儀礼は人類学において長い間、意味を解読されるべきテキストであるかのような扱いを受けてきた。本論考は儀礼=象徴行為という枠組みから脱却して、儀礼を再び、状況に対して目的を持って働きかける「何かをする」行為、実効的な行為、としてとらえ直すための出発点を定める試みである。本論ではまず、儀礼が規約性によって特徴づけられるということの意味を明らかにする。私はこの規約性を、行為とそれが実行される特定の仕方とのあいだの関係として主題化するだろう。行為が一連のコンテキストにおける目的あるいは意図の対象としてとらえられた際の姿と、そうした志向対象としての行為を遂行する「仕方」というもう一つの姿という二つの姿の結び付きの規約性が問題となるのだと言ってもよい。このずいぶんもってまわった言い方は、問題の関係がたとえば目的と手段のような外的な関係としてとらえられないようにするためである。両者の関係の規約性は、単なる無根拠性と同義であるような消極的な規約性である。それはさまざまな秩序の図式が打ち立てられ可視化されていく舞台を提供している。この2点に注意を促すことによって、問うべき問いの形が明らかとなる。
儀礼についての語りも、たしかにこの反転する二項図式の想像力によって組織されているかのように見えるのである。キャサリーン・ベルは、単に研究者だけでなく一般の人々のあいだでの儀礼に対する態度のなかにも観察される同様な反転を指摘する。「そうした態度は、まずは近代における儀礼の『拒絶(repudiation)』に始まり、ついで儀礼への『回帰(return)』からその『ロマン化(romanticization)』まで広い範囲にわたる。第一の場合、儀礼はいわゆる未開社会に広く見出されるものとされる一方で、自分たちの社会では『拒絶』される。つづく『回帰』においては儀礼は重要な社会的、通文化的現象であることが認められ、さらに研究者と実践者の双方から、儀礼は個人と文化の変容をもたらす鍵となる機構とまで考えられる『ロマン化』に至るのである。」(Bell 1997:254)
人類学における儀礼研究自体が、この反転の恰好の例になっている。例えばフレーザーにとって儀礼は「呪術」に、つまり因果関係の誤認にもとづいた実践、誤謬の実践に収斂する。それは「未開」社会にのみ、あるいは--タイラーもそう考えていたように--ヨーロッパにおいては田舎や周縁部においてのみ見出されるような、過去からの残存物、近代の真理と合理性の光の前でたちまちにして消え去っていく暗闇の片鱗、人類の過去の愚かしさと無知--それともあまりにも素朴な知性--と誤謬の痕跡である。あるいは例えばロバートソン・スミスやデュルケームが見てとったように、それは未開社会が自らの結束を最終的に依存しているような感情の沸騰や陶酔を、あるいはフロイトが見てとったように、神経症患者の強迫を--いずれにしても、そのとき知性は眠っていることになる--示している。
これに対して、後のより我々の時代に近い人類学者たちは、儀礼の中に誤謬や単なる非合理とはほど遠いもの、逆になにかとてつもなく素晴らしいもの--現代社会においては残念なことに失わてしまっているかもしれない、あるいは現代社会においてすら別の姿で「再」発見されるのを待っている、あるいは単に近代性が見えなくさせているだけの人間に普遍的な基層としての--を見てとる傾向にある。
儀礼には例えば「ともすれば硬直し閉鎖的になる、人間の存在と社会に『反省作用』をもたらす」(青木 1984:325)効果があったり、日常の現実性にたいして「別種の『感覚・物理的事象』の世界を創り出」(ibid. :53-54)したりするとされる。あるいは儀礼は「人間の五官と身体に直接働きかける象徴を組織だって活用することによって、参加者の身体と心理の奥底に作用し、そこにある種の秩序を打ち立て」(竹沢 1987:210-211)るなどとも語られる。どうやら儀礼は人々に圧倒的な力で働きかけ、それをつうじて社会の秩序を確なものにしたり、その再活性化を導いたり、力動性を促したりできるらしい。なんだか儀礼はすごいのである。もちろんこうした議論の背景にはターナーの儀礼論(Turner 1969, 1974)の強い影響があることを無視することはできないが、儀礼に人間経験に対する根源的な作用を見ようとする傾向は、単一の理論によっては説明し得うるものではない。先住民の儀礼に自然と交歓し、人間性を回復し、癒し--ことさらヒーリングなどという言葉が用いられることもあるが--をもたらす力を認めて、本気でそれを自分たちの方法として採用しようとするネオ・シャーマニズムなどの今日における一部での流行と、共通する部分もないとは言えない。
儀礼のもつたいした効能--まるで20世紀の半ば以降になって突然あらためて発見されたとでもいうように--について語ることに、私自身(浜本 1989)を含め多くの研究者が熱中し、誰も指摘していなかった新たな効能を--いちいち取りあげることはしないが、しばしばそれなりに説得的に--競うように述べあってきた。実際にはそうした儀礼の効果で、一つとして本当に効果ありと立証されたものがあっただろうか。たとえば、既存の秩序に対する儀礼がもつ「反省作用」を実際に測定しようとした--あるいはその有無を実際に確認しようとした--研究者がいただろうか。自らの根拠を固めることにはそれほど熱心でないように見えるこの情熱、儀礼に注がれている熱い眼差し、儀礼の効果についてのこうした近年の語り口が、キャサリーン・ベルがターナーとギーアツの儀礼論に対して鋭く指摘したように(Bell 1997:254-255)、儀礼と近代化を対置させる、未開と文明の二項対立と同質の図式に相変わらず縛られているだけなのだ--ただし各項の価値を反転させて--ということにはならないだろうか。そしてこのように批判するベル自身も、ブルデューと同様、儀礼に秩序を構成するさまざまな二項図式を身体に刻み込まれた実践の主体を形成する効果を認めている。やっぱり儀礼をただ者にはしたくないのだ。
こう述べたからといって、私は儀礼が一連の論者が指摘するような効果をもっている可能性を否定するつもりはない。こうした議論に暗黙のうちに含まれている、効果があることを前提としてしまう態度を問題にしている。儀礼に固有の特殊な効果を--それを立証しようという備えなしに--想定してしまうこと、そしてその効果のゆえに儀礼は存在しているのだと考えることは、植民地的想像力の構図を構成する二項対立図式のなかで、儀礼に無意味な形式性や非合理を見いだすことの単なる裏返しでしかない。効果を取り沙汰する以前に、儀礼と称される諸実践において実際に何が何のために遂行されているのかを、余計な想定抜きに押さえる方が、大切な手続きであることはあまりにも当然のことではないだろうか。これが私の本論考での出発点である。
それにしてもなぜ儀礼を論じる際に、儀礼を行なっている当の人々にとってそうであるものとは違う何かとして、それを提示したがるのだろうか。当の人々にとってそれが、たとえば災いを回避したり、子供の順調な成長を助けたり、不幸にピリオドを打ったりするための手続き--明確な目的を持って状況に働きかける実践--であるときに、なぜそれをそうではない何か、メッセージの伝達であるとか儀礼化された身体の形成であるとか、にしてみせなければならないというのだろう。儀礼の効果について論じる際にも、人々に社会の基本的な価値を確認させる効果とか、日常的な秩序を再活性化する効果とか、日常の秩序とは異なる対抗的な秩序を経験させる効果とか、人々の主体を形成する効果だとか、数え上げるときりがないほどほとんどありとあらゆることが言われるなかで、当の人々自身がその儀礼的行為に期待している効果そのもの--災いを回避するとか、子供の成長を促すとか、病人を回復させるとか、祖先の祝福をもたらすとか、死者を天国に導くとか--をそうした効果に数え上げることだけが実に慎重に避けられている。まるで当の行為を人々が言う通りのものであると認めた途端に、それがフレーザーが「未開人」の実践に喜んで見出そうとしたものに、つまり誤謬に基づいた非合理な実践になってしまうのではないかと恐れてでもいるかのようだ。たしかに人類学者自身には、人々が行なっているようなことによっては災いは回避できないし、子供の成長に何の足しにもならないように見えるし、人々の言う天国なるものが実在しないのであれば死者であれ誰であれそこに導くなどそもそもできっこない相談であるように見えるのである。
いかなる理由にせよ、儀礼についてほとんどありとあらゆることが言われてきた中で、それを現実的な効果を期待した実効的な行為手続きとして分析することだけが、フレーザー以降、ほとんど影を潜めてしまっていた。タンバイアの例外的な挑戦も、儀礼をコミュニケーションあるいは表現行為とした上でその実効性を問題にしているため、中途半端に終わっている(Tambiah 1985)。彼がこの問題に向かう際に援用しているのがオースティンやサールの言語行為論(Austin 1962, Searle 1969)であること自体が、彼が儀礼を言語行為のように意味の伝達をまず本質とするものだと捉えていることをよく物語っている。言語行為論、とりわけオースティンの言うところの「発話内行為 illocutionary act」の概念の眼目とその新しかった点は、発話という行為が単に命題的な内容を伝える行為(locutionary act)であるだけでなく、発話することを通じて約束や命令や警告や誓いといったさまざまな行為を遂行することでもあるという点に注意を促したことである。はじめから遂行的な行為そのものであるような行為、播種に備えて畑を鍬で耕したり、雑草をとったりする行為などなら、言語行為論を適用するまでもなくそれが「何かを遂行する」行為であることを誰も疑ったりしないし、そもそも言語行為論を持ち出す気も起こさせなかったはずなのである(註1)。タンバイアの取り組みは、儀礼を象徴的行為だと決めつけることによってその実効性を原理的に排除しておいたうえで、発話行為に含まれる行為遂行性になぞらえてそれを再導入しようという、不必要に回りくどく倒錯した試みだと言うしかない。儀礼=象徴行為の図式にいかに人類学者が呪縛されてきたかをよく示した症状である。
本論考で私が行なおうとしている軌道修整とは、儀礼=象徴行為という捉え方から離脱して、状況に対して目的を持って働きかける「何かをする」行為としての資格を儀礼に再認知してやることである。儀礼をその意味で他のあらゆる種類の行為と同列に捉えるたうえで、そこから儀礼を通じて見えてくる問題系の輪郭を明らかにしていきたい(註2)。それは人類学の伝統的な研究領域を測量しなおす作業においては、初歩的ではあるが有効な一歩になると思う。
私は儀礼が明るみに出す問題系を、行為における規約性の問題としてとらえるつもりである。この規約性に絡み付いた謎をどこまできちんと提示することができるだろうか。これは人類学にとって最も基本的な問いにつながっている。現象学的社会学やエスノメソドロジーの眼目が、我々が客観的なリアリティーとして生きているものが実は社会的実践によって構築された虚構的なものであることを暴くことにあるのだとすれば、人類学の深刻な挑戦は、我々にとってはいかにも嘘っぽく虚構的にしか見えない秩序が別の人々によって現実そのものとして生きられているという事実をいかに理解するか、人が虚構をリアリティーそのものとして生きるということがどうして可能なのかを問うことであったからである。規約性は、一方においては、人々が生きる秩序が虚構的で構築されたものであることを余儀なくさせるものである。しかし同時に、その虚構的な秩序をリアリティそのものとして、具体的な現実性として生きることを可能にしているのも、おそらくはこの同じ規約性なのである。儀礼と呼ばれてきた諸実践とは、行為の規約性のこの謎をもっとも目につく形で突きつけている実践の形態である。
もちろん儀礼はたしかに規則に明示的に従う行為でもある。ある儀礼についてよく知っている人と言えば、それをどのように行なうかの手続きについて正しく知っている人のことである。それを行う者にとって儀礼で大事なことは、その正しい定まった手続きに忠実に従うことである。稀にしか行なわれない儀礼の場合、当事者たちはその儀礼を主宰する専門家を除いて、問題の手続きをよく知らない場合がある。そんなときには、儀礼は専門家がその都度出すインストラクションに逐一従って行為する形で、実行される。「さあ、この薬液をすすって。飲み込んだら駄目だよ。さあ、身体の右側に吐き出しなさい。すすって吐き出す。三回。はい、もう一度。もう一度。さあ、今度は身体の左側に吐き出す....」(註3)儀礼がこんな風に、規則にであれ定まった手続きにであれ指示にであれ、それに従って実行される行為であることは、当たり前すぎるくらい明らかな話であり、この意味で儀礼が規約的であると言っても、あまりたいしたことを言ったことにはならない。それがそんなに注目すべきことであるとするなら、添付されたマニュアル片手に、そこに書かれている指示に(ほとんど訳もわからず)忠実に従いながら、周辺装置をコンピュータに接続しようとする行為なども、同じくおおいに注目すべき行為だということになろう。
ましてや儀礼の規約性を、儀礼において人々はたんに昔から定まっている規則に盲目的にしたがっている--規則に従うこと自体を目的としている--だけであるというような、儀礼の没意味性の主張と取り違えたりしてはならない。儀礼はつねに特定の状況において必要とされているから行われるのであって、それは目的遂行的行為である。人々が儀礼を通じて行おうとしているのは、例えば、予期される災いを防ごうとしたり、子供の成長を助けようとしたりすることであって、けっして単に規則に従おうとすることではない。儀礼を、規則だからという理由で人々が行っているだけだと主張することは、チェスを差している人々に対して彼らのやっていることは単にチェスの規則に何の疑問も持たずに従っているだけの行為だと論評したり、論争している二人の人物がやっていることを彼らは日本語の文法規則に従っているだけであると要約するようなものである。これがチェスを差す、あるいは議論するという行為の要約としては、おそろしく不適切であるように、儀礼の規約性の事実から、儀礼とはただ規則に従うことからなる行為であると要約することも、儀礼的行為についての端的に的外れな要約である。
「規約性」が見いだされる場所をもっと正確に押えておく必要があるだろう。
すべての行為は「何かをある仕方でおこなうこと」である。もちろんどんな行為にせよ、「どんな仕方でもないような仕方」でそれを行うことなど出来る訳がない。その都度必ず「何らかのやり方で」行うしかないのであるが、それをいちいちその度にさまざまなやり方の可能性の中から決定しているわけではない。それを行う特定の仕方が「きまっている」場合が多い。たとえば日本では普通、家に入るときには靴を脱ぐ。ただ「家に入る」だけなら、靴をはいたままでもできるだろうが、それでは正しいやり方で家に入ったことにはならない。家に入るときにどうして靴を脱がねばならないのかという問うことが出来ないわけではない。しかしそれが家にはいるときの、すっかり身についた決まりきったやり方になってしまっているとき、この問いはどこか余計なものに見える。あれこれと理屈を付け加えるよりも単に「ここ(日本)ではそうすることになっているのだ、そういうきまりなのだ」という方が、より適切な答えとなる。ここに見られるのが「規約性」である。別に「家に入るときには履物を脱がなければならない」という規則があって、家に入ろうとするたびにそれに自覚的に従っているというわけではないし、また家に入る際に履物を脱いでいる人が、そういう規則の存在を理由として--それが規則であるからという理由で--そのように振る舞っているというわけでもない。ただそうすることになっているのである。「そういうきまりなのだ」という言明は、規則の存在を指し示しているというよりは、「我々は単にそのようにふるまうのだ」という言明と等価である。規約性が見出されるために、規則そのものの存在(あるいはより正確には、規則がある表現のもとでとらえられていること)やそれに対する自覚的な服従(あるいは行為者が自らの行為を「云々の規則に服従する行為」という記述のもとで知っていること)が必要なわけではない。行為とそれをする仕方との結び付きにおける無条件で有無を言わさぬ性格について、それを規約的と呼ぶのである。むしろ規則の方が、対象化された規約性、その表現形の一つなのである。
規約性を規則の存在と取り違えるのは、しかし、ある意味では避けられないことかもしれない。「決まった」という言い方にはつねにある種の曖昧さが含まれており、ある行為がいつも「決まった」やり方でなされるという場合、人はその決まり方を2種類に大胆に分けてしまう傾向があるからである。一つは、単に一定しているという意味であり、もう一つは「きまり」として定まっているという意味である。あるバス停でバスが「決まって」5分前後遅れて到着するという事実を、バスが5分前後遅れるという「きまり」に従って運行されているということと混同する者は誰もいないだろう(註4)。前者の場合、さらにどのような原因や理由からいつも5分前後遅れてしまうのかを問うことが可能である。しかしもしバスが5分前後遅れなければならないという「きまり」に従って運行されているというのであれば、もはやそうした問いを立てること自体が的外れになる。決まって5分前後遅れるのは、単にそういう「きまり」だからだ、という訳である。問いは別の平面で立てられることになる。それは、なぜバス会社がそのような「きまり」を作ったのだろうか、という類の問いになる。
これは「自然」と「社会」という二つの対立する異なる秩序を想像する際の常套的な構図の一つでもある。事象は、このどちらに属するかによって、異なる説明の仕方を要求する。ある仕方で生起する事象について、それがそんな具合いに生起することの根拠は、前者の場合には出来事の因果的な連鎖に求めることができるし(それが「自然」の領域における説明である)、後者の場合には当の「きまり」そのものを根拠づけるもの、合意や制定や布告や契約の事実、合意や制定や布告や契約そのものの主旨などに求められるということになる。
二分法が常にそうであるように、この極端な二分法もその単純さによって我々を誤らせる。こうした構図は規約性の事実を、規則そのものの存在にそして規則に対する服従の行為に置き換えてしまう。こうして諸実践は「あたかも自覚的に作り上げられ承認されている規則への自覚的な服従を原則としているかのようになってしまう」(Bourdieu 1977:27)。素朴な律法主義の罠にはまってしまうのである。やり方の決まった行為のうちに見てとることのできる規約性を「きまり」や「約束事」などなどと仮に呼んでよいとしても、あくまでも誰が決めたものでもないきまりを「きまり」と呼び、誰も約束した覚えのない約束を「約束ごと」と呼び、けっしてなされたことのない合意を「合意」と呼んでいるだけのことがほとんどであることを忘れてはならない。それは、控え目に言っても比喩的な語り口なのである。ある行為をあるやり方で実行していることについて、なぜそうするのかという問いに「そうするように決まっているからだ」と答えるのはよくあることであるが、それはけっして当の行為者にとってそれが規則として対象化されていて、それに従わないというオプションが現実的な可能性としてあったということを意味してなどいない。またそう答えたからといって、彼はけっして「規則だから」そう振る舞っていたのだというわけでもない。この答えはむしろ問いの遮断に、その「決まったやり方」の無根拠性、恣意性の告白に近いのである。諸原因をことごとく掘り出してしまって、ついに固い岩盤に突き当たり、曲がってしまったヴィトゲンシュタインの鋤の持ち主の答えなのだ(Wittgenstein 1953:Section 217)。ある行為がきまってある仕方でなされるという事実に見て取られる規約性とは、単なる「規則性」と「規則」との両極端のいずれにも属さない、きわめて消極的な意味での規約性としてとりあえず理解しておく必要がある。あるいはそれはそもそも、上記の二分法にはそぐわないのかもしれない。
実際には、人間の文化的実践のほとんどに見られる規約性とは、この種の消極的な規約性である。日本語では水のことを「ミズ」と呼ぶように「決まって」いる(言語は「約束ごと」に基づいたものであるという言い方もありふれている--もちろん誰も約束した覚えはないのだが)。しかし、こう言うことはけっして私がこの言葉を使用する際に、この結び付きのきまりを規則として対象化し、そのつもりになればそれに従わないこともできるであろう可能性を踏まえつつそれにしたがっているなどということを意味しない。私が水のことを「ミズ」と呼びならわしているのは、そうすることが規則だからだという理由からでもない。単に私は、そんな風にその言葉を使うようになっているというだけのことである。「そう決まっている」と語ることは、「なぜ水のことをミズと言うのか」という根拠をめぐる問いを遮断する語り--理由や根拠づけの欠如の表明--であるにすぎない。まさにそのように振る舞うことが秩序そのものの一部、自分たちが現に現実そのものとして生きている--たとえそれが根拠づけ不可能であるとしても、そんなことにはお構いなしに有無を言わさず現実そのものとして生きてしまっている--秩序の一部となっているという事実がそこでは表明されているのである。
私は儀礼をとりあえず、ここで述べたような意味での「規約的」な行為--規約的に決まったやり方で何かをやること--の一種であるとするところから出発したい。個々の儀礼的実践には、遅れている雨を促すとか、人に健康を取り戻させるとか、屋敷を冷やすとかの具体的な目的がある。儀礼はその目的に向けての行為なのであるが、そこでの最初に注目すべき特徴が、そのやり方が「決っている」という点なのである。これを儀礼について考える最小限の出発点にしよう。儀礼という言葉でカバーする事象の範囲を広げすぎるという気がするかもしれない。だが、やり方が決まっているという点で、儀礼と非儀礼の間にそんなに明確な境界が引けると決めてかかるのには問題がある。「家に入る」きまりきったやり方にさらに何を付け加えれば、それが「家に入る儀礼」と呼びうるものになるか考えてみればよい。靴を脱ぐだけでは儀礼とは呼べないが、必ず右足から脱ぐとか、脱いだ後必ず前後逆さに揃えて置くとか、さらにその際に「ただいま」を3回口の中で唱えるとかが付け加われば、それがにわかに儀礼になるなどということが言えるだろうか。あるいはおごそかに逆立ちでもして見せねばならないとでも言うのだろうか。少なくとも儀礼をマークする明確な境界線など、ここにはありそうにない(註5)。
儀礼において問題になる種類の規約性が、秩序の無根拠性、恣意性の裏返しであるという点は、かつて儀礼的とされる行為が一方における「技術的」行為と誤って対比させられてきた理由を、よりよく理解させてくれるかもしれない。あることを遂行する決まったやり方は、それ自体として技術的な目的−手段の合理的連関を(そしてその点では、ありとあらゆる外的な意味連関を)排除したりはしない。決まりきったやり方が、同時に目的−手段連関から見て合理的であったとしても(あるいは他の意味連関から見て有意味であったとしても)、何の不都合もないし、むしろ結構なことである。しかしそこに含まれる規約性は、こうした外的な連関からいつ何時にでも当の行為を引きはがしてしまう可能性を用意する。言語における恣意性がちょうどそうであるように、規約という事実は同時にあらゆる外的な動機付けからの自由を意味してもいるのである。そしてなぜそう決まっているのかということには、ちょうどなぜ「水」のことを「ミズ」と言うのかに理由などないように、しばしば何の理由もない。人類学者たちが特定の行為に「儀礼的」という形容詞をすすんであてはめる気になるかどうかは、多かれ少なかれ規約性で特徴づけられる人間の文化的実践において、外的動機づけからの--とりわけ目的合理的な意味連関からの--遊離の甚だしい度合に応じていたのだとすら言えるかもしれないのである。儀礼は何らかの目的に向けた手続きであるので、この遊離はますます人目を引くことになる。
決まったやり方の多くは学習されている。やり方が身についてしまう(けっして単に肉体にとか身体に刻み込まれるという意味ではなく)度合いに応じて、そこに含まれる規約的な性格は隠蔽される。我々がほとんどその規約性を意識することなく「水」のことを「ミズ」と呼ぶことをしっかり身につけてしまっているように、何かを行う決りきったやり方は、往々にして、すっかり身についてしまうことによってそのやり方が学ばれるべき何か、そうでないやり方ででもあり得たかもしれない何か、そうであらねばならないことに何の根拠もないかもしれない何か、であったという事実そのものが、すっかり見えなくなってしまっている。特別な場合にしか行なわれない多くの儀礼的な行為を、こうした身についた規約的な行為といっしょにすることは出来ない。規約性が両者の共通点である。しかし儀礼においては、それはあからさまに噴出しているのである。儀礼は、我々の社会で多くの同様な行為がたどってきたように、容易に無意味な形式性、訳もわからず従うことだけが要求されている規則に転落してしまいうる。人類学が「儀礼」として問題にしていたような諸行為は、行為の規約性をめぐるある特殊な問題領域に対応していると見ることができるかもしれない。行為の規約性があからさまに噴出しようとし、それが同時にかろうじて自然のなかに塗り込まれようとする危うい瞬間が、我々の目を奪っているのかも知れないのである。
志向対象としての行為、つまり「何かを行うこと」として捉えられた行為は、相互に関係づけて眺められたり、その結び付きになんらかの明瞭なロジックを見て取ったりできるかもしれない。それはまた状況と関係づけられ、人々はそのしかじかの状況においてまさにその「何か」を行わねばならない必然や原因や動機や理由などについて語るだろう。しかしその「何か」を実行する他ならぬ「仕方」そのものは、そうした語りからはこぼれ落ちてしまう。
例えば、人は特定の目的や動機や理由があって、「家から出る」という行為を行うだろう。しかしその際に「家から出る」仕方の一部を構成する「靴を履く」などの行為は、「家から出る」行為が意図されているというのとは同じ意味では、意図されているとは言えないことになる。仮に「犬を散歩させる」ためというのが「家から出る」行為の有意味な理由を提供しているときには、「靴を履く」ことが改めてこの同じ理由によって動機づけられる必要はないのである。「正しく」家から出たければ靴を履かねばならないのは、あたりまえのことであり、それはさらなる理由付けを必要としていない。別の言い方をすれば、家を出ようという意図だけがあれば充分であって、その際に家を出ようという意図に加えて、靴を履こうという意図をそれとはまた別に持ったりする必要などないのである。要するに、行為のコンテキストへの関係づけのなかで自らは主題化を免れるもの、それがここで言う行為の「やり方」なのである。意図の問題を論じるアンスコムの言い方を流用するなら(Anscombe 1957)、行為が行為者にとって「ある記述のもとで」知られているとき、それは別の記述のもとでは知られていないということを意味している。行為の決りきったやり方は、こうした仕方で主題化を免れるのである。
しかし往々にして、当の行為が所属するコンテキストとは独立した秩序生成の作業が、まさにそこにこっそりと組み込まれていることに気づくことがある。当たり前のようにわざわざ靴を脱いだり履いたりする仕方で家から出入りすることによって、私たちは「家から出る」という行為を実行するなかで、同時にさまざまな秩序の作業を遂行してしまってもいる。たとえばこのとき私たちは内と外という2項対立区分を--まさにそれと「意図」することなしに--念入りにマークしているのであり、さらにはそれを浄と不浄、その他の区別にせっせと結び付けている。それは内と外の区別を可視化する実践であると同時に、その区別を踏まえた実践でもあり、さらにこの2項を分節する実践でもある。
既に述べたように、手を伸ばして何かを取る行為であろうと、食事をする行為であろうと、何か問題について考える行為であろうと、われわれが「何か」をやろうとするときには、つねにそれを「なんらかのやりかた」でおこなうしかない。どんなやり方でもないやり方で何かを行うことなど不可能だからである。あらゆる行為に内在し、それとは不可分なこうした「やりかた」の部分こそ、さまざまな図式が描き込まれる土壌である。あるいは秩序の図式が生き延びる場所がそこなのである。こうして、二項対立の図式をはじめとする種々の秩序の図式が、さまざまな活動に内在してそれらの活動を、同時に世界を分節する区別の実践にする。区別をふまえて何かを行うということが、すなわち区別するということであり、またすなわち区別を可視化するということだからである。そのとき行為は、自らが準拠する区別を自らの手で作りだす、世界を分節する営みになる。
「儀礼的」という形で人類学者が注目してきた諸実践が、その社会の「宇宙論的な図式」に基づいたものであったり、それを反映したものであったりするものとして分析されることが多かったのも、もし「儀礼的」実践がすぐれて上で述べたような意味での秩序の実践でもあったとするならば、納得のいく話である。
我々の前には、多かれ少なかれそのやり方の決まった様々な行為がある。提出される問いは、人々がどのような行為を文化的実践として実行可能なものとし、それらがどのような仕方で行なわれるとされているか、という問いである。「家を出入りする」ような行為を例にして論じてきたために、この問いの前半部は一見余計なものに見えるかも知れない。しかし我々にとっては実行可能な現実的な行為である「時間を節約する」行為(あるいは時間をまるでお金か何かででもあるかのように浪費したり、割いたり、取っておいたりする行為)が、例えば東アフリカで私と親しく付き合っていた何人かの人々にとっても文字どおり実行可能な現実的な行為であるといえるかどうか、そして彼らにとっての「死を投げ棄て」たり「屋敷を冷やし」たりする実行可能な現実的な行為を、我々はなにか謎めいたもの、あるいは単なる言葉の綾として以外に見ることができるかどうかと、自問してみよう。どのような種類の行為が実行可能な行為とされているか、という問いには充分意味がある。私はこうした実行可能な行為(の表象)とそのやり方(の知識)とのしばしば亀裂を含んだ関係を注視するだろう。その亀裂の中に、世界を分節化する実践--秩序の実践--のアクロバティックな姿を確認できるかもしれない。
(註2)この立場は国立民族学博物館での共同研究会(田辺繁治代表者)において1987年12月に発表した「死を投げ棄てる」儀礼についての分析(浜本 1989b)において提出した立場である。本論考はそれを再考する試みの出発点である。
(註3)このくだりは母系クランが管理するキフドゥの壺によって引き起こされた病気の治療儀礼の記録の一部である。
(註4)この例は、ブルデューが引用するジッフのフレーズ(Ziff 1960:38)を少し変形したものである(Bourdieu 1977:29)。
(註5)それとも、それが儀礼となるためには「宗教的」なもの--例えば超自然的な存在にたいする信仰との関係--が必要だとでも言うのだろうか。しかし、例えばその都度、超自然的な存在者を心に思い描くことによって、ただ家に入っていく行為が、突然「儀礼的」になるなどと考えるとすれば、それはここで挙げたすべての条件と同様に滑稽であろう。「やり方の決まった行為」というとりあえずの出発点に固執する方が、儀礼を日常に対する非日常であるなどと最初から決めつけたり、宗教的なものとの関連を前提にしてみたり、象徴的であるとか表現行為の一種であると仮定したりしてもっともらしく儀礼を定義するところから出発するよりは、まだましであろう。
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