夏学期もあと数週間の我慢。なんとかいろいろこなせそうで、ほっと一息、久しぶりの更新である。ゼミで話した内容の文章化。
連休明けあたりからアフリカの憑依についての80年代に書かれた民族誌を続けて読んできたが、いずれも解釈人類学、あるいは解釈学的アプローチのラインにそった研究だった。10数年ぶりの再読であるが、当時は解釈学的アプローチが若手の人類学者のあいだで注目を集めていたような記憶がある。私は当時から解釈人類学には批判的で、学生たちの顰蹙を買っていたような気がするが、今ではすっかりそれも過去のこと。「今どき解釈学的アプローチですか」的な反応があって驚き。逆に少しこのアプローチを擁護してみる気になってしまった。
解釈学的アプローチといっても、とくに問題となるのは、もちろん、一見したら別に「意味を読み取られるべきもの」として起こっているわけではない事象、つまり人間の社会的実践一般にそれが適用される場合である。人間の行動を、意味を読み取られるべきテキストとして扱うという際に、このアプローチの最も強い、問題含みの主張が全面展開することになる。
この立場に立つ研究者ごとに若干の違いはあるかも知れないが、それはだいたいこんな一連の命題を含んだ主張であると言えるだろう。
(1)人間の社会的実践・行動は、それ自体、自らが属する社会や文化についての解釈行為である。
(2)それゆえ社会的実践を、社会や文化について何かを語るテキストとしてとらえることができる。
(3)人類学者の作業は、それが意味しているものを読み取ること、つまり人々自身の解釈行為を解釈するということである。
これにさらに次の二つが付け加わるかもしれない。
(4)実は、その社会の人々自身も、こうした一連の「行動によって書かれたテキスト」の意味をそれぞれに読みとっている。
(5)それゆえ人類学者の仕事は、「行動する人びとが自ら書いたテキストを自らどのように読み取っているかを読み取ること」(小泉潤二 1984)になる。
もっとも、実際問題としてこの(5)がどこまで民族誌として実現可能なのか、私には見当もつかない。そもそも(4)自らの行為によって書かれたテキストの現地の人々自身による読み取り(解釈)という反照規定的な活動をどんな風に確認するのかも不明。それをさらに人類学者が解釈するといっても、そもそも解釈の対象をいかに手に入れるかもわからないとなると、研究しようもない。
おそらくそれを指していると思われるギアツの「人々の肩越しに読みとる」という比喩も、比喩以上のものとは思えない。具体的にどうやるつもりなのか示してほしいものだ。
ギアツの、バリ人は男が攻撃され侮辱され、怒りの極地で完全な勝利か敗北に追い込まれたときどんな風に感じるかを見るために闘鶏に出かけるのだ、みたいなまとめにしても、当のバリのおっさんたちに「わしら別にそんなもん見てへんで」とか言われてしまったら、もうおしまいみたいな気もする。
いろいろ文句のつけどころはあるが、解釈学的アプローチの中心となる主張は(2)の命題である。それは(1)の主張が真であることに依存している。というわけで(2)がなりたたないとなると、解釈人類学自体が成立しないことになる。
こう反論したくもなるのではないだろうか。「人間の行為をどうとらえているのか。そもそも、人々の実践とは、状況に働きかけてそれを変えようとしたり、そこから何かを得ようとしたりする活動である。けっして、社会や文化についてのどう考えているかをそれによって表現し、それを人に読みとってもらおうと思って行動しているわけではない。生活がかかった実践であり、なによりもそのための働きかけであって、暇な思弁の行使ではない。」確かに何かを言おうとするテキスト作りということになると、生活の生々しさが消えてしまう。まるで人類学者に鑑賞してもらうために生きているみたいな風になってしまう。
確かにこのアプローチには、ブルデュらが厳しく批判している人類学者の観照的スタンスに通じるものがある。実際、ギアツのこのアプローチには人類学という企てそのものに内在するこうした傾向性を理論的に正当化しようとしているようなところがある。
私のような(悪い意味での)ナイーブな人類学者が、調査地に赴こうとする際の最初の目的といえば、やや漠然とした言い方になるが、要するにドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりを知りたいということである。対象を閉じた全体性のようなものとして想定している点でも困ったものだが、この対象の社会なり文化なりを「知りたい」という欲求が根本にあることは(私の場合は少なくとも)確かだった。で、フィールドワークに行く。そこで人々の様々な実践や、そこで生起する多くの出来事を目にすることになる。人類学者にとって、これらすべてが、この目的にとっての、貴重な手がかりとして受け取られる。つまりそれらを、ドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりについて何か教えてくれるもの、ドゥルマ社会について何か「語ってくれとる」ものとして、とりあつかうわけである。人々の実践ももろもろの出来事も、フィールドワークを行っている人類学者にとっては、すべてドゥルマ社会について何かを語るものなのである。
しかし忘れてはならないのは、それはそれらの実践や出来事の、「人類学者にとっての」あり方に過ぎないということである。それを、それらの実践や出来事の本来のあり方だと思ってしまうとき、解釈人類学的錯視が生じる。人類学的欲望に満たされた人類学者にとっての現象のあらわれを、それ本来のあり方だと錯覚してしまうわけである。それにとどまらずこの錯覚は、そうした実践や出来事の意味を人類学者が勝手に読み解いてしまうことまで、正当化してしまう。テキストは多様な読みに開かれている、なんて言いながら。実に手前勝手なものである。現地の人々の「肩越しに」などと言うと、まるで現地の人々の解釈をまず尊重しているように見えるが、実際のところ人類学者の解釈と独立した形で、現地の人々の解釈はこれこれであると示しでもしないかぎり、単に人々の実践は当の現地の人々にとっても実は解釈されるべきテキストなんだということにして、実践をテキストとして扱おうとする人類学者の選択を正当化したいだけではないかと、疑いたくもなる。
弁護すると言いながら、少しも弁護になっていないような気もするが、まずは悪いところは悪いと押さえた上で、再評価することにしたい。
たしかに解釈学的アプローチは、こんな具合に社会的実践の性格を致命的に誤認しているところはある。だが、その一方で実践が同時に「社会的」であることに、必然的にともなう一つの特徴にわれわれの目を向けてくれたことも確かである。解釈人類学が考えてるような意味とはやや違うとはいえ、たしかに実践には、意味を読み取られるべきものという意味での「テキスト」に似た側面がある。それは実践が、ほとんどつねに特定の社会的空間(私の当時の言い方では「言説空間」ということになるが)を前提にし、その中で行われる社会的実践であることに必然的に付随するものである。実践は常にこうした社会的空間に投げ出されている。実践はこの空間でつねに他者による「読み」に開かれているということである。そしてたいていの実践者は、そのことを踏まえている。つまり自分のすることが他者の読みに開かれていて、しかじかの形で読みとられるという可能性があるという事実を踏まえて行動している。ただしそこで読みとられるのは、解釈学的アプローチの多くが想定したような、社会や文化についてのメッセージやらメタメッセ−ジではなく、行為者相互の関係性や、行為と状況との関係性なのであるが。
いくら解釈学的アプローチが気に入らないからといって、このことを忘れて、行為のテキスト性を無視してしまうと、ブルデュのように逆に極端な立場にたってしまうことになる。
ブルデュの実践理論、例のハビトゥスがどうこうという議論であるが、そこに見えてくるブルデュが描く行為主体は、たしかに他者と戦略的に交渉しているように見えて、実は深い意味で他者とのコミュニケーションを欠いた行為主体であることがわかる。彼によると実践は、客観的な構造のモデルや規則に従うことなしに、個々の行為者が内蔵しとる傾向性ハビトゥスに導かれているというのであるから。彼によると、もし実践がなんらかの構造モデルに従っているかのように見えるとしても、実はそれはこのハビトゥスが客観的な構造に適合するように形成されているせいなのである。それぞれの行為者の行為は、単に自分が内蔵しているハビトゥスに導かれて振舞っているだけなのだが、自然と互いにシンクロしてあたかも構造主義者が構造として取り出してみせるようなモデルに従って出来事が生成しているかのように見える仕組みになっているというのだ。ブルデュ自身が言及しているように、まるでライプニッツのモナドである。ライプニッツは、このような喩え話をしている。二台の時計が同時に同じ刻を打つ。これはどうしてだろう。(1)二台の時計が互いに連絡取り合っているからか?(2)誰かがいて、同じ時刻に鳴らせる作業をしているのか?それとも(3)二台の時計が最初に正確に巧妙に製作されているおかげで、後はそれぞれの時計が勝手に動いていても、ちゃんと協調した振る舞い(同じ時刻に刻を打つこと)するようになっているということなのか?ライプニッツの答えは当然3番目である。ブルデュにとってのハビトゥスの概念も、これである。彼本人がそう認めている(Bourdieu 1977:80)。しかしこれは社会的実践のモデルとしては、ちょっとおかしいのではないだろうか。コミュニケーションなどまるでどうでもよいと、考えているみたいではないか。
解釈学的アプローチの観照的、観望的スタンスは、いただけないとしても、だからといって、これはどうみても行き過ぎである。社会的空間に投げ出された行為が、他者による読みに開かれており、当の行為者もその事実を踏まえている、つまり自分の行為のテキスト性に多かれ少なかれ気付いている、こうしたことは社会的実践をきちんと理解しようとするなら、きちんと押さえておくべきことである。社会的空間で交錯するこの「解釈」プロセスのことを思えば、現地の人々が行うこうした解釈についていくことにすら苦労している人類学者の行う解釈など二の次、三の次の話である。「人々の解釈を解釈する」とか言うスローガンは、自分の解釈行為を正当化するものとしてではなく、こうした人々のあいだで交わされる解釈の交錯の方にこそ、真剣にかかげてもらいたいものだ。そうすれば肝心の「人々の解釈」なるものが、そう都合よく人類学者の前に差し出されるようなものではないことも、すぐわかるはずである。それどころか「人々の」とか「バリ人の」とかの能天気な修飾語を、気安く使う気になどなれなかったはずだ。
社会的空間における解釈の交錯は、不均衡、不均質、不一致がその特徴である。単にそれぞれの行為者の解釈の内容が、人それぞれで違っているばかりやない。他者の行為を「読む」といっても、誰もが同じように真剣に同じ程度の慎重さで読むという訳ではないし、自分の行為のテキスト性を自覚しているにしても、誰でもが同じように他人にどのように読まれるかを真剣に計量しているわけでもない。古谷氏が常々述べておられるように、例えば、下っ端の者は力のある人々の顔色や行為に含まれているメッセージを、真剣に読む必要があるし、その能力にしばしば長けている。正しく読み損なって、ひどい目に会うのは自分たちだから。しかし力のある人々は、下っ端の人々の行為のメッセージを少々読み損なっても、さほど痛くも痒くもない。上位者のメッセージにもしダブルバインドが組み込まれていたりすると、それで本当に困ってしまのは下位者たちだけである。対等な者どうしなら、冗談にして済ませることでも、上下関係の中では致命的でありうる。
逆に、自分の行為のテキスト性についても、上位者は下位者にどう読まれようと、やはりたいして痛くも痒くもないので、それほど気を配る必要もないが、下位者にとっては自分の振る舞いが上位者にどう読まれるか死活問題でありうる。正しく読まれてしまうと困ることもあるし、正しく読んでもらえなければ困ることもある。上位者、下位者などと、かなり大雑把な議論ではあるが、言説空間のなかでの力関係とは、ほぼこうした仕方で可視化できるものである。
というわけで、解釈学的アプローチがだめだからといって、社会的実践における解釈的な側面を無視してしまってもだめということである。観望的な解釈人類学などさっさとやめて、権力関係を主題化すべしと言っても、やっぱり言説空間の中での人々の錯綜する読みとか、コミュニケーションの回路のあり方とかを度外視して、そうしたものが主題化できるわけでもない。あんまり解釈学的アプローチの弁護にはなっていない気もするが、そんなところである。
やや強引に終わらせてしまったが、それでもいつもより長くなった。酔いも醒めてしまった。今日は失敗である。ではまた。
Bourdieu,P. 1977, Outline of a Theory of Practice, Cambridge: Cambridge University Press
小泉潤二 1984 「解釈人類学」綾部恒男編『文化人類学15の理論』中央公論
C・ギアーツ 1987『文化の解釈学II』岩波書店
古谷嘉章 2000(頃)個人的やりとり(どこかに書いておられるとは思うが、探せていない。この話は古谷氏から繰り返し話していただいたもの。)