…行為――あるいはむしろ活動と呼ぶべきだがーーは、一連の連続した流れとしておこり、そこでは意図的要素がつねに介在する。信念が(因果的効力をもつ)欲望に転じるのも、欲望が行為に結実するのもなんの不思議もない。信念を欲望(利害と必要)に変え、そして特別な事情がない限り、さらに行為へと変換する欲求は、信念そのものがそうであるように、日々の実践的な生の営みの中で生まれてくるものだからである。 (op.cit.:95)

因果有効性をもつ「理由」が関係する因果メカニズムが、かなり複雑な仕組みであることが示唆されている。同様に、(それらすべてを「理由」ということでまとめることもできるかもしれないが)動機、利害、目標、計画などの諸々の要素で構成された、しかもそれらが偶然的に組み合わさった一回きりのプロセスではなく、「日々の実践的な生の営み」のなかで自分自身にその材料とエネルギーを備給しつつ反復再生するプロセスとして、出来事を出力し続けるようなプロセスとなっている場合も想定できるかもしれない。自然界における例えばクエン酸回路のような、それを構成する個々の因果連関を超えた、それらの統合体としてのより大きなパタン自体が一つの実在として研究対象となるといったことも考えうる。バスカーの2著作のなかでは、そうした対象は明示的には論じられていない。そうしたより高次な実体がいかなるものか、いかにして成立するかも、まだ問としては立てられていない。がそれをほのめかす議論は散見する。

たとえば、バスカーは「理由」が原因として因果有効性をもつことの更なる論拠として、理由を「梃子liver」として用いることができるという事実をあげる。ドレイが原因を実践的な文脈に属するものだと論じ、ナイチンゲールたちが不潔への実践的な介入の結果不潔を病気の原因だと知ったという事例のなかで、コリングウッドの原因=ハンドル説を援用しつつ行った議論を思い出そう(註16参照のこと)。ただバスカーの用いる例はかなり突飛である。

XがYに対して「君の婚約者ZはAと浮気している」と述べる単純な事例を考えてみよう。Xの発話行為が、その後のYの行動(それが何であったにせよ)の梃子、引き金、ないしは条件刺激となることを否定するのは馬鹿げているだろう。つまりXの発話行為がYのその後の行動の原因であることを否定するのは馬鹿げている。 (op.cit.:93)

「理由」が紛れもなく原因であるという議論を補強するものではあるが、それ以上にこの事例は「理由」を他者に与えることができる可能性を示している点で、興味深い。それに続けてバスカーは、人には自分の行為をモニターする能力がそなわっており、自分の行う諸々の行為に自ら理由を供給し続けていること、それは正当化であったり弁解であったりする場合もあること、正当化を可能にする能力が同時に他者の正当化を探知することを可能にする能力でもあること、そして行為者が自らに供給する理由は、他者との対話による交渉と、自らの他の行為との整合性という二重の制御を受けること、などを指摘する(ibid.)。今や「理由」は他者の存在を前提とし、相互に相手の行為を制御しあうプロセスのなかで眺められている。「理由」は行為の「原因」として作用するが、それは複雑な対他交渉のネットワークの中での作用なのである。

残念ながらバスカーの議論は、人間と社会のシステムにおける因果メカニズムのあり方に関して極めて示唆的ではあるが、そうしたメカニズムを具体的に描き出し、分析するという方向には進んでいかない。上記のきわめて興味深い考察も、そこで指摘されるのみで終わってしまい、さらなる展開へとは移らない。単なる二項的な因果関係ではなく、それらが複雑に組み合わされるなかで、因果的有効性がまさに打ち立てられるそのプロセス自体は、ついに明らかにはされない。むしろそれを主題化する一歩手前で議論は終わってしまうのである。

因果メカニズムをめぐる疑問

結局、(今日の科学哲学のなかでの位置づけすらよく私にはわかっていない)R・バスカーの因果メカニズムの議論を検討しただけなのだが(それと戸田山氏の入門書のなかでの簡単な記述だけからの印象なのだが)、因果メカニズムといいつつ、それほど複雑なメカニズムが扱われているわけではないという印象をもってしまう。原因とされるものと結果との二項関係の中で、前者が後者を生成する(?)仕組みを、因果メカニズムという名で論じること に終始しているようにすら見える。

ところが一方で、われわれは日常生活のあらゆる場面で、無数のすごく複雑な仕組みを備えたメカに取り囲まれて暮らしている。コンヴェックス式のオーブントースターがサツマイモをふっくらと焼き上げる仕組みは、私には十分複雑で、謎である。これらのメカは、既知の諸々の因果連関のそれぞれを一つの部品のようにして、技術者が、自然界にこれまで存在しなかったような仕方で組み合わせることによって、さもなければけっして手に入れられなかったであろう機能を発揮するようにデザイン設計されている。こうした人工的にデザインされたメカに取り囲まれてくらしているせいで、それがわれわれにとって、あまりにもありきたりな光景になってしまっていることが、逆に自然界における因果メカニズムにおいて、同様なデザイン性が出現することを主題化することをおろそかにしてしまっているとはいえないだろうか。デザイン・複雑・人為 / 必然・単純・自然 みたいな二項対立で見てはいないだろうか。バスカーが社会構造の因果メカニズムについて、やたら複雑さを強調する割に、一向にそれを具体的に分析していこうとしないところに感じたじれったさから、ついこんなことを考えてしまった。

言うまでもなく、複雑なデザイン性をもった因果メカニズムは、人為の世界に限ったことではない。生物の世界はまさにそうしたもので溢れている。メカニズムという言葉は、人を物理的な世界に引き寄せ、物理的な比喩でものごとをながめるよう誘う。ここは物理的な言葉遣いを脇において、生物の世界における複雑なデザインの進化に土台をうつして、社会世界における「因果メカニズム」的なものをとらえなおす方向で進んだほうがよいのかもしれない。

現象を生成するデザイン

メカニズムからプログラムへ

バスカーの議論は、「世界における現実(actual)の諸状態や生起事象(happenings)を構成する現象の流れを生成する」超事実的な「メカニズム」の実在によって世界を説明する「超越論的実在論」であった。このメカニズムは、「事物の作用様式」、事物に備わった「力」、ある仕方で作用しがちな傾向性であり、「因果法則の実在的基礎」を提供している。しかしバスカーが言うように、こうしたメカニズムが「世界における現実の諸状態や生起事象を構成する現象の流れ」を生成するのが、単独ではなく「こうしたメカニズムが組み合わさって生成する(combine to generate)」のであれば、むしろそれがどんなふうに組み合わさるのか、この組み合わせそのものが独自の組織体・恒久的なパターンをなしているのか、その都度の偶然的な組み合わせなのか、組み合わせにどのような形態があり、もしそれが恒久性をもっているとすれば、それはどのように生まれてきたのか、こうした組織化のあり方そのものを問題にせねばならないだろう。前節までで論じたように、バスカーの議論に欠けていたのはまさにこれである。

パターンの最小構成要素が仮に彼がメカニズムと呼ぶ因果法則単位であるとしても、そこだけに目を奪われていると、結局出来事はビリヤードの玉の衝突のような因果関係の単純な連鎖、せいぜい複雑なピタゴラスイッチのようなものしか、想像できなくなってしまう。より複雑な有機組織から、単純なピタゴラスイッチ的連鎖をも射程に含めて考えるために、物理の言葉に代わる、別のなんらかの比喩的概念を借りてくるのが便利かもしれない。

そもそも、複数の因果関係が、複雑な連続パターンに組み合わされ現象を生成しているケースを、単にたまたまそんなふうにつながっただけ、たまたまその組み合わせが安定的に持続するように出来ているだけ、という以外に説明出来ないとすれば、あまりにもおそまつではないだろうか。

月並みで陳腐な比喩かもしれないが、「プログラム」の比喩が有望かもしれない。たしかにプログラムはそのプログラムを解釈し実行できるなんらかの媒介物(たいていは機械)の作動を通じて、超事実的に作用し、現実的なさまざまな出来事を生成するのだから。しかもこの比喩はドーキンズやデネットの、生存機械としての生物の進化という比喩との相性も良い。

プログラムは原因の位置を占めることができない、という反論がただちに思いつく。プログラムは出来事ではないからである。しかし、これは因果関係が2つの独立した出来事のあいだの経験的な、一定不変の随伴関係であるとする経験主義からの見方であって、ウィンチが「理由」等が原因ではないと論じた際にも、同じ見方が採用されていた。ヘンペルのモデルに包摂する際には、それゆえ動機や理由をいったん脳内の神経的な出来事ととらえなおす必要があったのだが、特定の脳内の神経的な出来事を同定出来ない限り、これはかなり無理なやり方だった。経験主義的な因果理論を放棄すれば、例えばバスカーのように、理由その他を原因と考えることには全く問題はないわけで、それはプログラムについても同様である。プログラムにせよ、デザインにせよ、計画にせよ、それが身体的・物質的なプロセスに引き渡され遂行されるときには、バスカーの言う因果有効性の基準を満たすことになるので、われわれの日常の語感どおり、プログラムや計画が、その後の実際に生じる出来事の流れの原因になっていると語ることは、まったく理にかなっていることになる。

プログラムの進化としての生物進化

(以下、スケッチです)

デネットの「生成とテストの塔 Tower of Generate-and-Test」

ダニエル・デネットは、ヒトの心つまり脳の進化を理解する見取り図として、生物の4段階の進化図式を提出している([Dennett 1995:Chap.13],[Dennett 1996:Chap.4])(註21)。これを、環境内でより巧みに生存し子孫を残す「生存機械」として見た生物が、自らの環境内での作動様式をプログラムするうえでの「妙手」として手に入れてきた戦略の4つの段階のモデルとして読み直してみよう。

  1. ダーウィン型生物

 「遺伝子の突然変異と組み替えの、ほぼ恣意的な過程によって盲目的に生成」された、少しずつ違う「『作り付け』の」行動プログラムをもった個体群のなかで、最もうまくいくプログラムをそなえた個体だけが生き残って、増殖していく(自然選択される)。

「『作り付けの』表現型」を行動プログラムに読み替えただけで、ほぼデネットの定義そのままである。([Dennett 1995:374])

  1. スキナー型生物

作り付けのプログラムが可塑性という特性をそなえている。個体は、ランダムに多様な行動プログラムを生成し、オペラント条件づけによってもっともうまく行ったプログラムが選択される。このタイプの生物は、遺伝的に組み込み済みのプログラムに加えて、オペラント条件づけを通じて、いわば自ら新しい行動プログラムをインストールできる。このあとからインストールできたプログラムは、遺伝的プログラムの手が及ばない領域での行動を提供したり、すでにある遺伝的プログラムを補足したりといった柔軟な対応を可能にしてくれる。しかも比較的低リスクで。元祖ダーウィン型の生物は、新しいプログラムを身につけるまでに、うまく行かないプログラムの多数の個体が淘汰されてしまうが、スキナー型生物においては、「何か初期の誤りで死んでしまわない限り」(ibid.)うまく行かないプログラムが、個体の代わりに淘汰されてくれる。ただうまく行かないプログラムを試行する過程で、そこそこ痛い目にあうリスクは伴うが。

  1. ポッパー型生物

個体は、「外部環境とそこにある規則性についての情報」を含む「内部環境」を生成し、その内部環境に対して、可能な行動プログラムを試行し、実行前にプログラムの「事前選択」をすることができる。つまり「過酷な世界で危険を犯す前に、明らかに馬鹿げた選択肢は事前に取り除いておく」ことができる。新しいプログラムのインストールに伴うリスクをさらに低くしてくれる。この生物においては「もろもろの仮説が私たちに代わって死んでくれる」のである(op.cit.:375)。

  1. ステレルニー型生物

デネットのオリジナルでは、4番目に来るのはグレゴリー型生物と名付けられている。グレゴリー型の生物は、思考のためのさまざまなツールを使いこなすことができる生物だとされている。これは確かに、新たな知性の段階であるとは思うが、新しいプログラムをインストールするという、先立つ3段階まで続いてきた話に、突然まったく別のテーマの話が割り込んできた感じで違和感がある。というわけで、この第4段階についてのみ、勝手に変えさせていただいて、新しいプログラムを個体にインストールする第4の様式としての、社会的学習をもってきたい。社会的学習の進化について論じたステレルニーの名前をとって、ステレルニー型生物と呼ぶことにしよう。図はうまく描けないので、これのみ図なしだが、あしからず。

最初の3つの生物にとっては、いずれも個々の個体が他の個体の存在とは無関係に、それ自体に生得的なプログラムをインストールされて生まれてきたり、その後にプログラムを獲得する際にも、オペラント条件づけにせよ、内的環境での事前選択にせよ、自前で行うことになっている。プログラムのインストールを学習の一種と考えれば、これはスタンドアローン学習とでも言えよう。それに対して、この第4の生物においては、個体は新たなプログラムを、すでに他の個体が持っており、うまくいくことがわかっているプログラムを参考にしたり、模倣したり、そのままインストールしてもらったりして獲得することができる。スタンドアローン学習に対してこちらは社会的学習である。最高に、低コスト、低リスクのプログラム獲得である。

モデルは単純であるほうが良いが、残念ながら社会的学習にはさまざまな段階があることが知られている。

模倣によらない社会的学習

(以下、[Tomasello 2000]による)

  1. 露出/ニッチ構築(exposure/niche construction)

同じ種の他の成員たちによって顕著に変更を加えられた自然環境を受け継ぐ 個体がある種の行動を学習することを容易にする

例えば

  • 子供がいつも母親の後をついていく

  • 結果的にしばしば水場に遭遇

  • 子供はこうして水が手に入る場所を学習

  1. 刺激強調(stimulus enhancement)

ある個体の行動が、別の個体の注意をその環境内の特定の要素に向けさせる その結果、同等の行為が(個別の学習によって)引き出されうる

例えば

  • シジュウカラの牛乳瓶の蓋つつき

3羽のシジュウカラに端を発し、イギリス全土に広がる。ドーバー海峡を越えてヨーロッパのシジュウカラにも拡散

  • 仲間のシジュウカラが牛乳瓶の蓋をつついているのを見て、牛乳瓶の蓋に注目

  • シジュウカラは注目したものをつついてみる習性がある

  • つついてみた結果、ときに蓋がとれ、中のクリームを摂取することができる

  • 牛乳瓶の蓋をつついてクリームを摂取する行動を学習(自前で)

  • 幼いチンパンジーが母親が投げ捨てた木の棒に注意を惹かれ、自ら木の棒をいじり、母親がその木の棒によって行っていたことと同じ行動を自ら学習する

  1. エミュレーション学習(emulation learning)

他の個体が環境の要素に対してある操作を行っているのを見て、その環境要素がもつアフォーダンスについて学ぶ

たとえば

  • 母親が丸太を転がして、その下の地面にいた虫を食べる

  • チンパンジーの子供も同じことができるようになる

  • 子供は丸太の下に食べられる虫がいることを母の行動を見て学んだ

  • ただし子供は丸太が食べられる虫をアフォードすることを学んだものの、丸太に対してどのように働きかければよいかは、子供が試行錯誤の末(オペラント条件づけを通して)自分で学ばなければならない。

  • したがって、丸太を転がして虫を手に入れるという行動そのものは模倣できず、自ら編み出さなければならない。

  • 幸島のニホンザルの芋洗い

  • ギニアのボッソ―地区に住んでいるチンパンジーによるアブラヤシの殻割り

アブラヤシの固い種を石の台の上に乗せて、その上から小さめの石をハンマーのようにして打ち下ろし、種の中の柔らかい中身を取り出して食べる。

  • しかしボッソー地区のチンパンジーはアブラヤシ割りの動作を覚えるのに何年もかかる。

  • そこで伝わっているのは「石でアブラヤシの種が割れる」という結果の知識だけなのである。

  • 「どういうふうにすればアブラヤシの種が割れるのか」という方法の知識は、自らが試行錯誤の結果、発見するほかないのである。

  1. 簡易化(facilitative teaching)

たとえば

  • ミーアキャット 親は最初に死んだサソリを、ついで半ば死んだサソリを子供に与え(task decomposition)、子供が生きたサソリを狩る技を徐々にマスターできるようにする(ordering skill acquisition (Sterelny 2012, 35))

模倣による学習

(スケッチとすら言えないスケッチ)

模写と模倣

(以下、[Tomasello 2000]による)

  1. 模写(mimicking) 鳥の歌のように、他の個体の行動が仲間によって再生される

  2. 模倣(imitation)

模写・模倣は複雑なプロセス =リバース・エンジニアリング 他の個体の行動を観察して、それを生み出すプログラムを生成する

模写と模倣の根本的な違い

模倣:単に他の個体の行動だけでなく、そのコンテクスト、行動の結果、意図との関係で、それを生み出すプログラムを生成する

何のためにいつするべき行動であるかまで含めて、はじめて模倣的学習といえる

模倣は他者の視点を把握できていないと不可能

  • 他者の意図や目的によって他者の行動を予測する

  • 共通目的のために行動できる(9ヶ月革命)

  • 他者の心の比較的正確なシミュレーション(4歳児革命)

模倣を超えるもの

文化の累積進化の謎

指示(レシピ・設計図)> 模倣

たとえば

  • 指示・レシピに従ってかぼちゃパイを作る

  • 出来上がった製品のかぼちゃパイから、どうやってそれを作ったかを暴く(リバースエンジニアリング)

  • 作っているところを観察してどうやってそれを作ったか知る(模倣)

模倣(=リバースエンジニアリング)の孕む困難 斬新なパンプキンパイは広まるか

行動プログラムの進化と生態

(まだ何も書けていない)

 

 

註釈

(註1)中川氏の趣旨説明の全文をあげておく。「文化人類学を自然科学の一部とすることを最終目標として、そのための方法を模索する。自然科学を人類学の研究対象にするのではない。人類学を他の自然科学(とりわけ心理学と生物学)と横にならぶ自然科学の一つの部門として成立させるのである。具体的には、人類学独自のことば遣いを自然科学のある部門の言葉へと翻訳する可能性を考えることから始める。すなわち還元がその方法論である。還元先の部門としては、とりあえず、心理学(認知心理学、社会心理学)そして生物学(進化生物学、疫学)を考えている。また積極的に自然化を推し進めている一部の哲学にも範を求めたい。消極的には「人類学の解消」に繋る動きととらえることもできようが、わたしは、より積極的に、文化人類学の自然化は自然科学というものを変化・発展させる契機になり得ると信じている。」(https://www.minpaku.ac.jp/research/activity/project/iurp/17jr192

(註2)[浜本 2012]は、人々の文化的行為を説明する上で、人々自身が提供する目的や意図、理由を「偽りの原因」として退け、背後にあるとされる遺伝子の戦略を「真の原因」と考える、一部の社会生物学における議論に対する批判であり、生物学における志向的な語り口の比喩的な利用が、逆に真の意味で志向的なヒトに対して逆流する形で流用され、暴走する危険を指摘したものであるが、なぜ社会生物学が無理なのかについての私なりの考察となっている。一読していただけるとありがたい。以下のURLからアクセス可能である。 http://kalimbo.html.xdomain.jp/research/published/use&abuseofmetaphor-rev3.pdf

(註3)デュルタイは両者の区別を、研究対象の違いによる区別だとしていた。たとえば精神を研究する心理学は、デュルタイにとっては精神科学に属するが、ヴィンデルバントによると方法において、むしろ自然科学の側に属すものであった([大野 1985])。

(註4)被覆法則モデル(covering law model)という呼び方自体は、ドレイ[Dray 1957:1]が用いたのが最初である。私は当初これをカヴァー法則モデルと表記していたが、戸田山氏に従って[戸田山 2015](戸田山 2015:73)「被覆法則モデル」に改めた。いずれにしても日本語的にはわかりにくいが。

(註5)ヘンペルの元の論文では、初期条件その他はもっと詳しく列挙されているが、それでも全てとは言えない(圧力の増加率の法則が明示されていないとか)。しかも、すでに十分煩雑で、ウリクトの例示のもつ簡明さは犠牲になっている。

(註6)演繹的法則的説明モデルにはさまざまな問題が指摘されており、その改良バージョンがいくつも提出されている。ヘンペル自身、演繹的法則的モデル(DNモデル)における厳密に普遍的な法則に加えて、統計的に妥当な法則をも認めた帰納的統計的モデル(inductive-statistical model)を追加している。ヘンペルのモデルのいくつかの困難を回避するためにサーモンが考案した統計的関連性(statistical relevance)モデル(SRモデル)も、そうした改良バージョンである。それを初期条件に追加することで被説明項の条件付き確率が上昇するもののみを、関与的な説明項として認めるといった修正である[Salmon 1971]。いずれにしても、科学的説明を、説明項(前提条件+法則)から被説明項を論理的に導出できることとする点では、同様である。

(註7)エヴァンズ=プリチャードによると、「人類学は社会を自然システムとしてではなく道徳的システムとして研究する」のであって、民族誌は歴史記述(historiography)の一種と考えるべきだという。メイトランドのことばを引用して言うには、「結局のところ人類学には、歴史になるか無になるかのどちらかの選択肢しかない」のだと(Evans-Pritchard 1962:152)。人類学者が求めるのは歴史学者と同様、「法則ではなく、意味あるパターン」(ibid.)である。彼によると長期の現地調査を通じて、人類学者は現地の言語を習得し、現地の人々の諸概念によって考えることを学び、彼らの価値で感じることを学ぶ。それらを批判的かつ解釈的に追体験し、彼自身の文化と他の人類学的知見と関係付ける。つまり文化的翻訳を行う。そして、言語学者が単に現地の言語を理解し、話し、翻訳できるようになるだけでなく、その音韻論的、文法的システムを明らかにするように、人類学者も現地の社会生活を観察し記述するだけにとどまらず、それらの背後にある構造的秩序を、つまり現地の社会生活の全貌を、互いに関係づけられた抽象のセットとして見て取ることを可能にするパターンを明らかにしようとする(Evans-Pritchard 1951:61-62)。これが彼が「記述的統合 descriptive integration」(op.cit.:61)と呼ぶところのものである。

(註8)もちろん上官の号令が150デシベルの音量であれば、頭を右に向ける前に兵士たちは思わず耳を塞ごうとするかもしれない。意味の関係よりも、物理的な音の生理的な(自然科学的な)因果関係が行動をひきおこしたのだと言えるだろう。木の球を、どのような力であれ蹴ると、それはまさに運動の法則が述べるところに従って、放物線を描いて飛んでいく。飼い犬を同じ力で蹴っ飛ばすと、飼い犬は主人の怒りを見て取って怯える。見知らぬ犬なら、噛みつき返すかもしれない。これは意味の関係ではないかもしれないが、その萌芽のようにも見える。人なら、状況に応じて様々な行動で応答するだろう。でも犬であれ人であれ、度外れた強度の力で蹴っ飛ばしたら、物理的物体として放物線を描いて飛んでいくだろう。社会科学(人間科学)が関心を持つ領域は、物理的な力の作用し合う世界とは別の世界ではなく、その内部に開けた意味の関係が出来事のつながりを作り出していくある特異な領域であるということもできる。そうした領域が存在していること自体が、自然科学的な説明が適用できない世界の存在を示しているのである。

(註9)たとえば[Jarvie 1972:37-66]。なおWinch自身は[Jarvie 1972]所収の論文の初出に対するコメント([Winch 1970: 249-259])において、彼が「合理性の基準は比較不可能であると主張している」というジャーヴィの非難に対し、明確に否定している。「合理性の各々の考え方に関する文化横断的比較という包括的問題に関して、私の見解は、<合理性の基準は比較不可能である>というものであると、ジャーヴィは繰り返し、彼の論文の中心部分で述べている(たとえばp.239)。私にはこの場合の「比較不可能」ということばにどんな意味が与えられるべきか全く理解できない。また、これを適切にパラフレーズして私が喜んで受け入れることになるようないかなる見解も、私はたしかに主張していない。」(ibid.)

(註10)エヴァンズ=プリチャードのものとされるこの発言は、人類学者のあいだで広く語り継がれている(e.g., Needham 1975:365)が、実際に彼が書いたもののなかに見つけることはできない。

(註11)浜本はこうした極端な帰結が、われわれの言語使用を、まるでコード表によってメッセージを解読するような作業になぞらえる、きわめて硬直した言語観の産物であることを指摘している(浜本 1985)。そこでは言語はその内部にズレを含み、ズレを産出しつづけるシステムであり、比喩その他のレトリックはこれによって可能になっていること。そして、それが産出する新しい認識や視点によって、異なる言語ゲーム間の暫定的な比較の基準点を随時作り出すことが可能になっていることを論じた。

(註12)直上の註でも触れたように、これは浜本が1985年に表明した理解とも一致している。

(註13)ドレイによると、コリングウッドは単に、歴史的理解は行為の概念面を洞察することからなると主張していただけなのだが、被覆法則派たちーーヘンペル自身もーーが、それを感情移入といった方法論の主張と誤解したものだという([Dray 1957:128])。とは言え、ドレイも「君自身を行為者の立場に置くことによって、彼が為したことをなぜ彼は為したのかその理由を見出すことができる」をコリングウッドの発言として引用している(ibid.)。ヘンペルが誤解したのも無理もないとも言える。

(註14)ドレイの議論は、私が合衆国に留学していた際(1978-1980)に受講したコース(人類学方法論)で、ウィンチの『社会科学の概念』と並んで参考文献に挙げられていた。同時に参考文献に含まれていたウリクトの著作のなかでもドレイについてのかなり詳しい言及がある。被覆法則モデルに対するドレイの批判が、歴史的説明が一般法則にまったく依拠しないという指摘からなることに、ウリクトは着目していた([Von Wright 1971:24])。しかしウリクトの条件概念による因果分析(op.cit.:38)や、原因と結果の関係を行為によって定義すること(op.cit.:70)、説明を求める二種の原因の問い、「なぜ必然的に」の問いと「いかにして可能に」の問の区別(op.cit.:84-85)などは、いずれもドレイの発想(あるいはそれを発展させたもの)([Dray 1957:Chap.4, Chap.6])であるが、ウリクトはそこではドレイの名を出していないなど、ドレイに対する扱いには不当なものを感じる(私の早とちりでドレイの議論がオリジナルだと思っているだけで、本当はこの分野では当たり前の議論なのかもしれませんが)。

(註15)ドレイは、自然科学においてすら理論は「連続的出来事連鎖モデル」で了解可能性、つまり「なるほどそうか」の合点をもたらすと主張する([Dray 1957:79])。被覆法則モデルは、こうした通常の説明を、形式的、テクニカルに特化した特別な意味での「説明」で置き換えようとしている。それには「予測」という被覆法則モデルの「説明」が提供する利得がある。エンジンのエンストの説明は、ある意味科学的説明(被覆法則モデルの意味での「説明」ではなく、了解可能性をもたらす通常の意味での説明という意味で)である。ドレイによると、科学における通常の意味での説明と、歴史学における説明に違いがあるとすれば、出来事どうしのざっくりした関係(オイル漏れとエンストのような)の間を埋める連続的出来事連鎖を、科学は理論によって内挿する(つまり想定された観察不可能な実体の助けを借りて、説明すべき出来事間を連続的な細かい出来事の連鎖で埋める)のに対し、歴史学者は理論の助けを借りずに、実際の観察された出来事のツギハギの連鎖で埋めるという違いである。「というのは理論を用いて説明するとは、歴史家が、苦労してこつこつと直接やっていること、つまり困惑させる謎をそうでないものに変えるという作業を、間接的に行うということだからである。」(op.cit.:81)。

(註16)ドレイは、この発想をコリングウッドの「原因」とはある種のハンドルだ、という主張に負っていると認めている。コリングウッドによると「ものごとの原因とは、われわれがそれによってそのものごとを制御するハンドルである。われわれがそれを生み出したり妨げたりすることができ、そうすることによって何ごとかを生み出したり妨げたりできる、そんな出来事や状態を指して、われわれはそれをその何ごとかの原因と呼ぶのだ。」([Collingwood 1940:296]cited in [Dray 1957:95])

(註17)ウリクトは、上の註14でも指摘したように、ドレイの発想の多くを取り込んで精緻化しているが、そこからほとんど抜け落ちてしまっているのは、説明を実践的・実用的(pragmatic)な観点で捉えるというドレイのスタンスである。

(註18)人類学に馴染みのある方は、エヴァンズ=プリチャードのザンデ社会における妖術信仰研究において「なぜに」と「いかに」が二種類の原因を示す用語として用いられていたことを思い出すだろう。人々は「いかに」の問いに対応した出来事の経緯についての語りにおいて、西洋人と同じような現実把握を示す。「そう、シロアリが食い荒らしていたせいで古い穀物倉が倒壊し、その結果、その下で休んでいた老人を死なせてしまった」「では、老人が死んだ原因は老朽化した穀物倉でしょう」「そう。でもじゃあ、『なぜ』その老人がたまたま日陰を求めて休んでいたときに、よりによってその穀物倉が倒壊したんだい?それは妖術なんだよ。」こうしたやり取りの中で、エヴァンズ=プリチャードは「いかに原因」と「なぜ原因」という二種類の異なる「原因」があるとする独自の議論を展開した。浜本([浜本 1989])は、これを批判し、2つの原因の種類があるのではなく、単に人は「いかに」の問いで経緯について物語り、「なぜに」の問いでその物語の構造に聞き手の目を向けるのだと論じた。これはドレイの2つのタイプの説明という議論に対してもやはり当てはまるだろう。

(註19)人類学の詳細な学説史は、ここで意図するところではないが、当時のアメリカの人類学の研究動向だけに関しても、ウィンチとドレイのみを取り挙げるのがかなり乱暴な議論であることは確かである。サーリンズやギーアツは、人類学内部で解釈学的、あるいは記号論的なアプローチの優位を主導していたし、アルフレート・シュッツの現象学的社会学やエスノメソドロジーも同時に注目されていたし、エスノサイエンスの名で知られていたある種の認知人類学は、ウィンチが提唱しているような現地社会の概念枠組みを、言語分析を通じて地道に行っていた。今更当時の思想状況を掘り返すことにどれほどの意味があるのかはわからないが。

(註20)「賞味期限切れ」という言い方に抵抗がある方もおられるかもしれないが、戸田山氏は後の著作 [戸田山 2015]においてヘンペルの被覆法則モデルの問題点を挙げた上で「演繹的・法則的モデルは少なくとも科学的説明の主要なモデルの座をすでに追われていると見なすのが適切だろう」と結論づける詳細な議論を提供しておられることを指摘しておきたい(戸田山 op.cit.:75)。

(註21)[Dennett 2017]においても、図はともなっていないが同じモデルが言及されている。特に大きな修正は見られない。

引用参考文献