儀礼は「何かをする」ことである。この一見当たり前の事実をことさらに指摘することは、人類学の儀礼論の中で、長い間にわたって儀礼の実効的行為としての側面が軽んじられてきた事実を考慮に入れると、ささやかではあるが断固とした軌道修正を行なうということでもある。リーチが儀礼を行為における表現的、伝達的側面として定義しなおし、儀礼においては「何かを言う」という側面が「何かをする」という側面より顕著であるとして以来(Leach 1954:10-14, 1966, 1968:523)、儀礼はもっぱらその象徴的意味を解読されるべきテキストででもあるかのように分析されてきたのであるから。「儀礼の象徴性」についての先入観をひとまず措き、それを他のあらゆる種類の行為と同列に捉えるところから、考えなおしてみよう。
何事を行うにしても、それを行う何か決まった正しい特定の仕方というものがあることが多い。そもそもどんな行為にせよ、「どんな仕方でもないような仕方」でそれを行うことなど出来る訳がない。いかなる行為もその都度「何らかのやり方で」それを行うしかないのであるが、その仕方が一定している場合がけっこう多いのである。日本では普通、家に入るときには靴を脱ぐ。ただ「家に入る」だけなら、靴をはいたままでもできるだろう。しかしそれでは正しいやり方で家に入ったことにはならない。また、ある人は家から出るときに必ず右足から先に出ないと気が済まなかったりする。はっきりとした理由はないのだが、それがその人にとっての「家から外に出る」正しいやり方なのである。行為と、その決まったやり方は、しばしばそれ以外の仕方でやることが思いもよらないほど結び付いてしまっていることもある。極端な場合、やり方が当の行為の定義そのものになっているかもしれない。相手に対して頭を下げるというやり方以外で「お辞儀する」ことができるだろうか?それはお辞儀することの正しいやり方の一つであるという以上に、お辞儀という行為の定義そのものである。この場合、お辞儀するときにどうして頭を下げねばならないのかと問うことは、ほとんど無意味である。頭を下げなければ、それ以外の何をしようともお辞儀したことにはならないのだから。これと違って、家に入るときにどうして靴を脱がねばならないのかという問いは、論理的には充分意味がある。しかしそれが家にはいるときの、すっかり身についた決まりきったやり方である度合いに応じて、この問いも実質的な意味を失っていくであろう。あれこれと理屈を付け加える以上に単に「ここではそうすることになっているのだ」という方が、より適切な答えとなる瞬間がやってくる。さらに、家に入る際にどうしても右足から上がらないと気がすまない人に、どうしてかと問うてみても彼を困惑させるだけである。儀礼も、なぜかはわからないがそうすることに決まっている、そうせねばならないことになっている、そんな手続きであるという側面をもってはいないだろうか。私は儀礼を、とりあえず、こうした「やり方の決まった行為」のスペクトラムのなかに置いてみようと思う。
もっとも、決まったやり方といっても、それが誰か特定の個人が家を出る際にどうしても逆立ちをせずにはおれないという類のことであれば、それはその人の勝手であり、人類学が特に関心をもつことではないかもしれない。しかし、ある社会の人々がそろってそうすべきだと言い張るとすれば、これは人類学の対象であるとは言えそうである。やり方の知識については当然考慮すべき個人的な偏差があるはずであるから、この違いにもあまりこだわりすぎるべきではないが、いずれにせよ特定の社会における決まったやり方の、かなりの部分がこうして儀礼として研究されてきたことは間違いない。
何かを行う決まったやり方というだけでは、人類学が儀礼という言葉で研究してきた事象の範囲をカバーするどころか、あまりにもその範囲を広げすぎることになるのではないかという危惧ももっともである。しかし、やり方が決まっているという点で、儀礼と非儀礼の間に、本当にそんなに明確な境界が引けるとは思われない。「家に入る」きまりきったやり方にさらに何を付け加えれば、それが「家に入る儀礼」と呼びうるものになるか考えてみればよい。靴を脱ぐだけでは儀礼とは呼べないが、必ず右足から脱がねばならないとか、脱いだ後必ず前後逆さに揃えて置かねばならないとか、さらにその際に「ただいま」を3回口の中で唱えねばならないとかが付け加われば、それがにわかに儀礼になるなどということが言えるだろうか。あるいはおごそかに逆立ちでもして見せねばならないとでも言うのだろうか。少なくとも儀礼をマークする明確な境界線など、ここにはないのである♀。「やり方の決まった行為」というとりあえずの出発点に固執する方が、儀礼を日常に対する非日常であるなどと最初から決めつけたり、宗教的なものとの関連を前提にしてみたり、象徴的であるとか表現行為の一種であると仮定したりしてもっともらしく儀礼を定義するところから出発するよりは、賢明であるように思われる。
「決まった」という言い方のなかに、ある種の規約性の含みがある点にも注意しておこう。実際、私は儀礼という言葉によって、単にやり方が一定しているという以上の意味、つまり規約的な性格をそこに見て取ろうとしている。これは今後の論考の過程で少しずつはっきりさせていくことになるだろう。規約性が最終的な無根拠性、恣意性に関係づけられる概念であることは、特に強調しておきたい。それは、かつて儀礼的とされる行為が一方における「技術的」行為と誤って対比させられてきた理由を、よりよく理解させてくれる。あることを遂行する決まったやり方は、それ自体として技術的な目的−手段の合理的連関を(そしてその点では、ありとあらゆる外的な意味連関を)排除したりはしない。決まりきったやり方が、同時に目的−手段連関から見て合理的であったとしても(あるいは他の意味連関から見て有意味であったとしても)、何の不都合もないし、むしろ結構なことである。しかしそこに含まれる「規約性」は、こうした外的な連関からいつ何時にでも当の行為を引きはがしてしまう可能性を用意する。言語における恣意性がちょうどそうであるように、規約という事実は同時にあらゆる外的な動機付けからの自由を意味してもいるのである。そしてなぜそう決まっているのかということには、ちょうどなぜ「水」のことを「ミズ」と言うのかに理由などないように、しばしば何の理由もない。人類学者たちが特定の行為に「儀礼的」という形容詞をすすんであてはめる気になるかどうかは、規約性による外的動機づけからの遊離の甚だしい度合に応じていたのだとすら言えるかもしれないのである。
だがその一方で、やり方が決っているという言い方を、単に規約の知識の問題、つまり知識としてその決まりが知られているやり方の問題に限定してしまわないようにも注意せねばならない。そのやり方が身についてしまう(けっして単に肉体にとか身体に刻み込まれるという意味ではなく)度合いに応じて、そこに含まれる規約的な性格が隠蔽されてしまうことは良く知られた話である。我々がほとんどその規約性を意識することなく「水」のことを「ミズ」と呼ぶことをしっかり身につけてしまっているように、何かを行う決りきったやり方は、往々にして、すっかり身についてしまうことによってそのやり方(その規約)が学ばれるべき知識であったという事実そのものがすっかり見えなくなってしまったようなやり方でもある。おそらく、さまざまな社会的行為には、その都度やり方が検討され選択されねばならない--したがってその都度主題化されねばならない--ようなものから、決まりきったやり方としてすっかり身についてしまうことによって、それを規約的な知識として主題化することすらまるで問題にならないようなものまで、広いスペクトラムがある。人類学が「儀礼」として問題にしていたような諸行為は、このスペクトラムのどこか中ほどに位置する、ある特定の問題領域として見ることができるかもしれない。行為の規約性があからさまに噴出しようとし、それが同時に自然のなかに塗り込まれようとする危うい瞬間が、我々の目を奪っているのかも知れないのである。
志向対象としての行為、つまり「何かを行うこと」として捉えられた行為は、相互に関係づけて眺められたり、その結び付きになんらかの明瞭なロジックを見て取ったりできるかもしれない。それはまた状況と関係づけられ、人々はそのしかじかの状況においてまさにその「何か」を行わねばならない必然や原因や動機や理由などについて語るだろう。しかしその「何か」を実行する他ならぬ「仕方」そのものは、そうした語りからはこぼれ落ちてしまう。
例えば、人は特定の目的や動機や理由があって、「家から出る」という行為を行うだろう。しかしその際に「家から出る」仕方の一部を構成する「靴を履く」などの行為は、「家から出る」行為が意図されているというのとは同じ意味では、意図されているとは言えないことになる。仮に「犬を散歩させる」ためというのが「家から出る」行為の有意味な理由を提供しているときには、「靴を履く」ことが改めてこの同じ理由によって動機づけられる必要はないのである。「正しく」家から出たければ靴を履かねばならないのは、あたりまえのことであり、それはさらなる理由付けを必要としていない。別の言い方をすれば、家を出ようという意図だけがあれば充分であって、その際に家を出ようという意図に加えて、靴を履こうという意図をそれとはまた別に持ったりする必要などないのである。要するに、行為のコンテキストへの関係づけのなかで自らは主題化を免れるもの、それがここで言う行為の「やり方」なのである。
しかし往々にして、当の行為が所属するコンテキストとは独立した秩序生成の作業が、まさにそこにこっそりと組み込まれていることに気づくことがある。当たり前のようにわざわざ靴を脱いだり履いたりする仕方で家から出入りすることによって、私たちは「家から出る」という行為を実行するなかで、同時にさまざまな秩序の作業を遂行してしまってもいる。たとえばこのとき私たちは内と外という2項対立区分を--まさにそれと「意図」することなしに--念入りにマークしているのであり、さらにはそれを浄と不浄、その他の区別にせっせと結び付けている。それは内と外の区別を可視化する実践であると同時に、その区別を踏まえた実践でもあり、さらにこの2項を分節する実践でもある。
既に述べたように、手を伸ばして何かを取る行為であろうと、食事をする行為であろうと、何か問題について考える行為であろうと、われわれが「何か」をやろうとするときには、つねにそれを「なんらかのやりかた」でおこなうしかない。どんなやり方でもないやり方で何かを行うことなど不可能だからである。あらゆる行為に内在し、それとは不可分なこうした「やりかた」の部分こそ、さまざまな図式が描き込まれる土壌である。こうして、二項対立の図式をはじめとする種々の秩序の図式が、さまざまな活動に内在してそれらの活動を、同時に世界を分節する区別の実践にする。区別をふまえて何かを行うということが、すなわち区別するということであり、またすなわち区別を可視化するということだからである。そのとき行為は、自らが準拠する区別を自らの手で作りだす、世界を分節する営みになる。
「儀礼的」という形で人類学者が注目してきた諸実践が、その社会の「宇宙論的な図式」に基づいたものであったり、それを反映したものであったりするものとして分析されることが多かったのも、もし「儀礼的」実践がすぐれて上で述べたような意味での秩序の実践でもあったとするならば、納得のいく話である。
まだずいぶん曖昧でいい加減な議論ではあるが、以上を儀礼に関する議論のひとまずの出発点としたい。我々の前には、多かれ少なかれそのやり方の決まった様々な行為がある。私は行為(の表象)とそのやり方(の知識)とのしばしば亀裂を含んだ関係を注視するだろう。そしてその亀裂の中に、世界を分節化する実践--秩序の実践--のアクロバティックな姿を確認したいと思う。